さて、娘・兼が突然泣き出すのを見て嘉兵衛は驚いて仕舞います。最初は泣いて喜んでいるのかと凝視致しましたが、紛れもなく悲しみの泪成れば、何故泣くのか?!

慶び驚くとか恥ずかしさの余り赤く成りモジモジ恥ずかしそうにするのかと想像していたら、突然泣き崩れて仕舞う娘のお兼、もう何が何んだか分かりません。

嘉兵衛「オイ、兼!泣いてばかりでは父には訳が分からぬ。其れ程までに其方が否むならば父は無理に若殿に其方を縁附けたりは致さぬし、其れは若殿の本意でもない。

但し、父はお断りを致すからは、若君に其の理由(ワケ)を申さねばならむ。判るなぁ、兼、尊かろうと賤しかろうと男女の仲に恋情は二つは無い。

当國の太守が汝をお慕いなさると申せども、其方如何なる考えが有って之を忌嫌うのじゃ。汝の心底を有体に此の父に申してみよ。

決して叱りは致さぬ。若君は聡明でご理解の在る御仁なれば、父が其方の想い、考えを申し述べて此の縁組は無かった事と致す。

さぁ、泣いてばかり居ては判らぬ。必ずや、即刻若殿へお断り申し上げて参る由え、父にお話しなさい。泣いてばかりでは埒は開かん!」

其の様に父・東嘉兵衛に宥め透かされまして、漸く娘のお兼は泪を堪えてやや嗚咽を滲ませながはも、苦しい胸中をポツリポツリと語り始めます。

お兼「もう妾(わたし)も一生懸命の処で有りますから、何事も一切隠し事は致しません。妾も今迄の清き體なれば御前様の思し召に従いまするが

父上のお詞(ことば)に依って申し上げますが、どうにも左様な仕業とは行かぬ訳は恥ずかしながら、妾は父上の眼を盗み良夫と成る人を心に決めて御座いまする。

其ればかりか一ヶ月も前より、月の物は止まり身體の様子が変わって居ります。穢れた此の體を太守様に差し出す訳には参らず、剰え、此の身に宿る赤子の父親、

妾が契りし男に対しての女子としての情が立ちません。併し、父上にとっては寝耳に水、影でこそこそ睦み合うなど言語道断!許し難い事と存じ上げまする。

不義不忠の淫らな娘に御座いますれば、父上!存分に成敗なされて構いません。妾も武士の娘なれば、最早生きて恥を晒す積もりは有りませんので命など到底要りません。」

と、娘、お兼は覚悟を決めて首を差し出す積もりで、父、嘉兵衛の前に正座致します。さぁ、是を聴いた嘉兵衛は驚きます。そして、暫しの沈黙の後、喋り始めます。

嘉兵衛「嗚呼、然れど親バカと謂うは世の喩え、かような狭いアバラ家に親子二人で暮らして置きながら、娘の腹に赤子(やや)が在る事にも気付かぬとは!?

