文政七年三月。江戸は櫻の季節を迎えていた。此の年は蘭学ブームが始まり、彼のシーボルトが長崎に鳴滝塾を開設し高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海など日本人生徒が五十人以上が学んだ。

そんな頃、業平文治は人助の相談を受けるのを止めて丸四ヶ月が経過し、名前も高濱文治郎に戻しての浪人生活を続けていた。母親お峰は相変わらず江戸に居て文治郎の世話に成っていた。

さて、新しく高濱文治郎と成ってからの生活ぶりはと見てやれば文治郎、朝は早く七ツ起きで父の位牌が置かれた仏壇に、線香を焚いて佛様に手を合わせる所から其の一日は始まる。

通いの女中お登勢が明の六ツ、東の空が白々するとやって来て朝飯を作り始める。軈て朝飯が出来た頃に母お峰と子分の立川ノ岩松が起きて来て文治郎とお登勢もよったりで朝食となる。

食事が終わると岩松とお登勢は無駄に広い屋敷の掃除を始め、文治郎とお峰は近所を散歩する。一刻近く業平橋周辺を散策するのが二人の日課で、お日様が昇り切った頃に漸く帰宅すると、

文治郎は天野光雲斎道場へ出向き朝稽古に参加して汗を流します。其のまま文治郎は天野道場で昼食を取り、午後は道場の師範として門弟達に剣術を指南するので御座います。

一方、お峰はと見てやれば、散歩から戻ると午前中は仏間に籠り専ら写経などして過ごしますが、お登勢や岩松と昼食を取り終えると俄かに忙しく成ります。小さい子供達には素読習字の指南、

更に大人の弟子には花道・茶道の教室を開いて教えているので御座います。又立川ノ岩松も昼は水茶屋、夜は飲食店や岡場所を廻って業平文治の様には行かないまでも仲裁人を務めます。

こうして、文治は天野道場での師範代としてのお手当を、お峰は子供達弟子達からの月謝を、そして岩松は水茶屋岡場所飲食店からのミカジメ料を、暮らしの糧として生きておりました。

お峰「さて今月の入金の合計額を発表します。妾が八両と三分、岩松さんが九両と一分、そして文治郎!貴方はたった三両です。まぁ三人で二十二両だから暮らしては行けますが。」

岩松「お峰様、親分は潰しが利か無い浪人侍だから、お峰様に用心棒は駄目だって謂われると、天野先生の道場で師範代を務める位しか銭儲けに成らないって。三両なら御の字です。」

文治「済いません。母上にまで働かせて。私に剣術以外の才覚が在れば宜しかったが、今更、蘭学を長崎で学ぶには歳を取り過ぎていて、申し訳ありません、剣術馬鹿の親不孝者です。」

岩松「親分!仕方有りませんよ。腕に『堪忍』と刺青彫って喧嘩を止められたら鳴け無い小鳥も同然です。でも業平文治を捨てゝ高濱文治郎に戻った事が一番の親孝行じゃ有りませんか。」

文治「ところで、まだ業平文治に、と、云って困った人が相談に来る事が有るのかい?」

岩松「ハイ流石に高濱文治郎に成られて四ヶ月を過ぎましたから、件数はめっきり減って月に五、六件です。まぁ減ったからアッシが留守番せずに働きに出ることが出来るんですけど。」

