江戸は本所業平橋に、業平文治が居を構えてから一月余りが経過致しまして、北は千住や綾瀬辺りから南は深川、門前仲町、木場辺り、
一方、東は平井、小岩辺りから西は、上野、飯田橋辺りまで、緒方の侠客や道楽者が文治の元を訪ねて来ては『お近付きに成りたい!』と、
交際(おつきあい)を求める者、子分にして欲しいと盃を欲しがる者が跡を断ちません。但し業平文治は、他の一般的な侠客とは異なりまして、
酒の上の交際は致しますが、賭博は打ちませんし、女郎買いも致しません。義理の上での喧嘩は致しますが利権や金子目的では決して動かない。
だから、一度は『お近付きに成りたい!』と挨拶には来たものゝ二度と来ない道楽者も少なく有りません。又文治の唯一の道楽が魚捕りで、
此の魚捕りとは魚釣りでは御座いません。業平文治の性格上、一匹一匹釣竿を用いて捕るのは性に合わないので文治は投網で一網打尽に致します。
そんな業平文治は此の道楽のお陰で、一寸ばかし困った事に巻き込まれて仕舞うのです。其れは或る星空の夜の出来事でした、文治が子分の岩松を呼んで、
文治「オイ、岩松!今宵は久しぶりに大川へ夜網に出掛ける。船宿の『三好乃』には舟は借りてあるんだが、生憎船頭が出払ってゝお前に舵子を頼む。」
岩松「ヘイ、構いませんよ、お伴致します。」
文治「じゃぁ暮六ツ半に三好乃で。網は俺が運ぶから、お前の方は岩蔵さんの屋台で適当におでんを仕入れて酒と夜食の調達を頼む。」
岩松「ハイ、承知しやした。」
こうして其の夜も、正に落語『権助魚』のように業平文治は子分の立川ノ岩松を一人連れて、船宿『三好乃』から船を出して投網で魚を捕りに出ます。
船を大川の北手、川上の方から魚の寝て居そうな棚を狙って投網を打つ訳ですが、さぁ〜此の日は小魚ばかりで型の良い魚が一匹も捕れません。
岩松「親分、今夜は所謂間日と謂う奴ですぜぇ、こんな日は諦めが肝心です。早目に切り上げて帰るに限りますぜぇ。」
文治「ヨシ、首尾の松辺と、両國百本杭ん所で跡拾二、三回打って捕れなきゃ、お前の謂う通りに止めにするから、我慢をして舟遣って呉れ。」
岩松「ヘイ、宜う御座います。」
そう謂うと岩松が艪を漕ぎながら舵を川下に執り、舟は厩橋から首尾の松辺りまでやって来ますと、文治は網を絞ってザンブと投げ入れます。
そしてゆっくり、ゆっくり、引き上げますが今までに経験した事の無い位に、ズシリと重い手応えですから、流石の怪力業平文治も驚きます。
文治「岩松!何だか知らぬが…、大層重い!!」
岩松「大鯰(ナマズ)ですか?、其れとも巨大鯉?もしかするとアマゾンの主ピラルクでしょうか?」
文治「イヤ、魚じゃ無い様だ。」
岩松「???」
そんな会話が有って文治は網を手繰り、中洲の水際まで引き上げて、網を星灯りに照らしながら慎重に覗いて見ると…、其れは女の土左衛門です。
文治「岩松、大変なモンを引き上げちまった!」
岩松「何が捕れました?」
文治「若い女の…、土左衛門だ。」
岩松「エッ!だ・か・ら、アッシが謂ったじゃ有りませんかぁ〜今夜は間日だって、碌な事が無いから早く帰ろうッて嗚呼、謂わんこっちゃない。」
文治「仕方ないだろう。其れに俺が打った網に掛かったのも何かの縁だ。そう邪険にするなぁ。命が有りや?無しや?先ずは確かめ様。」
どうにか女を二人掛かりで舟に上げまして、帯を緩めてやりますと女は息が在る様子で、かなり上等の友禅の派手な絹物を着ており何処ぞの芸者の様です。
