本所亀澤町の道場主、天野光雲斎との出逢いから、業平文治は文政五年の新玉の春を迎えて居た。又天野道場と町火消し、に組との騒動を手打ちにした、其の一番の立役者として、

業平文治の名前は本所、両國界隈は勿論、清澄から深川辺り迄轟く様に成って居て、界隈の博徒や無宿人には文治の子分に成りたいと申出る輩が跡を絶たなかった。

併し、文治当人は中々是を許さず盃を下さないので、特に成田屋富五郎からは早く子分を持って其れを育てるのも親分の大切な仕事であると、口を酸っぱく謂われております。

そんな或日の事、天野道場に出稽古に行き光雲斎の道場の門人達と汗を流しての帰り道、両國橋の袂で、おでんの屋台を出して居る老人が、若侍と揉めて居る場面に遭遇します。

若侍「だから、払わぬとは申しておらぬ。今持ち合わせが無いから掛けにしろと申しておる。」

老人「お武家様、お言葉ですが夜泣きのおでん屋で御座います。一見のお客様に掛け売りは一杯八文のお酒を六杯に四文のおでんネタを四品で六十四文を負けて六十文で結構ですから。」

若侍「手元不如意だと申しておろう!判らん爺だなぁ。必ず、明日持参致す。掛けに致せ!掛けに、御免。」

そう謂うと其の場から若侍は立ち去ろうと致しますが、おでん屋の爺さんは若侍の足に縋り付き『御代を!御代を!』と泪ながらに訴えて居ます。

そんな場面に遭遇した業平文治。義侠心の塊りの様な漢で御座いますから、是を見過ごして行く事は当然出来ず、一声掛けて絡む事に成るので御座います。

文治「オイ、お若けぇ〜のお待ちなせぇ〜。」

若侍「何だ!貴様は?幡随院長兵衛気取りか?、其れにお若けぇ〜のッて、拙者と汝では大して歳は変わらぬぞ!!」

文治「イエねぇ、偶々通り掛かった者ですけど、見てりゃぁ、おでん屋の六十四文の代金を払わずに食い逃げしようとしてるから爺さんが困ってなさる!払ってお遣りなさいよ、旦那。」

若侍「貴様に関係無いであろう!其れに食い逃げとは聴き捨てならん!失敬なぁ、ツケて於け!掛け売りでと頼んだダケだ。」

文治「旦那、与太こいちゃいけませんぜ。何処ぞの世界に屋台のおでん屋が一見客に掛け売りします?馬鹿も休み休み言って呉れ、さぁ、爺さんが可哀想だ六十四文払って呉れ。」