文治「で、どんな相談がまだ来るんだ?」

岩松「其れが不思議なんです。全く同じ内容の苦情でして、直参旗本の御大臣、三千石取りの服部平太夫ってお侍に関する苦情ばかりなんです。」

文治「何ぃ〜、で、どんなぁ苦情だ。」

岩松「賭け碁でハメられて借金をした。そして更には取られた証文を細工されて、借金を莫大なものに改竄された!と謂う内容です。」

文治「でも其れは賭け事をする奴が悪い。ある意味自業自得だ。」

岩松「ただ親分!証文を取って五倍・十倍に金額を改竄するんですよ、直参旗本なのに。而も、この屋敷に苦情を謂いに来た人数はなんと!二十一人です。」

文治「まぁ、どっちにしても俺にはもう関係ない噺だけどなぁ。」

そんな会話が御座いまして、今月はやれ向島の花見だなんだと忙しく成りそうな、高濱文治郎のお屋敷で御座います。


一方、京橋五郎兵衛町で小間物屋を営む吉之助と志乃夫婦は業平文治からのお説教が利いた為か?志乃も真面目に働いている様子だった。

岩松「親分、最近、芝口の八右衛門の旦那ん所や京橋の吉之助さんの店には顔を出しましたか?」

文治「イヤぁ全く無沙汰だ。仕方ないだろう。『堪忍』と二の腕に彫ってからは人助けは廃業中だ。会って何か見たら我慢出来る自信がない。其れなら触らぬ何んとかだ。」

岩松「親分も変わりましたね。長い物に巻かれる感じでまぁ花は櫻木!人は武士ッて謂う位に全く融通は利か無いし、嘘を法弁には使えない不器用な生き方しか出来ない御人だから

母上の尻に敷かれて模範浪人も結構ですが、吉之助と志乃の良い噺だから耳に入れて於ますが、実は此の三月の十五日に正式に『尾張屋』の屋号を、暖簾分けされる事に成りました。

十五日に『尾張屋』の看板を五郎兵衛町の店に上げて、晴れて芝口の姉妹店です。取り敢えず、親分の名前でお祝に四斗樽と金五十両を贈りますのでご承知置き下さい。」

文治「済まないね、岩松。併し、良かった!良かった!之で吉之助も一本立ちだ。首尾の松で富五郎の兄貴と俺とで助けた甲斐が有った。幸せに成って貰いたいねぇ、岩松!」

岩松「全くです。でも、もう直ぐ尾張屋吉之助です。親分自身も直接逢って励まして下さい。もう、堪忍を破る様な真似はしないはずですから。」

文治「そうだなぁ、向こうの商いが一段落着いたら俺の方から顔を出してみよう。」

そんな事を親分子分は話して居たのですが、吉之助は飲む・打つ・買うは一切しないのですが、三度の飯を減らしても止められない道楽が一つだけ御座いまして其れが囲碁なのです。


或日、其の日は尾張屋吉之助は佐原、川越と上総國まで新たな顧客の開拓に態々足を運んで、武家屋敷を廻り其処に住む奥方、腰元、下女などを相手に新しい顧客を掴もうとしていた。

一方、志乃も朝から店を開けて、小僧の亀吉と掃除、水撒きと忙しく高麗鼠の様に働いていると、実に人品の宜しい侍がお伴に若侍など従えて店の前を通りますと明らかに見覚えがある。

志乃「之は!之は!本所の南割下水の服部のお殿様じゃぁあーりませんか?!」

服部「誰だ!拙者の名を呼ぶのはオォ、柳橋の戸倉屋の志乃ではないか?!今は此の店で働いて居るのか?」

志乃「ハイ、ご覧の通りの小間物屋に御座います。尾張屋の手代吉之助と夫婦と成りまして、今月十五日に正式に暖簾を分けられ、この店も尾張屋と成ります。どうぞ!ご贔屓に。」

服部「左様であったか、其れは御愛でたい!商いを始めたのなら何か買ってやろう。」

志乃「では中へどうぞ。」

そう謂うと志乃は店の中へ服部平太夫とお伴の若党を招き入れると、高そうな鼈甲櫛や銀細工の簪を志乃が薦めると、平太夫は気前よく五両の鼈甲櫛と三両の銀細工の簪を購入した。

そしてこの日、尾張屋吉之助は佐原・川越を廻った為に、京橋五郎兵衛町の店に帰り着いたのは、二日後の夕刻暮六ツになるのでした。

吉之助「今、帰った。いやはや散々だった。佐原や川越は景気が宜いと聴いて、城下の藩士の内儀やお嬢様を廻って見たが、丸二日四十軒以上廻って二両の売上にもならんとは。」

志乃「其れは大変でしたご苦労様です。此方は三日間で十二両売りましたから安心して下さい。実は柳橋の頃にお世話になった本所の服部のお殿様がいらして八両も散財して下さいました。」

吉之助「本所の服部様ッて、南割下水の御旗本の服部平太夫様か?!」

志乃「ハイ、左様です。良いご贔屓に成って下さると宜しいのですが。」

其れから三日と明ずに服部平太夫が誰か朋友を連れて、五郎兵衛町の尾張屋へ夕刻現れて十両、十五両の買い物をして、夕飯を馳走すると謂っては志乃を連れ出し料亭で豪遊致します。