文治「どうやら命は救われたらしい。まだ二十歳そこそこの娘さんだ、両國の橋場から引き上げて、早く介抱してやろうじゃないかぁ。」
岩松「親分!其の女、恐らく心中の片割れですぜぇ。命を救けても…返って不憫に成りますから、目覚ます前に首を絞めて死なせてやった方が此の女の為ですぜぇ。」
文治「馬鹿を謂うな岩松、俺に女が殺せるかぁ!!」
岩松「でも、心中は大罪ですよ。其れに生き残ったら三日間日本橋の袂に晒されて吉原か?品川辺りに売られて仕舞う。而も、年季は終身だ。」
文治「そんな事は判っているが、心中と決まった訳じゃない。つべこべ謂わず早く舟を岸に着けろ。」
岩松「判りました!やります、やりますよ。」
岩松は十中八、九女は芸者で道成らぬ恋で心中したと思いますから、関り合いに成らん方が宜いと注進しましたが…親分の業平文治は聴き入れません。
仕方なく女を舟に乗せ両國の橋場から引き上げてやる為、必死に艪を漕ぎ岸を目指す岩松、漸く舟が到着すると文治が飛んでも無い事を謂出します。
文治「ヨシ、岩松!此の女人を背負って行け。」
岩松「親分!冗談謂ッちゃいけねぇ〜。何んで土左衛門の女をアッシが背負うんですかぁ〜。」
文治「つべこべ謂うなぁ!子分はお前だ。そして親分は俺だ。其の俺が背負え!と指図したんだ、文句は謂わずにとっとと背負え!岩松。」
岩松「ッたく、判りました!背負いますよ、嗚呼、冷てぇ〜。」
ブゥーブゥー文句を垂れながらも岩松に女を背負わせて、業平文治は両國は米澤町の成田屋の前まで参りまして、表の戸を叩き始めます。
文治「オーイ、早くここを開けて呉れ。」
重吉「誰だ!こんな時刻に…、悪戯だったら叩き殺すぞ、ここを誰の家だか知ってゝやってやがるのか?成田屋富五郎親分の家だぞ!!」
文治「重吉、俺だ、業平文治だ。怪しい者じゃない、早く開けて呉れ。」
重吉「何だぁ、業平橋の親分さんですかぁ、失礼しました。直ぐに開けます………、親分、こんな夜中にどうされました?」
文治「イヤ、舟を三好乃から出して投網を打って居たら、カクカクしかじか、云々かんぬん、そんな訳で此の女人を救けちまったんだ。」
そう謂って家ん中へ土左衛門の女を運び込むと濡れた女の服を脱がせて、女将のお政が自分の寝衣に着替えさせて、取り敢えず布団に寝かせたが、
女はかなり瀕死の状態で意識を取り戻す様子は有りません。体温が低下し危ない状態だと感じた業平文治はどうにかして、此の女の命を救いたいと思案します。
重吉「文治親分!此の半分死人の女をどうやって救いなさる積もりです?」
文治「そいつを今考えている所だ!黙っていろ、気が散る!………。」
口を真一文字に結び、一休さんが頭を指先でくるくるやる様に、文治は深い腕組みをして、仕切にウーン!ウーン!と唸り声を上げていた。
文治「ヨシ!閃いた。死人の様な女を肌と肌とを合わせ、直接身体を温める、之だ!!」
重吉「其の死人の様な女に誰が肌と肌を重ねるんです。最初(ハナ)は『様な』かも知れないが…、時期に死人に成るだろうから往生しまっせぇ、親分。」
文治「若くて之だけの別嬪さんと、ただで肌と肌を重ねられるんだ、やりたい奴は居るだろう!?重吉どうだ?喜蔵は?金太、お前でも構わんぞ?」
全員「間に合って居ります。」
文治「そうかぁ、成田屋の連中は白状だ。仕方ない、之も岩松、お前にやって貰うしかない様だ。頼んだぞ、岩松。」
