天慶元年初夏を過ぎ暑く蒸す京都の梅雨を迎えようとして居ります中、三条坊門の好古卿屋敷の庭に畳二畳並べた腹斬り場。死装束の安倍童子、尾花丸と好古卿の二人。
遠寺の鐘が伝える刻は寅の上刻。好古卿は行燈からの火を大きな唐土の蝋燭を二本灯し、二畳の畳の左右に立て置きます。そして、傍らの童子にゆっくりと語り掛ける。
好古卿「如何に童子、覚悟致せしか?」
尾花丸「既に御所を出る道すがら覚悟致しました。」
好古卿「オウ、左様かぁ。某も心は決まり申しておる。童子、汝を一人死なせは致さん。好古も切腹致す。まさか!其方、津に戻り祖父両親にこの度の不手際を聴かさんお積もりか?」
尾花丸「否。何んで此の後に及び、祖父保憲並びに父保名に対し、彼様な醜態をお聴かせ出来ましょうや!好古卿様と伴に散る覚悟に御座います。」
好古卿「宜く申した童子。では此の畳の上を腹斬り場と致す由え、四方に青竹を立てゝ注連を張り於いて呉れ。二人並んで切腹致さん。」
好古卿、二個の三方に半紙を置き其々に匕首を乗せまして腹斬り場へと運びます。一方尾花丸はと見てやれば好古卿に謂われた通り、注連を畳二畳の四方に張り巡らせます。
好古卿「童子、其方の太刀使いは未熟なれば、腹を斬り損なうと悪戯に苦しむ事になる。由えに某が後で介錯を致す、安心して腹を斬りなさい。」
尾花丸「忝のう存じまする。」
そう謂うと安倍童子、尾花丸は正座したまま、大人がする作法とは異なり三方を尻には敷かずに、左手で取った匕首を右手で鞘を払うと、
三方の上の半紙を匕首の柄前にグルグルと巻き付けてから、左手から右手に是を持ち替えると、腹前の装束を開き腹を押し出します。
そして、意を決した様子で目を閉じると、「ではお願い致します。」と、好古卿に声を掛けてから突き出した腹を斬ろうと致しますが…、
何とした事か金縛りに合った様な塩梅で、匕首を握った手が固まり、腕はどうしても動きません。次第に身体は小刻みに震えて止まりません。
好古卿「如何した?童子。」
思わず尾花丸の異変を背後から見ていた好古卿は振り被った刀を下ろし、童子の前に回って見ると汗を流して大層震えて御座います。
其れでも腹は斬れぬとも匕首を逆手に持ち替えて、喉を突いて自害なさん!と、尾花丸は匕首を持ち替え様と必死に試みますが出来ません。
そうこうしていると、荒れ果てた庭の植木の茂みがガサガサと動く気配を感じていると…庭で青い実を沢山に付けた梅の木が目に這入ります。
まだ、震える身体を何んとか動かすと、尾花丸は其の梅の枝を匕首を使い切口鋭く、矢の如く先の咎った『一木五行の御手槍』を拵えて、是を握ります。
好古卿「童子、如何した?左様な物を拵えて。」
尾花丸「古の頃、まだ太刀も小塚も弓矢も無き頃、人々は此の一木五行で戦ったと申します。何やら力が働き、刃物での自害を許しません。
ならば、敢えて某は匕首を捨てゝ、此の御手槍を用いて我が喉を突いて自害成す所存で御座います。さぁ、イザ参らん!!」
そう謂うと安倍童子、尾花丸は匕首を捨てゝ、自らが拵えた一木五行の御手槍を握って、是で喉を突き自害しようと致しますが、又手が震えて参ります。すると…
暫く待たれよ!!
