愈々怪しい化猫騒動と相成りましたが、翌日十六日の朝を迎えると、妻と老母、更には下女の三人に、太守・綱茂公よりの命により、朝辰刻より化猫探索を行う事は隠して、
若衆、近習達二十数名で、年末の煤払いが不十分だから、御茶屋と長屋など下屋敷の掃除のやり直しを、殿様の下知で重臣田中三太夫殿より仰せ使った。
由えに三名は煤払いのやり直しの邪魔だから、隣家の医師・越智照山の元で、掃除が終わるまで静かにして居て呉れと何とか謂い含めて隣家に止まらせる様にします。
家中は、化猫探索に際して、婦人子供は御茶屋から遠ざけられて、男達だけで虱潰しに下屋敷中心に探索したので御座いますが、御茶屋の床下、母屋、屋根裏まで調べても化猫の姿は御座いません。
更には、探索先を変えて下屋敷の長屋ん中も、天井裏、小さな土蔵、穴蔵、縁の下、雪隠、物置、奉公人女中部屋、老母の居間まで隈なく探しましたが化猫の姿は無く、三刻を過ぎ正午を迎えます。
半之丞「各々方、疲れたであろう。昼食を取られて一服の休憩と致そうではないか?」
一同「そう致しましょう。」
半之丞の号令で、若衆、近習達は名々の小屋へと戻り休憩を取ると、又、御茶屋の縁側の前に集まりまして、半之丞からの指図を待って居ります。
其処へ、浮かない顔で小森半之丞が戻って参りますと、一同の中の一人の若衆、長谷川嘉十郎が半之丞に向かって、一同の総意と謂う態度で意見を申しました。
嘉十郎「半之丞様、之だけ昨夜から今朝に掛けて探しても、化猫の姿は見付かりません。確かに殿様が当下屋敷に於いて、お開きに成った花見の酒宴にて、
其の殿様のご機嫌を損じた化猫騒動、追跡せよ!と命じられた怪物の行方が知れぬままとは、確かに切腹と言われても仕方ない事態では御座いますが…
小森殿!殿には何んと申し開きなさいますか?其れと、あの妖怪、化猫は何故?夜桜の我が藩の下屋敷に現れたので御座いましょう?何かご存知ですか?」
小森「実は、一同にも話して置く必要が有ると思う由え、皆んな!聴いて呉れ。其方等も知っての通り、拙者は先年殿の御代参で成田山へ護摩札を頂きに上がった。
其の折り、佐倉の武蔵野にて休憩を取った際に幼い黒猫を庭で見付けて、之を下屋敷に連れ帰り、クロと名付け飼うことにしたのは、皆、覚えておるであろう?併し、ところが…、
此の黒猫は見る見るうちに成長し、四尺あまりも有る大猫になった或日の深夜、我が老母が目覚めて縁側でクロを目撃すると、二足歩行の化猫に変化して、
下屋敷の長屋の我が屋敷から、忽然と姿を消して仕舞ったのだ。其のクロが変化した化猫が、三月十五日の夜桜の夜に突然現れて、殿様に襲い掛かったと謂う訳なのだ。
何故あのクロが殿様を仇と狙い、化猫に変化したのか?その理由(ワケ)が分からない。他藩他家に化猫騒動など気取られると更にまずい由え内密に探索せねば成るまい。」
嘉十郎「成る程左様な仔細が御座いましたかぁ。其れ由え御内儀と老母、女中を隣家にお預けに成り、万一怪我の無い様にとのご配慮ですなぁ、恐れ入りまする。
之で我等は呑み込めましたが、小森殿!上様にはどの様にお知らせなさいますか?化猫の正体が佐倉より連れて参ったクロだと知れて宜しいのですか?!」
小森「止むを得まい。之だけ探して見付からぬ物は仕方ない。山へ逃げたに相違ない。殿には小生の口から正直に話そう。其の方等には害が及ばぬ様に致す。」
嘉十郎「御意に御座います。」
と、是以上の探索は諦めて、小森半之丞が若衆、近習達を帰して、長屋へと戻った所に、隣家に逃した内儀が何やら物言いたげな顔をして戻って参ります。
半之丞「如何いたした?」
内儀「あの〜、お母様が隣家に世話になるのは心苦しいので、母上だけでも我が家に帰して欲しいと仰って居ります。」
半之丞「判った!判った!併し、ハタキを掛けたばかりで、我が家の畳は汚れ、屋根裏から落ちた埃が積もる有様。
由えに拙者と仲間権助で、直ぐに母上のお部屋だけでも綺麗に掃除し終えたら迎えに参ると、そう伝えて待つように謂って呉れ。」
内儀「畏まりました。なるべく早く宜しくお願い致しまする。」
半之丞「判った!年寄りと言う者は、我慢と謂うものを知らぬで困る。なるべく早く、部屋を綺麗にして迎えに行くと伝えて呉れ。」
さて、仲間二人と半之丞は、化猫探索で泥と埃で汚れた居間と老母の寝室を、箒で綺麗に掃きながら、最後は畳を雑巾掛けをして綺麗に致します。
更に縁側に出て、此の廊下も泥だらけですから、雑巾掛けして太陽が燦々と照る中を、ピカピカに致しますと、半之丞の目に白い塊が止まります。
十分太陽は天高く登り、床下の様子がハッキリ見える時刻ですから、縁側の拭き掃除をしている半之丞の目に飛び込んで来た、其の白い塊。
何んだろう?!
