國境の原中での鷹狩りの一件が御座いまして、若き日の鍋島信濃守は使者を立てゝ、例の菊地家浪人、東嘉兵衛國次を城に呼び出しまして酒宴を催します。
愛鷹、富士嵐を嘉兵衛が保護して世話を致して呉れた件に対し、信濃守はすこぶる喜び改めて礼を述べると共に、嘉兵衛の人となりに着いて色々と質問する。
嘉兵衛は是に対し快く自身を物語り、父より楠木流の軍学と卜傳流の剣術を学び、かなり熟練の腕前で有る事を知る。文武両道を愛す信濃守は是に甚く感心すると、
嘉兵衛を酒、肴で歓待し、最後は御目録と南蛮菓子などを土産に持たせて帰すのです。更に度々嘉兵衛を城に招くと、近習衆を集めて軍学の講義を聴かせた。
傍で勿論若き信濃守も嘉兵衛の講義を聴き、実に雄弁且つ理路整然とした是に甚く感心します。愈々若殿は東嘉兵衛に心酔し、此の漢を家臣にしたいと願います。
併し、何度好条件で嘉兵衛を信濃守が仕官の噺を持ち掛けますが、嘉兵衛は受け入れず首を縦には振りません。そして、毎回辞退する際にはこう申します。
嘉兵衛「誠に恐れ多い事に存じます。菊池家を浪人と成って百年余りが過ぎ、小生で四代が経って居ります。最早家柄は無く農民同然、又二君に仕えるは武士に在らず。
曾祖父より魂だけは武士で有れとの教えに御座れば、折奉るは返す返す恐縮の至りでは御座いますが、何卒曾祖父の意を貫徹致す所存なれば、偏にお許し願いたい。」
その様に信濃守からの申し出を誇示した東嘉兵衛國次でしたが、信濃守は家臣とする事は諦め食客として城への出入りを認め、軍学と剣術の道場を開かせて更に手当を与えます。
其れから三月程の歳月が流れて、東嘉兵衛の優れた軍学と剣術の腕前が鍋島藩の家中でも認知され、嘉兵衛には弟子を自称する信濃守の近習も現れ始めた頃、
信濃守は東嘉兵衛國次より、意外な提案、ト或る浪人者の推挙を受ける事に成ります。嘉兵衛は信濃守に対して、実に熱心にその浪人者に付いて語り始めるのだった。
嘉兵衛「若殿、実は貴方様に是非紹介致したい優秀な人材が城下玉縄村に御座いまする。其れは豊後國大野荘の守護、大友氏に仕えた浪人、伊村仙右衛門と申す者です。」
若殿「其の者、誠に優れて居るか?!」
嘉兵衛「御意に御座います。拙者は楠木流の兵法ですが仙右衛門殿は北條流の軍学を極めて御座いまして、剣術も拙者は卜傳流ですが、彼は一刀流の使い手に御座いまする。」
若殿「嘉兵衛、其の伊村仙右衛門なる人物、其の方の古くからの朋友であるのか?!」
嘉兵衛「そうでは御座いません。偶然、隣村同士で旦那寺が同じゅうして、其の寺の住職の紹介で一月ばかり前に出逢いまして、兵法や剣術の談義を重ねまして知り合いました。」
若殿「そんなに、仙右衛門は武家に明るい人物であるかぁ?!」
嘉兵衛「御意に御座いまする。由えに若殿に推挙したいと申す次第に御座います。」
若殿「ハッハハハァ〜。嘉兵衛、其の方は実に面白い。お主程私利私欲の無い者を予は知らない。多くの家臣や近習は、他人をお主の様に手放しで褒めたりはしない。
なのにお主は予が未だ心附もせぬ同じ浪人仲間の伊村仙右衛門なる人物を予に推挙致すとは、その人物が徳を揚げるに違いないと、汝の精神一心に信ずるに余り有る。
然るに其の仙右衛門に予は未だ対面しても居らぬが、汝が推挙するので有れば逢わぬ謂われが無い。嘉兵衛、後日汝が手配り致して其の仙右衛門を城へ連れて参れ!」
此の様にして東嘉兵衛國次の推挙により、佐賀城下は玉縄村に住んで居ります、豊後國大友氏浪人の伊村仙右衛門と謂う兵法者が城に招かれて若殿である信濃守と面会し、
確かに嘉兵衛が申す通り、此の仙右衛門は兵法を極め武芸に優れているので、嘉兵衛とほぼ同等の食客として城に招かれる様になり、当初は嘉兵衛から楠木流の講義を聴く日を1日、11日、21日、
