さて、お噺は随分と遡りまして太守、鍋島信濃守綱茂公が二十一歳の折り、元号は寛文十二年から延宝元年を迎えた年であり、京の都で大火が在り多数の死者が出た為に、

元号が十月を迎えて改められたのであるが、太守綱茂公は、実に一番血気盛んな時期であり、家督が譲られる少しばかり前でも在り、殆どの時期を肥前佐賀藩の領内で過ごされていた。

元々、太守は詩歌や絵画などを好まれる御方でしたが、鳥や獣の絵を描く目的で野山へ分け這入る様になると、鹿狩鷹野など遊猟を好まれる様に相成りました。

父上である大殿も貴人高位な御仁に在りがちな、錦の褥(しとね)を設け書画に耽るよりは、馬に乗り山野を狩に勤しむ方が、健康的で血の巡りが宜と喜んで御座いました。

この様に領内に居られる際、若殿は専らお気に入りの近習を従えて、所謂、鷹狩りへと近隣の野山に出ては、野鳥や獣を弓で射て捕らえるのが何よりの趣味と相成ります。

然るに或る三月中旬桃から桜に代わる頃、本日は風も無く晴天麗かな日に、鷹匠二名と近習のお伴八名、合計十人を従えて若殿は筑後川を上流へと進み領内の外、北三里に在る肥前太宰府の天満宮を目指した。

太宰府で参詣した若殿の一行は参道から領内へと戻り、途中に在る境原とも謂える岩屋山の裾野に広がる廣原に一旦出まして、鷹を働かせておりますると、

此の日は早朝から鷹の調子が宜しく数多の野鳥を捕まえまして、是には若殿もご機嫌麗しく丁度正午になり、野陣に於いて弁当を使い捕まえた雉、鳩などを丸焼きにして食し、

若殿は茶を喫して彼方を何気なく眺めて居たら、遙か南の空より大きなコウノトリが飛来して参りましたから、自慢の鷹・富士嵐を此のコウノトリに向けて離します。

解き放たれた富士嵐は、一丁半ほど離れた平原に飛来したコウノトリを目指して翼を広げながら滑空し、ターゲットのコウノトリへ勢い鋭く突き刺さります。

暫時、両者の命を掛けた攻防は続き、若殿も固唾を呑んで両者の様子を眺めて居ります。時に励ましの声を富士嵐へ与える若殿、又、お伴の面々も加勢の声援を送ります。

喩えて申しますれば、闘鶏、闘犬に於いて贔屓の矮鶏や犬に声を掛けて、劣勢を優先に変えるが如き仕業にて、空中での格闘にも人間の声は鷹の助けと成るようです。

鷹は古くから武士に愛され武士道に通じます様で、『鷹は死すとも穂を摘まず』『能有る鷹は爪を隠す』など人を比喩する諺に鷹を使う物が少なく御座いません。

士農工商の人間の位に武士が一番上に立つ様に、鳥にも位が御座いまして、喩え日本を代表する名鳥、鶴と謂えども『格式』『品格』では鷹には敵いません。

何んとも成れば、戦国の昔から鷹は大名、将軍に寵愛を受ける鳥にして、其の右腕に留まる事が許されて、主君の為に獲物を狩る忠臣の如く育てられるので御座います。

そうで有るならば、鷹は鳥類の司と呼んでも過言では御座いますまい。そんな富士嵐を若殿を始め一同が勇気附けようと声援は送るものの、本日の富士嵐は些か分が悪う御座いました。

早朝より半日以上も野鳥狩を致し、数多くの獲物を狩った最後が巨大な敵、コウノトリで御座いました。コウノトリは富士嵐の鋭い嘴や爪を交わして天高く舞い上がると、

折りからの強風を利用しながら、富士嵐の追撃も虚しく北の岩屋の嶺の山奥へと飛び去って仕舞うので御座います。健気な富士嵐は是を追いますが到底追い着ける相手では御座いません。

其れでも諦める事無く、岩屋山の奥へとコウノトリを追って消えて行く富士嵐を見詰めながら、若殿はお伴の近習と鷹匠に仰りました。

若殿「富士嵐は畜生なれど鷹である。己の恥を知り、敵を逃したに依って主人の手前、面目無しと思い、何処かへと隠れて翼を休めて出られずに居るに相違ない。忠義の鳥である!