若侍「だ・か・ら、手元不如意だと申しておる。御免!」

そう謂うと今度は若侍、おでん屋の爺さんを雪駄履きで足蹴にして逃げ様とするから、減り止の金具で額を蹴られた爺さんは、とうとうオデコから出血致します。

さぁ、是を見た文治、遂に堪忍袋の緒が切れた様子で逃げる若侍の後ろ襟を掴むと力任せに引き付けます。七人力の馬鹿力で引き留められた若侍。

着物の前襟で首を絞められ苦しそうにしている所に、側頭部を文治の白い巌の様なゲンコツが飛んで来て目から火花、目の前に星がチラチラします。

若侍「なッな、な何を致す!無礼者。」

文治「どっちが無礼だ。おでんを食い逃げしようとしやがって!其の位の折檻は自業自得だ!タコ。さて、どうしても払わないか?若造。」

若侍「誰が若造だ!貴様も拙者と歳は変わるまい、嗚呼、こう成ったら尚更だ!絶対に払う積もりは無い!」

文治「そうかぁ仕方ない。死んで貰うしかないなぁ〜。俗に馬鹿は死ななきゃ直らないと謂うがぁ全くだ。さて、貴様は山と川、どっちが好きか?好きな方を選べ。」

若侍「何んだ?突然。おでん如きで、殺すとは物騒なぁ、其れに山か?川か?ッて、何の噺だ?!」

文治「イヤ、俺は人情に厚い漢を自負しているから、若し貴様が山が好きなら死骸は穴を深く掘って山に埋めてやるし、川が宜ければ重たい石を抱かせて大川に沈めてやる。」

若侍「じょ、じょ、じょ冗談を謂うな!!」

文治「冗談ではない俺は本気だ。喜べ!貴様の其の命で、金六十四文は俺が肩替わりしてやる。さぁ選べ!山が好きか?其れとも川が好きか?」

そう謂うと業平文治は笑顔を造り若侍に迫りますが目の奥は笑っておりません。ゆっくりと近付きながら指をポキポキ鳴らし始めると、若侍は恐ろしさに失禁致します。

若侍「判った!払う、払うから!殺さんで呉れぇ。」

文治「駄目だよ、旦那。もう遅い。吐いた唾は呑み込め無ぇ〜。アンタも武士の端くれなら、潔くあの世へ行って後悔しなぁ!もう一度ダケ聴くぜぇ、山が好きか?川が好きか?」

そう謂って業平文治が一寸先迄、顔を近付けて脅すと若侍はとうとう気絶してしまいます。文治は若侍に喝を入れて蘇生させると、釣りは要らぬと謂わせ爺さんへ一朱の金を払わせ帰しました。

文治「爺さん、大丈夫か?血は之で拭きなぁ、お前さんの其の煮〆た様な穢い手拭いを使うと破傷風に成りそうだ。汚して構わんから遠慮なく使って呉れ!」

老人「有難う御座います。本当に助かりました。商い始めて口開けのお客が今のお侍で、今日は縁起が宜いと思った矢先アレでしょう。」

文治「そいつは飛んだ災難だったなぁ。気を付けなぁ、旗本の次男、三男にはあんな輩が多いから、爺さんも用心して商いしなきゃ駄目だぞ。

俺も成田屋の若衆から、最近両國橋の袂で屋台荒らしが横行していると聴いていたから気にはしていたが、本当に出会すとは一寸驚いたぜぇ。」

老人「に組の成田屋の親分さんとお知り合いですか?貴方は?!」

文治「俺か?名乗る程の者じゃねぇ〜。米澤町の成田屋で居候をしている業平文治ッて者だ。」

老人「貴方が!あの有名な業平文治親分。其れは其れはお見外れしました。お若いのに立派な親分さんだ、今日は本当に有難う存じます。」

文治「俺は今年、二十五歳に成るが、爺さんはお幾つだい?」

老人「私は今年六十二歳に成ります。」

文治「六十二。宜く働くねぇ。女将さんは?」

老人「去年の夏に流行り病で死にました。」

文治「こいつは悪い事を聴いちまった。」

老人「いいんです親分、女房の事は後悔や悔いは有りません。」

文治「女房のことは、『は』と謂うからには爺さんには悔いがあるんだねぇ?!」

老人「ヘイ、私には今年二十一歳に成る息子が居りますが、之が箸にも棒にも掛からん極道者の賭博打で。其の上、大酒呑みと来ています。」

文治「働かずで家に銭を入れないから、爺さんが其の歳まで働いているのかい?」

老人「銭を入れないダケならマシですが、あの不孝者は家の銭を奪って博打する!酒を呑む!ですから根性、曲がり切って居ります。」

文治「そいつは酷いなぁ。アッチも父に勘当を受けて備前岡山から江戸表に流れ着いた不孝者だから、他人様に偉そうな事は謂えぬが。」

老人「何を仰います。親分さんは立派な侠客ですが、うちの岩松、嗚呼息子は立川ノ岩松が通り名でして、大の博打狂いの大酒呑みなだけで、

全く世間の役になど立ちません。其れこそ、親分さんは弱きを救け強きを挫くですが岩松の奴は真逆のクズ野郎、嗚呼、あんな息子一層生まれて来なければ。」

文治「爺さん、そいつは謂い過ぎ。どんな鬼ッ子でも生まれなくて宜い命なんて!在るはずがない。爺さんの息子、岩松は一寸根性がヒン曲がってるダケだ!