父はお前に刃を向けて、孫諸共命を奪える様な鬼では無いワぁ。兎に角、其の汝の腹に在る赤子の父親とは?何処の何奴だ?何者?名を教えて呉れ!?」

お兼「さぁ、其の御方は

嘉兵衛「儂が知り居る奴なのか?!」

お兼「御意に御座いまする。」

嘉兵衛「まぁ、宜い。其方の口からは男の名前が謂い難かろう。宜しい儂は勘は良い方だ!大体は判って居る由え推量致そう、其れは名主甚右衛門の倅!甚太郎だなぁ?」

お兼「いいえ、あんな図体ばかりデカい鈍間は好みでは御座いません!父上、兼の人を見る眼を馬鹿にしないで下さい。」

嘉兵衛「何を謂う。座興じゃ!座興じゃ!あんな『独活の大木』を婿とは思わぬ。そうだ!アレで有ろう?旦那寺の小姓で、吉三とか申す坊主だなぁ?」

お兼「違います!妾は八百屋お七じゃありません。其れに面食いです。あんなつく芋みたいな坊主は好みじゃ御座いません。」

嘉兵衛「判って居る。座興じゃ!座興じゃ!判ったぞぉ、折りに触れて錫杖などを突いて、托鉢に参る法印だなぁ?!」

お兼「何を仰います!アレなる托鉢の法印は、面の良し悪し以前に、歳は父上と変わらぬ老人では御座いませんかぁ?妾はお爺専じゃ有りません。」

嘉兵衛「判って居る判って居る。座興じゃ!座興じゃ!さて、此の近所に若い面の良い、其方好みの男など居ったか?!思い当たらぬが。」

お兼「近所では有りません。五里離れて御座います。」

嘉兵衛「何ぃ〜近所に在らずして五里遠方となぁ?其れはまさか!道場の門弟?」

お兼「左様です。道場の門弟です。」

嘉兵衛「エッ、其れはまさか?!」

お兼「ハイ、お恥ずかしゅう御座いますが、伊村仙右衛門様の御子息、市之丞様と言い交わして御座いまする。」


さぁ、此れを聴いた嘉兵衛は膝を一つポーンと叩いて納得致します。矢張り、お兼と市之丞は惹かれ合って居たか?と、今更ながら思ったので御座います。

斯く謂う嘉兵衛も、仙右衛門が市之丞を息子だと紹介し歳を二十三歳だと聴いて、ビビッと来てお内裏様とお雛様の様にお似合いではないかと思ったので、

余程、仙右衛門に二人を夫婦にしてはと切り出そうとしたのだが、能く考えると市之丞は仙右衛門の独り息子成れば婿養子に出す筈も無く、

又、お兼とて同様に嘉兵衛の独り娘であるからには、嫁に出す訳には行かず容易に二人を夫婦にしてやる事は叶わないのである。其処で

嘉兵衛が考えた方法は、吉良上野介が上杉家に独り息子の上杉綱憲を婿養子に差し出して、代わりに次男を吉良家へ養子に出して吉良義周として世継にしている。

此れと同じく、先ず市之丞をお兼の婿に貰い東の姓を名乗らせて、次に子が出来た段階で次男を元服の後に伊村家に養子に出して仙右衛門の息子として後継にするのである。

是を近々仙右衛門に相談しようと思っていた矢先、嘉兵衛の思惑よりも早く若い二人は惹かれ合って、兼は市之丞と通じ合い殊に胎内に市之丞の胤を宿して居るとは

嘉兵衛「済んだ事を兎や角云う積もりは無い。其れで懐妊しどれくらいが経つのだ?兼。」

そう訊かれたお兼は、顔を真っ赤に染めてモジモジしながら蚊の鳴く様な声で答えた。

お兼「ハイ、もう三月やらで御座いまする。」

嘉兵衛「相判った、もう宜しい、どうも致し方無い。若殿の方には此の嘉兵衛が何んとか言い訳致そう。兼!宜いか?こういう時こそ狼狽える物では無いぞ、

父はもう全て呑み込んだ由え安心致せよ。市之丞と縁成ったからは、父は生木を裂く様な真似は致さん。儂は確かに古い人間で頑固な武士では在るが野暮じゃない。

安心致せ、兼!必ず市之丞とは夫婦(めおと)にしてやる。元気で健康な赤子を産むことだけを汝は考えろ!心配致すな、気の悩みは腹の赤子に毒ぞ!宜いなぁ、兼。」

お兼「ハイ、有難う存じます。お叱り有らんと覚悟しておりましたが思いの外、市之丞様と夫婦にして下さいますかぁ!併し、佐賀の若殿様には如何に。」

嘉兵衛「任せて於け!其の事なれば父にちゃんと考えが在る、安心致せ。」

兼「エッ?考えとは?何んと申訳なさるお積もりですか?父上。」

嘉兵衛「虚言も方便、父に任せて於け弁舌を以って申訳致すから、左様心配するには及ばぬ。ささぁ、鬢の解れと泪で流れた化粧を直して来なさい。

其の格好のままでは外出も成るまいて、普段着は脱いで新しい小袖に着替えて参りなさい。宜いから急いで支度をしなさい。兎に角!急ぎなさい。」

お兼「妾は何処ぞへお使いに?」

嘉兵衛「左様、玉縄村の伊村仙右衛門、市之丞親子の元へ行って貰いたい。」

お兼「あらまぁ〜どうして?けどでーも

嘉兵衛「お前はムーミンか?!」