岩松「じょ、じょ、じょ冗談じゃ有りませんよ、親分。死人と肌を合わせるなんて、トラウマに成って女が抱けない身体に成ったらどうするんです!だから厭です。」
文治「だから未だ死人じゃなく、死人の様な女だ。其れにお前が吉原の蹴殺で買ってる女郎より此の女子の方が百倍、イヤ万倍別嬪さんだぞ、
腐っても鯛、と謂う有難い弘法大師のお言葉が有る様にだ、之は親分命令だ、若し反くなら覚悟を決めて業平橋から出て行け、破門勘当だ!」
岩松「破門勘当って…、判りました!遣りますよ。死人を抱かせて頂きます。死人のカンカンのうなら聴いた事在るけど、死人と肌を重ねるッて…。」
そう謂うと立川ノ岩松は褌一丁になり、半死半生の其の女を布団の中で肌と肌とを合わせて必死に温めて続けた。だってマジの死人に成られたら困るから。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と呟きながら必死に温め続けた岩松の努力が報われたのか?女は血色が良く成り、軈て口から呑んだ水を吐き出し蘇生します。
文治「オイ、姐さん、大丈夫かい?」
女「ここは?貴方は…、閻魔様には見えませんが…、なぜ、救けたりしたんですかぁ、お怨みします。」
文治「姐さん、俺は業平文治って侠客だ。夜に舟を出して網捕り魚を狙っていたら、オイラの投網にお前さんが掛かり此処へ連れて来たんた。
事故じゃなく自分で身投げした様だが、行き掛かり上捨て置く訳にも行かずお前さんの命を救けたが、お前さんは何処の誰で、何故身投げなんかしたんだ?」
志乃「妾は柳橋の裏河岸で町芸者を稼業にして居ります戸倉屋の志乃と申します。本日は情夫と心中をする積もりでしたが…、相手が現れず独り身投げを致しました。」
岩松「ホレ!親分、謂わんこっちゃない。此の女、俺が謂った通り心中の片割れじゃ有りせんかぁ〜。」
文治「違うだろう、心中の約束はしたが相手は来なかったから、独りで身投げしている。だからタダの身投げだ。心中じゃない。」
岩松「そりゃぁ屁理屈です。相手が来ていたら心中じゃないですかぁ。」
文治「併し、心中する程惚れ合っていて、なぜ?男の方はトンズラかますんだ?!」
岩松「死ぬのが恐く成ったのでは?」
文治「そんなぁ、一刻半も待って強い意志で身投げした志乃さんが見染めた男がゝ?何んかぁ、俺は釈然としねぇ〜なぁ〜。」
岩松「心中相手は商人なんでしょう?芝口一丁目の小間物屋の尾張屋でしたッけ!?御主人の遠縁に当たる色男で手代だとか。何んかどっかで聴いた様な噺じゃ有りません。」
っとそんな会話を業平文治と立川ノ岩松がしている所へ、本日不在だった親分の、成田屋富五郎が見知らぬ若い男を連れて家に帰って参ります。
富五郎「嗚呼、参った!参った!」
文治「兄貴、お邪魔しています。」
富五郎「何んだ、文治来て居たのかぁ〜、オぉッ、岩松も一緒なのかぁ、ヨシ、今日は泊まって行け。」
文治「ところで、町火消しの寄合ッてこんな真夜中までやるんですか?大変ですねぇ。」
富五郎「馬鹿!寄合は暮六ツ前に終わるよ、今日は特別だ。死に損ないを一人助けたから。」
文治「奇遇ですね兄貴!アッシも身投げを一人救けて来たんです。首尾の松の真下で。」
富五郎「確かに奇遇だ!俺の方は両國百本杭ん所よ。」
文治「兄貴も土左衛門ですか?」
富五郎「馬鹿、土左衛門じゃ死んでるだろう。俺は身投げ心中前の挙動不審の男を、大川に身投げする前に取り押さえて番屋へ引っ張り込んだんだ、お前は?」