一方、仙右衛門からの北條流の講義を聴く日は、5日、15日、25日と分けて若殿は近習を集められて居ましたが、次第に二人を一緒に登城させ、10日、20日、30日に同一の議題にて講義を行い、
楠木流の師である嘉兵衛と、北條流の師である仙右衛門の二人が、互いに議論を戦わせる様になるので御座います。そして時代が異なる由えに互いに敵対する事が無かった楠木正成と北條早雲が、
あたかも、菊池家の東嘉兵衛と大友家の伊村仙右衛門を通して戦っている様な錯覚を覚え、又、嘉兵衛も仙右衛門両人が死力を尽くして正々堂々と議論する姿が、信濃守にはいとおかしく思えた。
そして、仙右衛門はまだ嘉兵衛が仙右衛門本人には内緒で信濃守に推挙したお陰で、信濃守に食客として迎えられて現在が有る事も実は知らなかったのである。
若殿「仙右衛門、何故、お主を予が知るに至ったか?分かり居るか?」
仙右衛門「ハイ、東殿から伺い居ります。我々の旦那寺、宗善寺の住職が殿にご紹介下さってお知りに相成ったと聴き及んで御座います。」
若殿「仙右衛門、お主は其れを信じて居るのか?!」
仙右衛門「勿論、御意に御座います。信じるとは?若殿、どう謂う意味に御座いますか?」
若殿「人は欲にのみ在らず。他人を必ずしも妬み嫉むものに在らず。嘉兵衛は自分だけの出世を考えては居らぬと謂う事だ。汝を予に推挙したのは其処に居る嘉兵衛なるぞ。
嘉兵衛が予に貴殿の様な英傑が佐賀城下の玉縄村に居ると推挙致さねば、予は眼昏くして汝が存在など知らず過ごしていた。其方、全く此の事は知らずに居たであろう?
左に在るならば、其方を推挙したのは其れなる東嘉兵衛で在るに因って、初めて知ったならば宜い機会である。嘉兵衛に対し一言位は礼など申して然るべきであるぞ!」
さぁ、若殿の口から思わぬ事を聴かされた伊村仙右衛門は、畳を一畳ばかり後ろへ下り平伏し申す上げるので御座います。
仙右衛門「ハッ之は実に、初めて御若殿のお言葉に依って承知仕りまして御座いまする。誠に君の御恩を謝し奉るより外は御座いません。
併し、其れも是も全て、ここに座す嘉兵衛殿よりご推挙賜りし候為かぁ、嗚呼、お上!知らぬ事とは言え御免被りまする。」
そう述べると、伊村仙右衛門は傍に居ります東嘉兵衛の手を握り、泪を流しながら続けて此の様に謝辞を述べるので御座います。
仙右衛門「知らぬ事とは申しながら足下のご推挙に因って斯くの如き御寵遇を蒙る事に成ったのに、何故今まで仰って下さらなかったのですか?
定めし某(それがし)を礼節無き蛮人と蔑み給ひしならん。知らざれば是非も無く今若殿の御好意で初めて知り申した。改めて御礼申しまする。
さて、嘉兵衛殿。我々生まれた年月日は違えども死ぬ時は同じ義兄弟と、三國志の『桃園の誓い』と同じ義兄弟の契りを、恐れ多い事では御座いますが、
佐賀の太守となられる綱茂公に見届人と成って頂きまして、劉備玄徳と関羽・張飛が結びし、義兄弟の誓言を仕らん!!如何で御座るや?」
嘉兵衛「拙者とて実の兄弟は無く、浪々孤独の身なれば。其れは願ってもない申し出に御座る。何卒之より力と成って下され!」
と、東嘉兵衛も泪を目に一杯溜めて、両人は手を強く握り合いまして、鍋島藩の若い殿様の目の前で契りを交わし、以後両人は互いを尊敬し合い益々仲睦まじく、
是を若き日の鍋島信濃守は、すこぶる嬉しく思いまして、上機嫌となりて盃など二人に振る舞われまして、両人は此の信濃守を見届人に義兄弟と相成ります。そして改めて、
若殿「かゝる勇士両名を山間僻地に埋もれさせるは、玉碧を地中に埋めて置くに等しきかな。どうである両名!改めて我が鍋島家に仕官しては呉れぬか?!」