跡を追掛けてやらねばなるまい。忠義の鷹・富士嵐を連れ戻しさねば相成らず、其方共も予に続いて参るが宜い。遅れを取るでない!急ぎ参れ。」

と、若き日の信濃守綱茂公は此の様に下知を飛ばすと、富士嵐が消え去って行った岩屋の嶺へと目指して馬を飛ばすのだが、若殿様は馬ですが家来は全員徒歩で御座います。

どんなにか、逸る気持ちを抑え切れずに若殿様は馬を飛ばしますから、家来は溜まったもんじゃ有りません。馬に徒歩では敵うはずもなく、当然若殿一人が山の向へ先に到着となる。


さて、若殿が岩屋山の裾野へ来て見ますると、其処には集落が在り農家が七、八軒御座いまして、その内の一軒から耳に覚えの富士嵐の鳴き声が聴こえて参ります。

さぁ若殿は耳を欹てゝ(そばだてて)富士嵐の声を馬上から追って居ると、一軒の農家の方より誰やら男の噺声が聴こえて参ります。

男「駄目だぞ!其の鳥は大事に扱わねば何ねぇ〜。お鷹様だ。町役からお触れがあったゞ、今日は朝から御領主様のご子息、若殿様が鷹野に出られたそうだ。

この鷹は其の鷹野に連れて来られたお鷹様に違いない。何でも鷹と謂う鳥は賢くて、獲物を捕まえ損じるとご主人様に申し訳無く恥ずかしくて、主人に隠れて羽を休めるらしい。

兎に角、暫くすると若殿様の家来がこのお鷹様を迎えに現れるはずだ。其れまでは逃したりせぬ様によーく見張るんだぞ、大切なお鷹様だ、若殿様はさぞ心配なさって御座ろう。

だから、逃したりせぬ様によーく見張るんじゃぁ。万一、家来が見えぬ様なら町役を連れて、代官所に届けてやろう。そうだ!兎に角、お鷹様の巣殿をば設えましょう。」

そう謂うと、五十絡みの其の男は身のこなしや鷹の存在を知る知識からして只の農夫には到底思えません。一方、男の噺相手はと見てやれば歳の頃は十七、八の若い娘で御座いまして、

この娘に男は指図して、富士嵐が留まって居る庭の木に近い納屋に竹を張り筵を敷いて、其処へ水を入れた鉢などを使い富士嵐を誘導致して是を仮初(かりそめ)の鳥小屋に致します。

娘「筵の隙間には藁を詰めてやりますか?之で納屋が糞で汚れる憂いは御座いません。」

男「有難う。其れで宜しい。美味そうに水も飲み羽を休めて御座る。人間なれば忝い!と、礼の一つも謂うのだろうが、お鷹様は人間の言葉は苦手と見える。

其れでも、良い目をしている。目は口程に物を言いとはよう謂うたは。どうやらお鷹様は腹もお空きのご様子じゃ。何んぞ餌を食べさせてやらんけばならん。

大層大きな敵と格闘なされた様子じゃ、羽も大層疲れて水だけでは腹は満ちぬとお見受け致す。お鷹様のお口に合う獲物が、さて、御座ろうか?さて御座ろうか?!」

そう謂うと此の五十絡みの男は、帯に手を突っ込むと唐銅の文鎮の様な物を取り出して、庭に居た数羽の雀を睨み附けます。そして手にした手裏剣を二本纏めて飛ばします。

嗚呼、思わず鞍上から「お見事!」と若殿が声を掛けたくなる腕前で二匹の雀を難なく仕留めますと、素早く毛を毟り頭を落として血抜きをし、小刀で雀の肉を削いで皿に盛ります。

そして二羽の雀の肉を綺麗に皿に盛り終わると、是を静かに富士嵐へと差し出してやります。

さぁ、嘸かし(さぞかし)空腹だったと見えて富士嵐は、是を貪る様にペロりと二羽の雀を平げて仕舞うではありませんかぁ?!