文治「アッシの方は首尾の松の真下で、投網を打ったら引っ掛かりましてね土左衛門が。瀕死の状態でしたが、此方へ運んで介抱したら蘇生しました。」
岩松「親分!富五郎親分に、恰も自分で蘇生させたみたいに謂わないで下さい。其の死人を蘇らせたのは誰あろう!アッシなんですから。」
富五郎「フーン、若しかして!?其の土左衛門は、まさか心中の片割れなのか?文治。」
文治「違いますよ。ただの身投げです。まぁ、正確には心中する積もりが相方が来ず、仕方なく独りで身投げしたんですがねぇ。」
富五郎「珍しい偶然だなぁ、俺が助けた男も心中するハズの所を俺が強引に止めたから、相方の女に済まない事に成ると、散々ゴネていたが俺が力で黙らせたんだ。」
文治「アッシが助けた芸者も、相手の男を一刻半も待ったけど待合わせ場所の首尾の松に現れないから、泣く泣く独りで身投げしたそうです。」
富五郎「エッ!芸者なのか………、何処の芸者だ?赤坂か?深川?浅草?まさか金春とか謂わないだろうなぁ。」
文治「柳橋ですよ!芸者と謂えば。兄貴が心中を止めた男はどんな野郎ですか?職人や坊主じゃ有りませんよね?やっぱり商人ですか?」
富五郎「嗚呼、勿論。商人さぁ、芝口一丁目の大きな小間物屋の、尾張屋の手代で吉之助って野郎だ。主人の遠縁らしく主人は子無しだから、
若し見込みが有れば行く行くは店を継がせてやると言われている、とまぁ、あくまでも本人が謂うには跡取り候補らしい。そんな男だ!俺が止めた野郎は。」
岩松「やっぱり!間違い有りませんよ、文治親分!」
文治「そうだなぁ〜、富五郎兄ぃ!俺が網で助けた芸者と、兄貴が身投げを止めさせた商人は、心中を計画していた相手同士です。」
富五郎「本当うかぁ?!偶然って、恐ろしいなぁ。花札みたいに捲ると札同士が合う事もある。」
そう謂うと成田屋富五郎は自身が助けた芝口一丁目の小間物屋尾張屋の手代吉之助と、業平文治と立川ノ岩松が救けた柳橋戸倉屋の芸者志乃を引き逢わせると、
志乃!吉之助さん!
と、互いに泣きながら手を握り抱き絞め合って名前を呼び合います。此の様子を見た文治は志乃と吉之助に仔細を尋ねると、泪ながらに身の上を語り始めます。
さて、柳橋で芸者をしている志乃には柳橋で一、二を争う業突く張りで有名な母親、戸倉屋のお久羅(くら)と謂う遣手が付いておりました。
志乃は柳橋でも三本の指に這入る売れっ子の芸者で、芸は売るが身は売らぬのがウリの芸者、十四歳でお座敷に上がると十七歳の時には柳橋で知らぬ者は無い超売れっ子に。
『囲いたい。』と謂い寄るお大尽、お殿様は星の数程の声掛かりでしたが、三月先、イヤ半年先迄お座敷が予約で埋まる志乃を、お久羅は誰の持ち物にも決して致しませんでした。
ところが、志乃が二十歳の年増に成るとその方針がガラっと変わって仕舞う。志乃の価値が高止まりした年齢で、一文でも高値で売り抜けようと考え始めたので御座います。
流石、柳橋で一、二を争う業突くは伊達じゃない。お久羅、最初(ハナ)は吉之助の嫁にと志乃を考えて居た。三日と空けず予約を入れて志乃に貰いを掛ける吉之助は特上の客だった。
而も、芝口一丁目の小間物屋、尾張屋の跡取り候補の上珠だ。尾張屋の身代は三万両は下らないし、娘を吉之助の嫁にすれば高輪の別荘でお久羅は楽隠居だ。間違い無く人生の勝組に成れる。
