平将門の乱が平定され治安の回復を見た天慶三年三月中旬。櫻咲く京の都に右馬権頭藤原友忠卿は将門軍の残党討伐、並びに関八州の治安回復と謂う大きな任務を終え畿内に戻った。
先の平将門討伐隊で総大将を務めた参議右衛門尉藤原忠文公、並びに軍師・刑部大輔藤原正信公からも労いのお言葉を賜り、誅敵将門の首を直接上げられない悔しさは在るものゝ、
この度の遠征では朝廷の覚えも愛でたく友忠自身其の成果と充実を噛み締めて居た。殊に、沼田正道が救出し洛内へ連れ帰った女官、伊織が腰元として屋敷での奉公を始めると、
友忠卿の二人の息子達から先に、伊織の人柄に馴染み懐くので御座います。友忠卿には長男時満十四歳と舎弟の泰政八歳が有り、是までにも乳母や御愛妾が着いた事も御座いましたが、
二人は羞恥心が強く繊細で、是等に馴染み気を許す事は有りませんでしたが、伊織には即日溶け合い本当の親子かと錯覚するような関係が築かれて仕舞います。
流石に、是には友忠卿自身が一番驚き、流行り病で失った御内儀の生まれ代わりなのでは?!と、思うので御座います。そして当然の様に、伊織には友忠卿のお手が付き…。
此の一連の出来事に、友忠卿の家臣や伊織以外他の奉公人はと見てやれば、是が実に好意的と謂うかぁ、伊織の人の良さが導いた結果で御座います。そして、…。
軈て当然の結果で有りまして、伊織は友忠卿の若君を御懐妊と相成りまして、玉の様な男子、三男朧丸が誕生致します。嗚呼、此の一連の出来事が昨日今日の出来事と思う内に早三年。
此の伊織が友忠卿のご内儀へと収まりますが…此の伊織をご内儀に迎えて早三年と成りますが、決まって十五日に成ると、伊織が陰に籠り元気が無くなり食も細く成ります。
朧丸は三歳となりすくすくと育っている反面、此の十五日の憂鬱が、友忠卿には唯一の憂いで御座いまして、迎えた天慶五年二月十五日と謂う其の日も伊織は気が優れず物を食わず一間に籠って御座いました。
友忠「伊織!如何致した。息子達も女中や家臣の者まで、皆んなお前は、決まって十五日に成ると、其方が鬱々とし顔色は悪く食事も喉を通らぬ様子!
之を気に病み心配しておるぞ!如何致した?正直に悩みの胤を申してみよ!決して、お前を責めたりは致さぬ。些か、予に心得が有る、さぁ申してみよ。」
伊織「友忠様、何時謂おうか?と、今日か?明日にか?と一日一日、先伸ばしにして…結局、三年もの間、貴方や此の屋敷の皆さんを騙し続けて参りました。」
友忠「何んだ?何を謂うておる伊織。嘘とは?何の事じゃぁ?!」
伊織「実は…、妾は朝敵、平将門の家来、武蔵権頭興世の妻なので御座いまする。天慶三年二月十五日に、平貞盛の軍勢に唐鳥山の屋敷を包囲されて、夫の興世以下一族家臣達は玉砕。
妾はその時、既に夫の子を孕っており、武蔵権頭の忠臣だった堅田太郎に依って命空柄屋敷より逃がされて生き延びました。そして、武蔵國に逃げ込み浅草寺にて馬を盗んだのです。
其れから先は貴方のご承知の通りで、堅田太郎は盗賊の振りをし妾を助け、まんまと天慶三年八月に朧丸を産みましたが…幾ら早産とは謂え六ヶ月半で稚児(やや)は産まれたりは致しません。
妾は太郎の忠義に応えて、武蔵権頭興世の世継ぎを残す為、友忠卿!貴方を騙して三年の月日を過ごして来ましたが、二月十五日!あの日の事が忘れられません。だから興世公を思い出して、
妾は十五日に成ると鬱ぎ込む様に成って仕舞ったので御座います。妾は此の家を出る覚悟が漸く附きました。貴方に死んでお詫びする所存です。