と、鍋島信濃守綱茂公が仰りましたが、二人は共に此の申し出を断り、あくまでも食客として鍋島藩の禄を食む事は御座いませんでした。
さて、東嘉兵衛と伊村仙右衛門が義兄弟の契りを結びますと、益々、互いの仲は深まり頻繁に互いの家を行き来する様に成ります。
仙右衛門は非常に嘉兵衛を尊敬する間柄となり、仙右衛門は嘉兵衛を兄者、兄者と呼び其の態度は謙り、常に自らが一歩引いた立場で接した。
また、仙右衛門には今年二十三歳になる市之丞と謂う息子があり、仙右衛門は市之丞を嘉兵衛の道場に通わせて、楠木流軍学と卜傳流の剣術を学ばせた。
市之丞も大変嘉兵衛の事を師匠として尊敬する様になり、ほぼ毎日岩屋山麓の嘉兵衛宅までの五里余りの道のりを通い、時に嵐や雪の日には嘉兵衛宅に泊まる様に成ります。
そして其の様な日には嘉兵衛が翌日、市之丞が帰宅する際に玉縄村まで送り届けて、嘉兵衛自身が無理に我が家に泊めたのだと、仙右衛門に態々釈明して呉れるのだった。
この様に息子を持たない嘉兵衛にとって、市之丞は我が子の様に可愛い存在で、五、六十人は居る嘉兵衛道場の門弟の中でも、市之丞は嘉兵衛にとって特別な存在と成ります。
そんな関係が構築された或日の事、東嘉兵衛は若殿である信濃守の元を、何時もの様に定例の軍学の講義に出かけます。そして講義を終えた嘉兵衛は若殿に呼び止められます。
而も同じく講義を受けていた近習や家臣は、嘉兵衛に予はサシで噺が在るからと、態々、お人払いをして呼び止められたので嘉兵衛の方も、何事やらん?!と思った位です。
若殿「之れ嘉兵衛、予は其方に一言頼みたい義が在る。疾くより致して今日申そうか?明日は此の事を語り聴かせようかと悩み、常に心中に絶えず想って居たが心鎮めて返答して呉れ。」
嘉兵衛「ハテ?改まりましたる尊命、何事に候哉?御意の趣拝し承奉る。」
若殿「イヤ左様堅く出られては却って予が言い出し難い。予には此処に一つの願いが御座る。どうぞ之れを聴き入れては呉れぬか?!」
嘉兵衛「君の望む事を某ごときが叶えられましょうや?併し、拙者に可能な願いなれば、尊命に叛く様な真似は致すまじく、お誓い致しまする。」
若殿「イヤ、誓いを立てゝ尊命などゝ謂う事ではないのだが、何卒其方の娘・兼殿と縁附きたいと想う。恋着致したと申すべきか?平たく謂えは懸想致した。
側室として迎えたいのであるが、兼殿には既に許婿(いいなづけ)があると謂うのならば諦めるし、又予を兼殿が好まぬと申されるのであればキッパリと諦める。如何であろう?!」
さぁ、是を聴いた東嘉兵衛は大変に驚き、ハッとして頭を更に強く畳に押し当てゝ恐縮しながら振り絞る声で返事を致します。
嘉兵衛「イヤハヤ、若殿様!此の身不肖の私めが度々に仕官の申し出を断り続けている頑固者にも関わらず、又山家育ちの不束な娘をばご寵愛くださるとのお言葉、
親の身に取りましては如何ばかりの幸せと存じ奉る事かぁ?!世間の人は何んと申しましょうが此の嘉兵衛、苦しゅうなど御座いません。
改めまして不束な娘では御座いますが、御前に差し出す事に、一切、異存など御座いません。行く久しく宜しく御縁を賜りたく存じ奉りまする。」
若殿「左様であるかぁ、早速の承知、予も満足じゃぁ。シテ嘉兵衛、只今詞を誓った以上はよもや変替えなど在るまいなぁ?!」
嘉兵衛「御念には及びません。差し上げると申したからは、武士に二言は御座いません。帰宅の上当人が何んと申しましょうとも、万事拙者が宜しく説諭を仕りまする。」
若殿「イヤ、嘉兵衛!待て、万一兼が厭がる様なら予は側室には致さぬ。本人が不承知とあらば面白ならざる事、其の辺りは其方から宜く申し諭して呉れ、宜いなぁ!嘉兵衛。」
嘉兵衛「畏まりまして御座いまする。」