先程揺れた植木の茂みの中辺りから、声が聞こえて来ます。神か?悪魔か?誰の声だ?我の身体に金縛りを成す妖しい声めぇ!童子が左様に感じ、
自身だけに聴こえる妖しい声めぇ!と考えて居ると、目の前で好古卿が其の妖しい声の行方を探す素振りを致します由え、童子は大いに驚きます。
好古卿「今の声は童子か?『待たれよ!』と叫ぶ声は。」
尾花丸「左様なハズは有りません。手前が其の声に止められて自害出来なくなり申した訳ですから、てっきり、神の声が心で聴こえたのだと思いました。」
好古卿「そうでは無い、私にも確かに聴こえた『待たれよ!!』と。而も声に聴き覚えがある。」
尾花丸「好古卿、此れは我ら二人が死に対して無念を抱えて居る由え、邪念、後悔、未練を生み妄想の創り出す声に他成りません。
其の声に惑わされて、自害を躊躇するなど恥辱の極みと存じまする。さて、此の上は同時に互いを突いて、心中にて自害仕らん。」
好古卿「成る程、心得た!二人同時にあの世へ参らん。」
さぁ、そう謂うと安倍童子、尾花丸と小野参議好古卿が互いを匕首で刺そうとした、次の瞬間でした。
御両名共、今暫くお留まりなさいませ!
御悩平癒の祈祷の秘密について、
私が御指南仕りたく存じまする。
そう謂って入来る人影が御座います。好古卿と尾花丸の前に現れたるは誰あろう、小野参議が家来でご存知、橘ノ野干兵衛忠澄で御座います。
好古卿「何んじゃぁ、忠澄ではないかぁ。なぜ、貴様は主人の最期を邪魔致す。我と童子は帝の御悩平癒の祈祷が届かず、関白殿下よりの沙汰で自害を選んだのだ。
人間と謂うものは死ぬと決めた時は死なねばならぬ。死に損なうは生恥のみ。汝は主人に恥を晒せと申すのか?判ったら潔く我らを死なせい。」
忠澄「だからで御座います。あの祈祷を以って命で償うなど好古卿らしく御座いません、短慮に御座いますぞ。拙者が御指南致します。」
好古卿「田分け!私が関白忠平公に進言致したのだ、童子と道萬の祈祷問答を。其の上で許可頂き、御悩全快平癒の祈祷を行ったが、帝の御悩は安らぐ事無く重いままだ。
私は其の責任を負わねばならん。童子と共に死んで、陛下や関白殿下に詫びねば成らんのだ。だから、之れより我らが死ぬるを見届けて呉れ、忠澄。」
忠澄「小野参議、お殿様。だから拙者が童子に正しい御悩平癒の祈祷を御指南致すと申しておるのです。」
好古卿「だから!何を田分けた事を、貴様、此の三条坊門の屋敷に参り何年になる?十年近く勤めておるが、貴様が祈祷など致す所を某、見た事も聴いた事も無いぞ。」
忠澄「其れは無いはずです、此方へ参りましてからは用いる必要が御座いませんから。安倍童子、尾花丸殿は確かに安倍仲麿公の血縁だけあり不思議な術で童子にしては見事也。
併し、所詮若輩なれば秘術、奥義の域の何たるかを知らず。由えに祈祷の最中に妨害を受けると、悲しいかなぁ之を跳ね返す祈祷の秘術を知らず。」
好古卿「何んだ?其の謂い分は。貴様がどうして童子に其の祈祷の奥義を教える事が出来る。忠澄、貴様は何者だと謂う?!」
忠澄「私は稲荷神の眷属、白狐の霊に御座います。伊勢國津の阿倍野に生まれて、童子が極幼い時に童子の父保名様に命を救われた事が御座います。」
好古卿「稲荷の眷属?白狐の霊って、狸は恩返しすると能く聴き及ぶが、狐は王子も取手も誑かす噺しか聴いた試しがない。併し、その津の阿倍野生まれの貴様は何故、京に居るのだ?!」
忠澄「ハイ、勿論、保名様への恩返しを阿倍野にて考えておりましたが、人間と白狐では生活環境が余りに異なる由え、交わる機会が御座いません。
