文政四年の年の瀬、高濱文治郎は成田屋富五郎との兄弟盃で『侠客・業平文治』と謂う二つ名で漢を売り出す事に成ります。
元々富五郎の子分だった、亡者の金太、鬼の喜蔵、閻魔の彌助、地蔵の重吉、菩薩の富市などから神輿に担がれて、組合に這入れ!這入れ!
と、唆されて町火消し、所謂臥煙の仲間入り。親分だのオジキだのと持ち上げられた業平文治は成田屋富五郎のに組の用心棒を務めます。
富五郎の子分達に、剣術や素読の指南を致します日々を続けておりましたが、剣術などゝ謂う物は稽古して上達すると腕試しが仕たくなるのが人情。
金太「オイ、文治親分から剣術を習い始めて半年になるが、俺達、どの位の腕前なんだろうなぁ?」
喜蔵「そうだなぁ、旗本奴には負けない位は強く成っているのかなぁ?!」
彌助「ウーン、向こうは六歳から剣術を習うらしいじゃねぇ〜かぁ?半年で追い越せるもんか?」
富市「そんなに腕前を確かめたいなら、他流試合を申し込んだらどうだ?」
重吉「何んだ?其の他流試合って…。」
富市「俺達は文治親分から剣術を習っているから一刀流の剣術を習っているが、他の流派の道場に『頼もう!』って謂ッて試合を申し込むのさぁ。」
彌助「試合を申し込む?!」
金太「簡単に謂うと喧嘩するのぉ、殴り込みみたいなモンさぁ。」
重吉「何処の道場に殴り込みなんか仕掛けるんだ?!富市。」
富市「そうさぁなぁ〜、向こう両國本所亀澤町に何流だか知らないが、天野光雲斎とか謂う道場主がやっている剣術指南所が有るだらう?
有れ何んか手頃な気がする。百人二百人の道場は仕返しが恐いがあの道場なら門弟は三十人程度だし、文治親分一人居れば負ける心配は無かろう。」
金太「何を謂い出す富市、俺達の腕試しに文治親分は関係ないだろう?」
富市「イヤイヤ、道場破りして俺達が負けちまったら、業平文治の名前に泥を塗る結果に成るし轢いては、に組の護憲に関わる問題だから…。」
喜蔵「そんな大事な事を、富五郎親分や文治親分に相談なしにやって宜いのか?富市。」
富市「そんなの相談したら止められるに決まっているだろう。だから、黙ってやるんだよ道場破りは。跡は文治親分がケツ持ちして呉れるさぁ。」
重吉「本当に大丈夫なのか?」
富市「なぁ腕試し!仕たいんだろう?」
全員「嗚呼、そうだけど…。」
と、まぁ腕試しに道場破りをしようと良からぬ企みが纏まりまして、朝湯好きの業平文治を『朝湯に宜い湯屋が在るから…。』と誘い出して、
態々両國橋を渡り亀澤町に在る湯屋『櫻湯』へと朝湯を使いに参ります。是は菩薩ノ富市の悪巧みで御座いまして、天野光雲斎道場の面々が、
朝湯を使いに『櫻湯』へ来る事を予め調べた上で、此の湯屋で喧嘩を売っておいて道場での他流試合に持ち込むと謂う算段で御座いました。
昔、江戸っ子の町人は若衆も老人も男は総じて熱い風呂を好み、一方、武士は温い風呂にしか這入らないので意外と湯屋で両者が揉める事は少なかったらしい。
だから、天野光雲斎道場の連中が通う『櫻湯』は温い風呂が自慢の湯屋で、一方、に組の連中が通う『正徳湯』は熱い風呂が売りである。
金太「文治親分、今朝は正徳湯じゃなく櫻湯へ行きませんか?」
文治「エッ?櫻湯は温湯だぞ?珍しいなぁ、江戸っ子のお前達の方から温湯を薦めるなんて…。」
金太「イヤ、富市の野郎が謂うんです。熱い湯ばかりは身体に毒だって…。時には温湯も乙だと謂うから試して見るんですよ。」
文治「温湯も乙ねぇ〜、まぁ宜いだろう!其の櫻湯とやらへ行って見よう。」
と、噺が纏まり文治、金太、彌助、そして重吉のよったりで両國橋を渡り、亀澤町に在る『櫻湯』へと朝湯を使いに出掛けて行きます。
するとやや遅れて天野光雲斎道場の門弟で大河原大蔵と石田胤三郎の二人が参りまして、大小の刀を預けて衣服を脱いで、今正に柘榴口を潜り湯殿に這入ります。
さて、温湯の櫻湯では御座いますが、其れは元々温い湯で沸かした低温お風呂な訳ではなく、客に湯を水で埋めて温湯にする事を許しているのである。