どうか!友忠卿、妾の命に代えて朧丸だけは許してやって下さい。全て悪いのは妾です。宜しく御慈悲、願いまする。」
そう謂うと、伊織はその場に泣き崩れて、友忠卿に縋り付きました。友忠卿も、思い掛けない告白に驚いた様子でしたが、伊織の手を取り優しく語り掛けます。
友忠「コレ、伊織。よくぞ本心を語って呉れた。之でよーく判った、合点が入った。朧丸は未熟児にしては大きいと思った。
武蔵権頭興世の胤とは知らず今日まで養って来たが、朝敵興世の妻子と知ったからは、伊織、お前と朧丸を此の屋敷に置く事は罷り成らぬ、直ちに出て行って貰う。」
伊織「ハイ、ならば………。」
と、謂った直後に懐中から懐剣を取り出し喉を突いて死のうとする伊織。併し、間一髪、友忠卿が是を取り押さえて匕首を取り上げます。
伊織「死なせて下さい!御慈悲です。」
友忠「馬鹿を申せ、死ぬでは無い伊織。其方は生きて朧丸を育てるのじゃぁ。朝敵の貴様等親子を儂は養う訳には参らぬ。が、幸い貴様等親子が朝敵と知るのは此の友忠独りじゃぁ。
茲に其方に授ける宝刀が在る。唐土より渡来の名工が筑紫の地で鍛え上げ目貫には金の半月を施した逸品である。来る日に朧丸が成人の後、予に再会を望むならば、
此の短刀を再会の印に持参致し再び此の屋敷に参りなさい。必ず、其の時は此の友忠に逢う機会を与える。そんな後日の約束の印である。伊織!立派に朧丸を育てゝ呉れ!」
伊織「畏まりました、有難う御座いまする。」
こうして、今まで笑って暮らしていた夫婦は俄かに別るゝ事と成り、ご内儀伊織は幼い朧丸を連れて友忠卿の館を出て行くので御座います。
併し、館を放り出された伊織に行く宛が有る訳では御座いません。歩きながら朧丸を背負いながら思案に暮れておりますと、ふと!一人の人物の事を思い出します。
其れは元目を掛けて使いました奉公人の僕で、皆次と申す者、今は暇を出して故郷の上野に戻りまして大層立派な酒屋を営んでおると風の便りに聴き及びます。
ヨシ、ならば是を訪ねて身の振り方を相談してみようと思い立ちましたから、京の都を跡にした伊織は幼い朧丸の手を引いて上野國を目指します。
おぼつかぬ女の足での旅で、其れなりの苦労は御座いましたが、何んとか一月ばかり掛け武蔵國へと這入り、其処から上野國へと参る訳ですが中々厳しい山道に遭遇致します。
此の平安時代の山道ですから、道は細くして嶮しく太い木の根が伊織の行手を邪魔します。そして、遂に此の罠の様な木の根に足を取られた伊織は坂道で躓き倒れて仕舞います。
伊織は倒れた時、脾(ひばら)を強かに打ち暫くは呼吸すら出来ない位の痛みを感じます。其の上背中には三歳の朧丸を背負い込んで身動きが取れずに苦しんでいると、
手に花の這入った水桶を抱えた一人の尼僧(あまに)が通り掛かりまして、苦しむ伊織に対して優しく手を差し伸べます。歳の頃は五十歳を過ぎた尼僧に御座います。
尼僧「大事有りませんか?御婦人。見た所、この辺りに住む方では有りませんね?止事無き御方とお見受け致します。如何なされましたか?」
伊織「いいえ、妾は上野國へ旅を致しておる者ですが、山道に不慣れで倒れて脾を強く打ち動けなく成りました。心配御座いません。安静にしていれば時期に回復致します。」
尼僧「遠慮なさらずに、拙僧の庵が直ぐ近くに御座います。其方で手当を致しますからお寄り下さい。アラ、お子様ですか?背中のお子は?」
伊織「ハイ、息子に御座いまする。忝い。」