其処で悪戯に時を無駄にするよりも、保名様は何時の日にか京都へ戻り出世なさると信じ、又其の際は、義に厚く面倒見の宜しい好古卿の元を訪ねられると思いまして、
八年も前に三条坊門の好古卿をお訪ねして、家来となり此の京都の地に留まったのですが…好古卿は間もなく謹慎閉門となり、私の京での生活は波瀾万丈で御座いました。」
好古卿「八年も付き合い家来にまでして置きながら、此の様な事しか謂えず大変恐縮だが、忠澄、お前から白狐の霊だと告白されても俄に信じ難し、童子!汝はどう見る。」
尾花丸「某は信じまする。我、忠澄殿、御身を初めて見た折に、其の性!人間に在らずと悟りしが、その性白狐だったとは!」
忠澄「然らば其許(そこもと)の父保名様に、我が阿倍野の信田の森に暮らす時に助けを受け、何時、此の恩を返さんと思えども果たせず今日まで来て仕舞いました。
併し案の定、保名様の御子息『尾花丸』殿が京に上られたと聴いた時は本に嬉しゅう御座いました。而も帝の御悩平癒の為の祈祷をなさると謂うから之れ幸い也。
保名様からの恩義を返すは只今也!と、内心喜んでおりました。此の度の御清間へ籠っての御祈祷は、邪魔を致す悪い輩の無りせば、童子の今の力量でも御悩平癒が成ったやに思います。
併し、如何に天地を司る神通に優れし童子なれど、邪悪な心で妨げる者が現れては、其れを遠ざけぬ限り、希望致す様な功験を得られ様はずが御座いません。」
さて、講釈師はだから信用ならない!なぜ、唐突に橘ノ野干兵衛忠澄が稲荷の眷属で白狐とか謂い出すんだ!とお怒りも有りましょう。
而も暫く何話も登場せず、主人公が大ピンチで登場する救世主が白狐かよ!とのお怒りは御尤もですが、台本(テントリ)にそう書いてあるから、玉田玉秀斎は是に忠実で御座います。
忠澄は頭に葛の葉を乗せてから化けるので御座いましょうか?狐の別名が『葛の葉』ですし、浄瑠璃、芝居の『蘆屋道満大内鑑』は安倍晴明は父保名と牝狐の間に生まれたと謂う伝説。
何とも、講釈にも『安倍晴明傳』らしく、白狐が幼い尾花丸時代の晴明を助けると謂う、実に安易な展開では御座いますが、母の名前や仇の名前にも『葛』伝説が生きております。
好古卿「さて、忠澄。貴様が白狐だろうと狸札だろうと構わぬが、如何に致さば帝の御悩平癒の祈祷は完全するのじゃぁ?是非、其の秘術の極意、恩義を童子に教えて給れ。」
忠澄「然らば、祈祷致す神に付いて大国主神、少彦名神、天照大御神を詔り奉るは至極当然で、加えて天神たる菅原の霊神を奉じ秘術を用いるは尤も成れど、
茲に邪鬼を孕み妨げ成せる現れし者、大方は六畜の呪いを用いて、悪魔邪神を召喚せしめ、之等が童子の祈祷を悉く妨げる者也。之を除かん為には、十干十二支の秘法を以って之を除く、
天神七代地神五代を第一に奉り、玉座四方十二ヶ所に霊剣一振り、之に個々紙鞘を掛け御枕元に据え奉り、ご寝所の四方には竹を立て、注連を張り四隅には高藤の弓を立てる、
玉體の御上には黄絹に日の丸を描き之を覆い、清水に鹽を合わさせて打清め、布留部の祓いを構え奉れば、必ずや陛下の御悩全快し平癒間違い無し。」
童子、是を聴いて大いに喜びて、白狐の化身、橘ノ野干兵衛忠澄をしみじみ見て、『本当に葛の葉の化身たるやぁ?!』と心に問うて、是に尋ねる、
尾花丸「さて、其方は只今より何れへ罷り越す所存やぁ?!」
忠澄「然れば、之れだけの秘術を汝に伝授致さば保名殿への恩返しは満願。今更、好古卿の家来を続けるのもいと恥ずかしく、このまま退散仕る。