志乃「お前さん。此の一月半で服部のお殿様が店に落として下さった金子が百四十両にも成ります。流石に、尾張屋の主人である貴方が日を選んで服部様のお屋敷へご挨拶に出向いて欲しいワ。」

吉之助「確かにそうだなぁ。店の売上の八割が服部様案件だから、本所に足を向けては寝られない。文治親分と謂い服部様と謂い、我々は本所に誠、ご縁が有る。」

と、謂うと尾張屋吉之助は黒紋付に仙台平の袴履き白足袋に卸し立ての正目の下駄を履いて、本所南割下水へと向かいます。芝口の橋場から船で両国橋まで行き橋を渡り東へ三町程歩きます。

南割下水は、両国にある江戸東京博物館から錦糸町方面に伸びる北斎通りにかつて存在した水路です。川幅は一間~二間程しかなく、現代の感覚からは気に留めるほどの川とも思えませんが、古地図上では結構目立つ存在です。

下水という名前が付いていますが、汚水を流すための水路では無く、低湿地で水はけの悪い江戸の町の排水のために造られた水路で、横川(現在の大横川親水公園)よりも東側では錦糸堀と呼ばれ錦糸町の名前の由来となりました。

南割下水の名は、その周辺地域の地名の代わりにも使われ、北には北割下水という同様の水路が存在するのですが、単に『割下水』と言った場合には普通は南割下水とその周辺地域を指しました。

南割下水は、時代小説の中では竪川や小名木川や仙台堀には及ばないものの、本所が関係する作品には度々登場します。だから此の作品にも、最大の敵役の住まいが此処に有りです。

他にも例えば藤沢周平著『春秋の檻』「雨上がり」の章の中では、南割下水のそばに主人公・立花登の友人の新谷弥助の家があると記されています。

そんな本所南割下水にやって来た尾張屋吉之助は勝海舟の生家でもある勝小吉の屋敷の隣に在る、高い塀囲いの一際駄々ッ広いお屋敷へと這入って行きます。

吉之助「御免下さい!」

取次「ドーレ。いらっしゃいませ。どちら様でしょうか?」

吉之助「ハイ、京橋五郎兵衛町で小間物屋を営む『尾張屋吉之助』と申します。旦那様、平太夫様はご在宅でしょうか?」

取次「ハイ、居りますが御用件は?」

吉之助「日頃、私どもの店にいらして頂きご愛好頂戴して居りまして、本日は感謝の意を込めてご挨拶に伺いました。之は詰まらない物ですがお殿様のお口汚しに。」

そう謂うと吉之助は翁屋の最中『きぬの夕月』と謂う当時大評判で中々手に入らない銘菓を手土産に持参しており、お土産にと取次の仲間に渡します。

取次「左様でしたかぁ、態々遠い所を有難う存じます。少々彼方でお待ち下さい。菖蒲さん!お客様にお茶を。」

そい謂うと『きぬの夕日』に参って仕舞った仲間は服部平太夫の所へ飛んで行き、五郎兵衛町の尾張屋吉之助が来ていると伝え、土産の最中を下々で分けて宜しいか?とお尋ねします。

服部「寅次、貴様は全く甘味に目が無い奴じゃ。其れで吉之助は何処に待たせて在る。遺憾!遺憾!吉之助を奥の客間に案内し、丸三老舗の『生霰』を抹茶を添えて出しなさい。」

