文政四年五月八日、江戸屋長兵衛に一泊した高濱文治郎は、女将のお仲と絹屋権三郎に別れの挨拶を致しまして、未だ暗い七ツ立ちで江戸表を目指します。

途中、千住大橋付近の旅籠で一泊致しまして、翌日の五月九日の午の刻には馬喰町一丁目に在る、武蔵屋吉兵衛へと来てみると実に立派な宿屋で御座います。

文治郎「許せよ!」

若衆「ハイ、只今伺います。」

と、奥で元気の良い声がして、当宿屋の使用人らしき若衆が出て参ります。

若衆「お客様でしょうか?生憎、適当なお一人様のお部屋が空いて御座いません。お泊まりだと相部屋になりますが宜しゅう御座いますか?」

文治郎「泊まり客には違いないのだが、カクカクしかじか云々かんぬん、絹屋権三郎殿よりの紹介で参った。主人の吉兵衛殿を呼んで下さい。」

そう謂われた若衆は直ぐに奥に下がって主人の武蔵屋吉兵衛を呼んで参りました。

吉兵衛「お待たせしました、私が主人の武蔵屋吉兵衛で御座います。」

文治郎「お初に御目に掛かります。拙者、備前國、岡山の領主松平内蔵頭様の元家臣にして、今は浪々の身で御座います所の高濱文治郎と申します。

一昨日、熊谷堤防(ドテ)で、盗賊に襲われそうに成っていた桐生の絹屋権三郎殿をお助けした縁から、此方の武蔵屋さんを紹介して頂きました。

江戸に暫くの間滞在する予定で御座いまして、其の間、絹屋殿の専用部屋の離れの屋敷を使わせて頂く約束に成って居ります。どうぞ宜しくお願い致します。」

そう謂うと高濱文治郎は絹屋権三郎からの添書(紹介状)を懐中から出して、是を武蔵屋吉兵衛に見せるのでした。

吉兵衛「では、拝見させて頂きます。」

と、吉兵衛も文治郎が差し出す手紙に目を通しますと、間違いなく絹屋権三郎の手で、高濱文治郎が大恩人であると認められており、

部屋は絹屋の専用の離れの座敷を提供して、宿泊料は一文も文治郎からは取らずに、全て絹屋のツケにして置いて呉れと書いて御座いました。

吉兵衛「其れでは高濱様、こちらで御座います。荘太郎!お客様のお荷物をお持ちして、絹屋さんの離れの御座敷までお運びして下さい。」

そう主人の吉兵衛が奥に命じますと、先程の取次の若衆が文治郎の背中の荷物を取り、大小も預かろうと致しますが是は文治郎自身が断り、笠と荷物だけを運びます。

さて、離れ座敷に着いて見ますと絹屋権三郎の父、権左衛門が金に明かして贅沢な普請を致し造らせた建屋ですから、文治郎は生まれて初めて見る絢爛さで御座います。

若衆の荘太郎が高濱文治郎の草鞋を脱がせて足を濯ぐと、直ぐに女中がやって来てお茶と菓子を振る舞いまして、武蔵屋の接客は実に丁重且つ慇懃です。

さて、一日、二日と時は流れ、高濱文治郎は兎に角旅の疲れを癒す風呂が大好きで、江戸へ来て知った湯屋へ朝湯に行くのが何よりの楽しみで御座います。

江戸馬喰町一丁目には『扇子湯』と謂う大きな檜風呂が自慢の湯屋があり、朝食を済ませてから一刻はここで湯当たりする位の長風呂を致し、

湯殿から上がっても二階で将棋を正午頃までは指しているのが文治郎の日課で御座いまして、芝居や寄席、江戸の名所巡り等には興味を示さず、

専ら、金の掛からない神社や寺院に足を運び、参詣する人々の様子を眺めては、何をするでなく江戸の町人の風俗や日常を観察して居ります。

素より國元へは帰れない身の上ならば、江戸で身を立てる方法を見付けねば!漢としての目標を持たねばならぬと思いつゝも、日常に流されてばかり居た。

そしてもう一つ。落ち着いた行こうとずっと先送りにして来た両国米澤町の『に組』の頭、成田屋富五郎方を訪問する事も、何となく足が進まず未だに挨拶していない。