童子、尾花丸!之れにて二度(再び)汝に逢う事は御座らんと思えども、我が教えを夢々疑う事無かれ。善哉!善哉!」
そう、狐は皆んな似ている!新羽屋の稲荷も同じ様な事を善六さんの前で謂うし、この眷属の白狐も同じだ、そんな事を思った童子は立ち去ろうとする忠澄に声を掛けます。
尾花丸「オイ、忠澄。折角の秘術伝授給わったが、某は既に関白太政大臣より京の地を去れと命じられた身。残念ながら再び、御清間へ這入り布留部を祓い祈祷致す事能わず。」
忠澄「イヤ、其の儀なれば心配には及ばず。今にもあれ勅命を以って『安倍童子を参内致せ!』とのお沙汰有るに相違なし。其の時は御意に従い、布留部の祓を成す事大切也。」
そう謂うと橘ノ野干兵衛忠澄は、再度、秘術を復習させるかの様に、童子の耳元で呟きながら教えるのだった。童子は夢見心地に、
尾花丸「嗚呼、有り難や忝や。」
そう謂いながら夢見より童子醒めると、既に橘ノ野干兵衛忠澄の姿は無く、此の一部始終を見ていた好古卿も『世にも不思議な事の有るものだ!』と、呟きになり、
童子と二人して橘ノ野干兵衛忠澄に貸し与えていた部屋を見に行くと忠澄の姿は勿論無く、何処へ罷り越したやら?更に知れず、二人は誠、白狐の霊の仕業に相違なしと強く感ず。
然る所へ突然、勅使の御所より遣わされまして、其の人物は蔵人影連(かげつら)と申す文官に御座いまして、小野参議好古卿屋敷へ忠澄の予言通り罷り越しました。
勅命の趣きは?!如何にと、好古卿がお尋ねになると、影連は言葉を選びながら実に謂い難くそうにポツリポツリと語り始めまして、要するに…。
確かに安倍童子が御悩平癒の祈祷を御清間で致しておる最中も、御悩の加減は芳しく在らざるも、祈祷を中止させて御清間より追い出した後は、
陛下の御悩の状態は益々重くなる一方で、忠平公に置かれましては、前言を撤回になり、一刻も早く安倍童子を連れ戻し、陛下の側近くに進めて、
御悩平癒の祈祷を再開させよ!と仰るに依って、早々に御祈祷の御支度頂き、表に用意した早馬にて参内頂きたく存じ奉りますと懇願致します。
さて、童子は是を聴いて先ずは白狐の霊、忠澄への感謝を心に込めて念じ、直ぐに行衣へ着替えて、幣束を持ち注連、竹竿、霊剣、紙鞘などなど祈祷の道具を風呂敷に詰め、
小野参議好古卿に同道されて、勅命の使者、蔵人影連の用意させた早馬にて参内致します。好古卿は玉座へ近づく事も許されませんで、関白太政大臣忠平公に向い合い、
好古卿「此の度は、十干十二支の秘法を以って、御悩平癒を妨害する邪神悪魔を退散させまする。必要な道具として下記の物をご用意願いまする。」
忠平「相分かった。道具は用意致す由え直ぐに祈祷をお願い致す。又、何度も中止させて申し訳ない。機嫌を悪く致したならば麿が謝る。」
そう謂うと、関白忠平公は好古卿と尾花丸に頭を下げるのだった。
尾花丸「頭をお上げ下さい。三度目の此の機会、手前は正直にして御悩平癒を成し遂げまする。」
忠平「童子、頼んだぞ。其方だけが頼りじゃぁ。」
黄絹の日の丸と高藤の弓を御所大内で調達した安倍童子は、忠澄より教わりました秘術、十干十二支の法陣を敷き、大幣を眉間に押し当て高らかに布留部の祓を称えまする。
たった今まで過去見た事の無い程、重い御悩に苦しんで居た帝は童子の祈祷が始めるやいなや、薄紙を剥がした様に御悩は和らぎ、陛下はスースーと寝息を立てゝ心地良い眠りに付かれた。
是を見た関白太政大臣忠平公を初め、左大臣師祐公、右大臣仲平公と方々驚きと不思議に包まれ、実に奇異な思いとなり、之れ迄は陰々滅々とした空気の殿中が、