男「是は宜い!是は宜い!お鷹様はお気に召した様子でアッと謂う間に平げなすった。人間なれば礼の一つも有ると思うが『誠に有難う存じ奉る。結構で御座ました。』と謂う目だ。」

さぁ、此処までの此の男の仕草身のこなし態度や言葉を見ておりました若殿は、農夫ではなく武家に違いないと確信しますが、さて?!何処の誰であるか?迄は推量出来ません。

さぁ此の人物。実は同じ九州の大名で肥後國の名門菊池家の浪人で、其の名を東嘉兵衛國次と申す御仁。此の嘉兵衛の四代前に菊池家が南北朝の分裂で永正元年に、

菊池家当主が二十三歳で早世、菊池氏家督は阿蘇氏や大友氏に横取りされ、こうして菊池氏は滅亡し、残った領地は菊池三家老の赤星氏・城氏・隈部氏らが領するところとなったが、

嘉兵衛の先祖は思う所が有り、是とは袂を分かって浪人となり、僅かな財産を元手に肥後と肥前の國境である此の太宰府の近くに田地と山を持つと農家に混ざって、

独自の隠遁生活を静かに送りながら、嘉兵衛で四代目と成っていた。嘉兵衛は今年で四十七歳、先年妻を亡くし今年十八に成る娘と二人暮らしである。

農家に混じっての生活が既に四代に渡り、百数十年余りが経過しているが、未だ武士道は捨てず家風を尊び、品格は下がらず娘にも武士の娘として小笠原流の所作にて堅く育てたが為、

近隣の農家は余り東嘉兵衛とは付き合いたがらず、娘の方も正に落語『垂乳根』を見るかの如く、嘉兵衛の娘・お兼も農夫達からは堅過ぎてと疎まれる存在です。

此の娘、山間の僻地に在りながら折り目正しく、人に応対するのにも東殿の才女は過度に礼儀正しく、挨拶された側が返って恐縮致し面目ないと謂われる程、

所謂、令嬢を守る乙女に御座いまして、才色兼備は申し分有りません。さて此の様子をご覧の若殿は富士嵐の鳴き声を辿って、

既に下馬されまして東嘉兵衛の家の門前にてお声掛けなさいます。

若殿「アぁ!イヤ当家に物申さん。只今、一羽の外鷹、若しや飛び込んで参らなんだか?今の鳴き声こそ、其の声にさも似たり!誰か有る?ご主人はご在宅か?鷹を探しに参った!」

と、見るからに狩衣姿で、あの落語『道灌』にも登場する道灌公の出立ち、直垂(ひたたれ)を着け行縢(むかばき)を履き綾藺笠(あやいがさ)を被る若武者が現れます。

是を見た東嘉兵衛は、玄関へ出向き鷹を引き取りに来た若殿様と面会致します。嘉兵衛は木綿物の着物に、袖無しの羽織、所謂『十徳』を着込みました姿で若殿を出迎えます。


一方、土間へ立った若殿は綾藺笠と行縢を外し、直垂も脱いで絹袖の羽織姿で大小二本の刀を差した姿で現れて、出迎えた嘉兵衛と相対するのである。

直ぐに、枝折戸を開け玄関へと向かい、土間に立つ二十歳前後の若い武士が、自分の家に飛び込んで来て羽を休めている鷹の持主、即ち、鍋島の若殿だと理解して玄関に平伏致します。