そんな或日、今日も今日とて朝飯を済ませると高濱文治郎は扇子湯へと向かい、湯から上がると源さんや寅さんと将棋を指してから、神田明神へと出掛けていた。

文治郎が出掛けた後、離れ座敷を女中が掃除するのが日課なのであるが、この日は何時もの女中から人が変わった為に、煙草盆の抽斗を何気なく開けて仕舞い、

其処に納められて居た一通の手紙を発見致します。そして表書きを見ると『両国米澤町 成田屋富五郎様』と有り、裏には『上州鴻巣 江戸屋お仲』と成って居ります。

此の手紙、少なくともどちらか一方が『備前岡山浪人 高濱文治郎』であれば、女中は元に戻していたかも知れませんが、成田屋富五郎様宛の手紙なので、

女中「旦那様、離れ座敷を掃除いたしていて、此の様な手紙を見付けました!」

と、云って主人の武蔵屋吉兵衛に是を届けたので御座います。

吉兵衛「オヤ、鴻巣の江戸屋さんと謂えば絹屋さんが羽生と江戸を往来する際の常宿だ。その江戸屋の女将が書いた手紙らしいが

一方、私が読んだ絹屋の若旦那、権三郎殿からの手紙には高濱様は大恩人だから丁重に扱う様にと有ったが、お竹やぁ!宜いかぁ?

お前は取り敢えず、掃除を終えたならば戸外へ出て居りなさい。そして高濱様のお姿が見えたなら直ぐに私に知らせなさい。宜いなぁ?!」

手紙を発見した女中のお竹は『承知しました。』と返事をすると、離れ座敷から表に出て、高濱文治郎の帰りを見張るので御座いました。

一方、江戸屋お仲が書いた両国米澤町の火消し『に組』の頭領で、又鳶の頭でも有る成田屋富五郎宛の手紙を貰った武蔵屋吉兵衛はと見てやれば、

さぁ、中を読みたくなるのが人情ですが、流石に、他人様の書いた手紙を持主の高濱文治郎に無断で読む訳には参りません。併し、読みたい!!

自身の書斎に手紙を持って帰り着くと、長火鉢の上で鉄瓶がシュー!シュー!蒸気を出して湯が沸いて居り、是を見た吉兵衛に悪魔の囁きが聴こえます。


蒸気で糊を湿して開けたらバレないぞ!


もう誘惑には勝てない武蔵屋の主人吉兵衛は、鉄瓶から吹き出す蒸気で、封の糊を湿して慎重に開封して、中の手紙を盗み読むと!さぁ、ビックリ仰天します。

確かに背は高くがっしりと致しております高濱文治郎では御座いますが、歳は二十二、三、色は白く役者の様な白井権八風美男子ですから、

刀は飾りで腕力など到底使わない官僚的な文知派の武士だとばかり決め付けていたが、中仙道を荒らし廻る名代の盗賊富士太鼓一味七人を、

一人で打ちのめしてお縄に捕らえ、其れを鴻巣の代官所へ引き渡して仕舞ったと書いて有るから、腰を抜かす程の正に青天の霹靂です。

武蔵屋吉兵衛、手紙を再度封をして、元の煙草盆の抽斗に仕舞うと、高濱文治郎が剛毅な侍だったと再認識致しまして其の帰りを待ちますと、

何時も通り神田明神での参拝と、人物観察で刻を過ごした文治郎が帰って参りますと、見張りに出したお竹が一足先に吉兵衛に知らせて参ります。

吉兵衛は文治郎が離れの座敷に帰り着くのを見計らって、平静を装って文治郎の元を訪ねまして、極々自然に問い掛けるので御座います。

吉兵衛「あのぉ〜、高濱様。昼間掃除をしていた下女が煙草盆の抽斗ん中から、お手紙を発見したと云うて参ったので宛名書を見ると、

差出人が江戸屋の女将、お仲殿で、宛先は両国米澤町の火消し『に組』の頭領、成田屋富五郎様、確かお腹様のお兄さんで御座いますよね?

之を貴方様がお持ちと謂う事は、江戸屋さんが絹屋の若旦那、権三郎さんの定宿でもあり、私が若旦那から頂いたお手紙から推察致しますと、

貴方は江戸屋のお仲さんに執っても大恩人だから此の手紙を貴方はお仲さんから預かっているのでは有りませんか?其れなのに何故?

