さて、唐土より帰朝した安倍播磨守晴明は、気候風土や食物飲水が、城荊山と京の都では違い過ぎる為に、体調を崩して弱っておりました。
そんな好機を大納言藤原基方と陰陽頭の蘆屋道萬清太の悪党二人組が見逃すはずは無く、そんな折に彼らの目に止まった或る人物が御座います。
其は東山の如意ヶ嶽に、『貫空庵』謂う庵を構えて其処に住み、自らを『酔巖(すいがん)』と名乗る、五十五、六歳の悪僧で御座います。
類は友を呼ぶと申す通りで、此の酔巖は直ぐに大納言基方の屋敷に入り浸る様になり、道萬とも打ち解けて懇意を結ぶ様になります。そんな或日、基方と道萬が酒宴を催している所へ、
取次の書生が『酔巖先生がお見えに成りました。』と知らせて参ります。酔巖なれば構わぬからと、宴席に通す様に基方が申し伝えると、
現れた酔巖は何処かで既に大酒を喰らった様子で、強かに酔っ払っておりまして、千鳥足に真っ赤な顔をして宴席へと加わって参ります。
道萬「おう、酔巖ではないかぁ、ささぁ、駆け付け三杯と申す。盃を取りなさい。」
酔巖「之れは道萬清太殿ではあーりませんかぁ。お気の毒な御両人が傷を舐め合って居られますなぁ。人間は苦労が顔に現れまするモノ。
身体は壮健と雖も大望叶わぬ日々が続かば、皺が増え醜態と相成る生き物に御座る。本日は御両人の相談相手を務めさせて頂きまする。」
道萬「何んの噺だ!我らの大望とは如何に?」
酔巖「隠さずとも、此の酔巖、貴方達御両人の心位は容易に読み解きまする。幸い今、晴明は病中なれば拙者が一つ祈って進ぜましょう。
若し拙者の祈りが通じて、安倍晴明が黄泉の國へと旅立つ様ならば、其れ相応のご褒美を大納言様から賜りたく、宜しくお願い致します。」
道萬「流石、貫空庵の酔巖だ。察しが良い、此の儀は前々より、大納言様とも今評議中で御座る。」
酔巖「評議中などゝ悠長なぁ、晴明を殺(ヤ)るなら今しか御座いませんよ。唐土で伯道仙人と申す賢者より易道殿社神道の秘術奥義を授かり、
之を極め日の本へ戻ったからは、最早健やかなれば、安倍晴明は無敵の陰陽師に御座いまする。依って今、正に病に臥している此の機会に、
拙者、酔巖の魔導の秘術にて、晴明を呪いに掛けて一命を縮めてお見せ致しまする。大納言様、道萬清太殿、此の酔巖に全てお任せ下さい。」
基方「おぉ、其れは忝い。」
道萬「某からもお頼み申す。」
酔巖「慶んでお引受け致す代わりに、ご褒美を前渡しで頂きたく、宜しくお願い致します。」
基方「其れで、どの程度の褒美が欲しいのだ?酔巖。」
酔巖「黄金を二百五十匁程頂きたい。」
基方「田分けた事を申すなぁ。其の様な量の黄金など持ち合わせていると思うてか?幾ら何でも高過ぎる。」
酔巖「高いと謂うて払わぬならば、其れでも構わぬ。其の時は此の噺を一条堀川の安倍晴明屋敷へ行ってブチ撒けるだけだ。」
基方「馬鹿な真似は止めなさい!左様な事をしても、貴様に一文の得も無いぞ。適正な額ならば褒美、喜んで出してやるぞ、酔巖。」
酔巖「判り申した。ならば、黄金百匁を手付金として頂きたい。残りは成功報酬、後金と謂う事にしてやる。其れでどうじゃぁ?!」
基方「ヨシ、其れならば黄金百匁を取り敢えず払おう。」
と、此の様な遣り取りで悪党三人組は酒を酌み交わしながら深夜まで密談を行った。そして酔巖は東山如意ヶ嶽の貫空庵へと立ち帰った。
酔巖は直ぐに仕事に取り掛かった。庵の屋根裏に在る祈祷所に独り籠り魔導の秘術を駆使した。病中の安倍播磨守晴明を呪い殺す為に。
この世に存在する物は勿論、魔界からも邪悪な魑魅魍魎を酔巖は召喚し集め、其れを次から次へと四六時中、晴明の元へと遣わすのだ!!