そんな訳で半年前迄は相思相愛の吉之助と志乃は本格的に媒酌人(なこうど)を立てゝ結納へと運ぶ予定だった。ところが!新たに吉之助には好敵手(ライバル)が現れるのだ。
相手は本所南割下水にお屋敷を構える天下の直参旗本、三千石の御大臣、服部平太夫。服部は本妻を亡くす前から四年もの間、志乃のご贔屓の一人だったが一年前に本妻を亡くす。
其れでもお久羅は三万両の身代の方に、三千石の直参よりも魅力を強く感じていた。つまり飽く迄も本命は吉之助で、服部平太夫は対抗の保険に過ぎない存在だった。ところが……、
吉之助は志乃にお座敷を掛ける為に店の金に手を付け帳簿に穴を空けて居る事が判る。之は志乃と吉之助だけの秘密だったが、志乃の妹芸者の月乃が盗み聴きしてお久羅に密告したのだ。
さぁ〜、お久羅は考えた。吉之助を此のまま本命にして於いて良いのか?ッてねぇ。吉之助が尾張屋の身代を継げなければ、三万両は絵に描いた餅に成る。
其れならば一層の事、吉之助との縁談は無かった事にして、直参旗本三千石の後妻に志乃を差し出す方が得策だ!と思う様になり、ここも月乃が色々と手を廻して噺を進めるのです。
そして、具体的な服部平太夫家への嫁入りの絵図(アジェンダ)が完成した。先ずは志乃を一旦御家人の養女と謂う態で武家の作法などの教育を始める。
次に其の御家人の娘として服部家へ腰元として行儀見習いに出し、平太夫のお手が付けば側室として扱う。最後に懐妊を条件に志乃を本妻に直しお久羅も服部家が引取ると謂う絵図である。
そして、遂に其の時が来て志乃は第一段階の御家人の田辺庄左衛門様の養女と成る日が明後日に迫り、吉之助も志乃もどうする事も出来ないと自暴自棄に成り心中する事を選んだのだった。
吉之助「そう謂う経緯だから、もう此の世に生きる望みは御座いません。死ぬしかない二人なんです。」
志乃「そうなんです親分さん、妾と吉ッさんはあの世で結ばれるしかもう、性が無いんです。後生です!死なせて下さい。」
文治「馬鹿謂っちゃいけねぇ〜。死んで我が身が咲くものかぁ!?人間はどんなに辛くても生きてこそだ。宜いかぁ、俺が、此の業平文治がお前達二人を必ず夫婦にしてやる。
兎に角、お前達二人の命は俺に預けて呉れ。折角、俺と兄貴が救った命だ。二度と死ぬとか謂うなぁ、心中なんぞ許さん。富五郎兄ぃ、此の二人の事はアッシに任せて頂けませんかぁ?」
富五郎「嗚呼、俺に依存は無ぇ〜、文治、二人を幸せにしてやって呉れ。そして、困った時には謂って来い。力に成ってやるから。」
文治「有難う御座います、兄ぃ。オイ、二人共、オレッチに付いて来なぁ〜。」
そう謂うと業平文治は吉之助と志乃を連れ子分の立川ノ岩松を従えて、両國米澤町を跡にして本所は業平橋の我が家へと帰って行くので御座います。
翌日、業平文治は子分の立川ノ岩松を連れて、芝口一丁目に在る小間物屋、尾張屋八右衛門を訪ねた。かなりの大店で間口は八間、六十人からの奉公人が働き活気が御座います。
更に蔵が七つも有り流石、三万両の身代は外から眺めるだけで豪気に写ります。文治は褌の紐を締め直す気分で決意も新たに、子分の岩松は表に待たして置いて独り中へと這入ります。
文治「御免、なすって。」
小僧「ヘイ、いらっしゃいませ。おはよう御座います。さて、御用をお伺い致します。」
文治「おはよう。小僧さん、旦那に用が有るんだが、呼んで貰えるか?!」
小僧「ヘーイ、少々お待ち願います。」
そう云うと小僧は奥へと這入って行き、暫くすると小太りで木綿の押付を着た四十絡みの如何にも番頭と判る男を連れて戻って来ます。