お兼「今はもう五ツ戌刻、玉縄村に着くのは九ツ子刻過ぎに成りますワ。そんな深夜に何用ですか?!」

嘉兵衛「頼みは二つ、先ずは書面を一つ届けて貰いたい。今認める由え暫時待て!」

そう謂うと嘉兵衛は書斎に独り這入りサラサラと、筆を執らせると一通の文を認めますと、是を文箱に仕舞い堅く封じます。そして是を持ちお兼の前に再び現れて、

嘉兵衛「之れを持って仙右衛門殿と市之丞の前に行き、恥ずかしかろうが我慢致して、此の文箱を仙右衛門殿に渡しなさい。」

お兼「ハイ、父上。」

嘉兵衛「もう面目ないとか恥ずかしいとか謂って居る場合ではないぞ!気を強く持って一刻も早く届けねばならんぞ。」

お兼「ハイ、畏まりまして御座います。」

嘉兵衛「慌てゝは成らぬぞ、落ち着いて頼む。」

お兼「ハイ、父上。」

嘉兵衛「そしてもう一つ。此の帛紗に包みしは信濃守様よりお預かりした二百両の支度金である。之も文箱と一緒に仙右衛門殿に渡して欲しいのだ。」

お兼「何故で御座いますか?二百両は父上が申訳なさる際に、太守様へお返しになれば済む噺では御座いませんか?其れを何故?態々仙右衛門殿に預けるのですか?」

嘉兵衛「だから女子の知恵は浅い。宜いか?忌みじくも太守が一旦、臣下に命じなされて手文庫から出された金子を、再び、お戻しに成ると謂う事が、

どれ程太守にとって恥ずかしい事であるか?其方には判るまい。藩の出納帳に記されし二百両が側室取りにしくじり返金と帳面に残るのだぞ!儂には出来ぬ!左様な事。」

お兼「申訳有りません。其処まで父上がお気遣いなさり仙右衛門殿に二百両を預けて置かれるとは思いもよりましんで、失礼いたしました。」

嘉兵衛「そんな事は判れば宜い。其れより早く玉縄村へ出掛けなさい。」

お兼「ハイ、父上!では行って参ります。」

嘉兵衛「夜道の女独り由え、気を付けて参るのだぞ、兼!!」

そう謂ってお兼を玄関先から送り出した嘉兵衛は暫し呆然と致して、娘のお兼の持つ提灯の灯が見えなくなる迄其処に佇み、眼には一滴の泪を湛えましまが、

軈て如何なる考えが有っての事か?ゆっくりとゆっくりと、部屋の奥へと進み嘉兵衛は何やら所存のある體で有ります。


一方、お兼は早足で急ぎに急いで何とか九ツ前の亥の下刻に玉縄村へ着き、伊村仙右衛門の道場兼自宅の門を叩いた。

お兼「御免あそばせ!夜分済みません!門をお開け下さい。」

門番「ハイ、ハイ。どなたですか?」

お兼「境原の東嘉兵衛の娘で御座います。」

門番「東様の、娘子、ちょっとお待ち下さい。直ぐにお開けします。」

そう云うと門番はお兼を玄関脇の客間に通して行燈を点けて呉れて、直ぐに手燭を持って奥の書斎に居る仙右衛門へと知らせに走るのだった。

門番「先生!来客で御座います。」

仙右衛門「こんな夜中に誰が参った?!」

門番「其れが境原から東嘉兵衛様のお嬢様がお見えに成りました。」

仙右衛門「エッ?兼殿が?独りでかぁ?!」

門番「ハイ、お美しいお嬢様が独りです。」

仙右衛門「判った。直ぐに参るから、市之丞も呼んで来なさい。構わぬ!寝ておったら叩き起こしなさい。」

そう謂うと仙右衛門は玄関脇の客間に現れて、独りぽつんとやや不安気に座っているお兼の方を見て、険しくなりそうな顔を無理な造り笑顔で話し掛けるのだった。

仙右衛門「之は之は、お兼殿。暫くでした。こんな夜更けに何事で御座る。父上に何んぞ有りましたか?事故とかご病気ですか?」

お兼「いいえ、実は父より大事な文箱を預かって参りました。」

仙右衛門「何んと!父上の遣いで参られたとなぁ?文箱、其れでは早速拝見致しましょう。そうだ!茶を入れましょう。丁度宜く門弟の母親から頂戴した栗餅が御座る。

男二人で持て余していた所であった。まだ、固く成らずに美味しく頂けます由え、是非、沢山食べてお帰り下さい。苦い茶に実に合いまする、さぁどうぞ!」

お兼「いえ、もうお構いなく。」

嘉兵衛「市之丞!市之丞はまだか?何をして居る東殿の娘子、お兼殿が来ておられるぞ!寝て居る場合じゃないぞ!!早く参ってご挨拶しなさい。」

すると市之丞が奥から現れますが、父・仙右衛門の前で情婦(いろ)であるお兼に逢うのは初めてゞ、何んとも恥ずかしい気持ちがして頭を掻きながら照れ隠しを致します。

仙右衛門「何をしておる!市之丞、頭を掻いておる場合か?、兼殿が態々五里の道のりを深夜に来て下された。お前もお茶と栗餅をお薦めしなさい。

どうも済みません。男の子と謂う奴は女の子とは違って挨拶も満足に出来ぬとは、誠に申訳御座らん。母親を早よう失いましてガサツで困ります。ホラ!市之丞、お兼殿に世辞の一つも謂いなさい。」