其は直ぐに晴明に通じた。なんと!遂に晴明は自力では歩けない程弱り切って仕舞い、最早口を利くのも苦痛に成り、目を開けて居る事も困難だ。
さぁ此の事態に家人友人の心中は只成らず、殊に息子の吉平はじっとして居られるはずも無く、『何卒全治なさしめん!』と祈り、
神佛に縋り祝詞を上げ奉り、祈祷も致しますが中々通じる気配無く、其れでも吉平は晴明の側を離れず昼夜を問わず献身的に介護します。
そして迎えた六月二十二日、未だ夜が開けぬ七ツ寅刻。寝切り瀕死の安倍晴明が突如、目を大きく見開、ガッパと布団を跳ね除け起き上がります。
晴明「吉平!吉平!予を背負いて、今すぐ天文臺に案内を致せ。父を天文臺に連れて行くのじゃぁ。」
吉平「天文臺にですか?!」
晴明「左様天文臺へじゃぁ。今に天下を揺るがす不吉が起こる。其れを食い止めねば成らぬ。出来るは我のみ。天文臺へ参るぞ、吉平。」
陰陽師・安倍晴明の一条堀川の屋敷には天文臺が屋根の上に御座いまして、知らぬ者が見ますれば、只の物干し臺にもさも似たりですが、
晴明は此の天文臺より星や月、そして太陽の動向を観察して、暦を読み解き、或時は数学的な補足補完を成して日食月食を読み当てます。
其の天文臺へ、突然連れて行けと晴明が謂出す訳ですから、倅の吉平は事の重大さを感じ取り、晴明を背負い三人の家来を連れて天文臺へと登ります。
其処へ着くと晴明、頻りに東天を凝視し続け、雲気の流れを注意深く読むので御座います。其内、東天俄に白み始めるといと不思議な事に、
日輪が双つ並んで顔を出すので御座います。まぁ現代科学、天文学を知る方に左様な都市伝説にも如かずと謂われる様な全くの御伽草子は、
流石に講釈師の見て来た様な嘘の極み!併し、『双子の日輪伝説』は古事記日本書紀にも語られている伝説で朝廷を藤原氏が支えた時代は、
然程、突飛な出来事に在らず、人々は真剣に是を論じ向かい合う事象で御座いまして、吉凶で申すならば紛れもない大凶に御座いまする。」
晴明「吉平、日輪の双つ並ぶ凶変を、秘術魔導を持って引き起す邪悪な輩が大きな陰謀を企んでおる。某の身体が容易なれば直ちに参内し、
陛下、並びに関白殿下に言上仕り、天下の一大事を食い止め申すが…此の身体では不可能だ。然らば吉平、予の申す事を認め代参して呉れ!」
吉平「ハイ、何んと認めましょう?」
晴明「では、此の様に認めて呉れ。」
吉平は紙と硯箱を取り、晴明の一言一句を逃さぬ様に認めるのだった。『今暁の卯刻、東方に当たって雲起こり其の内に赤気を含み、
東南の空を飛行する事夥しく、其の内、日輪昇るも双つにして並びて打ち上る。是正しく天の凶変を意味し賜う物也。』と認めた吉平に、
晴明「夢々油断してはならぬと、関白殿下へは晴明が申しておったと、お伝え致せ。追々、必要ならば勘文にて言上仕り奉りますとなぁ。」
吉平「委細承知致しました。」
そう謂うと、安倍晴明を三人の家来に託し、自らは天文臺より飛び降り急ぎ参内致しまして、時の関白藤原実頼公に晴明の勘文を渡します。
関白太政大臣藤原実頼は、先の関白忠平公の長男で、村上天皇の時に左大臣として右大臣の舎弟師輔と共に朝政を指導し天暦の治を支えた。
実頼は有職故実に詳しく、父忠平の教命を受け朝廷儀礼の一つである小野宮流を形成した。猶実頼の流派が小野宮流と呼ばれる所以は彼の屋敷の名によるらしい。
雅楽、和歌、書画など実頼は多才で趣味も豊富である上に、厳格且つ常識的性格で人の模範として惹かれる程であった。一方で心の奥底が深く気難しい性格であったという評価もある。