ヨシ、是も乗り掛かった舟だぁ、俺が人肌脱ごう!其の岩松の根性を叩き直してやる。真人間に治して面倒見てやるから爺さん!此の俺に任せて置きなぁ〜。」

老人「本当ですか?親分さん、岩松の野郎を、根性叩き直して呉れますか?」

文治「嗚呼、勿の論よ!さぁ、そうと決まったら善は急げだ。爺さん、今から岩松ん所へ行くぞ!爺さん、岩松は今何処に居る?!」

老人「此の時刻なら、もう、岩松の野郎、家に帰って酒を喰らって居る最中です。」

文治「そうかい!ならば、爺さん、お前さんの家へ俺ッチを案内して呉れ。」

老人「ヘイ、畏まりました。」


ひょんな事から屋台の燗酒屋、文政年間当時、おでんの屋台をこう呼んだそうです。其の燗酒屋の爺さんと出逢い、業平文治は其の爺さんの息子・立川ノ岩松の根性を叩き直す為に、

其の爺さんの長屋は両國橋を渡り右手に一つ目を本所から二つ目三つ目まで返って来て、狭い路地を抜けた辺り正にナメクジ長屋が御座いまして、中でも掃溜の脇に爺さんの家は在ります。

老人「親分、無作苦しい所で申し訳ないが、之が私ん家(チ)だ。真っ暗だからお足元には気を付けて下さい。」

文治「嗚呼、宜しく。」

老人「オーイ、岩松!芯張りを外して呉れ。お願いだ、此処を開けて呉れ。」

岩松「ハぁ?!誰だ、俺様に命令しやがるのは。」

老人「俺だ!岩蔵だ。岩松、早く開けろ。」

岩松「何んだ、死に損ないかぁ。早いなぁ〜、まだ五ツ前だぞ、早終いにも程があるぜぇ!朝まで働け!此の死に損い。」

岩蔵「今夜は余りに寒いから、早仕舞いにした。早く開けて呉れ!!」

岩松「ヤイヤイ!寝言は寝て謂えよ。お前が銭稼がねぇ〜と、此の家は家賃も払えないんだぞ!さぁとっとゝ、稼ぎに戻れ!此の糞爺。」

岩蔵「親分、聴いての通りの横道者です。」

文治「ヨシ、宜かろう。」

そう謂うと文治は岩蔵、岩松親子の部屋の玄関戸を力任せに蹴破り中へ押し入ります。さぁ!突然、六尺は在る大男、色白のお役者様の様な野郎が這入って来たから岩松は目を白黒させます。

一方、立川ノ岩松はと見てやれば既にスルメの足を齧りながら五合ばかりの酒を呑み、寒い部屋なので布団の中に包まって、横着にも横に成りながら二人を下から見上げて居ります。

岩松「だぁ、だ、だ誰だ?貴様。」

文治「業平文治と謂う侠客だ。」

岩松「業平………、文治?!」

文治「名前位は聴いた事が在るだろう?」

岩松「あの!あの!業平文治か?」

文治「どの業平文治だ?!」

岩松「に、に、に、に組の成田屋富五郎親分の舎弟分の、業平文治なのかぁ?!」

文治「そうだ!其の業平文治だ。ついでに、天野光雲斎先生の舎弟でもある。」

岩松「そ!そ!その業平文治が何んの様だ。」

文治「お前の父上、岩蔵殿に頼まれて、貴様の根性を叩き直しに来た。」

岩松「根性を叩き直すだぁ〜、其処に居る死に損いに何を謂われたかは知らねぇ〜が、直せるモンなら直してみやがれ!ベラ棒めぇ。」

文治「岩蔵殿、少し手荒くやりますが宜しいでしょうか?!」

岩蔵「構いません。どーせ、生まれて来ない方が良かった息子ですから、岩松!親分さんに鍛えて貰え!宜いなぁ。」

文治「では、良治をさせて頂きます。」

岩松「何んだぁ〜、良治だぁ?ツボを押すか?灸を据えて呉れるのか?」

文治「お灸を据えてやるよ!さぁ来い、岩松。」

そう謂うと業平文治は岩松が潜ずり込んでいる布団を引き剥がし、襟首を掴むと肩車に抱え上げ、エイッ!とばかりに土間の上に強かに叩き付けるのです。


ギャッ!!