寅次「承知仕りました。」

こんなやり取りが有って少し更に待たされた吉之助でしたが、機嫌の良さそうな服部平太夫が現れて、取り敢えずは安堵致します。

服部「之は吉之助殿、態々、菓子折持参で挨拶詣でとは恐縮致します。」

吉之助「何んの!何んの!丸三老舗の新作菓子『生霰』を頂戴して感動物で御座います。」

服部「互いに菓子好きで趣味が合い何よりです。」

吉之助「本当に、妻の志乃をご贔屓頂き、五郎兵衛町の店は服部様々で御座いまする。」

服部「吉之助さんが良い仕入れをなさるから、良い品を買わせて頂いて居るダケです。」

吉之助「そう謂って頂けると商人冥利に尽きます。ところで、服部様。先程来、奥の部屋からパチリパチリと聴こえて来る音は若しや、碁盤に石を置く音では有りませんか?!」

服部「左様。広い屋敷由え、奥の大広間を碁会所にして囲碁好きの皆さんに解放しておる。まぁ、月々二朱の月謝は頂戴しているがなぁ。」

吉之助「誠、二朱払えば碁が楽しめるのですか?」

服部「嗚呼、誰でも楽しめる。ただし、うちの碁会所は強者揃いだぞ。本因坊や安井、井上、林の四天王家で碁を学んだ者まで居る。」

吉之助「其れは猶の事、お手合わせ願いとうご在宅。」

と、謂って尾張屋吉之助は、服部平太夫の屋敷で開かれている碁会に、まんまと参加する様になるのである。

碁会所と呼んでいる服部平太夫の碁会所は、十五もの碁盤が用意されていて、常に五十人近い打ち手が集まって居る。勿論、平打ちの囲碁を楽しむ老人会の様な碁会所ではない。

目をギラギラさせた玄人の囲碁棋士が集まり、獲物を求めて賭け碁をするのである。だから、吉之助なんぞが立ち入ると『飛んで火に入る夏の虫』其れこそ正に鴨葱である。

最初は儲かる様にできている、一分か二分掛けて日に五、六番勝負して、四勝二敗とかで一両の銭を手にする。行商の帰りに八ツ頃から碁を打つ様に成り五ツ、四ツ過ぎまでやる。

帰りは深夜に成り女房の志乃とは朝、一言二言の会話しか無くなり、愈々、服部平太夫の屋敷の碁会所へ、朝の五ツ過ぎから毎日毎日碁を打つ様になる。もう行商に行くは嘘である。

連日、服部屋敷の碁会所で碁を打って勝ったり負けたり、負けたり負けたりとなる。四日に一度勝つか?引き分けだから、五日に十両は負ける日々が続くと、一月に五、六十両は損失が出て仕舞うので服部平太夫に借金が出来る。

服部「吉之助さん、私がお貸しゝた借財が六十両に成りましたが、別に直ぐに返せとは申しませんがケジメなんで借用書だけは書いて貰いますよ。」

吉之助「ハイ、其れは構いません。」

そう謂って吉之助は六十両の証文を書くのですが

服部「どうです、吉之助さん。チマチマ二分なんて勝負をしていたら六十両は返せませんよ。一勝負十両単位で賭け碁をする特別な日に来ませんか?」

吉之助「併し、十両単位で太い勝負をする人は強いんじゃ有りませんか?」

服部「いいえ、寧ろ逆です。下手の横好き。下手な人の方が多い位です。金持ちの道楽で賭け碁をしているから、月に百両くらい負けても蛙の面にションベンって感じです。」

吉之助「では、其の十両単位での賭け碁が開かれるのは何日に成りますか?」

服部「毎月五の付く日ですから、次は二十五日ですねぇ、尾張屋さん。」

吉之助「判りました。では二十五日に又参ります。」

と、尾張屋吉之助は愈々深みに嵌って行きます。迎えた二十五日、吉之助は南割下水の服部平太夫屋敷にやって来たのは九ツの鐘が聴こえる正午刻。既に七つの碁盤は勝負が始まっていた。

八番目の碁盤に一人浪人の態で座る武士が御座いまして、人品はマズマズ宜しく年齢は四十二、三、厄そこそこと言った感じである。

黒川「オォ、町人。一番相手をしては呉れぬか?!拙者は神田須田町に住む水戸家浪人、黒川藤十郎と申す。」

吉之助「どうもご丁寧に。申し遅れました、私は京橋五郎兵衛町で小間物屋を営みます、尾張屋吉之助に御座います。ハイ、碁のお相手、喜んでお受け致します。」

黒川「一番、十両勝負となるが構わぬか?尾張屋殿。」

吉之助「ハイ、其れでお願い致します。」

黒川「イザ!勝負じゃぁ。」

そう謂うと黒川藤十郎と尾張屋吉之助の真剣勝負が始まりまして、勝ったり負けたりで五番勝負を終えて、吉之助の三勝二敗で暮六ツを迎えたので、其の日最後の一番を行うことに