又実頼の彼らしいエピソードが古事記に書れていて、平将門追討の将軍であった藤原忠文は、東国到着以前に乱が決着した為、
そのまま帰京した。その後の論功行賞について『賞の疑はしきは許し給え!』と主張する舎弟師輔に対し、実頼は『疑はしきことをば行はざれ』
と、主張し通して恩賞を出さなかったので、忠文の怨みをかった。其の為忠文の怨霊に依って実頼の子孫が繁栄しなかったと謂われいます。
一方、当然、太陽が突然二ツ昇るなどゝ謂う天文学的超異変に、元陰陽頭天文博士の蘆屋道萬清太が、気付かない訳が御座いません。
晴明同様、我が家の天文臺に登り、頻りに観察致して居ります道萬、是は間違いなく酔巖が貫空庵に篭り晴明を呪った結果だと確信します。
其処へ偶々、大納言基方がやって参りますから、是は好都合だと謂って天文臺から急ぎ降りて来る蘆屋道萬清太、早速基方に相談します。
道萬「基方卿宜くお越し下さいました。実は、愈々酔巖の妖術が利いたらしく、我々には大変望ましい現象が起こりました。さてこの上は、
関白殿下に勘文を送じて、我が天文学の優れたる所以を御示し致して、晴明に代わり此の道萬を再び陰陽頭天文博士に任じられる様働き掛けまする。」
基方「実頼公に勘文を出すとなぁ?!はて、日輪が双子で揃うたるは、吉兆か?其れとも凶変なるや?」
道萬「左様、中々興味深き考えへ…。」
基方「ハぁ?!」
道萬「手前は重い火傷を負った際に、一度、職を辞しておりますから、関白殿下への勘文などお出し出来る身分では御座いません。
だから、此の度の日輪が双つ現れし現象に関して元天文博士としての意見を勘文へと認め、大納言様に託して関白殿下に渡して頂きたいのです。」
基方「左様かぁ、相判った。」
道萬「大納言様、上手く行かば之即ち、打倒晴明の一つの突破口と成るやも知れません。酔巖に謂われ気付きました。一旦思い込んだる事、
年老いたと雖も、未だ志を翻さず、已に今日迄達ぜずとも、我らが大事を妨げる諸悪の根源、
安倍播磨守晴明を倒さんと、心を込めて居ります折柄、斯様な事の起きましたるを好機と成し、道萬事を成就させる所存に御座います。」
基方「オゥ、頼もしいぞ、道萬。」
道萬「さて、大納言様。酔巖は今、東山如意ヶ嶽の貫空庵にて魔導の術を用いて安倍晴明を呪い、晴明は病と酔巖の妖術にて瀕死の状態、
自由に身体も動かせず、床に着き寝た切りとの事なれば、誠に都合の良い事態に御座います。愈々近日には、我々の天下が到来致します。」
そう蘆屋道萬清太は宣言すると、天文臺より降りて書斎へと向かいまして紙と硯箱を取ると此方も、勢い宜くサラサラと勘文を認めまする。
サァ、此の蘆屋道萬清太が認めた勘文を持ち、大納言藤原基方は直ぐに参内成し、関白実頼公に謁見、此の道萬よりの勘文が差し出された。
お受取りの関白殿下は先程安倍播磨守晴明より勘文が届いたばかりなのに、又蘆屋道萬清太より勘文が届くとは?是を開き如何に?と読み解きます。
『双つの日輪並び出ずるは國家繁昌泰平の吉兆なり如何と思し召して、帝今尚御即位有って以来、万民の其の恩澤を蒙る事果木の春に逢いたるが如く、
四夷八蛮は自ずから治り、外敵異國蛮人に至るまで、君の御徳深く潤い、天其の吉瑞を現し、日輪双つ揃賜う、抑も日陽は聖主の象徴なり、
其の御徳海内に溢れんばかり也。今や日輪餘光を放ち、仮に日の象を見せ賜う、是陽徳の充る所、忠臣道萬清太、今朝此の吉瑞を見て、