番頭「初めまして、お初にお目に掛かります。番頭の治兵衛と申します。どう謂った御用件でしょう。」
文治「こちらの奉公人の吉之助さんの事で、旦那さんと一寸お話しゝたい事が御座んして罷り越しました。旦那さんをお呼び願いますか?」
治兵衛「吉ドン…、吉之助に何か有りましたか?どう謂う御用でしょうか?」
文治「伝言で話す様な中身じゃ御座んせん。直接、旦那さんに話しますので!旦那さんを呼んで下さい。」
治兵衛「いいえ、店と奉公人の事は私が任されております。取り敢えず、私が伺って主人に伝えるか?否か?、其れは私が判断致します。」
文治「判らねぇ〜石頭だな。伝言は厭だと謂っているだろう!俺も親分とか兄ぃとか呼ばれている侠客だ、ガキの使いじゃねぇ〜んだぞ!タコ。」
治兵衛「いいえ駄目で御座います。商人には商人の決め式が御座います。御用件をお聴きせぬまゝ主人に会わせる訳には参りません。」
文治「頑固な野郎だなぁ!」
治兵衛「何んと謂われ様と、決め式は曲げられません。」
さぁ、こんな調子で業平文治と番頭の治兵衛が店先で激しく謂い争いを始めますから、此の騒ぎは奥に居る主人八右衛門の耳にも自然と届きます。
八右衛門「コレコレ、何んの騒ぎです、番頭さん!?」
治兵衛「之は旦那様…、いいえ、此の無頼漢(ヤクザもん)が旦那様に会わせろと、騒ぎ立てるものですから私が諫めておりました。」
八右衛門「此方の方は?」
文治「嗚呼、アッシは本所業平橋に住んで居ります、業平文治と申す駆け出しの侠客に御座んす。今日はご主人の甥子さん、吉之助さんの事で伺いました。」
八右衛門「オぉー、貴方が本所の業平文治親分ですか、私が当店主、尾張屋八右衛門で御座います。以後宜しくお願い致します。御高名は兼々承っております。
時に今親分は吉之助の事で私どもへ参られたと謂われましたが、吉之助は昨夜湯へ行くと店を出てから行方知れずでして、私どもゝ探しておったのです。」
文治「其れならご安心下さい、吉之助さんはアッシの家に無事で居りまして、今日は其の辺りの事情をお話しに参った次第で…。」
八右衛門「左様でしたかぁ〜、番頭さん!なぜ、親分さんを直ぐ奥にお連れしなかったのですか?」
治兵衛「イヤ私は慣例通りに…先ずは私が伺ってから旦那様にお知らせすべき案件かを判断し…其れからと思いまして…そしたら伝言は厭とか此の無頼が申すから。」
八右衛門「番頭さん!ヤサ、治兵衛。失礼ですよ、文治親分は無頼漢などではなく立派な侠客です。貴方、本当に人を見る目が有りませんね。私はガッカリです。」
文治「治兵衛!私もガッカリです。」
そう謂うと尾張屋八右衛門は業平文治を連れて、奥の客間へと案内致します。お茶と茶菓子を直ぐに運ばせて、莨を一服付けてから本題の吉之助の噺に掛かるのでした。
八右衛門「さて、親分さん。甥の吉之助の噺とは一体どんな噺でしょうか?!」
文治「実は昨晩、アッシの兄貴分の成田屋富五郎が両國の百本杭の対岸で吉之助さんを、カクカクしかじかで助けまして、何故心中何んて?と尋ねたら云々かんぬんと理由は金四百両の使い込みだと白状しました。
更に、柳橋の芸者、志乃さんとの恋が目的で四百両を使い込んだ事、志乃さんとは夫婦約束しているが、カクカクしかじかで、上手く結ばれないと考えて心中しようとしていました。」