市之丞「いやぁ〜、お兼さん!能くおいでになりました。雨じゃなく月夜で何よりでした。」

仙右衛門「市之丞!余計な事は謂わずとも良い。さぁ、其れよりお茶のお代わりでも差し上げろ。ッたく。」

さて出来ている市之丞とお兼の両人ら、仙右衛門の手前、会話も少なく食べたくもない栗餅を食べていれば、喋る必要がないのでお茶を飲み餅を無駄に喰らいます。

一方、仙右衛門はお兼が持参した文箱を開けて、中から東嘉兵衛が認めた手紙を取り出して、こんな夜更けに独り娘に運ばせた手紙を行燈の近くで広げて読み始めた。


一幹令啓達候今般当國の若太守不肖なる我が娘御懇望に附、一旦はご辞退申し候得共、貴殿御承知の如く先日拙者を御家臣の内へお召抱え下さるべくの旨、

御仰せ出され候節、有難き尊虜に叛き御断り申上げ候後、又々娘の義尊虜に叶ひ、不本意ながら御受申上げ、御支度金まで拝領致し帰宅の上同人へ其旨聴候処、

豈図らんや貴殿子息市之丞殿と密通致し候様子、殊に懐妊の由承るに及び実に驚き入候、本来ならば手討ちにも可仕候なれども、御同然恩愛は捨て難く、

夜分貴家へ差遣わし候間、何卒両人末長く夫婦に相成し子々孫々鍋島家に御恩報じ仕り候様、御教諭下さるべく候、拙者義は目下差し迫り申訳の為覚悟罷り在候。

何分御賢虜の程希望仕り候、頓首敬白。


十月十六日                   東嘉兵衛國次


伊村仙右衛門殿


伊村仙右衛門は、此の東嘉兵衛國次よりの書面を読み進むに従い、顔は険しくなり書面を持つ手は怒りに震えて、読み終えても暫くは声も出ず、茶を啜り漸く口を開きます。

仙右衛門「アぁイヤ、之は市之丞!お兼殿、若気の至り不義を重ねたばっかりに、天下の名士嘉兵衛殿が、

若君様への申訳をご決意為されたご様子。之は捨て置ぬ一刻の猶予もならんぞ!両人我に付いて跡から参られよ。」

市之丞「何ぃ〜?!父上、嘉兵衛先生がお覚悟を召されたとは?!さては我等が不義淫行が原因で、面目次第も有りません。」

と、市之丞もお兼も、まさか嘉兵衛が詰腹を斬るとは思いませなんだから、此の手紙を読んで心底驚き後悔致します。

仙右衛門「今は兎や角謂うても詮方ない。拙者は馬で境原の嘉兵衛殿を訪ねる。市之丞!お前もお兼殿を連れて馬に乗りなるべく早く跡を参れ。」

さぁ仙右衛門が高張りの馬上提灯で先導し、親子三人は馬を使い四半刻も掛からずに、境原の東嘉兵衛の家に到着した。

仙右衛門「嘉兵衛殿!東氏!」

市之丞「先生!嘉兵衛先生!」

お兼「父上!父上!お父様!」

そう三人三様で嘉兵衛を呼びながら、真っ暗な家の中へ、奥へ奥へと進みますとプーンとお線香の匂いが立ち込めまして、

一番奥の書斎に入りますと、畳が二畳裏に返されて自ら用意したしきみの花が立てられて、線香が花と花の間、真ん中で燃え尽きています。

其のしきみと線香、そして床の間に挟まれる返した二畳の上で、何時用意したのか真っ白な死装束に着替えて尻の下の三方に座して、

紙を巻いた九寸五分にて腹を見事に掻っ捌き、介錯も無く苦悶の恐ろしい形相で相果てた東嘉兵衛國次の壮絶な最期がそこに在るのでした。

仙右衛門「嗚呼、何んと残念なことをなされた、兄上!仙右衛門に御座いまする。」

義兄弟の契りを結ぶ仙右衛門はそう謂って、嘉兵衛の亡骸にしがみ付き漢泣きに泣く、一方、娘のお兼はと見てやれば、

