さて、紙屑屋『尾張屋』の手伝いの紙屑の種分け中に、仲間(ちゅうげん)奴の大野林蔵が主人の医師、倉田玄龍へ宛てた手紙を見付けた中山勝三郎は、

前略、御高免下されたく候。

然らば、貴殿日々盛大の由奉り賀候。

諸事により拙者、甚だ手許不如意につき、誠に困り入り候。

貴殿の御手元に在る金子より、少々お恵み下さらん事をお願い奉り候。

早急に金子の工面頂けぬ時は、『重宝天國宝剣』の一件を公言致す覚悟に御座候。

『重宝天國宝剣』を質入れしてでも、分前を頂戴したき所存なれば、一筆啓上申し候事、夢々忘るゝ事なかれ。

                        大野林蔵より

倉田玄龍様へ


と謂う文言から『重宝天國宝剣』を盗み出した犯人が、此の両名であると確信し、本所相生町の尾張屋を飛び出すと、同じ本所の森下町へと馳せ参じます。

茲は本所森下町、一際目立つ其の家は中々立派な戸立てに御影石彫の表札には『倉田玄龍』の文字。内部の様子を伺いますと、夕暮れ時とあって森閑と静まり返って御座います。

さて、倉田玄龍は前述よりの説明通り、千住宿の衣笠屋の後家、お藤と密通して得た金銭で、此の本所森下町に屋敷を構えているので、殊に医者として此の家で患者を診る訳てなし、

専ら、千住宿へと足繁く通い、衣笠屋を訪ねては情婦のお藤と繁華な街場へ出歩くか?艶情に耽り不義を働くか?そんな栄華を楽しみつゝ日々を過ごしておるのです。

一方、大野林蔵はと見てやれば、浅草の新堀端の長屋住まいをしておりまして、此方も定職は無く日柄ブラブラしている遊人で御座いまして、博打と酒の日々で御座います。

さて、中山勝三郎が駆け出して来た此の日、倉田玄龍は午刻より昼飯と謂って酒を喰らい酔い潰れて、勝三郎が現れた申刻過ぎには、奥の部屋で鼾を掻いて寝ております。

さて、倉田玄龍は此の家に二人の書生を飼っており、医術を教えながら養って居るのです。その書生が帰宅して、戸締りを始めて隣接する裏長屋に住む飯炊の源助を呼んで参ります。

書生A「おい、源助。俺たちは湯屋へ行って来るから留守番を宜しく。」

源助「へぇ、よーガス。行ってらっしゃいませ。」

書生B「旦那様は酒をカッ喰らって奥の間で寝て御座る。起きなされたら夕飯をお出しして呉れ。」

源助「ヘイ、畏まりまして御座います。」

そう謂うと二人の書生は近所の湯屋へ行き、飯炊の源助はせっせと夕飯の支度を始めます。そして、源助が夕飯を造り終えて主人玄龍が起きる前に憚りに行こうと裏の雪隠に這入ると、

是が又、具合悪く物陰から中山勝三郎が現れて、意を決して倉田玄龍の屋敷の玄関先から家の中へ目掛けて、声を掛けて仕舞うので御座います。

勝三郎「御免くだされ、頼もう!」

併し、居るのは倉田玄龍だけで、しかもまだ爆睡中!