山道を降り伊織が倒れた場所から五、六丁も進むと割木の柱萱葺屋根、軒端造りの庵室で留守居一人居りません。
尼僧「狭く粗末な所で恐縮ですが、御這入り下さい。」
伊織「有難う存じまする。左様なればお言葉に甘えて御免蒙ります。」
尼僧「お子様はお眠りのご様子で。」
伊織「何も知らず能く眠っております。」
尼僧「無邪気なぁ。さぁ、お子様を下ろして寛いで下さい、遠慮は要りません。」
伊織「親切に、誠に有難う御座いまする。」
尼僧「長旅のご様子で、都から来られたのですか?」
伊織「ハイ、洛中より東へ下って参りました。上野國に知り合いが御座いまして、其処へ訪ねる途中で御座います。」
尼僧「私も若い頃は京都で暮らし、訳有って此の田舎に住む事と相成りました。貴女にも訳がお有りのご様子だ。追々、其のお噺もお伺い致しましょう。」
伊織「ハイ。」
こうして、伊織と朧丸は武蔵國から上野國へと向かう途中の山道で倒れ難渋している所を、尼僧に助けられて、此の尼僧の庵室に厄介に成るのであった。
そして、脾の痛みも治った或日、此の尼僧に呼ばれて、話をする事になるのであるが、此の尼僧が朧丸に付いて、飛んでも無い噺を仕始めるのである。
尼僧「拙僧の名前は妙藏尼と申しまして、本日は伊織殿、息子さん、朧丸殿に付いてお噺したい件が御座います。併し、謂い難い事も謂わねば成りません。とうぞお聴き届け下さい。」
伊織「何で御座いましょう、お聴かせ下さい。」
妙藏尼「拙僧の夫人(おっと)は易学を能く致す者だった由え、妾も見よう見真似で人相見がある程度出来る様に成りました。そこで、朧丸殿を見て感じた事を素直に申すのですが、
朧丸殿には大変に悪い相が出て御座いまする。之に何か?心当たりは御座いませんか?貴女が遠く都から東へ下る原因と関係有りませんか?此の御子を傍に置くと貴女の命に関わりますぞ。」
伊織「此の子を手元に置いていると、禍が起こると申されますか?」
妙藏尼「ハイ。易が妾にそう教えています。貴女方親子は敵同士、仇同士の星に生まれて居て、一緒に居て成長すると貴女は命の危険に、和子は出世の妨げに成る運命なのです。
信じる信じないは貴女次第ですが、別れて暮らすのが最良の手段であり、そう致せば遠くない将来に和子は出世し、又、貴女の元へ帰り来る日が訪れて再会も成るハズです。」
さぁ、こう謂われた伊織。命の恩人であり聡明で威厳も感じる妙藏尼からの助言だけに、じっくりと考えた末に、此の親子の別れを受け入れる決断を致します。
伊織「お言葉に従う覚悟で御座いまする。」
妙藏尼「賢明なご判断です。和子の出世は間違い有りません。宜しい身の上と成る事間違い無しです。併し、之までの妾の言動が気に障ったなら御免なさい許して下さい。」
伊織「いいえ、お気遣い無く。親子の縁は一日一緒に居れば其れだけ濃く成る物なれば、今晩にも朧丸を捨てゝ仕舞う所存です。」
妙藏尼「宜う其処に気付かれた。親子の情は日増しに細やかに成り別れが辛くなるのが常。仰る通り、今晩にも捨てなされ!!」
さぁ、庵主の妙藏尼と実母の伊織が、自身を捨てる算段をしているとは、僅か三歳の朧丸には知る由も無く、無邪気に手遊びなど致して、笹の葉にて仕切りに舟など造っております。
妙藏尼「妾は少し檀家連に用事が有り出掛けます。留守をお願いしますよ、伊織殿。直ぐに帰りますから、朧丸殿との別れをして於く様に。」
伊織「畏まりまして御座いまする。」