大河原「石田氏、こりゃぁ熱過ぎますのぉ〜、早速水で埋めましょう。」
石田「大河原氏、誠に。此の熱い湯に這入りましたなら茹で蛸に成って仕舞う。早く水溜めから桶で水汲みして埋めましょう!埋めましょう。」
そう謂って二人の門弟が風呂を水で埋め始めると、金太と重吉が直ぐに是に噛み付きます。
金太「オイオイ、何を寝言謂ってんだ?此のタコ。この湯の何処が熱いと謂うんだよ、之れ以上温い湯にされたら風邪を引くぞ!!」
重吉「ヤイ、お侍さんよ!風呂桶ん中の湯は上の方は確かに熱いが、中は温いんだぜぇ。よーく掻き混ぜてから熱い、温いは謂うもんだぜぇ。」
大河原「オー、左様であるか?其れは拙者の粗忽であった。許せよ。」
さぁ、そう謂って穏便に事を済ませようと大河原大蔵は風呂に手を入れて温度を確かめようとした所を、亡者ノ金太が風呂ん中から引っ張り込むから堪らない。
大河原「熱ちちちちッ!熱い!熱い!」
そう叫んで身体を真っ赤にさせて、風呂ん中で野田打ち廻る。さぁ、是を見た石田胤三郎の方が黙ってはおりません。カンカンに怒り出す。
石田「我が朋友に対して無礼であるぞ!許さん、此の町奴めぇがぁ〜!!」
そう叫び殴り掛かろうとした石田胤三郎を、こっそり背後に回り込んだ彌助が、思いっきり突き飛ばしたから、石田も湯殿に頭から飛び込む事に…。
石田「熱ちちちちッ!熱い!熱い!」
金太「ヤイ、ドジ侍!悔しかったら何時でも相手に成ってやるぞ。五対五の木剣勝負を受けやがれ!何時でもいいぞ!両国は米澤町の、に組成田屋の若衆だ。」
大河原・石田「覚えていやがれ!!」
そう謂うと真っ赤な茹で蛸にされた大河原大蔵と石田胤三郎は道場へと駆け込んで、道場主である天野光雲斎に対して此の出来事を報告します。
大河原「先生!一寸聴いて下さい。」
天野「どうした?大蔵、胤三郎、朝ッ原から酒でも呑んだのか?」
石田「違います先生。我々が真っ赤なのはカクカクしかじか、云々かんぬんなんです。」
大河原「だから、門弟を集めて腕に覚えの有る師範級を三人揃えて下さい。五対五の木剣試合を即刻挑みましょう。」
石田「大丈夫です。私と大河原、其れに田中、山田、鈴木の五人ならば、町奴の臥煙風情に遅れを取る心配は有りません。」
天野「ウーン、に組の連中の方から五対五の木剣試合をと申し込んで来たそうだなぁ?!」
大河原「ハイ、左様です。」
天野「そりゃぁ〜、不思議な噺だよなぁ?!」
石田「何が不思議なんですか?!」
天野「だってそうだろう?自信が有るからこそ、町奴の火消し風情が武士に木剣試合を挑んで来たとは思わないか?何か勝算が有るんだ、
相手には只の町火消しではない剣術に長けた秘密兵器が居るに違いない。ここは慎重に戦わねばなるまい。万一負けでもしたら天野道場の恥に成る。
ヨシ、安易に相手の計略に乗るのは得策に有らずだ。ここは一つ使者を米澤町の成田屋富五郎ん所に出して、改めて試合の日取りを決めようとでも謂って於け!」
大河原「其れで何時、木剣試合は?」
天野「当分は遣らずに放って於け。」
石田「放って於いてどうするんです?」
天野「そいつは心配無い。拙者に任せて於け。」
そんな会話が御座いまして、天野光雲斎道場から使者が立てられまして、その日の内に木剣試合は行われず、に組の連中は他流試合の日を待ち侘びておりました。
其れから七日が過ぎた或日の夕刻。駒形から本所に掛けて火事が有り、両國の米澤町の、に組は一番組を目指し火消しの支度を始めます。
防火の牛皮製の長半纏に鳶口を手にし、一番組と印した長提灯を亡霊ノ金太が持ちまして、鬼ノ喜蔵の肩には纏が担がれて御座います。
ジャンジャン!ジャンジャン!と響き渡る半鐘が聴こえて来る中、『野郎ども!行くぞ。』と謂う成田屋富五郎の声で、
に組の面々は『オーッ!』の掛け声も勇ましく、富五郎の女房お政が火打石をカチカチ云わせると、脱兎の如く飛び出します。
一方、天野光雲斎道場の方はと見てやれば、此の火事に乗じて、に組の連中に仕返しをしてやろうと企みます。さぁ門弟を集める光雲斎!!