快然とし病を免れ、忽ち泰平の徳化に浴す、是正に陽徳の万民を助く前兆ならんや!謹んで捧げ奉る勘文如件(くだんのごとし)』
さぁ、此の蘆屋道萬清太の勘文に目を通された、関白太政大臣藤原実頼公、暫し沈黙なされて考え込んで居ましたが、漸く口を開き、
実頼「基方、道萬も天文博士なれば、今一方、晴明も天文博士也。然らば先刻、晴明よりの勘文を倅吉平が届け来し物には『凶変』と有り、
一方で道萬よりの勘文として汝基方が届け来た物はと見てやれば『吉兆』と有る。之れや如何に?斯くの如し白黒真逆相違の所以や如何に、
之は間違いなく、何れかゝ是にして又何れかゞ非也。併し、麿の識学にて裁定を下すには能わず、さて大納言基方卿、汝ならば如何致す?」
さぁ、まさか先に晴明が勘文を関白実頼公に渡して居て、又天文博士としての見解が道萬清太とは真逆だったと、関白殿下から教えられる。
少し考え沈黙する基方卿。何故二人の見解が真逆なのか?道萬の真意は何んだ?真意は理解出来ないが関白殿下の問には返信をしたが…。
基方「左様に御座いますなぁ〜、最早晴明が勘文を捧げ奉りまして御座ったかぁ………。」
実頼「先刻、御所大内の門が開くや否や、一子吉平が勘文持参し参った。併し之は由々しき問題じゃぁ。二人の天文博士の謂い分が真逆だ!
絶対に此の儘、捨て置く訳には参らぬ。識者を集めて二つの勘文の是非をハッキリさせぬと、朝廷の政が立ち行かぬ事態に陥る虞有りだ。」
さて、関白実頼公の指図により、百官の中から天文学に関する識者が、御所大内の鳳凰殿に集められた。そして二通の勘文が差し出し人を伏せて公開されたが、
議論は分かれた。数多の文献、学説、資料を示して皆、熱弁を振るうが諸説マチマチで、根拠に乏しく説得力が無い。結局、結論は出ず吉凶は定まらなかった。
翌日、更に翌々日も議論は成されたが、落とし所の無い議論は更に是非を決めるには至らず不毛な議論に終わった。結局、関白殿下の思し召で晴明と道萬に対し、
三日間の議論を踏まえて、議論から生まれた疑問点に関する問題集が編纂され、此の問題を安倍晴明と蘆屋道萬清太に問答させる事に決まるのである。
之は本来ならば、『日輪双子問答』を御所禁中に両人共に集めて実施する所ではあるが、安倍晴明が重病ならばと謂う事で、関白実頼公が編み出した苦肉の策である。
こうして、日輪双子問答集を持って左大辯重信卿と謂う方は安倍播磨守晴明を訪ね、一方右大辯晴信卿と謂う方が蘆屋道萬清太を訪ねる事に相成ります。
一条堀川に在る安倍晴明屋敷へと参った左大辯重信卿、迎えに出たのは倅の吉平で、奥の晴明が養生中の寝室へと通されます。
重信「先日六月二十二日の早朝、二通の勘文が関白殿下宛に届けられたので御座いますが、何と其れは二通共に『日輪双つ並びし件』で御座いまして、
貴殿、播磨守殿は『凶変の兆候也』と不吉が起こる始まりと助言なさり、関白殿下にも用心なさるに越した事はないと警告なされましたが、
もう一通を届け出た蘆屋道萬清太殿は、之を『此の上なき天下泰平の吉兆』と吉端を現して宜しい前触れと関白殿下に進言なさいました。
さぁ関白実頼公、お二人から同日に勘文を頂戴致し、片や『凶変』片や『吉兆』ですから、是非の白黒附ける様にと御指図を給わりまして、
私重信と、もう一方は晴信卿が座長と相成り、日輪双つ並びし件は、吉か凶かの議論を三日間戦わせたのですが、残念ながら結論に至らず。