黒川「最後を十両勝負でやり、若し拙者が勝つと今日は六番碁盤を囲みながら一銭の得にもならず、ただ服部殿に場代を一人三両取られて終わる事に成り申す。

どうだろう?尾張屋殿、最後だけ一番五十両勝負に致さぬか?左すれば何がしか?金子のやり取りが成立する。如何じゃ!?尾張屋殿。」

吉之助「ハイ、私は遺存有りません。五十両勝負、お受けしましょう。」

そう噺は纏まり、最後の一番だけ五十両勝負と謂う事で太い対決とはるのだが、此れに黒川藤十郎がアッサリ勝ち四十両の儲けで戦い終える。

次回、十両単位での勝負が出来る賭け碁が立つのは翌月五日。『勝ち逃げは許しませんよ。』と、黒川藤十郎と再勝負を約束して五日も正午過ぎに賭け碁を始める。

この日、黒川藤十郎は七世安井仙角仙知の直弟子で、安井家五段の腕前ながら博打好きが祟り安井家から金子を持ち逃げし破門と成った身の上である。

ですから本気に成ると、五日は暮六ツまでに八番打って全勝。熱く成って向かって来た尾張屋吉之助からアッサリ二百両を巻き上げ、現金を六十両しか持ち合わせの無い吉之助は、

結局、この日の負けを加えて、服部平太夫への借金は膨らみ合計二百両と相成ります。新たに証文は六十両から二百両に直したものゝ、服部平太夫は特に催促などは行わなかった。


さて、借金が二百両まで大きく膨らんで仕舞った尾張屋吉之助は流石に反省しきり。又気を取り直して商売に励み本業に打ち込む姿勢を見せる様に成ります。

そんな或日、久しぶりに背負い小間物の商いが無く五郎兵衛町の店に吉之助が居て、女房の志乃は店番をする必要がないので、浅草へ芝居見物で留守の昼過ぎ八ツ刻、服部平太夫が訪ねて来た。