総勢三十五人の門弟を集めた天野道場側は此れを二手に分けて、火事場である本所に着く、に組の連中を東西から挟み撃ちにする作戦です。
天野「宜いか?!皆の者。之は湯屋で辱めを受けた大河原と石田の意趣返しだ。併し、真剣を抜く事は許さん。あくまで木刀か竹刀を用いよ。
町人相手に武士が刃傷沙汰を起こしては道場の恥だ。木刀で骨を砕く程度の仕返しに留めなさい。宜いなぁ!真剣は使うな、決して殺してはならぬぞ。」
その様に道場主である天野光雲斎が下知を飛ばし、天野道場の三十六人は十八人ずつの二手に分かれて本所の火事場付近で埋伏するのである。
さぁ何も知らない、に組の連中は一番組は俺達だと謂う心持ちで勇んで火事場へと向かいますが、もう一歩で消火に掛かると謂う寸前で、
突如現れた黒頭巾の集団から前後挟み討ちに遭いまして、木刀と竹刀で容赦なく殴り掛かられるのであります。もう、に組の一同は大慌てです。
成田屋富五郎は必死に冷静さを保ちつゝ『兎に角、火事場へ急げ!!』と下知を飛ばしますが、天野道場側の攻撃は容赦なく続きます。
天野「其れ!やって仕舞え、手加減無用だ。」
金太「親分、天野道場の連中らしい。畜生!腐れ外道めぇ、湯屋での仕返しに待ち伏せしてやがって…。」
富五郎「仕方ない、金太!喜蔵!今日の所は一旦、米澤町へ引き返すぞ。」
子分一同「オーッ。」
敗走し米澤町の成田屋富五郎の自宅へ引き返そうとする、に組の連中に対して天野道場の連中は容赦なく追走し攻撃を加えます。
そして、町火消しが命よりも大切にしている纏を奪って、其れを巫山戯る様に宙に舞わせて、勝ち誇るかの様に唄いながら道場へと引き上げます。
さて一方の成田屋富五郎と其の子分はと見てやれば、散々木刀竹刀で殴られて青あざだらけで、死者こそ有りませんが纏まで奪われ這う這うの態で御座います。
富五郎「だから、おめぇ達が馬鹿な真似をするから…。」
金太「親分!そんな事より、纏を取られて仕舞いました。どうしやす?!」
富五郎「どうしますも、こうしますも有るかぁ!金太、身体の動く怪我の軽い連中を集めろ!本所の亀澤町に纏を取り戻しに行くぞ!」
さぁ富五郎親分の号令一下。子分達は亡霊ノ金太、鬼の喜蔵、閻魔の彌助、地蔵の重吉などなど十二、三人が鳶口を握り立ち上がります。
其処へ菩薩ノ富市から事の一部始終を聴いて現れたのが我等が業平文治で御座います。大きく手を広げて大の字を造ると富五郎の前に立ち開かります。
富五郎「何をしゃがる文治!止めないで呉れ。」
文治「イヤ、親分!お待ちなせぇ〜。」
富五郎「駄目だ、幾ら文治、貴様の頼みでも之ばっかりは止まれねぇ〜。纏は火消しの命だ。其の纏を奪われて恥をかいた。止める訳には行かねぇ〜。」
文治「噺は全部、富市さんから聴きました。親分のお気持ちは重々判ります。が、今、親分が子分達を連れて亀澤町の天野道場に殴り込んだら、
間違いなく血の雨が降り死人が何人か出る大喧嘩になるのは必定だ。そうなったら私闘を堅く禁じている公儀は黙っちゃいない、間違い無く喧嘩両成敗だ。
天野光雲斎道場は取り潰しになり、纏を上手く取り返せても肝心の、に組が解散させられたら素も子も有りませんぜ!親分、考え直して下さい。
ここは一番。アッシ、此の業平文治が一人で本所亀澤町の道場へ出向き、道場主の天野光雲斎と直に談判し、纏は必ず取り返して来ます。任せて下さい。」
富五郎「兄弟!済まない。」
文治「いいえ、兄貴には日頃から世話に成っていますから…。」
富五郎「恩に着るぜぇ〜、兄弟!!」
