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刈谷市の東側、JRの「新幹線」や「東海道本線」、または「名鉄名古屋本線」からも車窓に映って
いたんじゃないかと思われます。 かつて「刈谷市」に天高く聳える8つの鉄塔が存在しました。
紅白に彩られた鉄塔の高さは250m程。 その施設には「無線通信」の「送信」の役割が担わされて
いて、名前を「依佐美送信所(よさみそうしんしょ)」といいました。

「第一次世界大戦」が開戦された「大正時代」の末期に、まだ無線整備の整っていなかった日本に
対外国用の「無線局」の設置が政府により計画されました。 その計画の際に『平坦で堅牢な地盤を
有する』との理由で「送信所」を「愛知県碧海郡依佐美村」に、「受信所」を「三重県三重郡海蔵村
(現・四日市市)」に建設する事が決まりました。

建設が始まったのは1927年、稀に見る大規模な建設工事は、周辺に大型道路が整備されていない環境の
中、難航を極めるも鉄道を駆使して1年程度で完了し翌年には通信試験を実施、1929年には「開局」と
なり、通信を開始しました。

アンテナを支える鉄塔は、実際には8つの長いもののほかにも、短い鉄塔が4つあったそうです。
計画当時は長距離の送信には「長波」が有効とされていたのですが、研究が進むにつれて世界的にも
「短波」が主流になり出した頃という事もあり使用機会は少ないままの「開局」でありました。

「短波」に役割を奪われる中、転機は「第二次世界大戦」前に訪れまして、「長波」は潜水艦にとって
良い感度という事が判明し、「海軍」にて管理されることとなります。 これにより「真珠湾攻撃」で
有名な命令「ニイタカヤマノボレ」は「依佐美送信所」からも発せられたそうです。

「第二次世界大戦」の空襲によりアンテナに被害を受けた「依佐美送信所」は、終戦を迎えた事も
あって設備規模を見直され、1950年には事実上の閉鎖となりましたが「米海軍」により改修を施され
1952年には再び送信を再開しています。 それも1994年までの事でしたが…

存在時期に訪れた「三河地震」や「伊勢湾台風」などの災害でも倒壊・損壊することなく、「碧海の
シンボル」として聳え立ちつづけた「鉄塔」も役割を終えた後は維持が難しく、1996年より解体が
始まり、翌年には1塔を残して撤去されてしまいました。 その1塔も短く改修されて「記念鉄塔」と
された事から当時の姿そのままのものは「送信所」のみとなりましたが、その姿も2006年には消えて
しまっています。

現在では一般公開を目的とした「依佐美送信所記念館」が建設されていまして往年の「送信室」を
デザインした姿となっています。 「記念館」では先に挙げた「記念鉄塔」の他、実際に使用されて
いた「基礎」の部分や「航空障害灯」なども合わせて展示されています。