悲鳴に近い声を上げた岩松は土間に叩き付けられて一瞬息が出来ません。其れでも文治は容赦無く二回、三回と、合計八回、岩松を土間に叩き付けると、

岩松は口から血を流して完全に気を失い伸びて仕舞います。すると、其の岩松を文治は肩に担いで両國橋を渡り米澤町の成田屋へ連れて行きます。

翌朝、余りの身体の痛みに目が覚めた立川ノ岩松は、此処が何処か?判りませんが又業平文治に折檻されては堪らないので、逃げ出そうと致しますが

金太「残念だが逃げられねぇ〜ぞ。足に縄が縛り付けて在る。一軒先にも逃げられない。お前の躾は俺と隣に居る喜蔵が文治親分から任されている。

此処は成田屋富五郎親分のお屋敷だ!掃除の手が足りないとお願いしていたら、文治親分がお前を世話して下さった。三度の飯は食わせてやるから、

この屋敷をピカピカにする掃除に毎日励め。お前はこの屋敷の掃除をして、俺達の火消しの道具と剣術の稽古に使う木刀、竹刀を手入れして呉れたら御の字だ。

併し、宜いかぁ?!逃げ出そうとか考えるなぁ〜。文治親分に謂われてるんだ。逃げたら地獄の果て迄追って殺せ!と。死にたくなければ掃除に励め。

因みに、願いダケは聴いて於いてやる。お前は山が好きかのか?其れとも川が好きか?文治親分は元侍だから武士の情けだ!好きな方を選べ!叶えてやる。」

岩松「山が好きとか、川が好きって、何んの事ですか?!個人的には、山や川より海が好きです。」

喜蔵「エッ!マジかぁ〜、よりによって海かよぉ〜。兄弟、此の野郎を殺(や)ったら死骸を刻んで海に撒かねぇ〜と、文治親分に叱られるぜぇ。俺、死骸を細かく刻むの苦手だ!」