そう謂うと、成田屋富五郎は櫻湯からの遺恨の相手、天野光雲斎道場の連中との交渉役を、兄弟分である業平文治に一任し是が文治の侠客としての初仕事と成るのです。
さて、血気に迅る一同を諌めた業平文治、翌朝、日課恒例の朝湯を済ませ五ツ半、お日様も高く登り終えた頃、久しぶりに箪笥より取り出した黒紋付の正装に袴を付けまして、
父より頂戴した粟田口忠綱の一刀を腰に差しまして只一人、米澤町を立ち両國橋を打渡り、前に見ゆるは回向院、更に二町ばかり進むと亀澤町、天野光雲斎道場前に御座います。
文治「お頼み申す。頼もう!頼もう!」
取次「ドーレ、ドーレ。」
そう叫びながら門の奥くより出て来たのは、まだ朝の掃除を致して居りました取次門番が、門の前に立つ業平文治の方へやって来ます。
取次「ハイ、どちら様で御座る?」
文治「拙者、西國は備前岡山の産にして、只今は浪々の身にて、高濱文治郎と申す者で御座います。如何か、本日は入門を願いたく、
罷り越した次第に御座いますれば、是非、此の段、先生にお聴き届け願います。どうか、重ねて宜しくお願い奉りまする。」
取次「ホー入門希望者かぁ〜。併し、天野先生は朝は出稽古に行かれていて生憎不在だ。時期に戻られると思うが…、どうする?八ツ頃出直すか?此処で待ちなさるか?」
文治「ハイ、然らば先生が戻られるまで此の道場で待たせて頂きます。どうぞ、ご案内下され。」
取次「其れでは、拙者に同道なされて下さい。」
そう謂う取次の門弟に連れられて道場の中へ這入ると師範代(代稽古人)の坂田金十郎と、数人の弟子達が木刀や竹刀の手入れをしていた。
業平文治は道場の隅に控える様に取次に命じられて座って待っていたが、天野光雲斎は中々戻らず暇を持て余しながら此の道場が文治と同じ一刀流だと知ります。
そんな文治、やる事が御座いませんから道場をキョロキョロと見廻して居りますと、直ぐに『に組の纏』が道場の向こう側に置かれているのが目に留まります。
一方、取次の門弟から坂田金十郎達は、文治が入門希望者だと聴かされて、其れが天野光雲斎の帰りを待って居ると謂われ見てやれば、
芝居の二枚目にも負けない色の白い、クッキリと切れ長の目鼻立ちの超美男子ですから、女子でなくともチラチラ気になり見て居ります。
軈て、正午九ツの遠寺の鐘の音が聴こえて来ましたが、天野光雲斎は一向に戻る気配が御座いませんから、文治は遂に心の中で呟きます。
仕方ない!纏を取り戻して帰ろ。
業平文治は懐中から取り出した、襷十字に綾なして最後長鉢巻を結びますと、壁の木刀を一本取ると素振りをし、何やら準備運動を始めます。
さぁ、突然、入門希望者と謂って居た『高濱文治郎』が、襷十字に鉢巻を締めて、木刀を振る姿を見た坂田金十郎がビックリして声を掛けます。
坂田「高濱氏とやら、尊公はまだ門弟では御座らん。勝手に木刀を振り回しては困ります。先生がいらして入門が許されてからにしなさい。」
そんな声は無視して業平文治、準備運動が完了するとスッくと立ち上がり、向こうトイ面に立て掛けられた纏を取り啖呵を切りました。
文治「ヤイ素浪人共、耳の穴カッ穿ッてよーく聴きやがれ!!アッチは高濱文治郎と謂うのは前名、今は成田屋富五郎の舎弟分で業平文治、
其れが俺様の名前だ!よーく覚えて於け。汝等は僅かな遺恨を根に持って、町火消しの命とも謂うべき纏を奪うとは如何謂う料簡だ!!
而も、火事場に向かい消火しようとする臥煙の邪魔をして、剰え、待ち伏せし闇討ち同然に木刀や竹刀で打擲したそうだなぁ?!