服部「御免なさい!吉之助さんは居るかい?」

亀吉「ハ〜イ、どちら様ですか?!」

服部「小僧、拙者は本所南割下水の直参、服部平太夫と申す者じゃぁ。ご主人の吉之助さんにお目に掛かりたい。」

亀吉「ヘイ、私は小僧ではなく亀吉に御座います。主人は奥に居ります、少々お待ち願います。」

相変わらず生意気な亀吉が店番からの取次で、少し慌てた様子で、尾張屋吉之助が奥から店へ飛び出して参ります。

吉之助「之は!之は、服部のお殿様。小僧が失礼を致しました。」

服部「中々、興味深い小僧さんでした。亀吉くん。さて、今日は小間物が欲しくて来た訳じゃないんだ。」

吉之助「借金の事でしょうか?!」

服部「其れも多少は関係するが、本質じゃない。一寸、相談したい噺が在る。」

吉之助「相談?と、申されますと。」

服部「吉之助さん、貴方に貸した二百両は正直、返済を急ぐ金では有りません。だから、年内一年掛けて返済下さっても構わない。

又利息など殊に欲しいとも考えてはいないが、一つだけお願いしたい相談が御座います。其れは志乃さんをお借りしたいと謂う件です。

実は五日後に、手前共の屋敷で新春の新年会を催す運びで御座いまして、その手伝いを志乃さんにお願いしたいのです。

元、柳橋の売れっ子芸者だった志乃さんに昔取った杵柄!唄と踊りで宴会に花を添えて欲しいのだ。勿論、送り迎えの駕籠は此方で用意する。

志乃さんは身一つ三味線一つで、本所南割下水の当屋敷へ来て下されば其れだけで結構。吉之助さん!志乃さんを説得して宜しく頼みます。」

吉之助「分かりました。ただ、志乃がウンと謂うかは芝居から帰って聴いてみないと。五日後と謂うと一月二十八日ですか?!」

服部「左様、二十八日です。夕刻七ツ前に駕籠で迎えに参りますから宜しくお願い致します。」

吉之助「ハイ。志乃は私の方で謂い聴かせます。」

服部「有難う御座います。重ねて宜しくお頼み申します。」

そう謂うと服部平太夫は本所の屋敷へと帰り、入れ替わって志乃が浅草の芝居見物から帰って参ります。

吉之助「志乃!一寸、噺がしたいのだが今から構わぬか?!」

志乃「何ですか?帰った早々。すいません、先に湯屋へ行きたいのですが?」

吉之助「直ぐに用件は済むから、其の湯屋へ行く前に噺だけ聴いて呉れ。」

志乃「何ですか?改って。」

吉之助「実は本所南割下水の服部平太夫様が、夕刻に店にお越しになり、実は新年会を一月二十八日に催すからとカクカクしかじか、志乃!お前さんに屋敷に来て欲しいと仰るのだ。」

志乃「エッ!厭ですよ、吉之助さん。今更、芸者に戻る様なぁ、宴席の手伝いなどやりたく有りません。

確かに服部のお殿様とは今の商売でもお世話に成っておりますが貴方から上手にお断りして下さい。」

吉之助「判った。お前がそこまで厭だ!と謂うのなら明日、本所のお屋敷へ断りに出向く事に致そう。」

翌日、背負い小間物の格好で京橋五郎兵衛町を出た吉之助は両國、蔵前から本所へと大名や旗本屋敷を廻り商いを済ませてから南割下水の服部邸を訪ねます。

吉之助「御免下さい。殿様は御在宅でしょうか?私は京橋五郎兵衛町の尾張屋吉之助と申します。」

取次「ハイ、居ります。少々お待ち下さい。」

と、取次の書生なんぞが出て参りまして、吉之助は客間に通されます。そして相変わらずで奥の広い座敷からは、パチリパチリと碁盤を打つ石の音が聴こえて来ます。

そうして出された茶などを啜りながら、吉之助が退屈そうしてして居りますと、奥の方から目暗縞の黒い紬の着流しで、服部平太夫が帯前に莨入れを煙管にブラ下げて現れます。

服部「やぁ、吉之助さん。今日は何んの用で参られました。」

吉之助「イヤ、実に申し上げ難い噺ですが、妻の志乃の事で其のぉ〜、実は志乃が新年会での芸者勤めを厭がりまして、殿様に断って呉れろと頼まれました。申し訳御座いません。」

服部「何を寝言をほざいておる!吉之助殿。こうは謂いたく無いが、借金の利息代わりに志乃殿に新年会で座興を願うだけだ。吉之助殿、お前さんから彼女に上手く伝えて欲しいのじゃがぁ。」

吉之助「其れは重々承知していますが。既に町芸者から足を洗って三年に成りますから、本人が三味線片手にお座敷を務めるのは厭だと強く申しまして。代わりの芸者を呼んではいけませんか?」

服部「だ・か・ら、他の町芸者で我慢する積もりならば、吉之助殿、貴方の京橋五郎兵衛町の店まで態々出向いてお願いは致さぬ。是非、志乃殿に来て貰いたいから頼みに行き申した。」

吉之助「其れは判りますが志乃は強い難色を。」

服部「君が吉之助くん!如何しても固辞するなら、二百両と利息の噺に成りますよ。若し町の両替商や座頭金から二百両も借りたら、

直ぐに四百両、五百両返せって成る噺を、ご内儀の芸者で元金だけで良いと謂っているんだ!コッチは。どうするんですか?尾張屋さん。」

吉之助「判りました。二十八日の新年会は何が何でも志乃に一日ダケ町芸者を務める様に、必ず説得してみせます。お任せ下さい。」

服部「ハイ、判れば宜しい。吉之助さん!お願いしましたよ。」


京橋五郎兵衛町に帰った吉之助は、直ちに志乃を説得する。服部平太夫の強い希望が在る事、並びに実は賭け碁をして二百両の借財が有り、其の利息を含めると五百両を直ちに返せと脅された事。

結局、余計な隠し事は止めにして吉之助は全てを志乃に正直に話したのだが、当然、何て事だと志乃は憤る。真面目に店番に励み夫を支えていたのに

自身が酒に逃げて居た事など、喉元過ぎて熱さを忘れた志乃は吉之助が許せなかった。其の日から口を利かない志乃。昼間は久しぶりに三味線を弾くからと稽古と称して外出する。