勝三郎「頼もう!御免くだされ、誰かおらぬのか?」

と、玄関先でかなり大声を出す勝三郎ですから、酔い潰れて居た玄龍は目を覚ましますが、まだ、寝ぼけている。

玄龍「ッタク書生は何をしておる?オーイ、源助!源助はおらんのか?源助!?」

と、奥から声を出して仕舞うので、勝三郎は、玄関先で是に気付いて中へと足を踏み入れます。

勝三郎「ヤイ!倉田玄龍、奥に居るのか?!」

玄龍「オッ、お、お、お前は中山の養子、勝三郎。何しに来た!勝手に他人の家に上がり込みやがって。」

勝三郎「何を盗っ人猛々しい事を?!どの口が謂いやがる。」

玄龍「な、な、な何んの噺だ、勝三郎。」

勝三郎「甲州のヤクザ者か?!貴様。そんなに萬度吃るのは、甲斐の侠客、武井安五郎、人呼んで吃安か?お前位だぞ!倉田玄龍。」

玄龍「だ、だ、だ誰が吃安だぁ?!お、お、お俺は吃らねぇ〜。」

勝三郎「ハっハっハッBeautiful Sunday!!のDaniel Boone並みに吃るじゃねぇ〜かぁ、玄龍。」

玄龍「Daniel Booneは吃音じゃねぇ〜!!」

勝三郎「そんな噺を仕に来た訳じゃねぇ〜、貴様が盗んだ『重宝天國宝剣』を取り返しに来たんだ、今すぐ返しやがれ、此の盗っ人野郎めぇ!」

玄龍「な、な、な何んの噺だ。お、お、おお前の方こぞ、や、や、や藪からスティックだ。」

勝三郎「ヤイ、玄龍!俺が何も知らないで、カマを掛けている位に思うなよ!こっちは、ちゃんと証拠が在るんだからなぁ!証拠が。」

玄龍「な、な、な何だ?!証拠ッて。」

勝三郎「この大野林蔵の奴が書いた手紙だ!盗っ人野郎、読みやがれ!」

そう謂うと中山勝三郎は尾張屋で屑の山ん中から見付けた例の手紙を倉田玄龍に投げ付けると、何が証拠か判らなかった玄龍の顔色が見る見る内に真っ蒼に変わるのだった。

勝三郎「さぁ、グウの音も出ないだろう?此の盗っ人野郎。」

玄龍「グウ!」

勝三郎「何がグウだ!こん畜生めぇ。」

さぁ、物凄い剣幕に倉田玄龍は必死に頭を働かせて、此の場をどう切り抜けてやろうか?と、思案致しまして兎に角、嘘八百を並べます。

玄龍「申し訳御座らん。此の手紙は三月程前の大野林蔵とのやり取りで、手紙に在る通りで、林蔵の奴が矢の催促で、あの『重宝天國宝剣』は質草にされて今、手元には御座らん。」

勝三郎「何処に在るんだ!玄龍。」

玄龍「ハイ、千住宿の衣笠屋とか謂う大きな質屋に入れる様に強要されまして御座います。」

勝三郎「其れで、大野林蔵の住まいは?住まいは何処なんだ!!」

玄龍「ハイ、只今は浅草新堀端の長屋住まいを致して御座いますれば、直ぐに之よりご同道致して、『重宝天國宝剣』を質より受け出して、貴方様にお戻し致しまする。」

勝三郎「オウ、謂うには及ばぬ、至極当然だ。之より一刻も早く参られい!」

玄龍「御意に。只今、直ぐに支度を致しまして出掛けまする。」

そう謂うと寝巻きの浴衣を脱ぎまして、外出着へと着替えるなど、倉田玄龍は支度を始めます。すると丁度この少し前に雪隠を出た飯炊の源助が庭へと出て、

大きな声で謂い争う倉田玄龍と中山勝三郎の声が耳に届き「何やらん?!」と疑心暗鬼に陥り柱の物陰より奥の部屋の様子をジッと伺っておりました。

玄龍は勝三郎が油断するのを狙っていると、書生達が長火鉢に鉄瓶を掛けているのに気付く。そして、〆た!とばかり袴を履く振りして長火鉢に近付くと、

油断している勝三郎の顔面に鉄瓶ごと投げ付け煮湯を勝三郎へ掛けるのである。「熱い!何をする。」と勝三郎が叫ぶうちに、素早く床の間に置かれた『重宝天國宝剣』を手に、

鞘を払うと電光石火!中山勝三郎の肩を背後から袈裟掛けに斬り、刃の切れ味で乳の下辺りまでに鋒が届いて仕舞う。勝三郎は「ギャッ!」と短い悲鳴を上げて事切れる。

夥しい血飛沫が飛び部屋は血の海となる。医師である倉田玄龍は血の雨が降った部屋の様子に動じる気配なく、布団と掻巻で勝三郎の死体と飛び散った血潮を手際よく片付けて終う。