貴方は此の手紙を持って、成田屋富五郎親分の所へは逢いに行かないのですか?一日二日は分かりますが、もう江戸に着いて十日余りに成りますよ!」

文治郎「武蔵屋殿、確かに鴻巣にてカクカクしかじか云々かんぬん、其の様な事件が有り絹屋権三郎殿と江戸屋の女将、お仲殿の命をお助け申した。

二人共に江戸表に参るならと、家が見付かるまでの滞在にと其れ其れ、此の武蔵屋と成田屋富五郎方を紹介して貰ったのだが

拙者は武士だ、吉兵衛殿。旅籠渡世のお主の宿屋に滞在するのは気兼ね無くて大変居心地が宜しいが、火消しの頭の家に居候となると

其れで、明日は行こう、明後日は行こうと思いながら侠客だの親分だのと呼ばれる人の家を訪ねるのが億劫で、現在に至ると謂う訳だ。」

吉兵衛「億劫とか言われても、私が高濱の旦那を引き止めていると、成田屋の親分に在らぬ勘違いされては其れこそ恐ろしゅう御座います。

万一、江戸屋のお仲さんが、成田屋の親分にお手紙など出されまして、高濱の旦那が来て居ないと知れると、妙に拗れるのは厭で御座います。

江戸の町火消しの頭ですから、鉄火な料簡の侠客で御座います。だから、是非一つ明日にでも、両国米澤町のお宅へ挨拶だけでもお願いします。」

文治郎「之はしたり。先方へ出向く出向かないは拙者の所存じゃ。其の方に指図される所以など無い!!」

吉兵衛「左様では御座いましょうが、このまま鹿十(シカト)し続けていると、に組の連中から武蔵屋が何をされるか分かりません。

せめて、出向いての挨拶が無理でしたから、高濱様のお手で、お手紙を頂戴しとう御座いまする。其の手紙とお仲さんの手紙を添えて、店の者に届けさせます。」

文治郎「拙者に手紙を書けと申すか?!」

吉兵衛「ハイ、直接挨拶するのが厭だと仰るからは手紙を出すのが賢明です。」

文治郎「手紙を出せと謂われても、何んと書けば宜いのだ?!」

吉兵衛「其れは不慣れな江戸で食い扶持の事や家探しで忙しいから、落ち着いてから挨拶に行くとか何とか、手紙で失礼致しますと結べば御の字です。」

文治郎「分かった、仕方ない、手紙は認めよう。」

と、その夜の内に武蔵屋吉兵衛に謂われるがまゝ高濱文治郎は成田屋富五郎宛に、江戸へ着いたが多忙で挨拶が遅れた言い訳の手紙を認めます。

二通の手紙を受け取った武蔵屋吉兵衛は、一番目を掛けている若衆の佐七を呼びまして、此の二通の手紙を前に、両国米澤町への遣いを命じます。

吉兵衛「佐七、宜しいか?之は大事な用事なのでお前に頼みます。心して聴いてお呉れ。今、離れ座敷に逗留頂いておる高濱様のお遣いだ。

実は、此の二通の手紙をに組の頭、両国米澤町の成田屋富五郎親分の所へ届けて欲しい。仔細は云々かんぬん、宜いなぁ!呉々も粗相の無い様に。」

佐七「ヘイ、畏まりまして御座います。」


馬喰町一丁目から両国米澤町ですから、柳原の方へ東に十二、三町進むと神田川へと出まして、川沿いに南へと下ると両国橋が御座います。

米澤町と呼ばれたエリアは両国橋際両国広小路に隣接し、南は薬研堀にも面していた。江戸の此の時代には北から一~三丁目があった。

又、正保年間頃この地に米蔵が置かれて「矢之倉」と称したが、元禄十一年に是が火事で総て消失し築地へと米蔵は移転しています。

