「愛知県」に残る村は現在2つ。 その2つの内、県の西側に位置する「飛島村」の一帯は、とある
男による献身的な活躍の上で現在の姿があると言っても過言ではないようです。 その男の名前は
「津金文左衛門胤臣(ツガネブンザエモンタネオミ)」と言います。

1727年に現在の「名古屋市東区」で「藩士」の家に生まれた文左衛門。 幼少の頃から「文学」や
「武術」を学び父親の早去により寛保二年には「家督」を継ぎ、周囲から様々な事を学びました。
その甲斐あって「尾張藩」の下で明和三年に「奉行」職を務めるにまで至りました。

「船奉行」を兼任した際、農民に新たな生活の場を与えると共に藩の財政を救う手立てはないかと
考えた末に弾き出した結論は「新田開発」でした。 元々水源に恵まれた「尾張地方」では
ありましたが、その技術を発揮する「土地」が飽和を極め、なんとか範囲を広める必要がありました。

当時の「伊勢湾」は浅瀬が広がり「新田開拓」に向いてはいたものの、「新田開発」が盛んに
行われていた訳でもなく、また財政難に苦しむ「尾張藩」では「技術面」でも「金銭面」でも簡単に
実現できるものではありませんでしたが、「尾張藩主」の英断の元で工事が着工。 現在の地名で言う
「戸田」から「蟹江」に至る一帯に存在した「三角洲」を中心に埋め立てて1801年に「飛島新田」を
見事、完成させました。 尽力の果て、「文左衛門」は同年に没しています。

「文左衛門」の偉業はこれだけではなく、「新田」での「耕作民」を募った際に「瀬戸」からの
転業者の中に「陶工」を見付け、新しい地での「窯業」の場を与えています。 これが新しい手法の
開発となり、「尾張窯業」の基礎となったそうです。 1900年には「飛島新田」が開発されて百年の
節目を迎えた事から祭事を開き、「元松神明社」に文左衛門の碑が建てられました。 また遺品も
「中央公民館」で保管され、これらの功績は長く称えられる事となりました。 さらに1938年には
「瀬戸市内」に「津金胤臣父子頌徳碑」も建てられています。