


あります大きな「頌徳碑(しょうとくひ・先人や偉人を称えるもの)」が建立されていました。 昭和30年に
設置された事と、高い位置にある事から文字が確認し辛いですが、どうやら最初の行には「紀元二四八一年
文政四年鷲尾善吉翁道徳前新田開築」とありました。
開築者 鷲尾善吉翁ハ寛政四年尾張ノ國
海西郡塩田村 持高百石頭百姓ノ家ニ生
ル 文化十四年二十六才ノ時 自費ヲ以
テ道徳前新田開築ニ着工 即チ今ノ道徳
北町ヨリ南ハ山崎川ノ堤 東ハ道徳本町…
と、こんな感じで旧表記も交えた文章が全26行にわたりまして、「鷲尾善吉翁」の生い立ちと偉業を説明して
おります。 以降は私が当ブログなりに、先の文章を元に解説も交えながら説明させていただきます。
「鷲尾善吉」は寛政4年(1792年)に「海西郡塩田村(旧・海部郡八開村→現・愛西市)」にて、持高百石もの農家に
出生。 この「道徳前新田」に着手したのは26歳の時で、「尾張藩」に新田開発を申し出るもその資金は自費で
賄っています。 開築の範囲は、北は「道徳北町」から南は「山崎川」の堤防まで、東は「道徳本町」より西は
「港区」との境目に位置する「市電南陽通」までの範囲。 およそ「125町歩」という表現がありましたが、現在
の単位で表すと約125ヘクタールという面積で、しかも当時のその場所は海面でした。
5年の工期を経て文政4年(1821年)に「道徳前新田」は完成しまして、「七里の渡し」以東では最大の新田と
なったそうです。 しかし「海新田」は余にも脆く、以降度重なる高潮や堤防決壊により修復を繰り返す事と
なり、遂には「鷲尾善吉」の財も底を尽いて「尾張藩主徳川家」の「御小納戸」に新田を差し出しています。
着工から完成、そして修復には8年もの歳月を費やしましたが水泡に帰し、文政74年(1824年)に「塩田村」
へと帰郷しています。 そして明治14年(1881年)に90歳で没したそうです。 以来、「尾張藩御小納戸」の
所領となり、この村を「御小納戸の新田」もしくは「道徳前新田」と呼ぶようになったそうです。
萬延元年(1860年)には1年で3度も堤防が決壊しましたが、村民は海草などを主食として耐えたそうです。
最後は藩主である「徳川家」の、威光にかけた大修築によって、以来幾度と「風水害」に見舞われても、村内は
安泰だったとの事です。 大正4年(1925年)には「徳川家」所領の新田を、宅地の住居者に払い下げたり桟橋
会社に譲り渡して区画整理を行ったそうです。
なお道徳本町の稲荷社「道徳稲荷」は開築当時、村内守護の氏神として祭られたものだそうです。 さらに
碑の裏には開拓後に、この地に移住した方々の名前が刻まれていました。