此の文政年間、米澤町とは「矢之倉の跡地」と謂う意味合いで付けられた町名の様で御座います。さて、佐七は半刻程で成田屋富五郎方に着き、

佐七「御免なすッて!」

と、声を門の外から佐七が掛けると、玄関先には富五郎の子分と思き面々が、上半身を裸にヒン剥いて倶利伽羅紋紋の刺青を見せ、屯して何か遊んで御座います。

子分A「何んだ、貴様。何処から来やがった!」

佐七「へぇ、。。。」

子分B「さっきから頭ばっかりペコペコ下げやがって、貴様は米搗きバッタか?!」

子分A「用が有るなら早く云え!!」

佐七「ヘイ、実は私は馬喰町一丁目の宿屋、武蔵屋吉兵衛方から来た遣いの者で御座いまして、私どもの宿に逗留なさっているお客様に、

備前岡山の御浪人で高濱文治郎様と仰る方が有り、此の高濱様より、に組の親分さんに渡す様にと此の手紙を二通預かって参りました。」

子分A「左様か、手紙を寄越せ!そして、返事が要る手紙なら返事を書いて貰うから、玄関脇で待って居ろ。」

そう謂うと子分は二通の手紙を持って奥へと這入りまして、成田屋富五郎が女房のお政に酌をさせ一杯やっている所へ持って行きます。

子分A「親分、今馬喰町の武蔵屋から遣いの若衆が参りまして、備前岡山のお侍で高濱文治郎とか云う人からの手紙を親分に渡して欲しいと、之を持って参りました。」

富五郎「誰だッて?高濱なんて武士は俺は知らないぞ!まぁ、宜い、手紙とやらを見せろ!エッ、二通もか?一つはお仲からだ。」

さて、子分が持って来た手紙を読み始める富五郎でしたが、お仲の手紙は当然カナばかりの楷書ですから内容は伝わり、高濱文治郎様と謂う、

妹、お仲の命の恩人で、鴻巣の江戸屋の身代を放火の危機から救い、剰え中仙道名代の盗賊をお縄にし代官所へ突き出した其の大恩人が、

江戸表へ着いたなら、何処までも肌を脱いでこの大恩人高濱文治郎様の面倒を見てやって呉れと、妹の心がよーく伝わる手紙でした。

一方、高濱文治郎からのもう一通はと見てやれば、達筆過ぎて難しい漢字混じりで御座いますから、さて!?内容に検討が付きません。

落語『手紙無筆』なら横丁の御隠居さんの所へ読んで下さいと持ち込む所でしょうが、火消し『に組』の頭の富五郎には其れは出来ません。

富五郎「オイ、お政!コイツは大変だ。俺の妹が手紙で知らせて来た。」

お政「何んだい?お仲さんが何を知らせて来たんだい?」

富五郎「お仲の鴻巣の旅籠、江戸屋が強盗一味襲われかけたのを、助けて下さった高濱文治郎様と謂うお侍が、今、江戸に来て居なさるんだ。」

お政「其れは是非、お逢いして礼の一つも言いたいネ。」

富五郎「そうだろう!妹も『何処までも、何時までも、御恩に報いる為に肌を脱いで世話して呉れ。』そう手紙に書いているだ、それを

全部、武蔵屋の野郎が悪い。俺と高濱文治郎様を逢わせない様に邪魔してやがるに違いない。だから、高濱様が態々手紙で知らせて下さった、

に、違いないのだ!お政、長ドスを用意しろ、喧嘩支度だ!子分を三、四人連れて武蔵屋へ殴り込む。高濱文治郎さんを助け出すんだ!!」

親分の成田屋富五郎は脚絆に股引きの草鞋履き、江戸腹を付け薄い帷子を着込みます。仕上げに鉢巻と襷十字に綾なして、長ドスを腰にはブチ込みます。