童子が祈り出すと俄に陰気は消え、清涼たる清々しい空気に包まれたるを誰もが感じる様に成る。一方、童子はと見てやれば一心不乱に布留部の祓を称えますと、
他方、丁度同刻で御座います、蘆屋道萬清太に於いては頻りに『六畜の呪い』を未だ祈り続けておりましたが、如何致したのでしょう?正面に供えたる三十六の燈明が、
突然、炎が激しく高く燃え上がり、例の黒い影の様な傀儡に燃え移りました。以前述べた通り、此の傀儡の目の前には壺に入れた蛇と蛙、其れに蛞蝓が六畜の血と脂に塗れており、
火柱と成った傀儡から落ちて行く炎は、その三竦みの壺にも引火して、祭壇は火祭の護摩業の如くで、遂には三十六本の黒幣に迄燃え移りました。
さて、是を見た蘆屋道萬清太は北叟笑み、遂に愈々大願成就致したか!?と、燃え上がる祭壇を眺め乍ら、興奮し激しく幣束を振りますと是にも引火し、更には火の粉も舞いまして、
道萬が着なす行衣にも飛び火して是又燃え上がり始めます。見る見る内に祈祷部屋は火の海となりますから、流石の道萬も是が自身の吉兆には在らずと気付き大変驚きます。
併し、『六畜の呪い』は誰も祈祷所へは近付くな!と命じた密かに行う悪魔の祈りですから、道萬がどんなに大声で呼んでも弟子は誰一人助けに参りません。
基より余りにオドロオドロしい悪魔の儀式だし、庭に六種の獣を生贄に置き、其の肉を生きたまんま削ぐ為、弟子にも見られてたくない道萬は弟子を遠ざけていたのです。
遂に部屋中に紅蓮の炎が上がり白い煙に部屋中が包まれて蘆屋道萬清太は意識が朦朧として来ますが、不幸中の幸いか?炎に焼かれる痛みで辛うじて意識は飛ばずに済んでいました。
そんな蘆屋道萬清太は、最後の力を振り絞り祭壇に置かれた鈴を掴みます。必死で鈴を鳴らしました。リンリン、リンリン。此の鈴の音色には道萬屋敷の決式があったのです。
『喉が渇いたから水を頼む。』と謂う合図でした。だから鈴の音に気付いた二人の書生が湯呑と片口の水差しを持って祈祷所へ向かうと、其処が激しく燃えているのを発見致します。
さぁ大変な事態です。内から閂(カンヌキ)が掛けられ戸は開かないので、斧を持って来て扉ごと破壊しましたが…酸欠の密室に空気が入り込み、外に向かって赤黄色の炎が吹き出します。
救出に向かったハズの書生が一人頭と顔に火傷を負います。幸い庭に有る池の水を桶で汲み出し消化すると、火は比較的早く消し止められましたが祈祷所には真っ黒の道萬が在りました。
頭の毛は燃え尽き、全身酷い火傷で意識不明。併し息は未だ有り、幸い医師は極近所から呼ばれて名医だった様子で、一日半後に意識も戻り悪運強き道萬は死の淵から生き返ります。
ただし、流石に童子の祈祷の妨害を瀕死の蘆屋道萬清太には出来ません。妨害なく残り三日間の正しい童子の祈祷を受けた陛下は、御悩など完治平癒する事に成ります。
帝の御感斜めならず喜び様は実に一入で、安倍童子を側近くへお呼びになり、畏れ多くもご尊顔を拝し奉り、天盃を頂戴なし、其の日の内に関白忠平公より、
念願だった陰陽頭従五位下天体博士の官職を賜ります。安倍童子、尾花丸は少しく頭を上げて関白太政大臣忠平公に言上仕ります。
尾花丸「関白殿下へ直答え奉るは畏れ多き事なれど、某に対し、陰陽頭従五位下天体博士の官職を下し置かれたる事は、実に有り難き幸せに候らへど、
某、未だ十五歳に満たぬ若輩なれば、同官位は某が成人致すまで、我が師であり祖父の加茂保憲に対し仰せ附けられます様、此の段宜しくお願い申しまする。」
忠平「ホー、実に祖父思いじゃ、麿は感じ入った、童子、良きに計らえ、天下許す。」
