笑顔がトレードマークだった竜投左腕「山田喜久夫(やまだきくお)」さんも「愛知県出身」のプロ野球選手。
地元の「中日ドラゴンズ」に入団した事でファンの期待と愛着は相当なものだったと思います。 1999年
限りで引退されまして、現在は「中日ドラゴンズ」で打撃投手を勤められております。
【山田喜久夫】投手(リリーフ)・左投左打、入団当時の背番号は32
<通算成績>
222試合6勝8敗0セーブ 防御率3.76
1971年生まれ、「愛知県海部郡十四山村(あまぐんじゅうしやまむら、現・弥富市)」出身。 「村立十四山
中学校野球部」時代には「全日本少年軟式野球大会」に出場するなど、エースとして活躍。 卒業後は名将
「阪口慶三(さかぐちけいぞう)」監督を慕って県下の強豪「東邦高校(とうほうこうこう、名古屋市名東区)」
へ進学して野球部へ入部。 1年生からエースとなると、2年生の春には「選抜高等学校野球大会」では
準優勝、翌年には優勝を飾っています。 計3度も「東邦高校」を甲子園へと導いたのでした。
そんな活躍がスカウトの目に留まり、1989年の「ドラフト会議」において「中日ドラゴンズ」より5位指名を
受けて入団。 ルーキーイヤーの1990年に、さっそくプロ初登板を飾ります。 中継ぎ投手としての登板
が殆どですが、1992年には7試合の「先発登板」があり、同年の8月には初勝利。 しかもそれは初先発での
快挙でした。 以後安定した成績を残していますが、背番号を13とし選手登録名を「キク山田」に変更した
1995年は成績が振るわず、背番号を32に戻し、登録名を「キク」とした1996年は1軍登板が0に。 1997年
からは登録名も本名に戻して1軍へ復帰したものの、翌年には再び1軍登板数が0、そしてトレードに…
1999年より新天地「広島東洋カープ」へと移りますが、残念ながら5試合の登板に終わり、オフには現役を
引退。 身長173cmと、投手としては決して恵まれていない体格ながらも実働10年は短くもあり、立派な
年月だったと思います。 2000年からは「横浜ベイスターズ」で打撃投手を8年務め、2008年から再び「中日
ドラゴンズ」へと復帰されています。
地元の「中日ドラゴンズ」に入団した事でファンの期待と愛着は相当なものだったと思います。 1999年
限りで引退されまして、現在は「中日ドラゴンズ」で打撃投手を勤められております。
【山田喜久夫】投手(リリーフ)・左投左打、入団当時の背番号は32
<通算成績>
222試合6勝8敗0セーブ 防御率3.76
1971年生まれ、「愛知県海部郡十四山村(あまぐんじゅうしやまむら、現・弥富市)」出身。 「村立十四山
中学校野球部」時代には「全日本少年軟式野球大会」に出場するなど、エースとして活躍。 卒業後は名将
「阪口慶三(さかぐちけいぞう)」監督を慕って県下の強豪「東邦高校(とうほうこうこう、名古屋市名東区)」
へ進学して野球部へ入部。 1年生からエースとなると、2年生の春には「選抜高等学校野球大会」では
準優勝、翌年には優勝を飾っています。 計3度も「東邦高校」を甲子園へと導いたのでした。
そんな活躍がスカウトの目に留まり、1989年の「ドラフト会議」において「中日ドラゴンズ」より5位指名を
受けて入団。 ルーキーイヤーの1990年に、さっそくプロ初登板を飾ります。 中継ぎ投手としての登板
が殆どですが、1992年には7試合の「先発登板」があり、同年の8月には初勝利。 しかもそれは初先発での
快挙でした。 以後安定した成績を残していますが、背番号を13とし選手登録名を「キク山田」に変更した
1995年は成績が振るわず、背番号を32に戻し、登録名を「キク」とした1996年は1軍登板が0に。 1997年
からは登録名も本名に戻して1軍へ復帰したものの、翌年には再び1軍登板数が0、そしてトレードに…
1999年より新天地「広島東洋カープ」へと移りますが、残念ながら5試合の登板に終わり、オフには現役を
引退。 身長173cmと、投手としては決して恵まれていない体格ながらも実働10年は短くもあり、立派な
年月だったと思います。 2000年からは「横浜ベイスターズ」で打撃投手を8年務め、2008年から再び「中日
ドラゴンズ」へと復帰されています。