玄龍「田分け者の白痴野郎が折角、屑ん中から盗っ人の証拠を掴んだなら普通、賢い者は用意周到に用心して襲う所を馬鹿は死ななきゃ治らない見本だ!飛んで火に入る夏の虫めぇ。」


さて、物陰から一部始終を見ていた源助はたまらない。余りに起きた一瞬の惨劇、余りの恐怖に足は震えて声も出せない。玄龍は取り敢えず、勝三郎の死体を布団に包んだまま押入に仕舞います。

そして玄龍、「書生は何をしておる?オーイ、源助!源助はおらんのか?源助!?」と又叫び始めますと、そこへ湯屋から戻った二人の書生が漸く帰って参ります。

書生A「只今、帰りました。」

玄龍「只今帰りましたじゃないぞ!書生の分際で、主人が転た(うたた)寝をしているのを宜い事に、何処へ出掛けていた?!」

書生B「すいません、旦那が余りに気持ち宜く寝ていらしたので、掻巻を掛けて湯屋へ行っておりました。」

玄龍「二人共、宜い身分だなぁ。主人を放ったらかして日の高い時分から湯に行くなどゝは、一体、何様の積もりだ!?」

書生A「申し訳御座いません。」

書生B「飯炊の、飯炊の源助に旦那のお世話をする様に頼んでいたのですが。」

そう謂うと書生二人は台所の方へ飯炊の源助を探しに行くと源助は、台所と庭先を繋ぐ縁側に放心状態で視線が定まらずボーっと立ち尽くして居ります。

書生A「源助!そんな所で何をしている。」

書生B「アレ程、旦那の事を宜しくと頼んで出たのに、魂消(たまげた)様子で如何したんだ?!」

源助「ハァ〜魂消る何んてもんじゃ御座いませんよ、お二人さん!!」

書生A「魂消んじゃなけりゃ何が起こった?!」

源助「そりゃぁ〜もう、カン、ジャバジャバ、ギャッ!ですよ。」

書生B「何んだ、其の擬音の三連発は?!」

源助「だから、鉄瓶が先ず『カン』ってなもんで、次にお湯が掛かって『ジャバジャバ』、最後に断末魔の『ギャッ!』です。恐かったぁ〜!死ぬかと思いました。」

書生A「何だ?!其の『カン』『ジャバジャバ』『ギャッ!』って御呪い(おまじない)は?!」

源助「呪いじゃねぇ〜!」

書生B「其れじゃぁ、『カン』『ジャバジャバ』『ギャッ!』は何んなんだ。」

源助「だから、鉄瓶を投げて『カン』ってなもんで、次にお湯が溢れるから『ジャバジャバ』、最後に斬られた野郎が『ギャッ!』です。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」

書生A「もう良い。源助、貴様の謂う事を真面に理解しょうとした俺達が馬鹿だった。」

書生B「お前、どうせ昼寝でもしてゝ夢でも見てやがったんだろう?もう宜い、晩飯をとっとゝ造りやがれ!源助。」

源助「判りやした、兎に角、『カン』『ジャバジャバ』『ギャッ!』南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏だ。」

さぁ、一先ず源助の口からは中山勝三郎殺害の詳しい経緯は書生二人に漏れる事は無く、源助が拵えた晩飯を食べて、この日は早目に全員床に着き就寝と相成ります。

さぁ〜併し、中山勝三郎殺害の現場を目の当たりにした飯炊の源助は眠れるモンじゃ有りません。軈て四ツ亥刻を告げる遠寺の鐘が鳴り、更には九ツ子刻の鐘まで聴こえても眠られない。

そうこうしていると、奥の部屋からゴソゴソと何やら物音が聴こえて来ます。さぁ、是を無視し眠れる位の太い神経の無い源助は、恐い物見たさで起き上がりますと目を闇に慣して、

