さて、姫松が帛紗を開いてみると、中に手紙が忍ばせて御座います。さて、手紙を即、読みたい心が逸る姫松ですが…、お粂の目が有る、ただ、お粂は無筆です。
お粂「何んですかぁ〜、そのお手紙は?!」
姫松「何んでも有りません。妾(わたし)の手鏡を拾って届けて下さった方からの、ご意見みたいなモンでしょう。」
お粂「ご意見?妙な感じが致しますワぁ。」
姫松「いいえ、うっかり大切な叔母様の形見を忘れて来た妾に、女中奉公の傍輩だった、呉竹さんが意見を認めて添えて寄越したダケですワぁ。」
お粂「本当に、女中奉公の時の傍輩からのお手紙なんですか?其れなら何故?旦那様やご内儀様に内緒で、亀吉なんぞに渡す必要があるのですか?怪しゅう御座います。」
お粂は、姫松が生まれた時からの乳母で、15年間もの間、姫松の傍に居た乳母ですから、姫松が何やら誤魔化そうとしている事ぐらいは察しが付きます。
姫松「そんな事はないワぁ。そんなに疑うのなら、お粂も、此の手紙を読むといいワぁ。」
お粂「お嬢様、妾が字が読めない事を見越して、仰っているのですねぇ?!それなら、其の手紙を声を出して読んで下さい。」
姫松「判ったワぁ。妾が声に出して読んで聴かせるから一寸、お待ちなさい。」
売り言葉に買い言葉。仕方なく、姫松は其の手鏡に添えられた手紙を、帛紗からゆっくり取り出すと、声に出して読む事になるのである。
姫松「別れて後は、其許(そこもと)の御姿が恋しく…。アラ、アラアラ………、一寸!之は…。」
お粂「何を慌てゝ居るのですか?お嬢様、そんな事がお手紙には書かれているので御座いますか?其れは、正しく恋文、艶書に違い有りません!
お嬢様、恋人がお有りなのですねぇ〜。この様な書き出しのお手紙を寄越すとは、かなり親密なご関係であるとお粂は推察致します間違い無い!
『別れて後は、其許の御姿が恋しく…。』などと、女中奉公を共にした傍輩が、お手紙に認めるとは到底思えません。之は恋文なのですねぇ?」
姫松「お粂!お前は何んと謂う事を申すのですか?端ない。其方は御殿勤めの経験がないから、その様な見当外れの邪推をするのです。
お城で腰元として行儀見習いをした経験があれば、『別れた貴女の事が、恋しく思われます。』と、手紙に認めて当然の挨拶です。
互いに女同志とは謂いながら、懐かしいと謂う思いは生まれます。其れが人情、人と人との機微と謂う物です、何が怪しい事などありましょう。」
お粂「其れでは、そのお手紙は本当に傍輩の呉竹とか申す女中からなのですか?!」
姫松「勿論です。喩え鏡一枚の事とて、呉竹殿は妾とは姉妹同様のお付き合いなれば、之を城に忘れて帰る様な粗忽をしでかしたと、
両親や家中の者には知られたくなかろうと、慮って態々、亀吉を使い内密に妾へ届けて下さったのだから、手鏡とこの手紙の事はお粂も内緒にして下さい。」
お粂「ハイ、承知致しました。決して、他言は致しませんが、本当に間違いは御座いませんねぇ?!」
姫松「何も間違いなど有りません!」
お粂「左様で御座いますか、其れならば宜しゅう御座います。」
と、乳母のお粂は内心、納得は致しませんが、是以上姫松と謂い争っても詮方ないと、半ば諦め気味にこの話題は是にて決着と謂う事に致します。
一方、姫松は独り部屋に帰っても、鏡に添えられた手紙を何度も何度も読み返しては、溜息を吐き一層卜部季武への思いを熱く熱く募らせるのです。
其処には『別れた貴女の事が、恋しく思われます。』の跡、相引きの段取りが書かれていましたが、勿論お粂には読み聴かせてはおりません。
その続きは『今晩四ツ亥刻、鏡を合図にお庭先より外へと立ち出下され、併し拙者、季武は多田の左馬頭満忠公より暇を出された世間を憚る身なれば、
家来の右源太を迎えに遣わしますれば、必ずお出掛けなさいますよう、万事はお目に掛かって、直接四方山語り候』と、認めて御座います。
そんな恋する愛しき卜部季武からの艶書だと固く信じている姫松は、まさか是が罠だとは露程も疑いませんで、只々此の艶書に心狂いまして、