嘉兵衛「之は、お初に御目に掛かりまする。拙者、肥後熊本は菊池家浪人が子孫、東嘉兵衛國次と申しまする。お鷹様の飼い主の御仁で御座いますか?先程来、我が家でお鷹様を保護致して居りまする。

お鷹様は些かお疲れの上、空腹のご様子だった為、勝手ながらお水と雀の肉などを御献上致しますと、上機嫌なご様子で啄んでおられまして御座います。

只今お連れ致しますので、お上がりに成りまして、その隣のお部屋でお待ち下さいませ!コレお兼、お客様に敷物とお茶などをお出しする準備をしなさい。暫く暫時お待ち下さい。」

そう言われた若殿は嘉兵衛に薦められるがまま、玄関次の間に有る客間へと案内されまして、娘らしきお兼なる女人が差し出した熊の皮の敷物を尻に当てゝ座ります。

若殿「コレ、嘉兵衛殿とやら確かに之なる鷹の富士嵐は予が拳の鳥である。実に厄介になり過分の至りであるぞ。さて、予も些か疲れて喉が渇いた。茶を頂けるなら有難たい。」

嘉兵衛「殿様、貴方様の様な貴人を招き入れるに有らざる廃墟(あばらや)成れど、粗茶などをご用意致しますので、是非、御緩りとなさいまして下さい。

おい、お兼!茶の用意は宜しいか?宜しければ、お殿様に早く一服お持ちしなさい。殿様は喉が渇いたと仰っておる。お疲れにも成られて居る由え、甘味を添えてお持ちしなさい。」

そうやや急かされた娘のお兼は、黒塗りの立派な茶碗に抹茶を立てゝ、厚く切られた羊羹を三切れ添えて運んで参りまして、若殿の前にスッと差し出します。

お兼「どうもお待たせ致しました。粗茶で御座います。若殿様を、御ゆっくりどうぞ。」

若殿「イヤ痛み入る。忝のう御座る。」

若殿は程苦い抹茶で喉を潤して、羊羹を一つ口直しに頬張ると、残った茶を啜り「結構なお手前に御座った!」と謂って茶碗を傍に置いた。

若殿「さて、嘉兵衛殿。娘子はなかなかのお手前で、礼儀、躾も折り目正しく感心致した。お名は?何んと申される。」

嘉兵衛「ハイ、兼と申しまして、今年十八に御座いまする。」

若殿「ホー、十八。今日は御妻女はお留守で御座るかなぁ?!」

嘉兵衛「生憎、先年身罷りまして、今は娘と拙者の二人暮らしに御座います。」

若殿「左様でしたかぁ、悪い事を尋ねた。許して下されぇ。」

嘉兵衛「お気になさいますなぁ。病に依る死なれば寿命に御座る。それより殿様、もう一服、お茶を立てましょうか?」

若殿「忝い、お願い致す。」

嘉兵衛「畏まりまして御座います。」

と、茶のお代わりを頼まれたお兼が、又、囲炉裏の茶釜から湯を汲んで、もう一杯抹茶を立てゝ若殿に差し出し、是を作法に則り若殿がゆっくりと味わいます。

そうこうしていると、漸く、徒歩で追って参りました近習の若侍と鷹匠が嘉兵衛の家に殿様!若様!と、迎えに来て富士嵐共々、若殿様を陽がまだ高い内に帰城しましょうと急かせます。

若殿「嘉兵衛殿、左れば予は佐賀の城へと帰らねばならん。今日は予も富士嵐も、大変馳走に成り有難い限りである。追って恩賞の沙汰を致す由え、後日使者を遣わします。では!」

嘉兵衛「何のお殿様、何んのお構いも出来ませんで、お気を附けて御帰城下さい。」

こうして、東嘉兵衛と娘のお兼は若殿から懇ろな言葉を頂戴して、若き日の鍋島信濃守綱茂公は佐賀城へと御帰館なされましたが、是が後々の緒(いとぐち)、発端と相成ります。


つづく