抜足差足で縁側の廊下を進み、音が聴こえた奥の間へと忍び入りますと、手燭を飯台に置いて押入れから例の死骸を包んだ布団を取り出す倉田玄龍の姿が御座います。

さぁ、書生二人と飯炊の源助が寝静まるのを待った玄龍は、押入れから死骸入りの布団を取り出すと、是を担いで裏木戸を開けて外へとゆっくり抜け出します。

そして本所森下町から両国方面に二、三丁進み、路地を左折して今度は大川/宮戸川の流れる両国船着場側、船倉の河岸から其の布団を大川へと投げ捨てゝ流して仕舞います。

ザッブンと謂う大きな音がして、投げた跡注意深く四方をキョロキョロ見ている倉田玄龍。もう、何度も悪事を重ねて慣れも有るのか?実に堂々と大胆に殺人をやって退けます。

いやはや是を見せられた源助の方は溜まりません。兎に角、こんな主人に奉公するのは今日限りで御免だ!と決心しますが、玄龍に余りに近付きながらは帰れませんで、

本所森下町の玄龍の屋敷に着くのが遅れて裏木戸が締まりをされて締め出しを喰らって仕舞います。さぁ〜困った源助。まさか、玄関先で野宿も出来ませんから、

玄関脇の格子窓の嵌った部屋が書生二人の寝室なので、この格子に石を投げてコツン!コツン!と音を立てゝ見ると、書生の一人が目を覚まして源助に気付いて呉れます。

源助「書生の緑川さん!アッシです、源助です。締め出しを喰いまして門の脇の通用口を開けて下さい。」

緑川「書生の緑川さんじゃないよ、源助。こんな時間に、お前さん、出歩いて何してんだよ。」

源助「イヤ、國から親戚が来たもんだから、外にちょいと四半刻ばかり出たんだが、旦那様に戸締りされ締め出し喰っちまったんだ。」

緑川「判った、今開けてやる、門の脇で待っていろ!」

そう謂うと書生の一人、緑川が表に出て門の脇にある通用口から飯炊の源助を屋敷内に引き入れて呉れました。

源助「有難う、緑川の旦那。相棒の竜崎さんは?寝てなさるか?」

緑川「あぁ、野郎は地震や雷でも起きる事は無い、一度寝たら朝まで絶対に起きぬ輩だ。嗚呼、火事は例外だが。」

源助「実は田舎のお袋が病気で倒れたと、知らせに叔父貴が江戸表まで来て呉れてだから、お袋に一目逢いに田舎へ帰りたいのですが緑川さんからも旦那様にお口添え願えませんか?」

緑川「そりゃ構わないが、お前さん、田舎って何処なんだ?!」

源助「ハイ、下総の銚子です。」

緑川「そうかぁ、判った。明日朝、俺からも噺をしてやる。朝飯ん時に謂ってやるから、明日は少し早目に支度を済ませろ。」

源助「ヘイ、有難う御座います。」

と、飯炊の源助の方は『旦那の殺人死体遺棄現場を目撃した噺』を書生には一切語りませんから、建前は『母の病気』を理由に、倉田玄龍を説得致します。

玄龍「源助!理由は承知した。銚子の実家にお前さんを帰す事は吝かじゃないのだが、必ず、お袋さんの見舞が済んだら帰って来いよ。この家は女手が無いからお前さんだけが頼りだ。」

源助「ハイ、承知致しました。」

と、中山勝三郎が倉田玄龍に殺害された翌朝、最後の朝食を造った飯炊の源助は、粗方の荷物を纏めて逃げる様にして本所森下町の屋敷から姿を消すのであった。


一方、噺は変わりまして此方は同じ本所の相生町の尾張屋吉之助は、此の様な変事!大事件が起きていたとは夢にも知らず、得意先廻りを終えて帰宅すると丁度黄昏時、女房のお熊が、