もう半狂乱で屍人の手から九寸五分を奪い取り、今にも独り首を突いて後追い自害の勢いですから、必死で市之丞が是を止めています。

お兼「父上!なぜ、お独りで此の様な真似をなさるのですか?!兼は成敗されるより、苦しゅう御座いまする。」

市之丞「お兼殿!お前ばかりが悪うはない。此の拙者とて同じ事。親の許しも得ぬままに、此の市之丞は好色に走り、不義淫行から斯くの通り、

斯くなる上は、此の市之丞が師匠嘉兵衛殿の三途の川の案内人として、ケジメを付けさせて頂きます。父上!どうか先立つ不幸をお許し下さい。」

お兼「いいえ!市之丞殿。妾(わたくし)が父上を母の待つ冥土とやらへご案内仕る。」

仙右衛門「待ちなさい!二人共、早まるでない。此処で汝等両人が命を捨てたら、嘉兵衛殿は犬死ぞ!両人も嘉兵衛殿の手紙を読んだであろう?

嘉兵衛殿の意思、願いは汝等両人が夫婦になり、立派な子を産み育て鍋島家の為に御恩返を致す事である。其れなのに自害してどうする?

兎に角、お前達二人はお兼殿のお腹の赤子(ややこ)の事だけを考えろ!跡始末は総て此の仙右衛門に任せなさい。ちゃんと申訳致す。」

市之丞「併し、父上。父上こそご覚悟のご様子、拙者は息子として放って置けません。」

仙右衛門「エェイ、喧しい!父の命令と嘉兵衛殿の願いに従うのだ、市之丞。此の後に及んで議論の余地など無い。

そして何は兎も有れ市之丞とお兼殿は此の備前の國佐賀領内に居ては何かと面倒くさい。両人は早く出國の支度を致し、一刻も早く此の場から立ち去りなさい。」

お兼「アッ!そう謂えば最後に父が、若君様から妾が側室として城に上がる支度金だと仰って二百両の金子をお恵みなされたと、此の二百両を妾に授かりました。

父が申すには表の出納帳に印された金子由えに、無下にお戻し致すと記録に残り、側室破談は太守の恥になるからと、仙右衛門殿にお預け致せとの事でした。」

仙右衛門「成る程!之は嘉兵衛殿の機転だ。市之丞とお兼殿は必ず旅の道行となるのを見越しての二百両だ。兎に角、両人は之を路銀に遠くへ参りなさい。

そして何処かへ落ち着き、兼殿が身二つに成ったならば、出生する子が男女は分からねど、若し男子出生致さば、之の子成人と成ってからは鍋島藩に奉公させなさい。

兎に角、元気で健康な子を産み子々孫々、鍋島家に御恩を返すが両人の使命なれば、夢々死のうなどゝは思うまじ。其れこそ不孝不忠、佐賀の地に足を向けるで無いぞ!」

此の様に仙右衛門から諭された市之丞とお兼の両人は、気持ちの整理を付けて、子を産んで鍋島家に御恩返しするのを生き甲斐に、旅の支度を始めます。

市之丞「父上、支度が完了致しました。では左様ならと申したいのですが、跡の事が気掛かりです。」

仙右衛門「イヤ、心配するには及ばん其れより早く行け。領内の人間にはなるべく見られぬ方が宜い。由えに暗いうちに出るのじゃぁ。

兎は謂え両人はまだ二十歳そこそこ、此の肥前の地を出るのは初めてゞ、旅は不慣れで知恵は浅い。不安に感じる事のみぞ多かれじゃぁ。

宜いか?市之丞、旅をすれば必ず護摩の灰や、タチの悪い雲助、強盗、山賊・海賊が現れる。彼等は旅の付き物じゃぁ。絶対に避けられぬ。

ではどうしたら良いと思う?二百両からの路銀を胴巻に入れての旅だ、必ず、其れを狙って彼等は現れる。さぁ、市之丞!如何致す?!