そして、迎えた二十八日朝。近所の髪結のお菊を呼んで髷を久しぶりに島田に結い上げる志乃。鼈甲の櫛と八分の珊瑚玉の簪が頭に輝いております。

赤い長襦袢に迎春らしく白の正絹に錦糸銀糸で鶴亀の刺繍が施された派手な着物に、帯は唐紅の紅葉柄で、金銀の鶴帯留にシゴキを通して、新しい白足袋に卸し立ての草履ばき。

定刻に服部屋敷からの迎えの駕籠が参りまして、濃い化粧を施して志乃は一人、三つ折りの三味線箱を下げて京橋五郎兵衛町の店を出発致します。併し、

明けて二十九日に成りましても妻の志乃は帰って参りません。流石に九ツを過ぎても帰らない妻に吉之助は不安を覚えまして、亀吉に駕籠を付けて本所南割下水の服部屋敷へ迎えに出します。

亀吉「申し訳有りません駕籠屋さん、この辺りでお待ち下さい。女将さんを連れて参ります。」

駕籠屋「ヘイ、承知しやした。」

亀吉はそう謂って駕籠屋を屋敷の門の脇で待たせて置いて、自身は中へ入ると玄関先から中へ声を掛けて志乃を呼ぼうと致します。

亀吉「御免下さい。京橋五郎兵衛町の尾張屋で御座います。奥様を迎えに参りました、遣いの亀吉に御座います。私どもの女将志乃を迎えに参上致しました、宜しくお願い致します。」

取次「ハイ、ドーレ!」

と、取次の若い書生が返事をしようとする所を、奥から服部平太夫自らが現れて、取次の書生を制止して亀吉の前にやって参ります。

服部「お前は宜しい。下がって居なさい。やぁ、小僧さん!確か亀吉さんと謂いましたね、志乃殿をお迎えに来たとか其れで金子を持って来たのですか?!」

亀吉「キ・ン・ス?!何んのお金ですか?服部様。駕籠屋は連れて来ましたが。」

服部「其れでは尾張屋のご主人、吉之助殿にお伝え下さい。御新造、志乃殿を返して欲しいので有れば借金を返してから謂って欲しいと。」

そう謂い放った服部平太夫は迎えに来た小僧の亀吉を屋敷から追い返して仕舞います。さぁ、帰宅した亀吉から是を聴いた吉之助は寝耳に水!驚きます。


家中の金子を掻き集めてみた吉之助でしたが、二拾五両、切り餅一つです。到底二百両は出て来ません。又三十日だから掛売りの代金が幾らかは集まり合わせて五拾両。其れでも足りない。

さぁ、残り百五拾両を用意出来ないと服部平太夫は妻の志乃を返さないと亀吉の前で宣言したと謂う以上、絶対に五拾両では志乃を平太夫は返さないと確信する吉之助は、

もう、金策で頼る先は一つしかありません。暖簾元で伯父の芝口一丁目の尾張屋八右衛門で御座います。

八右衛門「オォッ、久しぶりだなぁ吉之助。志乃さんは元気にしているか?近頃は夫婦して五郎兵衛町の店を随分頑張っていると、番頭の治兵衛からも聴いておる、儂も嬉しいぞ、吉之助!」

吉之助「ハイ、お陰様で店の方はお得意先も順調に増えて居りましてさて、伯父上に折り入ってご相談が御座いまして、実は商売上で二百両ばかり金子が必要で、

私自身が使う金子ではなく、商売上のご贔屓に貸しが造りたくて二百両内百五拾両を伯父さんにお貸し願えないかとご相談に参りました。宜しくお願い申します。」

八右衛門「分かりました。宜かろう、どんどんお前さんが太い商いをやる様に成った事は悦ばしい。之れからも精進して店を大きくするのですよ、吉之助。」

吉之助「有難う御座います、伯父上様。」

流石に賭け碁の借金の型に志乃を服部平太夫に取られたからとは切り出せず、商売上の金子が必要に成ったと嘘を吐いて二百両を工面した吉之助は、

一月三十日の七ツ半。日も暮れ掛けた頃に本所南割下水の服部平太夫の屋敷へと来ておりました。

吉之助「御免下さい、京橋五郎兵衛町の尾張屋吉之助が、女房の志乃を頂きに上がりましたと、服部様にお取次願います。」

そう謂って吉之助は強い剣幕で取次の書生に訴えますから、書生は直ぐに奥へ其れを伝えますと奥の方から服部平太夫が出て参ります。

服部「之は如何も尾張屋さん。取り敢えず、奥へどうぞ。」

服部平太夫は吉之助を奥に通しますと、いつもなら賭け碁をしている座敷が襖越しに閉ざされ、中では食事でもしているのか?皿や鉢が箸に当たるガチンカチンと謂う音が致します。