そして子分達はと見てやれば、全員揃いの『に組』の半纏を着まして、武器は鳶口片手に懐中には匕首なんぞを仕込みます。

さて、ここで江戸時代の町火消し、イロハ四十八組の消防は実に幅を利かせた存在でして、成田屋富五郎も一言掛ければ命知らずの若衆が五十、百は集まります。

そんな子分が明らかな喧嘩支度で玄関先を飛び出して両国橋の方へ向かいますから、ビックリしたのは遣いに来た佐七で御座います。

成田屋の家を脱兎の如く飛び出すと、成田屋の一団を追い抜いて馬喰町一丁目の武蔵屋へと駆け込んで、主人、吉兵衛に向かってのご注進。

佐七「旦那様、大変!大変!大大変です。」

吉兵衛「どうした?に組の頭は、何かお返事を下さったのかい?」

佐七「お返事ではなく、喧嘩しに来ます。早く逃げないと、大変な事に、血の雨が降りますよ、旦那様。」

吉兵衛「だから、高濱の旦那には直接、挨拶しに行った方が宜いと申したのに、手紙では通じなんだか?藪蛇だったなぁ。」

さて、急に店終いを始める武蔵屋で御座いましたが、雨戸を閉める間もなく成田屋の一団が到着し、さぁ!子分達が鳶口を振り回して怒鳴ります。

子分A「ヤイ!吉兵衛。よくも貴様、親分の妹、お仲姐さんの命の恩人を、奥の離れに隠して親分が其の御方と逢うのを邪魔しやがったなぁ。」

子分B「すっかり其の大恩人、高濱文治郎様からの手紙で貴様の悪事は露見した。覚悟しやがれ武蔵屋吉兵衛!店は打ち壊して平地にしてやるぜぇ!」

吉兵衛「止めて下さい!誤解です。邪魔立てなど一切致しておりません。」

子分A「本当に邪魔はしないのなら、高濱文治郎の旦那を此処へ連れて来い。連れて来ないと、尻に天秤棒をツっ刺してカンカンのうを踊らせるぞ!」

吉兵衛「オイ、佐七!直ぐに高濱の旦那を此処に連れて来て呉れ。来ないと私が天秤棒を尻にツっ刺されてカンカンのうを踊らせられると言って呉れ。」

佐七「ヘイ、只今、高濱の旦那をお連れします。」

子分B「直ぐだぞ、早くしろ。高濱文治郎と謂う御仁を連れて来ないと、カンカンのうだぞ!屍人のカンカンのうより恐い尻天秤棒のカンカンのうだぞぉ〜。」

子分達は鳶口を相変わらず振り回して、柱や壁をガタガタ言わせ囃し立てながら、吉兵衛を脅し続けやすから、吉兵衛は生きた心地が致しません。

佐七「聴こえるでしょう、高濱の旦那。あの手紙を見せたら、に組の親方が急に怒り出して、子分を連れて殴り込みに来たんです。

旦那!そんな呑気に構えないで、早く!早く!店先までお願いします。早くしないと店を叩き壊すと云うし主人の命だって危ういんです。」

文治郎「判った!判った!直ぐに行くから、手紙には殴り込む様な所以は無い筈だが。」

真っ蒼な顔の佐七に手を引かれて高濱文治郎は武蔵屋の店先に来てみると、喧嘩支度の六人が吉兵衛を囲み脅して居ますし大層な野次馬です。

文治郎「御免!武器は引いて下さい。拙者が備前岡山の浪人高濱文治郎で御座る。吉兵衛殿には非は御座らん。全て拙者の一存に御座る。」

子分A「へぇ〜、アンタが高濱文治郎さんで御座いますか?」

文治郎「左様、拙者が高濱文治郎で御座る。」

子分B「じゃぁ、親分が迎えに来ています。一緒に両国米澤町の成田屋まで付いて来て下さい。」

文治郎「イヤ、手紙にも書いたハズだが、扶持を得る手段と家探しで忙しくて、落ち着いたら改めて挨拶に伺うので、今日の所はに組の皆さん!お引取り願いたい。」