金太「俺も苦手だよ、だから毎度、楽な山か?川か?ッて尋ねているんだ。山なら穴掘り、川なら石抱かせて沈めるだけで宜いからなぁ。海は厄介だ!最低だなぁ、此の野郎!」

喜助「野郎、海だなんて謂うから殺したら銭を払って穢多にでも細かくさせよう。素人の俺とお前じゃ、脳天をカチ割るとか鉈で微塵にするとか無理だから。」

金太「嗚呼、そうだな餅屋は餅屋だ。少し前にも海って謂う馬鹿が居たから、仕方なく花火職人に花火で微塵にしたら爆発させた跡、微塵の肉片を集めるのが難儀で。」

喜助「いいかぁ!新入。貴様の仕事は掃除と剣術用の道具と鳶口の手入れだ。逃げたら地獄へ送るが安心しろ!死体は微塵にして大好きな海に返して魚の餌に成る。」

金太「励めよ!文治親分がお気に召さないと、逃げなくても魚の餌だ。但し、慈悲に厚い文治親分が必ずや大好きな海には返して下さる。命が惜しいなら励め。」

さぁ、飛んだ地獄に落とされた!と、立川ノ岩松は後悔しましたが先に立たずです。朝は日の出前七ツ半起きで、成田屋富五郎宅の掃除が始まります。

同居する成田屋富五郎の子分は全て臥煙ですから、全身に倶利伽羅紋々が入った鳶職人で、博徒の岩松何ぞとは比べ物にならない荒くれないに水潜るとは、

で、崇徳院もビックリの乱暴な集団で御座います。掃除や道具の手入れで手を抜いたり気に入らない事が在ると殴る蹴るは日常茶飯事、漸く岩松は父岩蔵の気持ちを理解します。

逆らえない相手に囲まれて、逃げ出す事も出来ずに理不尽な暴力を受ける日々。是は今は岩松自身が受けて居るが、全く昨日までは自身が岩蔵に対してして来た事なのである。

こうして、立川ノ岩松は成田屋富五郎の屋敷に預けられて、家内の掃除と道具の修理に励む内に心が洗われて、仕事は一切手抜きなく言い訳や口応えをしなくなるのです。

金太「岩松!一寸来い。」

岩松「ヘイ、金太兄ぃ!お呼びですか?」

金太「岩松、貴様、此処へ来て何日に成る。」

岩松「そうですね、梅雨に成りましたから、五ヶ月くらいだと思います。正確には、すいません、忙しくて覚えておりません。」

金太「偶には家へ、帰っているのか?」

岩松「いいえ、忙しくさせて頂いていますし、オヤジ様には親不孝の連続で、合わせる顔が御座いません。」

金太「親孝行、したいか?岩松。」

岩松「ヘイ、そりゃぁ〜。オヤジはもう、還暦過ぎていますから、楽な暮らしをさせてやりてぇ〜が。半端者の俺じゃ、食わしてもやれねぇ〜し、孫の顔も見せては。。。」

金太「馬鹿!諦めるなぁ。お前、見ると背中にスジ彫で止めた、紋々を背負ってやがるよなぁ?!其れは何だ?」

岩松「へぇ十七ん時に、鳶の棟梁ん所で半年だけ修行して。だけど、此の成田屋の親分の所みたいには続かなくて。岩に松、鶴が留まった刺青を彫った跡です。」

金太「花札か?!ハハハハぁ。ヨシ、鳶でもう一度には流石にトウが立ったお前だが、臥煙には成れる。俺が推してやるから文治親分、業平文治の子分に成れ!!」

岩松「本当ですか?」

金太「本当だ。あの人は子分を今は持って無いからお前が子分に成れば壱の子分だ。其の代わり、業平文治の壱の子分の立川ノ岩松の背中が、そのスジ彫ではまずい。

俺が宜い彫師を紹介してやるから、其の背中の、岩の松に鶴が羽を休める、つーッと飛んで来て、るーッて留まった刺青を一日も早く完全させろ!宜いなぁ。」

こうして、改心した立川ノ岩松は背中の刺青が完成に近付くに従い、徐々に火事場で漢を売り出しまして、業平文治も此の漢を自身の壱の子分と認めてやらない訳には参りません。

富五郎「なぁ、兄弟。お前さんも子分を持った訳だし、未だにうちの居候と謂う訳にも行くまい。イヤ、お前が居て呉れると儂も女房のお政も助かるが

ただ、江戸に来てもう二年を過ぎた事だし、業平文治の通り名も有名になった。本格的に漢を売り出し此処らで侠客として一家を構えたはどうだ?文治。」

文治「ヘイ、其れはアッシも岩松と謂う子分が出来た時点で考えて居りました。兄貴が薦めて呉れるなら喜んで、ここらで一本立ちさせて頂きます。富五郎の兄貴!有難う御座います。」