八右衛門「エッ!吉之助が芸者と心中沙汰に?!たった四百両の為に死のうとしましたか?吉之助は。命は金子には代えられぬのに…、田分けた事を。」
文治「ハイ、でも御心配なさらないで下さい。先に申した通りで、富五郎兄貴が身投げ実行前に吉之助さんを思い止まらせて、今は落ち着いて自殺の心配は有りません。」
八右衛門「併し、助けたのが成田屋富五郎親分なのに、なぜ貴方がこうして来たんですか?」
文治「其れはアッシが心中の片割れの柳橋芸者の志乃さんを救けたからで、兄貴分の富五郎に心中の二人は纏めてアッシが面倒みると宣言したから此方へ伺ったのです。」
八右衛門「ホー、矢張り噂通りだ。」
文治「そいつはどう謂う意味ですか?」
八右衛門「イヤ噂通りの人情家だ親分さんは。燗酒屋の爺さんを助けた噺とか、貧乏長屋の因業大家に鉄槌を下した噺などなど、弱い者の味方をなさる本格の侠客だ。」
文治「そんな大層なもんじゃ有りません、ただ放ッとけ無い性分なんです。ところで、吉之助さんの四百両の件ですが、一度に返すのは無理なので月賦での返済にして貰えませんか?
細かい返済の条件は後日、当人を連れて来て定める事に致しましょう。キチンと証文を作ってアッシが保証人に成り、必ず四百両返済させます。
但し、完済には十年、十五年掛かるかも知れませんがお許し下さい。其の代わり吉之助さんを甘やかさ無い様、尾張屋には戻さず背負い小間物の一人商売をやらせます。
当人とも噺をしましたが小間物屋しか出来ないと申しますから、ならば背負い小間物の商いでと成りました。又志乃さんの方も母親を説得出来た暁には二人を夫婦にします。
そんな訳で、暫くはアッシが業平橋の家で二人の面倒は見てやり、成るべく早く二人が住む長屋を探してやり、吉之助さんには背負い小間物の商売を始めさせます。
まぁ、銭を貯めてゆくゆくは店を構えて小間物屋となり、旦那に四百両を返し終えた、そん時には旦那!どうか、吉之助さんに尾張屋の暖簾を分けてやって下さい。」
そう謂うと、業平文治は畳に額を擦り付けながら尾張屋八右衛門に、月賦で四百両は返済する旨を話し、吉之助を許して欲しいと懇願致します。
八右衛門「親分!頭を上げて下さい。貴方は本当に偉い御方だ。伯父の私より甥の吉之助の事を親身に考えて下さっている。こちらが恥ずかしく成りますから頭を御上げ下さい。」
文治「其れじゃぁ〜尾張屋の旦那、吉之助さんの事は許して頂けるんですか?」
八右衛門「勿論です。其れにしても吉之助は運の宜い奴です。親分や富五郎親分みたいな人に命を救われて…本当に御二人には足を向けては寝られません有難う御座います。
其れから小間物屋をやると吉之助が謂うなら、仕入の商品は尾張屋が仕入値で卸してやるからとお伝え下さい。又、返済やら仕入やらの噺をしに吉之助と来て下さい。」
文治「有難う存じます。では又日を改めまして、今後のご相談に吉之助さんを連れて二人で参ります。」
八右衛門「ハイ、ご連絡をお待ちしております。そして次回は夜宴席を設けますから、親分と富五郎親分、其れに志乃さんも加えて門出を祝う事に致しましょう。」
文治「そいつは有り難い。吉之助さんと志乃さんも慶びます。では、本日はお邪魔様でした。」
八右衛門「いいえ、こちらこそ。では又、お近いうちに。」
こうして、吉之助と尾張屋の方の四百両の使い込みの件は実に円満に解決でき、ホッとする業平文治でした。さぁ次は鬼門、柳橋で一、二の因業婆のお久羅が相手で御座います。
つづく