お熊「アラ、お前さん!お帰りなさい。」

吉之助「勝三郎殿の姿が見えぬが、お出掛けか?!」

お熊「其れが貴方、屑撚りをしていて突然出掛けると謂われまして妾が『何処へお出掛けですか?!』と聴いたんですが、物凄い形相で『時期に判るから良い!』

と謂うと妾が止めても聴かなくて外へ飛び出して、押っ取り刀で何処へ行かれました。」

吉之助「其れはきっと吉原へ行きなさったんだ。おそらく、梅川花魁に逢いに行かれたんだ。」

と、まさか『重宝天國宝剣』を盗んだ犯人の目星が屑の種分け中に知れたとは思いませんから、明日に成れば帰って来るだろう位に尾張屋吉之助は軽く考えております。

烏カぁ〜で、夜が明けて翌朝の事である。中山勝三郎は午刻を過ぎても帰らず、其れでも猶、吉之助は勝三郎が吉原だと信じて居た。

吉之助「お熊!中山の旦那にも困ったもんだ。確かに元女房だからって、昼過ぎても居続けは野暮だ。今は半蔵松葉屋の持物だ、奉公している身なんだから。」

そう愚痴る様にお熊に話すと尾張屋吉之助は、吉原の半蔵松葉屋へと、居続けしているだろう中山勝三郎を迎えに行ってみる事にする。

吉之助「御免下さい。」

牛太郎「ヘイ、何か御用でぇ?!」

吉之助「アッシは本所相生町の尾張屋吉之助と申します。ちょいと、梅川花魁に御用が有りまして旦那さん女将さんとは、お松チャンの養子縁組の世話をした者で御座んす。」

牛太郎「ウチの旦那女将さんとお知り合いで、判りました。花魁を直ぐにお呼び致します。」

と、取次に出た牛太郎は奥へと消えると、梯子を上がり二階の部屋に居た梅川花魁に、吉之助が来た事を話すと部屋へ通す様に謂われます。

更に、牛太郎は吉之助の所へ戻ると、二階の自室で花魁は逢う事を伝え、二階へと案内してし吉之助を梅川花魁に逢わせて呉れるのでした。

吉之助「お前さんが、中山勝三郎殿の元御内儀、梅川花魁ですか?お初に御目に掛かります。」

梅川「おぉ、貴方が吉之助ハン。主から御噂は伺っておりんす。此方へ這入ってくんなまし。」

吉之助「時に花魁、中山の旦那が未だ此の部屋に居続けしているのは判っている。イヤ、名残り惜しいとは思いますが、今日の所はアッシに返しちゃぁ貰えめぇ〜か?」

梅川「アレ?!勝三郎様、昨夜はアチキの元へはお見えでは有りんせん。」

吉之助「イヤイヤ、嘘は無しだ。隠さないで下さい、勝三郎の旦那が居るはずだ!」

梅川「いいえ、主は、勝三郎様は茲には居りんせん。」

吉之助「誠か?!」

梅川「ヘイ。」

吉之助「其れは困った!実にけしからん、不思議な事だ。家の女房(カカア)が申すには、カクカクしかじか、云々かんぬん!」

梅川「貴方様に左様、お伺い致しますと、アチキにも胸に思い当たる事がありんす。」

吉之助「エッ、胸に思い当たる事とは?一体、何んですか?!」

梅川「其れは、昨日は吉原全体が魔日と謂うのか?人通りが淋しゅうて、アチキもお茶ッ引きでありんした。其れで新造も禿も早仕舞いさせ、皆んな引け過ぎには床に付きんしたが