子分A「ヤイ、ヤイ、やっぱり、吉兵衛の野郎が邪魔してやがるなぁ〜。」

子分B「ヨシ、吉兵衛!覚悟しやがれ、尻天秤棒のカンカンのうを踊って貰うぞ!」

吉兵衛「ひぃ〜!勘弁して下さいよぉ〜、旦那、高濱の旦那、皆さんと成田屋へ行って下さい。お願いしましす。」

富五郎「高濱の旦那、アッシが江戸屋お仲の兄で成田屋富五郎です。妹の命の恩人ならばアッシにとっても大恩人だ。江戸に居る間はアッシにお世話をさせて下さい。

ただ、とは謂え、旦那!貴方は武士だから人から施しは決して受けないのは承知しています。だったら、旦那!一つお願いが御座います。」

文治郎「何んですか?親分。」

富五郎「アッシの家で、アッシと子分達に読み書きと剣術を教えて欲しいのです。アッシは職人で侠客だから、仮名が読めれば足りる積もりだった。

ところがだ。今日旦那から貰った手紙は、達筆過ぎて何も読めやしない。に組の頭、成田屋富五郎がまさか長屋の御隠居に代読も頼めないから間違いに成った。

之も教訓です。もう少し読み書きが出来る様に成りたい。そして、お仲の手紙によると旦那は恐ろしい剣術の使い手だ。アッシらのは素人剣法だから

まぁ、町道場は幾らも有るけど、確かな腕の先生がこうして居なさるのなら、高濱の旦那!アッシ達の先生に成って下さい。お願いします。」

そう謂って頭を下げられた高濱文治郎は、取り敢えず、一度来てと五月蠅い成田屋富五郎に根負けしてその日の夕刻、両国米澤町の成田屋を訪れた。


文治郎が成田屋富五郎宅に着くと、に組の主だった古株の子分が集められて居て、又女房のお政は宴会の準備を万端整えて文治郎を待って居た。

富五郎「いいかぁ、皆んな!こちらが高濱文治郎先生だ。先生は鴻巣のお仲の旅籠、江戸屋が放火強盗に襲われた際に、お一人で七人の強盗を相手に斬り合い、

悪党どもを全員峰打ちで気絶させ、縄付にして代官所に突き出して仕置きに掛けた御人なんだぞ!お陰で俺の妹、お仲は命拾いをしたんだ。

嘘じゃないぞ!明後日、先生が捕まえた富士太鼓ノ留吉と倶利伽羅ノ伊之助の二人は鴻巣の代官所から千住小塚ッ原に唐丸籠で運ばれて斬首獄門に成るんだ。」

子分A「すげぇ〜なぁ、先生。」

子分B「先生、ヤットウは何んて流派なんですか?!」

文治郎「拙者は一刀流で御座る。岡山の道場では師範を務めていたが、跡二年で免許皆伝のハズが國を追われて仕舞ってパァ〜だ。」

子分A「でも、師範はスゲぇ〜ぜ、先生。」

子分B「其れに中仙道では名代の悪党ですよ、富士太鼓ノ留吉と倶利伽羅ノ伊之助と謂えば、其れを一人でお縄にするんだから大したモンだ。」

富五郎「だからだ。之からは先生に剣術の指南役に成って貰いお前達を鍛えて頂く事にする。金太、喜蔵、お前達は明日先生と一緒に木刀を三十本ばかり買い付けに行って呉れ。」

金太・喜蔵「ヘイ、合点です。」

富五郎「そしてなぁ、剣術はに組全員が先生から教わるが、もう一つ、先生には読み書き、素読の指南もお頼みしている。ただし、コッチは希望者だけだ。」

お政「さぁさぁ、お前さん!堅い噺は其れ位にして、乾杯して、先生に料理にも箸を付けて頂きましょうよ。」


其れでは乾杯!!