こうして成田屋富五郎の一家から独立した業平文治は成田屋一家の世話で、その名に相応しい新居を本所は業平橋の一軒家に構える事に成ります。


文政五年八月。秋の夜長涼む風に虫の声が聴こえて来る今日この頃、両國は米澤町では業平文治の家移りの日を明日に迎えようとしていた。

丁度其の頃、一方江戸表を目指して中仙道を西へと鴻巣の旅籠江戸屋から三人の客を乗せて、何も同じ目的で三丁の駕籠に揺られて参る一団が御座います。

其の一団は勿論、ご存知、上州桐生に絹屋権左衛門と謂う機屋と其の長男、権三郎の親子、そして鴻巣で旅籠江戸屋を営む女将で、成田屋富五郎の妹・お仲です。

絹屋権左衛門は、息子の権三郎が熊谷堤防(ドテ)の地蔵堂で、間一髪命のを奪われそうに成った際に、その命を救ったのが業平文治だと息子権三郎から聴いて、

是非一度、息子の命の恩人である文治に親子二人して会った上で謝礼したいと願っていて、漸くその機会が訪れたのでこの度江戸表へとやって来たのだ。

当然、江戸での滞在先は絹屋が常宿に使っている馬喰町一丁目武蔵屋吉兵衛と謂う旅籠で、此処で成田屋と武蔵屋が揉めた一件に始まり、今では立派な侠客として、

名前も高濱文治郎から業平文治と改めて、此の二つ名で本所業平橋に一家を構える立派な親分にまで出世をしていると、親子は知る事に成るので御座います。

一方のもう一人。此の絹屋親子と一緒に江戸表を訪れたのが誰あろう、に組の頭、成田屋富五郎の妹で、武州鴻巣で旅籠『江戸屋』の女将を務めるお仲である。

お仲も兄富五郎から単にお仲の命の恩人と謂うダケの関係ではなく、既に文治との間で盃を交わし兄弟分である事。更には天野光雲斎も加え三兄弟の契りで在る事も話します。

富五郎「お仲!まぁ、聴いて呉れ。そしてお前も一緒に喜んで呉れ。実はカクカクしかじか、云々かんぬん、今日が家移りの祝いの日なのだ。」

お仲「左様かぁえ〜、其れならば絹屋さん親子も馬喰町の武蔵屋に来て居らっしゃるから、お知らせ申して其の家移りの祝いをご一緒致しましょう。」

富五郎「オウ、じゃぁそうしようじゃねぇ〜かぁ。」

と、富五郎が武蔵屋へ使いを走らせますと、最初、又成田屋から使者が来た!ってんでビクビクしておりましたが、祝いの知らせと判り奥の離れ座敷にお通し致します。

こうして成田屋富五郎、子分の亡霊ノ金太、鬼ノ喜蔵、菩薩ノ富市、天野光雲斎、坂田金十郎、大河原大蔵、石田胤三郎、絹屋親子にそしてお仲と連れ立ちまして、

実に賑やかに業平文治の一家の旗揚げを祝う家移り祝賀会が文治の新居で、其れは其れは盛大に執り行われまして、文治壱の子分である立川ノ岩松も紹介されました。

此の場にはサプライズで岩松の父親岩蔵も呼ばれて、岩蔵岩松の親子が泪ながらに抱き合う姿を見た面々は、又此方も貰い泣きで御座いまして泪!泪!のお披露目に。

権左衛門「文治親分、お初にお目に掛かります。絹屋権左衛門に御座います。先立ては息子の命をお救け頂き誠に有難う御座います。之は些少ですが御納め下さい。」

文治「百両?之はいけません絹屋の旦那。アッシは銭が欲しくて権三郎さんを助けた訳じゃねぇ〜から、受け取ると貫目を下げる事になるんで、御免なすッて!」

権左衛門「判りました。ならば改めて百両、之は家移りの家見舞いに御座います。」

文治「ヘイ、出されたモンを万度返すのも不義理に成りヤスから、之は喜んで頂戴致します。そして之からも何かあったら家へ寄って下さい。」

権左衛門「ハイ、江戸表に来た時は必ずご挨拶に参ります。」

お仲「あのぉ〜、高濱の旦那!?」

文治「オー、之はお仲さん。其の高濱って名前はよして下さい。今は業平文治なんで、文治と呼び捨てゞ構いませんよ、姐さん。」

お仲「止めて下さい、姐さんじゃありません。」

文治「だって、富五郎の兄貴の妹さんだし、お仲さんの方がアッシより二つも歳上ですから。」

お仲「意地悪ですワ、文治親分。女の歳をそんな風に謂って。」

少し顔を赤くして居る事が化粧の上からも判る江戸屋のお仲は、命を救けられた二年前から文治に懸想していて、其の事は文治以外の多くの人には感じられていた。

お仲「では親分。妾も家祝いの金子を持参しましたのでお納め下さい。」

文治「済まない、お仲さんからまで、有難う御座います、喜んで頂戴します。」

富五郎「跡からこっそり、天野先生と二人でお前に渡す積もりだったが、俺達からも御祝儀だ。受け取って呉れ。」

天野「富五郎ドン!其の天野先生は止めて呉れと謂っておるだろう、天野と呼び捨てか?光雲斎と呼び捨てかにして呉れ。」

富五郎「判っちゃ居るけど、先生を呼び捨てには仕辛いよ。」

金太「親分!呼び捨てが難しいなら、渾名で天野ッチとか呼ぶのはどうですか?」

富市「其りゃぁ宜い。親分、雲黒斎って呼ぶとか。」

富五郎「馬鹿!混ぜ返すな!!」

文治「富五郎の兄貴、そして天野先生!有難う御座います。」

こうして盛大に家移りの祝賀会は催されて、家見舞いと謂う名目の御祝儀が業平文治に四百両贈られた。之が実に人徳と謂うやつで稼業からの糧は持たずに、

ひたすら漢を売る『侠客、業平文治』と謂う一途な漢に、惚れた人々が此の漢には糧を与えて下さると謂う不思議な人間模様で御座います。正に漢を売る商売!