吉之助「志乃を!志乃を返して頂きたい。」

服部「志乃殿を返す事には吝かでは無いが小僧の亀吉くんにも申し上げたが、借金の返済が条件だ。金子は用意できたのかね?吉之助殿。」

吉之助「ハイ、此処に御座います。金二百両で御座います。」

そう謂うと尾張屋吉之助は懐中から紫の袱紗に包んだ二拾五両の切り餅を八個。服部平太夫の前に並べて見せた。


併し!


服部「何んですか?之は。二百両?」

吉之助「之で文句はないハズです。借金を返したのだから、志乃は返して貰いますよ、服部様。」

服部「何を寝言を謂うんだ!吉之助さん。貴方の借金は、ホレ!此の証文に在る通り『千二百両』ですよ。残る千両は何処ですか?!」

吉之助「そんな!馬鹿な。イカサマだ。」

そうです。証文には『金』と『二百両』の隙間が『千』の文字が書き足されて改竄されていたのである。

服部「其れに志乃が、志乃自身が帰ると謂うのか?聴いてご覧なさい。」

そう服部平太夫は謂うと、隣座敷との間の襖を開けて見せた。其処には鬢(ビン)の解れた志乃が紅い長襦袢一枚で、気怠そうに三味線を爪弾きして小声で端唄を唄って居た。

更に、志乃の後ろには母親のお久羅婆さんと妹芸者の月乃の姿も有り、是を見た尾張屋吉之助は驚愕の余り呆然と致します。

服部「さて、志乃!亭主だと自称する尾張屋吉之助が、お前を迎えに来たそうだが、志乃!貴様は吉之助に付いて帰る積もりであるか?」

志乃「いいえ、妾は帰る積もりは有りません。あんな妾を騙して賭け事で借金を造り、剰え、其の利子代わりに女房を芸者に戻す様な男の所へは帰りません!!」

服部「では、如何致すか?其処に居る元亭主に教えてやりなさい。」

志乃「ハイ、アチキは母親である久羅の後見を持って、服部のお殿様の側室に相成りまする。もう、五郎兵衛町とは縁切りです。」

吉之助「何を謂い出すんだ!俺は、服部様に二百両、確かに賭け碁に負けた借金を借りたが、今、其れは返した!頼む、志乃、私の女房として店に戻って来て呉れ!!」

服部「如何致す、志乃?!吉之助は斯様に申して居るぞぉ、ハハハハぁハぁ〜。」

志乃「厭です。嘘吐きの所へは帰りとうは御座いません。こんな男、御前様、殺(け)して仕舞って下さい、目障りに御座います。」

服部「相判った!汝の望み通りに致して進ぜよう。各々方、此の狼藉者を始末して下さい。」

そう服部平太夫が指図しますと、服部平太夫が飼っております用心棒、無頼の徒が四、五人現れて吉之助に殴る蹴るの暴行を働いて、気を失った吉之助を簀巻きにすると割下水へと放り込みます。

そのまま簀巻きの吉之助は本所から南割下水を錦糸町辺りまで流されますが、運良く船の漕ぎ出した竿に当たりまして、船頭の松之助と謂う男に助けられます。

此の松之助は元、業平文治の子分だったのが今は気質になり船宿の『三好乃』で船頭をしております。だから、息を吹き返した吉之助は涙ながらに文治郎の所へ噺を持って参ります。

さぁ、是を聴いた高濱文治郎、又母親のお峰、更には立川ノ岩松も絡みまして、大喧嘩と成る訳ですが、其の業平文治三十六人斬りのお噺は『侠客 その後の業平文治』に続きます。