兎に角、此のに組の纏は俺様が取り返して変えるからそう思え!そして、天野光雲斎が帰ったなら伝えて於け!報復なら何時でも来いと、此の業平文治が一人で受けて立つからとなぁ。」
さぁ、いきなり啖呵を切り纏を奪い返したぞと宣言し、其れを持ち悠々と帰ろうとする業平文治を、天野道場の連中が許すはずが御座いません。次々に木刀を取り阻止しようと致します。
門弟A「何を舐めた真似をしやがる!纏は返さぬぞ!」
門弟B「纏を置いて行け!聴かぬと痛い目に遭わせるぞ!」
坂田「オイ、渥美氏、佐々木氏、手加減御無用!懲らしめてやりなさい。」
と、渥美格之進、佐々木助三郎、そして坂田金十郎の三人掛かりで、木刀で斬り掛かりましたが全く業平文治の敵では無く、スッと態を交わされて、
文治は手にした纏を槍の如く使いまして、纏の下側の先端に付いている石突にて、左右前後に攻撃すると三人は胸や溝内に是を喰らい気絶致します。
さぁ、三人を打ちのめした業平文治は道場の嵌め戸を蹴破り外へ出ると、纏を背負って其のまんま両國橋を渡り米澤町の成田屋へと戻ります。
金太「文治親分!お帰りなさい。」
文治「ホラ、纏は此の通り!取り戻して来てやったぞ、大事に仕舞って於け。」
喜蔵「有難う御座んす。」
彌助「ご苦労様に御座んす。」
重吉「流石、文治親分だ。頼りになる。」
富市「文治の旦那が纏を取り返したって事は、道場の連中が今度こそ抜身の真剣で殴り込みに来るって事ですよね?」
金太「其れなら俺たちも仲間を集めて、遂に長ドスでヤットウ勝負って事に成りますねぇ〜。」
文治「イヤ、今回は俺が一人で引き受ける。富五郎親分との約束だ!汝等は一切手出しするな?!富五郎親分と俺様の漢と漢の約束だからなぁ。」
そう謂って業平文治は纏を成田屋へ返すと、其のまんま両國橋へと引き返すと、粟田口忠綱の一刀を抜身にし橋の真ん中で仁王立ちと成るのである。
一方、天野光雲斎道場の方はと見てやれば、既に坂田金十郎を筆頭に門弟が三十人以上集まり、成田屋への殴り込みの準備に余念が有りません。
すると丁度、其処に道場主で御座います天野光雲斎が出稽古先から戻って参ますと、異様に殺気立つ門弟浪人達を見て驚くので御座います。
天野「オイ、金十郎!如何致した。今から何が始まると謂うのだ。」
坂田「之は先生、実は例の町火消しの連中が、腕の立つ浪人を雇って、あの纏を奪い返しに参りまして…、カクカクしかじか…、云々かんぬん。」
天野「待て!其れで?金十郎、お前が居て木剣の勝負で負けたのか?」
坂田「それが…、木刀同士の勝負ではなく、備前岡山の浪人で高濱文治郎とか名乗った浪人者は…、纏を槍術の槍に見立てゝ…。」
天野「何ぃ〜、纏を槍代わりに?!」
坂田「木刀同士なら負けないハズです。槍との勝負に不慣れな為、不覚を執りました。」
天野「判った。一寸待て!儂も一緒に行こう。道場の面子を賭けた勝負になる、場合によっては儂が相手を致す所存じゃぁ。」
そう謂うと本所の亀澤町から両國橋へと向かいますと、既に其処には業平文治が橋のど真ん中に居り、其の姿から纏を奪い返したのは此奴だと判ります。
坂田「先生、あの橋の真ん中に刀を抜いて仁王立ちの輩が、先程申した高濱文治郎とか申す野郎で御座います。」
天野「フム、宜かろう!お前等、儂が噺を致す。下知を飛ばす迄は手出し無用だぞ。」
坂田「併し…、あんな輩に容赦は要りませんよ。」
大河原「そうです!先生、師範代が仰る通りです。町火消し如きの雇った用心棒に、武士道とか要りません!」
天野「馬鹿を申せ、此の田分け者。天野道場の尊厳が掛かっているんだ、武士道に反する卑怯な真似が出来るものかぁ!下がれ、兎に角、儂が下知する迄は手出し無用だ。」
そう謂うと天野光雲斎は、道場の門弟達を下がって待つ様に指示した後、自らは業平文治に歩み寄りながら、文治に向かって語り掛けた。
天野「儂が天野光雲斎だ。貴様だなぁ?先刻、我が道場に現れて荒らして帰った高濱文治郎は。」
文治「如何にも左様だ!」
天野「武士道の意地に掛けても許す事、罷りならぬ。儂一人で相手してやる!イザ、尋常に勝負だ。」
文治「其れは俺も望む所だ。俺は町火消し、に組の成田屋富五郎の身内として今回の件は、親分の富五郎から一任されている。
だから子分は一人も連れず勝負に来たが…、貴様は何んだ、武士道!武士道!と抜かす割に、門弟を沢山連れて来て卑怯千万。」
天野「高濱氏、其れは誤解だ。某(それがし)もお主との一対一の真剣勝負が所望だ。後ろに居る連中には、誓って一切手出しはさせぬ。」
文治「ヨシ、判った!信じよう、イザ、参る。」
天野「オぉ〜、受けて立つ!」
チャリン!チャリン!チャリン!チャリン!
