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「東海道」において37番目の宿場町だった「藤川宿(ふじかわしゅく/じゅく)」は現在の「愛知県岡崎市藤川町」に
位置しておりました。 「歌川広重(うたがわひろしげ)」の描いた浮世絵「東海道五十三次」にも登場し、そこでは
「藤川棒鼻図」とも呼ばれる、「藤川宿」の東側の入口に建つ「棒鼻(ぼうばな・宿場の終わりを示す境目)」の前で
幕府の一行に頭を下げる旅人の姿が描かれています。 よく見たら動物までもが腰を下ろしているんですよ。

「1590年(天正18年)」に、時の岡崎藩主「田中吉政(たなかよしまさ)」によって移された藤川集落が、「1601年(慶長
6年)」に制定された「伝馬制度」により宿となったようで、そこへ街道前後の村を加えて「1660年(万治3年)」の調査
では町並家数43、馬役人18、歩行役人24、問屋1という記録が残されています。 

小さいながらも主要な「宿場」として栄え先に説明しました「幕府の使い」も「藤川宿」を利用したほどで、最盛期
は「天保年間」の宿内人数1200人余り、総家数300超、本陣1、脇本陣1、旅籠屋36ほどでした。 旅人「松尾芭蕉
(まつおばしょう)」もこの地に足を運び、宿場の西側にある「十王堂(現在の名鉄・藤川駅の南)」の傍に「芭蕉塚
(句碑)」が残されており『ここも三河 むらさき麦の かきつばた』と詠んだと記されていました。 ここに
登場する『むらさき麦』とは「紺屋麦(こうやむぎ、高野麦とも)」だそう実る穂が紫色をしていたそうです。
当時の「藤川宿」を代表する名産との事でしたが、一度廃れたものの現在は研究の末に再現復活していました。

鉄道の普及や新たな産業の進出により「宿場町」から活気が消えていまいましたが、現在も「旧東海道」には当時
を忍ばせる石灯篭や石垣・家屋が残され、一部は「岡崎市」によって保存されています。 さらに「クロマツ」90本
ほどによる松並木も約1km残されていて、当時の面影を残しているかのようでした。 「藤川宿」を訪問された
際には是非「藤川宿資料館(岡崎市藤川町中町北)」へお立ち寄りください。 「藤川宿」の歴史満載です。