と、盛大に宴会が始まりまして、文治郎はお政の酌で酒も進み少しは場の雰囲気に慣れて来るかと思いきや、富五郎とお政はまだしも、

子分達はどいつもこいつも鳶の職人ですから、全身に刺青が入っていて、龍虎や鯉に金太郎、髑髏、般若、死神、閻魔、弁天様に御釈迦様、弥勒菩薩までもが御座います。

富五郎「さぁ、高濱文治郎先生!半刻ばかり過ぎて腹も七、八分に貯まった所で子分達に自己紹介させますんで、先生!どうか覚えてやって下さい。

おい、野郎ども!明日から剣術の修行と読み書きの稽古が始まる前に、先生に自己紹介しろ!では先生、顔と刺青で名前を覚えてやって下さい。」

金太「先生、お初にお目に掛かります。アッシは『亡者の金太』と申しやす。金太郎が地獄で亡者と相撲取っている紋紋を背負っています。

明日は先生とご一緒に日本橋で、樫の木刀の買い付けにも同道しますんで、『亡者の金太』です、どうか宜しくお見知り置き下さい。」

喜蔵「さて、二番目に控えしは『鬼の喜蔵』と申します。アッチも明日は金太兄貴に同道しますんで宜しく、紋紋は般若を背負っております。」

彌助「さて、三番目の其の人は『閻魔の彌助』と申しやす。他の連中は田舎モンばかりですが、アッシは神田生まれの神田育ち、生粋の江戸っ子です。」

重吉「さて、四番手に控えしは『地蔵の重吉』と申しヤス。生まれ付いての石頭。頭突きだったら誰にも負けぬ、突貫小僧に御座んす。」

さてさて、そんな一癖も二癖も有る連中の紹介が延々と続きまして、文治郎も呆れ果てた最後は十八人目の此の男の紹介でした。

富市「さて、殿(シンガリ)を務めますのは『菩薩の富市』で御座います。元は座頭として仕込まれて居ましたが、開眼がバレて今は鳶で御座います。」

そんな宴会が朝まで続き、四斗樽を呑み干す火消しの勇しさで、翌日、昼前に起きた文治郎、大層な二日酔いでしたが、木刀を買い求めに行く約束が御座います。

亡者の金太と、鬼の喜蔵の二人に連れられて日本橋の職人や、道場を巡りながら五本、拾本、弐拾本と木刀を買い集め八ツ過ぎに両国米澤町へと戻ります。

軈て、高濱文治郎は成田屋での日常が始まります。日課だった朝湯は馬喰町一丁目から両国米澤町に移った関係で、湯屋が『扇子湯』から『正徳湯』に変わりますが、

生活其の物は変わらずに、昼までは湯屋に居て好きな将棋を指してから成田屋へ戻ります。そして、正午からは主に素読の指南、八ツから暮れ六ツは剣術指南と成ります。

に組の子分達は、なかなか根性が座って居て、消防と謂う仕事で命を張って毎日死と隣り合わせなので、剣術の上達が早く是には文治郎も驚きました。


朱に交われば赤くなる


高濱文治郎は、一月、三月、半年と臥煙の群れに這入って居た事で、すっかり言葉や気性が彼等と同じ侠客の其れに変わるので御座います。

そして何時の間にか『兄貴!』『親分!』と、周囲は文治郎の事を呼ぶ様に成りまして、先生で始まった文治郎の呼び名も、すっかり侠客と成りつつ有る、

そんな或日。成田屋富五郎の子分達が集まり、こんな噺を始めるので御座います。

金太「オイ、喜蔵!彌助!重吉!高濱の旦那が成田屋の食客に成って、早いもんでもう半年だ。剣術の腕前は毎日木刀で打ち合っているから判る通り、

お仲の姐御が手紙で知らせなすった通り、あの腕前は七人力も大袈裟じない!素振りして風を切る音がアッチ等素人とは桁が違うよ。」

喜蔵「其れに兄貴、高濱の旦那は怪力だぜぇ。鳶口で家を壊すのを手伝って貰った時、オイラ魂消(タマゲタ)んだから。オイラの拾倍は早い。」

彌助「オマケに気風が宜くて、度胸は有るし、義に厚くて面倒見も宜いよなぁ〜、親分や姐さんを立てるし忠義心も半端無い。漢ん中の漢って感じの侠客だ!」

重吉「其れで持ってあの器量だよ。お役者様かと思う美男子ぶりだ。湯屋の二階で将棋を指していると、女が粋な年増から子守ッ子まで集まっている。」

金太「どうだ、この際だから高濱の旦那には、親分と義兄弟の契りを交わして貰って、俺達の組合に這入って貰っては如何だろ?」

喜蔵「エッ?!組合に這入るって事は、旦那、臥煙に成るって事か?」

金太「そうさぁ、消防渡世で親分に成って頂くのよ。どうだ?!」