宜いか?どんなに腕に覚えが有ったとしても、奴等と戦ってはならん。そうだ!金子で噺が着いて命が助かるなら、銭などくれてやれ!

宜いか?お前達の生きる目標、目的は赤子を産み育て鍋島家に御恩返しする事だ。つまらぬ争いで命を捨てるな!其れが逃亡者の旅の極意だ。

忘れるな!市之丞。身の行く先は不知火の筑紫を出ての長い旅立ちと相成る。そして恐らく佐賀鍋島藩からの追手が掛かる。之にも用心が必要じゃぁ。

旅籠にはなるべく夕刻日の沈む前に泊まり、朝は暗いうちに旅立つ。兎に角、目立たない様にして人と争わず、道中の誘いに乗り横道になど足は踏みいれず。

駕籠、馬など一人で利用する乗り物は避けて、使う乗り物は船など大衆が利用する物に限る。又、茸や野草は絶対に口にするな!思わぬ毒がある。」

市之丞「父上!何から何まで返す返すも、情けの籠るお詞を賜り………。」

仙右衛門「其れから市之丞、この手文庫を持って旅立ちなさい。此の中には儂が朋友達と遣り取りした手紙と名刺が詰まっている。

之よりお前とお兼殿は初めての地を旅して廻る事になり、知人も縁者も無く孤独な毎日を送る事になる。だが此の手紙と名刺が有れば、

其の初めて地に、儂の朋友が在るかも知れない。万一在れば此処に在る住所に赴き、伊村仙右衛門の息子だと名乗れば必ずお前達の力に成って呉れる。

そしてだなぁ、取り敢えず、お前達両人は江戸表を目指して旅を致しなさい。江戸は駒込の染井村に一刀流の道場を構える男が居る。

其れは稲垣金兵衛と謂う男で、儂の古くからの朋友の一人じゃぁ。金兵衛が道場を江戸に構える前に、全国を武者修行致し玉縄村の儂の道場へも修行に来た。

その時に金兵衛は旅の疲れがドッと出て病に掛かり寝込んで仕舞ったのだが、儂が家に預かり医者を呼んで看病してやった甲斐有って全快した。

そして江戸迄の路銀なども渡し帰してやったのが縁で金兵衛とは、中元歳暮や寒暑の見舞いの手紙の遣り取りが今も続いている。

元は水戸藩に勤めた武士で、実に義理堅く大変頼りになる男だから、奴からの手紙は纏めてあるから目を通して於きなさい。」

市之丞「畏まりました。」

仙右衛門「さぁ、もう之で儂が貴様に申し聴かせる事も無い。早く此処を立ちなさい!!」

市之丞「父上、お元気で必ず江戸表より便りを送ります。」

そう謂って送り出した息子の市之丞と内儀のお兼。種々の考え思惑を頭に巡らせて、伊村仙右衛門は、千萬無量の胸の雲晴れて真如の月を拝まんと、

最期の覚悟を悉く筆に言わせて、是を座敷内の床の間に貼り付けて、東嘉兵衛國次の亡骸の傍らへ來て、そっと三方を抜くと自らが使い。

仙右衛門「嘉兵衛殿!少々遅くなり申したが、是よりお伴仕らん。『桃園の誓い』の義兄弟なれば同年同月同日に冥土へ同道致しまする。」

と、自らの小刀で見事に切腹仕りまして、伊村仙右衛門も相果てるので御座います。この時、東嘉兵衛四十六歳、伊村仙右衛門は五十一歳に御座います。

此処に儚き最期を遂げたるは因縁づくとら謂え清くも又哀れでも御座います。実は此の少し後大坂の狂言作者が佐賀を訪れて、

此の事を『薄雪物語』と謂う浄瑠璃に拵えるので御座います。然るに嘉兵衛と仙右衛門と謂う勇士を失いしは、全く若者の色情と太守の色情が融合し生まれた悲劇で、

正に浄瑠璃には似合う物語やも知れませんが、この結末を聴いた太守、若殿様は痛く悲しみ後悔をなさり、嘉兵衛と仙右衛門の亡骸は手厚く立派な葬儀が執り行われます。

又、姿を消した市之丞とお兼に対しても、若君は処罰する事なく、まだ遠くには逃げては居るまいと、追手を出して探索させましたが、その行方は杳として知れません。


つづく