そう謂って庵主の妙藏尼を送り出した伊織。まだ、笹の葉で戯れる朧丸を見るに附け泪が込み上げて来ます。鳥や獣でも巣で育った我が子には並々ならぬ情が湧くもの、
増してや人間ならば尚更の事。武蔵権頭興世の倅として腹に宿ながら、出生前に館は平貞盛に依って滅ぼされ、朝敵たる身分を隠して友忠卿に育てられたが…。
伊織「朧丸!」
朧丸「ハイ、母上。」
伊織「強い子に育つのですよ。」
朧丸「ハイ、母上。」
伊織「元気に…元気に、暮らすのですよぉ〜。」
朧丸「ハイ、母上。」
何も知らぬ朧丸は、無邪気な返事を繰り返す中、母親の伊織は益々泪が止まりません。母の伊織は頬と頬を合わせ泪を拭いますから、朧丸はイヤイヤを致します。
既に、庵室に帰って居た妙藏尼は此の親子の別れの光景を見て、名残惜しからぬと最初の内は暫し我慢していましたが、余り悪戯に時を与え過ぎても、
返って別れが辛くなると思い直して、二人の前に、今帰りましたと現れて、最後の食事を済ませまして、深夜、伊織に朧丸を捨てゝ来る様に促します。
さて、茲に噺は少し変わりまして妙藏尼の庵室が御座います武蔵國比企郡滑川の里に、六郎兵衛と謂う博徒がおりました。根っからの悪党にして無頼漢で村の嫌われ者、諸悪の根源です。
所が或日博打で大儲けして、五十両と謂う纏まった金子を手にします。此の男日頃からの口癖で、『一発当てたら滑川の里など出て行ってやる!!』と謂う。
遂に其の滑川の里を出て行く日がやって参ります。金五十匁の軍資金を懐中に、滑川の里から四、五里北西、熊谷の交通要所、白波坂と謂う所に在る大きな一軒家を先ず買取ます。
「現金で買うから!金十二匁に負けろ!」と執念交渉。其れに負けさせて茲に一膳飯屋付きの酒店を開業します。酒は川越宿辺まで仕入れに行き四斗樽で安くて美味いのを仕入れますから、
まぁ〜街道の要所熊谷の白波坂ですから、其れなりに人通りも有り繁盛致します。最初(ハナ)は女房も、六郎兵衛の事だから三日坊主で終わるに違いないと、
半信半疑で始めた酒店と一膳飯屋の商いでしたが、あれよあれよと店は繁盛して、女房は一膳飯屋の方を立派な居酒屋、小料理屋へと成長させて、ちょっとした料亭の女将気取りで御座います。
又金も出来、夫人は大人しく商いに励み出し、『滑川の諸悪の根源』とまで呼ばれて居たのが嘘の様な変貌ぶりに、女房は何度も頬を抓り夢じゃないかと確かめる始末でした。
そんな僅か一年半で、博打の儲け五十両を元手に、今では奉公人二十人、『白波坂のお大尽』と呼ばれる六郎兵衛夫婦の酒屋兼料亭の店先で、早朝から大事件が起こります。
店の下男、藤助が雨戸を開けて、店先玄関口を掃きに箒を持って出て見れば、其処に、産着を着せられて背には錦に包まれた九寸五分を背負っています。
藤助「旦那様!大変です。店先に、店先に捨て子ダス。」
六郎兵衛「何ぃ〜、直ぐに庄屋様の所に知らせなさい。取り敢えず、商売の邪魔に成らぬ様に家の奥に連れて行け!ッたく大迷惑だなぁ〜。」
藤助「旦那様、そったら事、謂うでぇねぇ〜よ。見るからに品の有る顔をしとる稚児ダス。背中には短い刀を持って勇しく見えなさる。」
六郎兵衛「うちは半年前に、お雪を養女に貰って女房と相談して、川越の武家屋敷に行儀見習いに出した所だ。お雪に婿を取らせて店を継がせる算段をするのに、捨て子とは…。
捨て子は庄屋に面倒見て貰いたいもんだ。兎に角、女房のお澤を呼んで来て呉れ!藤助。庄屋が来るまで、あの捨て子の面倒を見る様に伝えて呉ろ!頼んだぞ、藤助。」