アチキは丑三つ刻に眼が醒めて悪い汗をかいた依って、寝巻きを換えに起きましたら、俄に行燈の火がユラユラ揺れて、パッと暗くなる。

すること其の行燈の陰に、血汐に染まりし勝三郎様の姿が現れて、アチキを恨めしそうに見詰めるから、恐怖の余りギャッ!と声を上げたのでありんす。

さぁ、其の声を聴き付けた遣手婆が出て来て、『やぁ、花魁!花魁!』と、婆がアチキを起こしに参りますので、何だ!夢かと一旦は心に謂い聴かせたが

再び眠ろうとしても寝付きが悪く、漸く眠りましでも寝汗が酷くて、寝起きも悪い。之は勝三郎様の身に何かあったのでは?と、心配していたら昨夜はお帰りがないと今聴いて、

若しや、勝三郎様が誰かの人手に掛かり、不慮の死を遂げた証では?と、アチキは心配で心配でありんした。吉之助さん、勝三郎様は無事で生きておりんしょうやぁ?」

吉之助「イヤ、夢は五臓の疲れと申しますし、夢は逆夢。悪い夢程、吉左右やも知れぬ。併しながら小生も一応宅に帰って、徳と実否を探ってみましょう。」

そう謂うと半蔵松葉屋を出た尾張屋吉之助は、難しい顔に成り本所相生町の店に戻ると、女房のお熊を捕まえて、又、中山勝三郎に付いて問い質します。

吉之助「イヤい、お熊。今、吉原の半蔵松葉屋へ行って来たが、中山の旦那、昨夜は来てないと謂われちまった。其の上、梅川花魁に勝三郎の旦那の縁起でも無い噺をされて、

もう、オイラ、居ても立っても居られないんだ!なぁ〜、お熊。何んでも宜いから、どんなに些細な事でも構わないんだ、思い出した事が有ったら謂ってみて呉れ!頼む。」

お熊「イヤねぇ〜立ち聴きした訳じゃなく、障子戸を開ける前に立ち止まった際に偶々聴こえて、耳底に残った言葉が在りましてねぇ。『倉田某の仕業で有ったか!?』

『アッ!之は林蔵からの手紙』、そして『森下とは程遠からぬ所に之はこうしては居れぬ!』、障子戸を開けて妾が這入ると、旦那は血相変えて飛び出して。」

吉之助「何ぃ〜、本所森下町で『倉田』と謂えば、ごく最近森下の借家に家移りして来た医者じゃないか?二、三日前に屑を引取りにも行っている。

其の医者の手紙を屑ん中から、中山の旦那は見付けたに違いない。そして手紙の差出人は『林蔵』と謂う男だ。ヨシ、兎に角、探りを入れてみよう。」

さぁ、お熊の耳底から手繰り寄せた情報を頼りに、早速、夕暮れの伸びた影を連れて吉之助は、倉田玄龍の家を訪ねて玄関から声を掛けます。

吉之助「御免下さい!」

緑川(書生)「ハイ、どちら様ですか?」

吉之助「へぇ、アッシは近所の屑屋ですか、風邪引いたみたいで熱が有るんで、此方のお医者様に診て貰いに来やした。」

緑川「成る程、患者さんでしたか。生憎、先生は湯屋に行き留守です。暫く、中でお待ち下さい。」

と、尾張屋吉之助は、倉田玄龍の屋敷の玄関先の小部屋に通されて、玄龍の帰りを待つ事になります。併し、湯に行った玄龍は四半刻、半刻経っても戻りません。

そうこうしていると外はもう薄暗く黄昏時、そこへ突然、國へ帰ると暇を貰ったハズの飯炊の源助が、息咳切って玄関から中へと飛び込んで参ります。

源助「すいません!オラです。」

緑川「何んだ!源助、銚子に帰ったハズじゃぁ〜。」

源助「あぁ、緑川さん。済みません、下駄を、大事な駒下駄を玄関さ、忘れて出て、取りにめいりやした。」

緑川「駒下駄って、此の古いチビた下駄の事か?態々、之を取りに来たのか?朝出て何処で気付いた?」

源助「千住大橋を渡り松戸の手前で思いだして、其れで引き返した。」

緑川「本当にお前も因業な奴だなぁ、此の古下駄の為に、松戸から引き返すとは恐れ入谷の鬼子母神だ。」

源助「イヤぁ〜、そったら褒められては照れるでねぇ〜かぁ〜。」

緑川「褒めちゃいないよ。」

源助「ところで、先生様は?」

緑川「あぁ、湯に行っている。外来の患者さんが来ているから、俺が応対に玄関に出ていた所だ。」

源助「エッ!こんな人非人の医者ん所に、患者さんが来るとは、桑原、桑原、南無阿弥陀仏だ。」

緑川「何を謂うんだ!源助。昨日からお前、ちょっとおかしいぞ?!」

源助「緑川さん、お前さんとオラの仲だから、其の好(よしみ)だから謂うけんど、先生は恐ろしい人だかんなぁ〜。『カン』『ジャバジャバ』『ギャッ!』『ザッブン』だかんなぁ。」