そこで関白殿下より、三日間の議論を総括致して問答集を作成し、之に対し両人の回答を吟味して、吉凶を白黒附ける運びと相成りました。
其れでは、之より問答を開始致します。某が致します質問に御回答願います。但し口頭での回答が無理ならば、書面による後日の回答でも構いません。」
晴明「重信卿、関白殿下の御指図なれば、病中の晴明なれど死を覚悟致して参内致し、殿下の御前にて問答致します。蘆屋道萬清太殿が相手なれば尚の事。」
重信「誠で御座るか?成れば早い方が宜しい。明日、八ツ未刻に参内下され、宜しいかな?」
晴明「委細承知致します。吉平、明日御所大内にて日輪双子問答と相決まった。宜しいなぁ?!」
吉平「ハイ、父上、畏まりました。」
重信「では、関白殿下に問答の件は某がお伝え致します。」
一方、同じ様に右大辯晴信卿が一条戻橋の蘆屋道萬清太を訪ねまして、同じ様に関白実頼公の使者として罷り越した事を説明していると、
其処へ更なる使者が訪れて、安倍晴明よりの提案で、明日未刻に直接関白の御前にて『日輪双子問答』を開催したい旨の提案を受けます。
さぁ、蘆屋道萬清太は驚きます。ただでさえ、安倍晴明が自分より先に勘文を関白殿下に提出していた事実に驚いているのに、第三者による聴き取り問答モドキの筈が…御前生問答とは!
道萬自身は生問答は三十五年前の大汚点『祈祷問答』の、妙で負けた嫌な思い出が蘇ります。併し、まさか逃げる訳にも行かないので…、
道萬は『畏まりました』と問答を受ける以外の返事は無く、そこで大納言藤原基方と怪僧酔巖を一条戻橋の屋敷へ、急遽招いての作戦会議と相成ります。
基方「聴いたぞ!道萬、如何に致したもんかのう。晴明の奴は日輪双子を大凶也と謂う勘文を捧げ、又其許(そこもと)は吉端也と謂い、
此の儀に白黒附けんと満日禁中関白御前にて問答を致す事に定まったが、今度こそ!憎っくき晴明に打ち勝つ事出来るんじゃろうなぁ〜。」
道萬「左様、どうも世の中に恐ろしきは数あれど何より恐ろしきは播磨守晴明。今日に至っては某、唐土帰りの彼には迚も力及びません。」
基方「何んて弱気な事を…問答の主役の其許が、尻込みして居ては始まらぬ。左様に臆していて如何致す。ところで日輪双子は吉なのか?」
道萬「いいえ、凶も凶。晴明が申す通り大凶です。」
基方「然らば、何故凶だと知りながら、敢えて吉などゝ勘文に認め捧げた?!」
道萬「其れは晴明の病が重く天文臺などには上がる事も出来ず、左れば勘文など捧げとは思いませんから、態と凶を吉と嘘を謂って於いて、
実は其の間に一つの陰謀を用いる算段でしたが、其れを察知されたのか?!晴明が某より先に勘文を捧げた為に今の事態に相成りました。
こうなったら此の問答で晴明を倒して終わないと我々の生きる道は有りません。其の為には此の機を逃しては二度と我に勝機は有りません。
唐土帰りの病で弱った所に酔巖の呪いを受けた事で、ほぼ瀕死で寝た切りと聴く。つまり我等の知る爽やかに弁舌を振るう晴明ではない。
依って某が捲し立てる様に質問責めに致せば、晴明など恐るゝに足りず、喩え暴論に成れども、構わずドンドン切り込み、
晴明が答えるを妨げる位の勢いにて、口を挟ませず、晴明の衰えに付け込み、どんな質問でも構わず問い掛ける。併し茲で一つの脅威が御座る。」
基方「何が脅威なのだ?道萬。」
道萬「もう、お忘れですか?十年前に三葉五郎利貞を園田藤九郎頼長だと見破った、物を謂う箱の事を!」
基方「嗚呼、あの朱塗の箱!!」
道萬「ハイ、邪正明断の箱に御座います。」
