プロ野球「北海道日本ハムファイターズ」へ入団2年目にして「パ・リーグ新人王」を獲得した右腕「榊原諒
(さかきばらりょう)」選手も「愛知県出身」のプロ野球選手でした。
【榊原諒】1985年(昭和60年)8月4日生まれ、愛知県高浜市出身
右投げ右打ち 身長176cm、体重70kg 背番号15
「中京高校(岐阜県)」時代は1年生の秋からエース格となり、2年生の夏と3年生の春には「甲子園」に出場。
ともに優勝は逃していますが、2年生の秋に開催された「明治神宮野球大会」において優勝を飾っています。
「高校野球」の引退時は「ドラフト会議」とは無縁で、地元の「三菱自動車岡崎」へ入社しました。
しかし当時は「三菱自動車工業」による不祥事が発覚した数年後で、さらに入社した2004年には新たに不祥事
が生じた事からチームは活動停止を余儀なくされてしまいました。 野球が出来なくなったので、たった
数ヶ月で「三菱自動車岡崎」を退社し、改めて「大学野球」を目指すべく努力の日々が続いたそうです。
翌2005年は「関西国際大学(兵庫県)」へ進学し、「公式野球部」へ入部すると最初のシーズンは出場機会が
無かったものの、残る7シーズンで通算32勝(15敗)、防御率1.36という好成績を残し、2度の「最優秀選手」
と3度の「ベストナイン」を獲得。 2007年にはチームを「全日本大学野球選手権大会」へと導いたほか、自身
は「日米大学野球選手権大会」にも「日本代表選手」として出場していました。
そんな好成績がプロの「スカウト」の目に留まり、2008年オフの「ドラフト会議」において「北海道日本ハム
ファイターズ」より2位指名を受けて入団しました。 初年度は10試合に出場する内の4試合が先発出場で
主にローテーションの谷間を埋める役割でしたが初勝利を成し遂げる事は出来ず、シーズン中に幾度も
二軍落ちをするなど苦いシーズンとなりました。
転機が訪れたのはプロ2年目となる翌2010年のシーズン。 先発投手のアクシデントにより、2回から登板
した試合でチームが勝利し思わぬ初勝利を手にした榊原選手は、同年の先発登板は1試合だけだったにも
過からわらず、登板39試合で10勝を飾りました。 中継ぎ投手の記録である「ホールドポイント」は6で
防御率も2.63と少々振るわないものでしたが、見事「パ・リーグ新人王」に輝き、スター選手への階段を
歩み始めました。
(さかきばらりょう)」選手も「愛知県出身」のプロ野球選手でした。
【榊原諒】1985年(昭和60年)8月4日生まれ、愛知県高浜市出身
右投げ右打ち 身長176cm、体重70kg 背番号15
「中京高校(岐阜県)」時代は1年生の秋からエース格となり、2年生の夏と3年生の春には「甲子園」に出場。
ともに優勝は逃していますが、2年生の秋に開催された「明治神宮野球大会」において優勝を飾っています。
「高校野球」の引退時は「ドラフト会議」とは無縁で、地元の「三菱自動車岡崎」へ入社しました。
しかし当時は「三菱自動車工業」による不祥事が発覚した数年後で、さらに入社した2004年には新たに不祥事
が生じた事からチームは活動停止を余儀なくされてしまいました。 野球が出来なくなったので、たった
数ヶ月で「三菱自動車岡崎」を退社し、改めて「大学野球」を目指すべく努力の日々が続いたそうです。
翌2005年は「関西国際大学(兵庫県)」へ進学し、「公式野球部」へ入部すると最初のシーズンは出場機会が
無かったものの、残る7シーズンで通算32勝(15敗)、防御率1.36という好成績を残し、2度の「最優秀選手」
と3度の「ベストナイン」を獲得。 2007年にはチームを「全日本大学野球選手権大会」へと導いたほか、自身
は「日米大学野球選手権大会」にも「日本代表選手」として出場していました。
そんな好成績がプロの「スカウト」の目に留まり、2008年オフの「ドラフト会議」において「北海道日本ハム
ファイターズ」より2位指名を受けて入団しました。 初年度は10試合に出場する内の4試合が先発出場で
主にローテーションの谷間を埋める役割でしたが初勝利を成し遂げる事は出来ず、シーズン中に幾度も
二軍落ちをするなど苦いシーズンとなりました。
転機が訪れたのはプロ2年目となる翌2010年のシーズン。 先発投手のアクシデントにより、2回から登板
した試合でチームが勝利し思わぬ初勝利を手にした榊原選手は、同年の先発登板は1試合だけだったにも
過からわらず、登板39試合で10勝を飾りました。 中継ぎ投手の記録である「ホールドポイント」は6で
防御率も2.63と少々振るわないものでしたが、見事「パ・リーグ新人王」に輝き、スター選手への階段を
歩み始めました。