そう謂うと、六郎兵衛は如何にも捨て子が災難の様に感じている様子で、世話は女房のお澤に押し付けて、その行く末は庄屋に面倒を見させる積もりで噺を進める気でおります。
庄屋「捨て子を拾ったそうだな?六郎兵衛、して、お前が育てるのか?」
六郎兵衛「馬鹿を謂わんで呉れ。店の前に捨てられて居たから商いの邪魔なんで、仕方なく奥に引き取り保護したダケだ。宜い迷惑なんだ庄屋ドン。」
庄屋「そうは謂うが、六郎兵衛!お前さんの店の前に捨てられた稚児だ。捨てた親は白波坂で一番の大尽、お前さんの酒店に捨て子を託したのは明白だ!」
六郎兵衛「庄屋さん、こう謂う時こそ、町役人のお前さんが責任を持って面倒を見るのが國の仕組みだろう。俺はただの町人だ!」
庄屋「馬鹿を謂うなぁ。こんな時ダケ町役だとかと祭り上げて、貴様の方が大金持ちではないかぁ。」
六郎兵衛「厭だ!捨て子など、儂が面倒見る義務など無い。庄屋さん!アンタの仕事だろう?捨て子の面倒は。」
庄屋「馬鹿かはお前だ。二年前に勝手に白波坂に現れて、勝手に商売を始めた癖に!捨て子の一人も面倒みない因業をするなら、
其れならば、庄屋の俺にも考えがあるぞ!町役五人組から、貴様を徹底的に村八分にするぞ。そうなると便所の肥汲みから奉公人の世話まで、
明日から全部自分一人でやる事になるし、料亭の材料の仕入れも町内では賄えなくなるが、本当に其れで構わないか?六郎兵衛。」
六郎兵衛「イヤ、庄屋ドン。其れは困る、村八分にされたら白波坂で商いは出来ぬ。」
庄屋「其れなら捨て子は、六郎兵衛!お前さんが面倒見るなぁ?!」
六郎兵衛「判ったよ、捨て子面倒は儂が見るよ。ッたく、泣く子と地頭には勝てねぇ〜やぁ。」
こうして、六郎兵衛は店の前に捨てられた、朝敵、武蔵権頭興世の倅、朧丸を偶然にも、そうとは全く知らず引き受けて育てる事と相成ります。
そして、是が成長の後に天下の大泥棒の一人、『藤原保輔/通称・袴垂保輔』と成る訳で、まだ此の段階では、酒屋兼料亭のオヤジに拾われた、ただの捨て子で御座います。
さて拾われた捨て子の朧丸。書付が御座いましたが、運悪くか?運良くか?六郎兵衛夫婦は無筆で御座いますから、そんな書付には一切頓着せず、此の子には彌助と謂う名前を付けます。
彌助は愛嬌の有る元気な子供で、六歳からの手習算盤を真面目に受け入れますが、妙に狡賢い餓鬼に育ちます。そして既に六歳の頃から手癖が悪く家内の銭を掠め取る癖が御座います。
時に是が六郎兵衛に見付かると、元極道の博徒ですから、さぁ〜大変な折檻に及び六つ、七つの彌助は身体中が痣に成るのですが、夫婦のバランスなのか?女房のお澤が是を庇うのです。
だから、彌助は全く六郎兵衛には懐きませんが、義母のお澤には宜く懐き甘えてばかり居るので御座います。
そんな彌助が六郎兵衛夫婦に拾われて十年が過ぎた頃、彌助は十三、先に養女に貰われたお雪は十六に成り、川越の奉公先からお雪は白波坂の店に戻されます。
と、申しますのも、十年前は商売仇も無く、六郎兵衛の酒屋「白波亭」の一人勝ち状態でしたが、二軒、三軒と商売仇が増えて、今では熊谷宿に似た様な店が二十七、八軒は並び、
完全に過当競争の時代へと突入致しまして、奉公人を雇うのも最低限に致しまして、労働力として給金の発生しないお雪を、川越から呼び戻す事にしたと、そう謂う訳で御座います。
さぁ、十三歳の彌助。どんどん家が貧乏になりつゝ有り、元々博徒の父六郎兵衛に商才などかけらも無いと見切る狡賢い彌助は、此の家、此の田舎を出てゝ京の都へ行きたい!