基方「確かに、あの箱を用いられては、問答など致さば勝ち目は無いぞ!道萬。」
道萬「ハイ、由えに邪正明断の箱を盗み出し、晴明が使えぬ様に致してから問答に望む必要が御座いまする。又、箱の中には之までに、
安倍播磨守晴明が唐土にて会得した、易道殿社神道天文の秘術奥義を書き写した写本巻物も納められて、晴明の屋敷にある石造りの倉庫、
『大元宮』と書かれた額が入口に掲げられた石の倉に納められている事までは、ちゃんと突き止めてあるが盗み出すと成ると容易ではない。
恐らくは、晴明と金平の親子も賊が侵入し盗まれる事を虞れて、あの箱と秘傳の巻物はあの石造りの倉へ厳重に保管していると推察される。
其れでも、何んとかして其の箱と秘傳の巻物を今夜中に盗み出す必要が有るのだが…そんな芸当が出来る優秀な忍の者、草が思い当たらぬ。」
酔巖「御心配ご無用だ、其の邪正明断の箱と中の秘傳書を盗む役目、此の酔巖が引き受けよう。」
道萬「本当か?酔巖、貴様が邪正明断の箱を盗んで呉れると申すのか?!」
酔巖「俺は其の箱を見た事は無いが、噂には聴いた事があるし、大元宮と謂う石造りの倉に、二重三重の警備で厳重に守られているとも聴いた事がある。」
道萬「そんな厳重に警備されている邪正明断の箱を本当にお前は盗めるのか?」
基方「そうだぞ、安易に忍込んで失敗して召し捕られて、我々の名前を出すなよ、酔巖。」
酔巖「田分けた事を…俺が妖術を使えば、安倍晴明屋敷の、大元宮から邪正明断の箱を盗み出すなど、朝飯前、赤児の手を捻るが如しだ。
おい、必ず邪正明断の箱は盗み出してやる。その代わりただで盗んで来てやる程儂はお人好しじゃない。俺を偉い官位に取立てゝ呉れ。」
基方「判った。酔巖、邪正明断の箱を盗んで来たならば、禁中へ参内が叶うに充分足りる位の官位は約束致す。」
酔巖「之は有り難い、必ずや今宵、邪正明断の箱を盗んで帰りまする。」
そんな悪党三人組の間で新しい約束が成立致し、安倍晴明屋敷の大元宮より、貫空庵酔巖が邪正明断の箱を盗む事と相成りました。
更に三人は何やら密談を暫く続けながら、まだ酒を酌み交わし相変わらずの長ッ尻なお酒でしたが、漸く四ツ亥刻にお開きと相成ります。
一方、そんな悪巧みが持たれて、邪正明断の箱が狙われているとは露知らず、安倍晴明は一条堀川の屋敷に居りまして、明日の問答に備えていたのですが、
早朝、勘文を急ぐあまり天文臺から下りる梯子から落ちていた。腰を強かに打ったが其の打ったばかりの時には大して痛みは無かったが、
一刻程過ぎた後から痛みが酷くなり、二刻半も経つと熱まで出て、是は明日の問答どころではないと、倅吉平を始め家人皆んなが心配した。
今の状態では肝心の口が利かないから問答どころではなく、必殺技の邪正明断の箱を使おうにも、呪文も唱えられなくては是も使えない。
勿論、医師と薬師は付きっ切りで治療をしている所へ、見舞いの来客が御座います。大納言藤原友信卿と謂う至って天文がお好きな御仁で、
播磨守晴明の正式な弟子に迎えられています。今日は大納言の正装烏帽子ではなく、見舞いと謂う事も有り、極普段着にての訪問です。
さて、時刻は五ツ戌刻、もうすっかり夜で御座います。一条堀川晴明屋敷の周囲からは蛙の声が聴こえる中、倅吉平が友信卿を出迎えます。
友信「師は明日あの蘆屋道萬清太殿と、実頼公の御前にて問答勝負をなさると聴き及び、ご病気の具合が気になり、居ても立ってもおられず罷り越しまして御座いまする。」