緑川「又、始まった源助の擬音攻め。而も、昨日より一つ『ザッブン』が増えてやがる。一体全体、何んの御呪いだ。」

源助「兎に角、悪い事は謂わねぇ〜から、緑川と竜崎さんも、先生から早く暇を貰え!命有っての物種だぞ。」

緑川「縁起でもない。ヤイ、源助、もうこんなに暗く成っちまったから、今夜は屋敷に泊まって明日朝立ったらどうだ?」

源助「馬鹿コケ、少しも此の屋敷に居たくないから國に帰るんだ!泊まる訳なかんべぇ!」

緑川「母親が病気じゃないのか?源助。」

源助「病気だ。もう宜い。駒下駄をくれ!では、緑川さん、さらばで御座る。」

と、下駄を手にして玄関を出て行く源助を、不思議そうに見送る書生の緑川でした。さぁ〜、是を脇で見ていた尾張屋吉之助が緑川に尋ねます。

吉之助「書生さん、あの人は誰ですか?」

緑川「嗚呼、変な野郎でしょう。飯炊の源助と謂う野郎で、母親が病とかで暇を貰って、下総銚子に帰ると今朝出て行ったのですが、あの様に引返して来て古下駄を取りに来たらしい。」

吉之助「左様でしたかぁ、でも何か?呪文みたいな事を謂ってましたね、アレは何んなんですか?」

緑川「拙者にも判りません。馬鹿、白痴、狂人の類いが謂う事ですから、真面目に相手にしないで下さい。其れにしても、先生、遅いですねぇ。」

吉之助「之だけ待っても戻られない所を見ると、もう先生、湯屋を出て何処かへお寄りのご様子なので、私は失礼致します。」

緑川「左様ですかぁ〜、申し訳ありません。」

そう謂うと、吉之助は倉田玄龍の屋敷を出て、急いで飯炊の源助の跡を追い掛けます。

吉之助「オーイ!オーイ!飯炊の人。」

源助「エッ?儂の事ケぇ?!」

吉之助「左様、貴方です。源助さんとやら。」

源助「誰だ?何の用だ?」

吉之助「一寸、待って下さい。お尋ねしたい事が有って。」

源助「何んだ?お尋ねッて。」

吉之助「源助さん、貴方、なぜ、倉田玄龍先生に暇を貰ったのですか?本当の理由(ワケ)を教えて下さい。」

源助「オラはあんな家には住んでられねぇ〜だ。医者は人の命さ救うモンだが、あの先生は人の命を奪いなさる!!」

吉之助「左様ですか、時に、源助さん、私は其の赤提灯で一杯やる積もりだが、お付き合い頂けませんか?」

源助「お付き合い?儂は銭持ってねーぞ。」

吉之助「構いません。私が誘うのですから、私がお勘定持ちます。源助さんはお酒は好きですか?」

源助「大好きです。」

こうして、尾張屋吉之助は倉田玄龍の使用人、飯炊の源助を居酒屋へ連れ込んで、玄龍の中山勝三郎殺しの一部始終を聴き出します。

吉之助「其れで源助さん、倉田玄龍は其の『カン』『ジャバジャバ』『ギャッ!』で殺した死骸はどうしたんですぅ?」

源助「そりゃぁ『ザッブン』したのさぁ。だから、『カン』『ジャバジャバ』『ギャッ!』『ザッブン』になる。」

吉之助「と謂う事は、何処かへ『ザッブン』っと捨てた。其れは何処ですか?」

源助「そう!アンタは物判りが宜いから噺が早い。其の死骸は布団に包んだまんま、両国船着場側、船倉の河岸から大川にザッブンだ。」

吉之助「成る程、有難う御座います、源助さん。」

こうして倉田玄龍の中山勝三郎殺害死体遺棄の一部始終を飯炊の源助から聴き出し、密かに両国橋から永代橋、そして佃島沖など隈なく探してみましたが勝三郎の死骸は見付かりません。

仕方なく死骸探しは諦めて、次に玄龍が勝三郎を殺す動機は何か?と、考えた吉之助、其の動機の探索を始めた所に、都合の良く勝三郎の義父、中山作左衛門が江戸表に出て参ります。


つづく