そう漠然と思い始めまして、其の為には銭がいつか必要に成ると考えて、少しずつ家の金を盗んで臍クリを貯め始めます。ただし、直接銭を盗むと六郎兵衛にバレるので、
此の頃から彌助は知能犯化しておりまして、丼勘定で六郎兵衛が仕入れている、酒、米、醤油、塩などを盗み、商売仇の他店に横流しゝて金銭を手に入れる様になるのです。
更に、時は流れて五年の歳月で御座います。彌助は十八と愈々、六郎兵衛が営む「白波亭」は火の車。明日の仕入れにも困るどころか、生活するのに家の物を売らないと成立たず、
奉公人どころか下男、下女すら置けないので、遂に、六郎兵衛、お澤、お雪、彌助の四人暮らしで、料亭は一膳飯屋に降格し、水で薄め尽くした酒の様な水を売る酒屋と相成ります。
そんな或夜、家だけは無駄に大きい六郎兵衛の屋敷。夏は風通しの良い部屋に集まり蚊帳を吊り、冬は隙間風が来ない奥の中央に集まり暖を取ります。
此の日も、暖房節約で囲炉裏の傍に集まり暮らす四人。食事も済み灯油も勿体無いので早々に床には這入りますが…そう簡単に眠れるもんじゃ有りません。
彌助も寝酒など飲めない貧乏ですから、眠気すら感じれず薄い布団に包まり、意味なく寝息を態と立て時には狸寝入の定番鼾を立てながら、何かボソボソ話す両親に聴き耳を立てゝいた。
お澤「どうするんだいお前さん!もう、家中にお金に替えられる様な物が無いよ。」
六郎兵衛「判っている。併し、本当に何も無いのか?火鉢とかアンカみたいな贅沢品は残ってないのか?!」
お澤「有りません。布団も基本掛け布団以外無くした位ですから…。」
六郎兵衛「嗚呼、左様かぁ〜。」
と、謂った六郎兵衛が天を仰いだ時に、天井の梁からブラ下がる錦の袋に包まれた短刀を見て思い出しました。
六郎兵衛「有ったぞ!お澤。まだ、金目の物が家に残って居た。」
お澤「何が在るんだよ!アンタ。」
六郎兵衛「錦の袋に這入った、彌助が捨て子だった時に持って来た、匕首が在るじゃないか?!」
お澤「アレはダメだよ。彌助の親が彌助に託した守刀じゃないか?あんな大切な物を盗むとバチが当たるよ?!」
六郎兵衛「バチが当たっても、今の暮らしより悪く成る心配は無いさぁ。」
お澤「そりゃまぁ〜、そうだけど。」
六郎兵衛「其れにあの匕首は只物じゃないぞ!金五匁、イヤ!十匁か十五匁位の価値は必ず有る。背に腹は替えられんから、兎に角、売った先さえ、確実にして於けば後から取り戻せるさぁ。」
お澤「そうかい?お前さん。」
六郎兵衛「嗚呼、俺に任せて於け!金十五匁以上にして、店の商売を立て直して、彌助には立派な匕首を買って返すから。」
と、そんな夫婦の悪い算段が纏まりますが、全て狸寝入りの彌助には筒抜けとなり彌助は大変な事を聴いて仕舞い、自身が捨て子だと此の時初めて知るので御座います。
そして此の儘、うかうかしていると父に大切な実の親から頂戴した守刀の匕首を売り飛ばされると思いますから、どうにかして父が買い手を探す前に取り戻す思案を致します。
さぁ、考えてはみたものの、中々、取り戻す妙案など早々簡単に浮かぶ筈もなく、時は五日、十日と過ぎて行きます。併し一方で守刀の良い買い手も簡単には見つからず時は半月程経ちます。
そして、漸く彌助には一つの作戦と謂うかぁ、妙案を思い付きまして、其の機会を伺う為に、父六郎兵衛に対しては気取られぬ様に態と愚かしいふりをして日頃から油断させます。
彌助「オヤジ様、近頃はめっきり暇になったが、まだ、此の商売を続ける積もりだか?」
六郎兵衛「暇に成ったのは、売る酒も食い物も仕入れに掛ける銭が無いからだ!だから、色々考えてはおるが…良い思案が浮かばない。
せめて、彌助!お前さんが山賤にでも成って銭を家に入れて呉れたなら、昔みたく良い酒を仕入れて商いが又出来るんだけんど…。」
彌助「もう少し大きく成ったら、山賤どころじゃねぇ〜、俺がバリバリ働いて銭をザックザック持って帰るから安心しねぇ〜。」
六郎兵衛「彌助、お前はもう十八だろう?十分に大きかんべぇ?!」
彌助「イヤぁ〜、二十歳過ぎねば、大きくない。」
六郎兵衛「そんな事を謂う前に、大きく無いなら、店の酒をくすねて呑むな!ボケ。」
彌助「些か呑むさぁ、男だものぉ〜。」
六郎兵衛「商売物だぁ、些かも糞もなかんべぇ。」
彌助「父さん、細かい事を心配するな!二十歳に成ったら俺が一山当てゝ女房貰って楽させてやるから、大舟に乗った気で居てケロ。」
六郎兵衛「泰平楽を謂うな!お前の甲斐性で嫁さんなど貰える訳がねぇ〜。」
つづく