吉平「其の儀なれば、此の吉平も大変心配しておりますが、只今の様子では正直、明日禁中へ参内致し、道萬清太殿と問答を闘わす事は、迚も無理かと存じ奉りまする。」
友信「ウーン、余程悪い様子じゃぁなぁ〜。」
吉平「殆ど、会話も出来ぬ状態です。」
友信「成る程、然らば問答どころでは無いご様子。併し、折角お見舞いに参ったのだから、お顔だけは拝見させて下さい、吉平殿。」
そう友信卿が仰るので、吉平は安倍晴明が治療し床に着いている寝所へと彼一人を案内し、お伴の家来は其の儘、客間で待つ様に伝えた。
一方寝所の晴明はと見てやれば、息は然程荒くは無いが、弟子の見舞いには気付かぬ様子なので、倅の吉平が耳元で呟いて来客を知らせた。
吉平「大納言友信卿がお見舞いに参られました。」
そう友信卿の訪問を吉平は父安倍晴明に伝えましたが、晴明は『ウーン、ウーン』と唸り声を上げるばかりで御座います。
友信「おッ師匠様、お気を確かにお持ち下さる様に。友信、師の病を憂いて罷り出でました。」
そう友信卿の掛けた言葉に反応し、晴明は其れまで唸るばかりだったのに、突然布団を跳ね退けて起き上り其の場で正座して一礼しました。
安倍播磨守晴明と謂う人物を垣間見た気がする場面に、弟子である友信卿が少し恐縮します。確かに師であり年齢も上の晴明ながら、
官位職は大納言友信卿の方が上なので、喩え病中にて声も発せられぬ身なれど、礼を尽くして対応する。そんな性格の人物こそが安倍晴明なのです。
晴明「態々斯様な見苦しい所へ忝い。今宵は誠に千龝の思い。明日は禁中に参内致し之まで関わりを敢えて避けて来た蘆屋道萬清太と、
完全決着を附けて奴に引導を渡してやる所存です。又奴と其の後ろ盾となり陰謀巡らす大納言基方共々、天下の憂いを取り除く心底也。」
友信「其の言葉を聴いて友信、安堵致しました。コレ!吉平、もう案じる事は無いぞ。師は未だ勇気に満ち溢れておられる。口も利けぬなど噂に過ぎぬ。之ならば明日の問答は師匠の勝ち間違いない。」
吉平「其の様に仰せは嬉しい限りに御座いますが、倅の私としては父は未だ病中成れば、跡七日、せめて五日は問答を日延べして貰いとう御座いまする。」
と、孝行心から吉平は、父晴明の健康を気遣い傍で見ている限り、迚も明日の問答は難しく命を失う危険を感じ、本音を吐露致しますがコレを聴いた晴明は怒りを滲ませ吉平を睨みます。
晴明「田分けた事を申すでない、吉平!貴様、其れでも此の父の子かぁ?!問答の日を悪戯に先延ばしにする事が良策と思うてか?!
父の病が劇的に五日や七日で、突如平癒なると真剣に思うのか?人は命を賭しても、闘わねばならん時が在る。其れが正に今なのだ。
判らぬか?貴様には、日延べすればするだけ、蘆屋道萬清太や大納言基方のような悪党が蔓延る世の中を放置するだけで、陛下や万民にとって宜き事は何一つ無いのだぞ!判るか?
延期を願うなど言語道断!其れ即ち彼等に悪計を巡らす猶予を与えて朝廷と万民を苦しめるだけ也。二度と左様な願いは口に致すな!」
さぁ、此の安倍晴明の言葉を聴いた友信卿は、大いに安堵致し是ならば晴明が明日の禁中での関白実頼公の御前問答で、道萬を下すと確信する。
併し、彼等は蘆屋道萬清太と大納言藤原基方に、怪僧酔巖が味方に着いていて、晴明の秘密兵器『邪正明断の箱』を盗む計画が在る事を知りません。
さて、瀕死の安倍播磨守晴明に、大切な『邪正明断の箱』を守り通せるのか?愈々、晴明と道萬の雌雄を決す三度目の対決は、次回お送り致します。
つづく