尾花丸「忝なく存じまする。」
こうして、関白太政大臣忠平公の覚えも愛でたく、童子の祖父、加茂保憲は孫、尾花丸の祈祷に依る御悩平癒の功験を以って陰陽頭従五位下天体博士の地位に返り咲いた。
関白忠平公は直ちに伊勢國津の安倍野へと勅使を派遣し、加茂保憲と安倍保名、並びに葛子夫婦を京に呼び戻した。更に安倍童子、尾花丸が家族で住める屋敷を一条堀川に新築する。
屋敷は一町四面と謂うから三千六百坪で、中々の豪邸。現在晴明神社⛩が有る場所が正に此の豪邸の跡地に当たります。猶一条通自体が現在は、烏丸通と堀川通の間だけに存在します。
此の官位を安倍童子、尾花丸が賜った際に、安倍播磨守晴明と謂う名前を関白忠平公の薦めで名乗る事に成ります。『やすあきら』が正式名称ですが周囲は『せいめい』と呼び、
此の官位と『安倍晴明』命名により安倍仲麿の直系が復活し、保名・晴明親子の悲願『安倍氏一族の再興』が成される事となり、一家は大いに喜びます。
一方、蘆屋道萬清太はと見てやれば、祈祷の妨害を企み悪魔を召喚する呪いの祈りで、尾花丸改安倍晴明の『十干十二支の秘法』に敗れ、全身大火傷を負いますが、
此の悪事は露見せず、火傷は大変な事態ですが命や官位を奪われる事は無く、又火傷していなければ約束通りに、晴明の弟子にされる所を火傷のお陰でドガチャカに成っております。
兎角する内に、時は流れ月日に関守無く光陰矢の如しで、天慶六年の新玉を迎えますと、安倍晴明が愈々十五の春を迎え成人と相成ります。
祖父の加茂保憲が初天神、梅の盛りに引退隠居致しまして、晴れて晴明が陰陽頭従五位下天体博士の官職を受け継ぎまして、御所へと参内致す事と相成ります。
更に、成人した此の秋、安倍晴明は好古卿の媒酌で、藤原長雄卿(ながたか)の姫君、玉緒姫を娶り夫婦と相成ります。
又、結婚から三年後の十八歳の時に晴明と玉緒姫の夫婦には吉平が誕生致します。そして、三年後に保憲が没し、更に十二年後晴明三十歳、そして吉平十三歳の折りに保名も没します。
晴明三十歳つまり天徳二年、六十二代村上天皇の治世。晴明は兼ねてより易道の秘術、殿社神道の儀に就いて、兎角に迷う事が有りますから、之等を探求せしは己の為成らず、
全ては世の為人の為と信じおりますから、唐土へ安倍仲麿を継ぐ者として是非渡り、其の道を修めん事を三年以前より強く願って居りますが、朝廷よりのお許しが御座いません。
然るに、幸いにも此の一件に対し『天下許す!』のお言葉を賜ったものですから、晴明の喜びは一方なりません。唐土へ渡るので御座いますから奥方を始め若年の倅、吉平の事も、
其れ相応の準備を致して、後見人を立てた上で渡航に臨まねば成りません。依って此の日は左馬権頭満仲、並びに舎弟満正の二人を招いて、彼の両名に妻子の事をお頼み申すのでした。
満仲満正の兄弟に於いても、委細承知致し、見込み先ずは三年として、彼の地に渡る事と相成り、愈々出立最後の参内を迎えて、龍顔を拝し奉り、関白殿下、左右大臣にも暇を告げ、
又、様々なる餞別の品々を頂戴致しまして、茲で都を出発致し、肥前の松浦潟まで船で参り、暫く松浦に留まり、更に大きい貿易船に船を乗り換えて唐土へと渡りまする。
渡航中は思いの外穏やかな航海で、別段、事故も事件も起こらず唐土へと渡りまして、鴻臚館と申す所へ泊められて、此の鴻臚館とは外国人貿易の際に専用で持ちいる旅籠で、
鴻臚館と謂う呼び名は日本式の名称で御座います。さて、唐土へ着きますれば物見遊山は致さずに、早速大学への入学の手続きを致し、易学を学ぶ為に通います。
