「今日は、闇の話をしましょうか。
闇は、あなた方の思っているような大変なものではなく、
むしろあなた方の半身といった、ごく普通の
ものなのです。
闇は恐れる必要など全く無いものです。
闇の中に光があり、光の中に闇がある。
それはあなたも知っていると思いますが、
肝心なのは、闇を制しようとしないことです。
全て流動的なバランスなのです。
ダンスのようなものだと思えば良いかも
しれません。
いずれにしても、全ての人間存在は、
完全な光にも、完全な闇にも、
なることはできないのです。
だから安心して下さい。
不安になることは無いのです。
以上。」
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2016年10月8日 23:55頃(フランス時間)に書き出したものです。
私は最近、自分の中の闇の部分を見ていこうとしているのですが、それに対して不安や抵抗は特に無いので、今回の通信は、そういう意味ではあまりピンと来ませんでした。
自分の中から出てくるものは、恐れる必要など無い、と私は思っています。
自分の中にあるものなら、自分が作っているのだから、不安になったり恐れたりする必要なんて無い。
ただ、自分の見たくない一面を直視するのは、確かに気持ちの良いものでは無いと思う。
「流動的なバランス」というのは、確かにそうかも、と思いました。
リンボーダンスとか、ヒップホップダンスのイメージが見えてたんですけど、体を絶妙にバランスさせながら、いろんな表現をしていく。
倒れるギリギリまで体をくねらせるとか。
怒りも憎しみも嫌悪も、喜びも悲しみも、全てが「表現」の一つの形でしか無いのだとしたら。
それはダンスに例えると分かりやすい。
憎しみを表現するダンスも、喜びを表現するダンスも、どちらがより素晴らしいとかいう判断はできない。
だってどちらも、ダンスなだけだから。
(どちらのダンサーがより純粋に表現できたか、という判断はできるかと思う。)
表現というのは、流動的なバランス。
感情が、体の中で流動的に動く。
そうして表現が生まれる。
ギリギリまで傾ける。
ギリギリのところで表現する。
限界に挑戦する姿は、美しいんですね。。。
憎しみも表現の一つにしか過ぎない。
人殺しだって戦争だって、魂の視点、表現という視点から見たら、ダンスやミュージカルのようなものなのだろうと思う。
しかし、自分が憎しみを表現したいと思った時、相手の人の存在を立てて、相手を痛めつけて、それで自分の憎しみを表現したいのか?
(そうして良いとか、そうしてはいけないとかの、道徳的な話ではなく。)
自分はどうしたいのか?と自分に問うてみる。
私は、まず自分の中で和解をしようと思う。
本当は、誰かを傷つけたり踏み台にしたりして自分の安心を得たいわけじゃないんだ、と知っているから。(そこにある虚しさも知っている。)
でも、気持ちが収まらない自分のことも知っているから。
だから、自分の中で自分と和解をする。
誰にも見られないところでの、小さな作業。
その時に大事なのが、闇を制しないこと。
抑制しないこと。
だって、闇も自分の半身なのだから。
バランス良くまとめるのではなく、常にバランスを良くするのでもなく、自分を信じてバランスを崩す限界点まで傾けてみる。
そこに表現があるのだと思いました。