祝賀会も四ツを前にお開き。絹屋権左衛門、権三郎親子は駕籠を呼んで馬喰町の武蔵屋へと帰り、天野道場とに組の連中は雨降って地固まるで仲・吉原へ繰り出すと言う。

お仲「兄さん!後片付けは妾と岩松さんでやるから兄さんと先生は岩蔵を連れて三人で帰って下さいなぁ。」

富五郎「そうかぁ、じゃぁ任せた。天野の兄弟、俺達も帰りやしょう。」

天野「では、文治。また道場に顔を出して呉れ。」

文治「富五郎親分も、天野先生も、気を付けて!岩蔵さんを頼みます。」

岩蔵「文治親分、ご馳走様でした。アッシは何んと御礼をしたら宜いのか、岩松の事を宜しくお願いします。」

文治「岩蔵さん!こちらこそ、確かに岩松の事はアッシが責任を持って預かります。また、おでん、食べに行きますから。」

岩蔵「岩松!親分さんの謂う事、宜く聴いてご奉公するんだぞ。」

岩松「オヤジも、寒い日は仕事に出ないで身体、大事にしろよ。銭なら俺が何とかするから。長生きして呉れ!」

岩蔵「馬鹿野郎、又泪が出るじゃねぇ〜かぁ、親を泣かすな!此の馬鹿息子。」

文治「岩松、もう粗方片付けは終わったから、お前、今日はオヤジさんと久しぶりに家に帰ってやれ。親子積もる噺も在るだろう?家に帰えれ。」

岩松「いいんですか?親分。」

文治「嗚呼、いいよ。帰って親孝行して来い。ただし、明日は五ツ前には業平橋に戻って来いよ。」

岩松「ヘイ、合点です。」

こうして文治の新居には文治とお仲、二人ッ切りの空間が出来上がりまして、文治の寝所へとお仲の方から実に積極的に夜這いを掛けて忍び居るので御座います。

お仲「お・や・分!あんまり、女に恥をかかさないで下さいよぉ〜。生娘相手じゃありませんから。年増はお嫌いですか?」

文治「お仲殿。アッシはどーも女子と謂う物が苦手で。そっちの方は疎くて、田舎の道より遠い男だ。」

お仲「大丈夫ですよ、旦那。妾は酸いも甘いも知り尽くした後家ですから、旦那がじっと静かにして下されば、立派な漢にしてみせます。」

と、さぁ!まな板に乗せられた鯉は文治の方で御座いまして、お仲の手練手管で落語『明烏』時次郎状態にされた業平文治。併し、お布団の中でのお仲の求婚に対しては

文治「お仲、お前の私に対する真実は誠に嬉しい限りだが、夫婦に成ると謂う夢は叶えてやる事は出来ぬ。実は私には備前岡山にお絹と謂う許嫁が有った。

そのお絹がカクカクしかじか、云々かんぬん、由えに私は死んだお絹に誓いを立てた、生涯女房は持たないと。だからお前の望みは叶えてやれん済まぬ。」

お仲「其の様な深き仔細が有るとは知らず、女の方から端ない真似をしました、お許し下さい。貴方の心ん中に住む女が相手では恋仇にすら成れませんねぇ。」

そう謂うと、お仲は晴れ晴れした顔をして、黙って翌朝、文治が起きる前には旅立ち鴻巣へと一人帰って行くので御座います。

さて、次回からは愈々文治が業平橋に一家を構えてからのお噺へと移って参りますが、どの様な事件が文治を待っていますやら、乞うご期待!!


つづく