天野光雲斎が腰の長刀をズラリと抜いて正眼に構えると、業平文治が物凄い勢いで忠綱を大上段から振り下ろし、両雄の刃が火花を散らした。
エイー!ヤァー!タァー!トォー!と光雲斎が三十五回、一方文治の方は三十八回斬り掛かったが、両者一歩も引かぬ互角の斬り合いと成ります。
そして、業平文治の太刀筋を受けながら、天野光雲斎は思い始めます。『儂の太刀筋に似ている。』と。一刀流なのは直ぐに判ったが余りに似ている。
イヤ?!そっくり瓜二つだ!
天野「高濱氏、貴方の剣術は一刀流の様だが誰に剣術を習った?」
文治「何を謂出す突然。今、命のやり取りの最中だぞ。気は確かですか?天野光雲斎殿。」
天野「イヤぁ、余りに拙者の太刀筋そっくりなので、貴殿に剣術を指南したのは一刀流の免許皆伝、元は奥州盛岡は南部藩の剣術指南役だった林正雄先生ではないか?」
文治「何故だ?!林先生を…、なぜ、知っている?」
天野「其れは儂が林先生の弟子だからさぁ。高濱氏、刀を引いて呉れるか?同門の弟子同士、殺し合う事は無かろう?」
文治「ハイ、其れは勿論です。和解仕りましょう。天野殿、貴方は俺の大先輩に当たるのだから…。」
天野「有難う素直に応じて呉れて、自己紹介が遅く成って仕舞ったが、儂は奥州盛岡は南部藩の祿を二百石ばかり頂戴していた時期があって、
その時に林先生から剣術の指南を受けた。もう十五年も昔の話だ。先生が西國へ行かれたと風の噂では聴いていたが備前岡山だったとは。」
文治「拙者は備前の國岡山は松平内蔵頭様の元家臣で、由え有って浪人となり今は江戸で暮らして居ります。林先生には岡山藩で剣術の指南を受けましたが、
跡二年で免許皆伝を頂けると謂う所で…、藩を負われて仕舞い、とある縁で町火消し、に組の頭領成田屋富五郎親分と知り合い、江戸表で暮らし始めて半年程です。
素は私も武士ですから当初は食客として成田屋にはお世話になり、富五郎親分の身内に剣術や素読の指南をしていたのですが…、
其の子分達から、組合への加入を進められて、成田屋富五郎と謂う親分の漢気にも惚れ込みまして親分とは兄弟盃を交わし、
武士の身分を捨て今は侠客と成った次第でして、実は名前も今は高濱文治郎では無く、通り名で業平文治と申します。」
天野「業平文治と仰るんですねぇ。さて、では早速、和解の式を手頃な所でやりましょう。に組さんは何人おいでですか?三十人?ハイ、
オイ、金十郎、柳橋の青柳楼か?浅草の玻璃亭(ギヤマン)に大蔵と胤三郎を走らせろ。七十人で宴会するからと…、金子は之を使いなさい。」
そう謂うと天野光雲斎は、ポン!と三十五両の金子を坂田金十郎に渡して、和解の大宴会の準備をさせて、柳橋の青柳楼にて盛大な手打ちと成ります。
そして、此の和解の式で天野光雲斎と成田屋富五郎は五分の義兄弟となり、業平文治は此の二人の舎弟分と成るので御座います。
こうして同門、林正雄から一刀流を学んだ二人が盛岡と岡山で師に学び、遠い江戸の空で出逢って義兄弟となりまして、是から更に新しい展開へと進んで参ります。
つづく