この夜、両親の寝静まるのを窺い(うかがい)、不忠不孝とは知りながら恋する季武への想いに負けて、両親の寝屋に向かい心ばかりの暇乞い。
一通の書置きを残して、自室を抜け出し庭へと降りようとする姫松ですが、時刻は亥刻、而も其の日は月明かりの無い真の闇夜で御座います。
併しながら、恋する女の一念と謂うものは凄まじく、切戸の前に立つと其の締まりを破り、庭へと出立ちます。
すると、其処には二つの人影が…。なんと!既に庭先には、二人共に頬冠りをした侍風の男が待って居ります。
侍「おゝ、姫松様で御座いますか?拙者は卜部季武の家臣にて、ご案内役を仰せつかりました右源太めに御座いまする。之へお召し下さいませ。」
姫松「左様で御座いますかぁ、さて、季武様は何処におられまする?」
右源太「主人季武は、近くまで来て御座いますが、万一、玉瀬家の方々に見付かると、後々、面倒な事に相成りまする。依って我々がお迎えに参上仕りました。」
姫松「承知しました。家人に気取られるといけません。案内、宜しくお頼み申しまする。」
右源太「御意に御座います。」
そんな遣り取りが御座いまして、姫松は季武の家来を自称する右源太に手を引かれて庭を出ますと、其処には一丁の駕籠が用意されていて、姫松は其の駕籠に乗せられます。
さぁ、駕籠に揺られて進み出すと、何処に隠れて居たのか?七、八人の者どもが現れて、駕籠の周りを取り巻くと、駕籠は一層早く走り出します。
些か姫松も、是はどうした塩梅かと疑心暗鬼に陥りますが、其れでも愛しの季武様に逢えると信じて、其の疑心を掻き消そうと致します。
もう半刻、イヤ一刻も過ぎたのに未だ止まる気配の無い駕籠。駕籠の中の身なれば逃げる事もままならず、愈々遠くから波の音が聴こえて来ます。
姫松「卜部様!季武様は、何処にいらっしゃるのですか?!」
危機迫る声で姫松が叫びますが、右源太は意に介さず、駕籠の戸を開くと姫松の腕を乱暴に掴むと、外へ曳き出し桟橋に見える小舟に乗れ!と命じます。
小舟に駕籠のお伴をした十数人が乗り込むと、姫松も有無を謂さず同船させられると、沖に碇を沈め停泊中の龍神丸と謂う大きな船へ櫓を漕ぎ進みます。
右源太「さぁ、お嬢さん、もう心配はない。貴女のお慕いなさる御仁は、あの船の中に居なさるから!」
姫松「本当ですか?!色々とお手間を掛けさせて、有難う御座います。季武様はあの船の中に?!」
と、龍神丸に上がった姫松が、右源太に案内されてさて見た其の人はと見てやれば、正面に褥(しとね)を三枚重ねて敷き、堂々鎮座する其の人物は、
退屈そうに大胡座を掻いて、其の傍には刀掛け他にも武具を数多く並べて立てゝ有ります。更に、其の傍らを取り巻く面々は一癖も二癖も有る悪人面。
其の有様に驚き震えていた姫松でしたが、よーく正面の大胡座の人物を見ておりますと、其の人物に見覚えが御座います。「アッ!あの御方は…。」
其れは先日、多田のお城の牢屋から助け出して呉れた関白殿下の使者を名乗った山﨑播磨守房明、その人では有りませんかぁ?!少し驚く姫松です。
なぜなら、奉公先の左馬頭満忠公の館から、姫松を救い出し玉瀬の実家へと送迎した際は、関白の使者らしく正装の衣冠束帯を着なしておりましたが、
この日船中での出立は、其の折りとは打って変わり、晩秋は冬隣と謂える季節なのに、薄い単衣の正絹に麻地の帷子を羽織って、縄を帯代わりに締めて御座います。
目は鋭くギラギラと光り、傍らの荒くれ連中からは親方!頭!と呼ばれて、ゾッとする様な貫禄の悪党、盗賊、海賊の様な雰囲気が漂う輩に映ります。
保輔「さぁさぁ、此方へ参られよ!この間逢った折りには関白実頼卿の使者で、山﨑播磨守房明と御名乗り申したが、今日は袴垂保輔こと藤原保輔だ。」
姫松「エッ!其れでは、あの付け文は?!」
保輔「勿論、拙者が認めた物だ。」
姫松「イーヤー!アーレーぇ〜!」
保輔「どうだ?次郎、拙者がゾッコン惚れ抜いて、執心致すのも無理なき女子(おやご)であろう?!」
次郎「お頭ッ、冗談じゃねぇ〜。本に欲張りですねぇ。金百貫目を奪う大仕事の後に、季武の元へ渡して呉れと頼まれた手鏡を種に、とうとう女まで引っ張り込むとは…。