若殿「宜しく頼む。まだ、此の事は近習や側用人にも噺てはおらぬ。由えに嘉兵衛!内密に願うぞ。そして些少では在るが娘の支度金を其方には下げ渡す。」
そう仰いますと、信濃守は勘定方の用人を呼びまして、手文庫から二百両の金子を嘉兵衛の娘・兼が側室として城へ上がる支度金として嘉兵衛に渡し於きます。
嘉兵衛「若殿様、色々とご配慮頂き恐悦至極に存じ奉りまする。此の金子は暫時お預かり致しまする。」
さぁそう謂うと、嘉兵衛は有難い事だ!めでたい事だ!と大層喜びまして、拝む様にして其の二百両を受取り、大事に帛紗に包むと懐中へ仕舞い込み我が家へと帰るので御座います。
そして、娘には生まれて十八年、何の贅沢もさせてやれなんだが、是で錦糸銀糸を贅沢に用いた綾羅錦繍などを何枚か拵えて、
立派な帯や頭の物なども買い求め、武士の娘として恥ずかしくない姿にて、若殿様への腰入れをさせてやれると喜びます。
さぁ、そんな事とは露知らず父の帰りが大層遅いと気を揉んで居たお兼は、玄関から「今帰った!」と謂う嘉兵衛の声を聴いて迎えに上がります。
お兼「父上!お帰りなさいませ。本日は何時もより大層遅う御座いますが何んぞ変わった事でも御座いましたか?!」
嘉兵衛「まぁ、少々お話しご相談が御座った。コレ兼、食事は御殿にて宴席を頂戴した由え不要じゃぁ。それより着替えを頼む。」
お兼「アラ、お父様、御屋敷でご馳走になられたのなら何時ものお土産が有るのですか?」
嘉兵衛「其れが済まぬ。うっかり重箱は弟子の才蔵に持たせては居たのだが…、つい失念致して料理を詰め忘れて来た。済まぬ!兼。」
お兼「アラぁ〜、私、宴席の料理を楽しみにしていたのに、実に残念ですワぁ。お父様がお土産をお忘れになるとは余程難しく悩ましいご相談だったのですか?!」
嘉兵衛「まぁ、城に態々呼ばれたのは第一に、大殿様が代替わりなさり隠居なさる為に、今若君様が御建設中の隠居所が下屋敷の御茶屋の脇に新しく出来る。
その隠居所の図面が本日出来上ったに依って、若君様よりアレ之れとお尋ねの義が色々と有ってなぁ、今日は遅くなった。勿論、其の後軍学の講義もしたから失念致したのじゃ済まぬなぁ。
その代わりと謂っては語弊があるのだが、料理などよりもお前が大慶びするもっと素晴らしい土産が実は在るのだ!其の土産を早速お前に披露しよう。」
お兼「アラまぁ〜、何んで御座いますか?其のお土産とは?!」
嘉兵衛「時に兼、お前は今年幾つに相成った?」
お兼「どうしました?急に改まって。」
嘉兵衛「まぁ宜い!幾つに相成った?!」
お兼「ハイ、十八に御座います。」
嘉兵衛「左様かぁ。十八かぁ。さて、十八ともなればもうお前は立派な大人である。で在るからして心して父の之より申す事を聴いて呉れ!」
お兼「ハイ畏まりまして御座います。さて何んで御座いましょうか?」
嘉兵衛「其れは今噺をした若君、お前も知っておろう半年ばかり以前に、鷹狩りで迷い込んだ富士嵐と謂うお鷹様を、取りに参られた若殿様だ。
そうだ!其方がお茶を差し上げた、あの凛々しく美男であらせられる若殿様だ。もう時期に佐賀鍋島三十五万七千石の太守に成られる御方だ。
其の太守が兼!お前をお見初めになり、是非とも側室に迎えたいと本日ご相談があった。嘘では無いぞ!ホレこうして支度金の金二百両も在る。
若殿様がお前を恋慕されて側室に迎えたいと仰せじゃ。父も嬉しくて即二つ返事で若君其方を差し出しますと返答いたして来た、のう!慶べ兼よ。之が土産じゃ。」
と、嘉兵衛が謂うとお兼は明らかに狼狽し、目を大きく見開いて帛紗の中から出て来た二百両の支度金を見て絶句致します。そして次の瞬間泣き崩れたのです。
さて、何故?お兼は父が持って来た若君との縁談を聴いて泣き崩れたのか?事の真相と続きのお噺は次回のお楽しみで御座います。
つづく