何がきっかけだったか、とりあえず「鯱(しゃち)」に関するネタを探している際に「四股名(しこな)」
に「鯱」が付く力士を発見! その四股名を「鯱ノ里(しゃちのさと)」と申しまして、想像通りと言い
ますか、当然と言いますか、要は「愛知県」出身の力士でした。 しかも「中区」。
【鯱ノ里一郎(しゃちのさといちろう)】
本名:松崎一雄 1914年8月11日生まれ 身長:179cm 体重:130kg
幕内成績:18場所84勝137敗1分 最高位:西前頭3枚目 所属:若枩(若松)部屋
1929年の「初場所」にて「初土俵」、1947年の「6月場所」にて引退、実働19年
1914年に「愛知県名古屋市中区」にて出生、少し小柄な体格も「重量級」だったために重心が低く、粘り
ある取り組みで人気を博したそうです。 「四股名」の由来はもちろん、出生地「名古屋市中区」にある
「名古屋城」の「天守閣」に鎮座する「金鯱」にあやかったものなのですが、角界デビュー当時も出身地の
英傑「豊臣秀吉」にあやかって「太閤山」という「名古屋」らしさを要していました。
引退後は「年寄名跡(としよりめいせき)」の「西岩」を襲名。 1953年の「9月場所」終了後に師匠で
ある「射水川(いみずがわの)」から弟子を預かり、翌年の「1月場所」からは「西岩部屋」を立ち上げて
若手の育成に奔走。 1956年には師匠の死去により「年寄名跡(としよりめいせき)」の「若松」を受け
継いで部屋名も「若松部屋」に改めています。 そして1979年にて「停年(角界における定年)」となり
表舞台から去ると、1981年に永眠されています。 さらに残念ながら「若松部屋」も2002年に「高砂部屋」
と合併となり、消滅していました。
ちなみに師匠である「射水川健太郎」の養子となった事から「松崎姓」を名乗っていますが、それまでは
「加藤姓」だったそうです。 当時は角界でも「養子縁組」が盛んだったようで、師匠もまた同じでした。
に「鯱」が付く力士を発見! その四股名を「鯱ノ里(しゃちのさと)」と申しまして、想像通りと言い
ますか、当然と言いますか、要は「愛知県」出身の力士でした。 しかも「中区」。
【鯱ノ里一郎(しゃちのさといちろう)】
本名:松崎一雄 1914年8月11日生まれ 身長:179cm 体重:130kg
幕内成績:18場所84勝137敗1分 最高位:西前頭3枚目 所属:若枩(若松)部屋
1929年の「初場所」にて「初土俵」、1947年の「6月場所」にて引退、実働19年
1914年に「愛知県名古屋市中区」にて出生、少し小柄な体格も「重量級」だったために重心が低く、粘り
ある取り組みで人気を博したそうです。 「四股名」の由来はもちろん、出生地「名古屋市中区」にある
「名古屋城」の「天守閣」に鎮座する「金鯱」にあやかったものなのですが、角界デビュー当時も出身地の
英傑「豊臣秀吉」にあやかって「太閤山」という「名古屋」らしさを要していました。
引退後は「年寄名跡(としよりめいせき)」の「西岩」を襲名。 1953年の「9月場所」終了後に師匠で
ある「射水川(いみずがわの)」から弟子を預かり、翌年の「1月場所」からは「西岩部屋」を立ち上げて
若手の育成に奔走。 1956年には師匠の死去により「年寄名跡(としよりめいせき)」の「若松」を受け
継いで部屋名も「若松部屋」に改めています。 そして1979年にて「停年(角界における定年)」となり
表舞台から去ると、1981年に永眠されています。 さらに残念ながら「若松部屋」も2002年に「高砂部屋」
と合併となり、消滅していました。
ちなみに師匠である「射水川健太郎」の養子となった事から「松崎姓」を名乗っていますが、それまでは
「加藤姓」だったそうです。 当時は角界でも「養子縁組」が盛んだったようで、師匠もまた同じでした。