流石お頭、宜い腕前だ!ヤイ、姫松とやら、この御方は船のお頭様だ。お頭様は、お前を一目見て気に入って居なさる。
だから、あの間抜けな卜部季武の野郎から、巻き上げた手鏡を使って、まんまとお前さんを船に連れ込んだと謂う訳だ。
こうこうなりゃぁ仕方ねぇ〜、多田のお城から暇を出された痩せ浪人の季武の野郎などとは違い、此のお頭に付いていりゃぁ〜、
姐御、姐御と立てられて左団扇の暮らしが出来るってもんだ。誰一人、お頭の内儀、姐御に手出しする者はない。安心してこっちへ来て一杯やりねぇ。」
姫松「ひぇ〜、何んと謂う不覚。不忠不孝のバチが当たったのか…、本にご両親様に申し訳ないことをした。」
と、騙し討ちに合い船に連れ込まれ拉致された姫松は、自身の愚かさを悔やみ嘆き、愚痴を謂うのですが、もう後の祭で御座います、嗚呼、詮方無しと判りつゝも熱い涙が溢れます。
姫松「保輔殿とやら、妾の様な者を其れ程、お思い下さるは忝いが、妾には枕は未だ交わさざるも、心に決めた御人、卜部季武様と謂う相手が御座いまする。
其の卜部様に招かれたと喜んで来た甲斐も無く、騙し討ちにて船の中へ連れ込まれるとは情け無い。何分仰せに従う訳には参りません由え、どうかこのまま元の屋敷へ御戻し下されぇ。」
保輔「喧しいわい!もう、こう成ったら仕方ねぇ〜。次郎、風も汐も宜い塩梅だ。そろそろ、船を出そうじゃねぇ〜かぁ。」
次郎「ヘイ、畏まりました。こんな所でまごまごして、役人に改められちゃ面倒だぁ。では碇を巻いて、沖中から船を出航させて仕舞いましょう。」
そう謂うと、船子達に下知を飛ばして碇を引き上げ、帆を六合ばかり張りますと、勢いよく船は走り出して仕舞います。
是を見た姫松は、泣き叫びながら助けを求めますが、広い海原に「助けて!助けて!」と声はコダマ致しても、只々、虚しく響くだけで御座います。
保輔「汝さん(おまえさん)が、どんなに此の船ん中で泣き喚いても声を聴いて助けに来る人は居ないぜぇ。だって船に居るのは俺の手下だけだ、もう諦めるんだなぁ。」
嗚呼、情けなや!いくら親に対する不忠不孝の罰とは謂え、盗賊に囚われて船に乗せられ遠くへと連れ去られて仕舞う位なら、一層、この海へ身を踊らせて飛び込んでしまおう!
そう覚悟を決めて、姫松は船の手摺を越えて、海へと飛び込もうと致しましたが、寸前の所を袴垂保輔に見咎められて、腕を掴まれ止められてしまいます。
保輔「馬鹿な考えは止めろ!こんな所で海に飛び込んだら死んでしまうぞ。」
姫松「どうかぁ、御手を離して下さい。先程、申した通り、妾には心に決めた御人、卜部季武様と謂う夫が御座います。女の操を立てゝ通させて下されぇ!」
保輔「エイ、喧しい。そんな時代錯誤の古めかしい能書はやめて、俺の女になるんだ、姫松。この船に居れば面白おかしく暮らして行ける。
其れに、今は拙者、三百、五百の手下を抱える盗賊の親分に甘んじているが、行く行くは天下国家の政を握る積もりだから、汝も拙者に従いなさい。
まぁ、兎に角、死のうなどと愚かな考えは捨てゝ、此方に来て、酒など酌み交わし、大きな野望を一緒に語ろうではないかぁ?!姫松、気を取り直せ。」
さぁ、そう謂って袴垂保輔は拐かして(かどわかして)連れて来た姫松の腕を掴み、強引に盃の酒を飲ませようと致しますが、姫松はガンとして受付ず、
まだ、隙あらば船の手摺を乗り越えて、海中に身を沈め死んでしまう積もり満々で御座いますから、傍で見ていた悪党一味も呆れ顔です。
次郎「お頭、こりゃぁ〜一筋縄では思う様にならないじゃじゃ馬ですぜぇ。気長に調教しないと…、納まりは付きません。」
保輔「左様、左様。一概に脅し付けても上手くは行かぬが男女の仲。兎に角、姫松が海へ飛び込まぬ様に、お前達でしっかり見張っていて呉れ。」
次郎「そりゃぁ〜もう、合点承知の助です。」
保輔「宜いなぁ、儂は少々酔いが回ってしまったから、お前達、頼んだからなぁ〜、逃したり致すなぁ。儂は一寝入り致す。」
次郎「お任せ下さい!!」
そう、保輔は次郎に命じて、自らは船底で枕と掻巻など夜具を引っ掛けて大胆にも高鼾を掻いて寝入ってしまうので御座います。