易学に付いて種々の基礎や法則を学んだのですが、三日を過ぎた辺りから何も新しき事を教えて呉れなく成ります。さて困った参った最初は丁寧に教えて呉れたのに…。
何故か?三日を過ぎると雑に成り始め、十日目の現在は余りに冷たい態度である。是は如何なる理由(ワケ)ならん?!仕方なく此の日は学長に面会し尋ねて見る事に致す。
晴明「さて、学長先生に伺いたき儀之有り。拙者は遠く海の向こう日の本より遥々唐土へと参り、易道の秘術、殿社神道の儀を悉く胸に納めて立ち帰る心得で参ったるに、
失礼ながら之れまで御教示に預かった事は、大日本で己が独学で覚えた事ばかり、どうか奥義に立ち入った秘術の本質を教えて頂きたい。」
さぁ、安倍晴明よりズバリ要望を受けた学長は、やや顔を赤くして答えます。
学長「当大学に於いては今の講義が極度の最高ならば、其れを理解しておる貴殿の学問は十分足りて御座る。依って左様ならば其許は当大学を今日にも卒業できます。」
晴明「学長!私は遥々海を越えて唐土まで、日本國を代表して学びに参っております。是非、出し惜しみせずに、学問の奥義、秘術を教えてください。」
学長「左様なれば私も本音をお話し申そう。我大学では今教えている水準より高度な学問は教えていない。此の先の領域を学びたいなら、此れより南方へと二十七里、城荊山と謂う山がある。」
晴明「御意。」
学長「其の雍州の城荊山に、伯道と謂う老翁有りて人は之れを伯道仙人と呼ぶ。最早年齢は百を軽く越える此の仙人なれば、貴殿が求める易道の秘術、殿社神道の奥義を知るに違い無し、
併し處がじゃぁ、此の城荊山と謂う山が中々尋常ならざる険しさで容易に登れない。之迄にも我が諸生や弟子の中にも、伯道仙人の教えを乞う為に、城荊山へと向かった者は多数有れど、
誰一人、伯道仙人に逢えた者は無く、其れどころか山の麓で引き返す者が殆どなのだ。其許は頗る熱心な御仁由え、道半ばに立帰る心配は有るまい。其の城荊山に赴かれては如何か?」
晴明「其れは千萬忝い。如何なる人かは知らねど、其の伯道なる仙人に就いて尋ねれば、易道の秘術、殿社神道の奥義を御指南給わる事が出来ると承りますれば如何なる苦心を致しても、
其の伯道仙人の元で修行を成して、易道の秘術、殿社神道の奥義を日本へ持ち帰る心底で御座る。地理に疎く東西南北方向が判らぬ、どうか城荊山の麓迄の宜き案内役を紹介下さい。」
学長「其れは宜しい引き受けよう。明日朝、案内の者を差し向けよう。」
晴明「其れは千萬忝のう御座る。」
さて、易学と殿社、神道の学問の道を極め様と単身海を越えて唐土へと渡って来た安倍晴明は、大学に通へば学問が極められると思って居たが、自身の考えの甘さを痛感させられた。
大学の学長より、更なる高見の学問を極めるには城荊山に住む伯道仙人に弟子入するしか無いと教えられるが…城荊山は途方も無く未開の山らしく学長の知る限り仙人と逢えた者すら居ない。
そこまで苦労して会う仙人だから、安倍晴明は試してやろう!易学、神道の問答を仕掛けて、本当に師と仰げる人物かを見極めてやるぞ!と、硬く心に誓い城荊山へ向かいます。
そして、万一、伯道仙人が師に値しないと見切る様なら、此の唐土に居て学ぶ学問など無いので、其の時は長居は無用!日本へ一日も早く帰国して、帝や殿下の為に働こう。
其の様な強い決意で、安倍晴明は唐土での修行の場所を城荊山と決め、其処に住むと謂う伯道仙人が師匠と呼ぶに相応しい人物であるか?其れを見極める為に晴明は山へと向かうのだった。
つづく