彌助「オーッ、そいつは宜い。俺は大賛成だ。」

重吉「でも、どうやって組合に這入って貰うんだよ、金太兄ぃ?!」

金太「そりゃぁ〜、俺たち皆んなでご注進申し上げて、組合に引っ張り込むんじゃねぇ〜かぁ。」

喜蔵「そうと決まったんなら、早い所、旦那に組合へ這入る様に御勤告しに行こうぜ、皆んなして。」

相談が纏まりまして、居間に居る高濱文治郎の元に、よったりの子分達がやって参ります。

金太「どうも、高濱の旦那、お昼ご飯はお済みですか?其れならば剣術の修行が始まる前に、一寸、お時間を頂戴できますか?」

文治郎「之は皆さんお揃いで、どうしました?改まって。」

金太「イヤねぇ、旦那。旦那は御浪人ですが『忠臣は二君に仕えず。』だと仰って、仕官の口は探しておられませんが、此のまま浪人をお続けなさる積もりですか?」

文治郎「左様のぉ〜、二君に仕えずは父の遺言由え、当分は浪人だ。ただ、何か人生の目標は見付けたいと思っておる。そして当分は貴様達に剣術を教える事が糧じゃぁ。」

金太「つまり、浪人を当分続けて二度と武士には戻らぬ覚悟なら、旦那!どうです?一層、アッシ達の組合に這入りませんか?臥煙に成るんです、臥煙に。」

文治郎「臥煙に?儂がゝ?組合に這入れるのか?!」

金太「そりゃぁ〜這入れますとも!ただし、其れには一つ条件が有ります。」

文治郎「条件?!」

金太「ハイ、うちの親分と兄弟盃を交わす事が条件です。」

文治郎「組合に這入り、臥煙となるかぁー。」

喜蔵「旦那!臥煙は随分と面白い商売ですよ。ジャンジャンって頭付きの半鐘を鳴らすと、長鳶、手鳶を引っ下げて火事場へと駆け付ける。」

彌助「そして中でも一番の花形は誰もが憧れる纏持ちでさぁ〜。屋根に登ってこいつを回してやると、其の火事はうちの組の持ち場に成るんでさぁ〜。」

重吉「褌一丁で火ん中へ飛び込み纏を振り回すなんざぁ〜、本当に漢冥利に尽きる仕事でさぁ〜。あの快感は一度味わうと忘れられませんぜぇ。」

金太「何より火事と喧嘩は江戸の花。其の両方をたっぷり味わえるのは臥煙を於いて在りません。どうですか旦那、漢を味わッちゃ見ませんか?」

口々に子分どもは、高濱文治郎に組合に這入れ!臥煙に成れ!と勧誘を続けて来ますが、今、一歩踏み込めない文治郎でしたが

或日、今度は臥煙に成るなら、『高濱文治郎』では務まらないと謂う噺になり、文治郎に相応しい臥煙らしい二つ名を考えよう!!

つまり、名前から侠客らしくさせたら、文治郎も観念し、親分と兄弟盃を交わし組合に這入るに違いないと考えるので御座います。

金太「行く行くは俺達の親分に成る器の御方だ、大きな貫目の漢に相応しい名前を考えようじゃねぇ〜かぁ、皆んな!!」

喜蔵「旦那は備前國生まれだから、備前屋大五郎とか、備前屋政五郎なんて通り名はどうでぇ?!」

彌助「何んかピンと来ない。商人ッぽいし、強く感じねぇ〜なぁ〜。」

重吉「何かぁ、旦那らしい、旦那だ!っと判る名前が宜いぜぇ。」

富市「然うさねぇ、旦那は白粉塗ればお役者様顔負けの美男子だ。そう!旦那は生得な好男だろう?其処でだ。貴様達も見た事が有るだろう?

彼の亀戸天神の絵馬堂、彼処に奉納の額に這入っている中将業平の、吾妻下りを描いた絵馬!ご装束を身に付けて馬に乗り、

三州八ツ橋村の菖蒲を眺めて居られる姿を模した絵馬だ、見た事位有るだろう?彼の在原業平公と高濱の旦那とは何処となく顔の様子が似ているだろう?

そこで美男子在原業平公に似てると謂う意味を込めて『業平文治』って名前はどうだ?ゴロは宜いし、名は体を表すし、何より覚え易い。」

さぁ、其れが宜い!其れで決まりだ!と、成田屋富五郎の身内一同が、先ずは『業平文治』と呼ぶ様になり、徐々に周囲は彼をそう呼ぶ様に成ります。

又、最初は「コレ!コレ!揶揄うモノではない!」「コレ、そんな詰まらぬ事を。」と、文治郎は照れ半分、呆れ半分で静観して居りましたが、

是も又恐ろしい物で一月、二月、刻が過ぎると『業平文治』が通り名へと定着して仕舞うのです。軈て、文治は成田屋富五郎との兄弟盃で、

遂に臥煙、侠客への渡世へと足を踏み入れる事に相成るので御座います。そして、愈々次回からは侠客・業平文治の物語をお送り致します。


つづく