さぁ、好機到来と姫松は思いますから、この隙に逃げてやろうと思いますが、傍に手下が見張っているから中々逃げ出すキッカケが御座いません。
如何せんと思案致しますが、手下どもは親方、袴垂保輔の言葉に忠実に従い、代わる代わるに声掛けをして来て、すかす、脅す、揶揄う、褒める…。
実に様々な態度で、姫松に対して接して来る盗賊の手下達には、姫松も閉口するばかりで、全く持って逃げ出す機会など御座いません。
其れでも姫松は、譬え命を身投げして捨てても、女の操は守り通すのだと、強い決意でおりましたが、俄に、ゴーゴーと荒れ狂い始める波の音が致します。
姫松は『何事?!』と、不安を覚えましたが、袴垂保輔の手下連中は船に慣れていると見えまして、慌てず騒がず、甲板の上を縦横に走り回りながら、
『疾風(ハヤテ)が参るぞぉ〜。』『帆を下ろせぇ〜。』『北北西に進路を取れぇ〜。』などゝ叫び声を上げながら、全員で到来する嵐に備えます。
併し、どうやら彼等を襲い来る嵐は、過去に経験した事の無い規模の大嵐。俄かに空は一面に掻曇り、正に麿墨を流すばかり、船内におります盗賊共の顔色が変わります。
そして連中は只々騒ぐばかりで、大嵐に備えるべき船の操舵は一切行わず、神に祈り仏に縋る態度で恐れ慄いて御座います。
すると、益々波は高鳴り船縁を洗い始め、その波音が船上の人々の会話も掻き消します。流石に船底で寝ていた袴垂保輔も、何事か?と起きて参り、
この有体を見るやいなや、『之はやばい!!』と感じて、エッ、仕舞った!さては不覚にも暴風に呑まれたかぁ?!、そう思うも間も無く、
ドードッ、ドーッと謂う地獄の釜の蓋が開く様な音がして、津波の様な高波が船を襲います。流石の龍神丸も此の大波を受けた時は、宛かも須彌山へ登るかの如し。
そして、更に其の波が引いて返す時には、八萬奈落の底へ引き摺り込まれる様な塩梅で、船中の者どもは命惜しさに必死で働いております。
この時、姫松はと見てやれば、さては龍神様の祟りに違いないと、盗賊どもが乗り込みしこの船は間違いなく天罰が下り沈没するに違いないと思います。
固より女の操を守る為ならば、身投げも惜しまぬ姫松ですから此のまま海の藻屑となろうとも、不忠不孝の両親への詫びも兼ねてやむなしの気持ちです。
あくまでも貞節の姫松由え、少しも大嵐を恐れる事はなく正に無我の境地の僧侶の如し、一方もう此の後に及んでは保輔達も姫松に構っていられません。
その様子を見た姫松、彼等の隙を窺って船尾の『艫』(へさき)に向かって駆け出します。さぁ、是には驚いた袴垂保輔、「何をする!!」と叫び、
姫松の片袖を掴みに係りますが、姫松も必死ですから其のまま身を捩り踊らせながら逃げようと致します。
片袖は千切れ、姫松が船の艫に着いてみると、先程、浜辺から龍神丸へ乗り込む際に使った端舟がまだ縄で繋がれて御座います。
さぁ、姫松、是幸とこの端舟に乗り逃げようと致しますが、勿論、そうわさせじと追って来る袴垂保輔!一瞬、姫松の方が早く端舟に乗り込み、
遅れて端舟を保輔が掴みかかると、勢い余って船の艫に着いた際に、保輔が腰に挿している刀が鞘走りまして、其の刃が端舟を舫う縄を切って仕舞う。
突然、嵐の大海へと放り出された端舟と姫松。正に、荒波に浮かぶ木の葉のように、端舟は見る見る内に遠くへ流されて消えてしまいます。
保輔「チェッ!仕方ない。どうせ、あのじゃじゃ馬ぶりだ。隠れ家に連れ帰ったところで、容易に靡く女子(おなご)にあらず。
姉上、和泉式部にも引けをとらぬ美女なれど、埒が開かぬ女子では詮方ない。ここで自害されるのも已む無し!」
と、謂って袴垂保輔は、姫松の事は諦めまして、兎に角、命が一番と、龍神丸の大嵐への対応に専念致します。
すると、約一刻の格闘が実りまして、雨雲は引き、風が納まり、波も凪になり、何んとか船の航行が容易になり出します。
そして、夕暮れ前に船、龍神丸は播州の室ノ津と謂う港町に到着しました。さて、端舟で逃げた姫松はどう成りましたやら?それは次回のお楽しみです。
つづく