庭へ降りて草履を履いた半之丞、床下へと潜ずり込んで其の白い塊を手に取り驚きます。まぁ、何あろう、其の塊は紛れもなく人骨で御座います。
ビックリした小森半之丞は、床下へと深く入り松葉箒で床下に在る人骨を、一つ残らず掻き出して見ると、中に髑髏も有り男女の区別は付きませんが、
実に数年は経過しておるに違いない、古びた人骨で御座います。ハテ?此の長屋の誰の骨であろうか?小森半之丞が、此の下屋敷に我が家を得たのは六年前。
江戸勤番の折りには半之丞自身も一緒に住むが、肥前國佐賀に殿の傍に仕える際は、老母と内儀、其れに下女と仲間二人の五人暮らしである。
此処に小森半之丞が住む前は、横山某と謂う家臣の家が有ったとは聴いているが、横山某と小森半之丞は全く面識も無く、勿論、付き合いなどない。
半之丞がそんな自問自答を繰り返していると、隣家から待ち切れないのか?老母が杖に縋りながら、庭を横切り縁側で人骨を掻き出した半之丞の方へやって来ます。
さぁ慌てた半之丞は、今掻き出した人骨を又足で蹴る様に払って縁の下へ隠し、ヨロヨロと近付いて来る老母の方に駆け寄るので御座います。
半之丞「母上、お待ち下さい。今、掃除と片付けが済んだので、仲間(ちゅうげん)の権助に迎えに行かせる所を…御退屈だったのでしょうが迎えにやるまで大人しく願いまする、母上。」
老母「何を退屈で越智照山先生のお宅が厭な訳では有りません。他人様の家で昼食やお八ツなと頂戴するのは武家育ち由え、気を使いまする。早く我が家に戻りたくなるは必定です。」
半之丞「掃除が終われば迎えに参りまする。母上は歳を取られてから、本にせっかちにお成りだぁ。さぁ、縁側からお上がり下さい。もう、部屋の方は片付いて御座います。」
老母「部屋の掃除が済んで居るなら、なぜ、直ぐに妾(わらわ)を呼びに参らぬ?!」
半之丞「イエ、一寸妙な物を見付けまして…。」
老母「妙な物とは、何んぞぇ?!」
半之丞「いえいえ、母上のお目に止める物では御座いません。お気になさらずとも、宜しう御座いまする。」
老母「母に見せられぬ、奇妙な物とは何ですか?其処まで言われると、気に成りまする。其れにもう還暦を過ぎた此の身由え、目にしてはいけない物など有りません。」
半之丞「左様ですかぁ、ならば…。」
と、小森半之丞は床下から白骨の死骸を発見した噺を老母に聴かせます。元は煤払いのやり直しなどではなく、夜桜見物中に、化猫が現れて其れを仇と考えられた太守、信濃守綱茂公が、
化猫を刀で斬り付けられて、血を流した化猫は何んと!御茶屋の床下から下屋敷中を逃げ廻り、その行方を太守から仰せ受かり、半之丞以下二十数名の近習達が探索していると噺ます。
更に、此の化猫が昨年、半之丞自らが成田山の護摩札御代参の折に、江戸へ連れて参った黒猫・クロが変化した化物に違い無いと謂う。
半之丞「左様な訳で、拙者は殿様直々の命を受け早朝より若衆、近習など二十数名を連れ、煤払いのやり直しと称して、下屋敷中を手傷を負った化猫探しを致しておりました。」
老母「左様でしたかぁ、誠に忠義な働きを聴いて母は安心致しました。貴方が忠義に励む姿に母は嬉しく思います。慶ばしい限りじゃ。」
半之丞「此の程度のお勤めは造作も無い事。いちいち母上に褒められる働きに御座いません。併し、城勤めとは実に馬鹿馬鹿しい事が多く御座いまなぁ。」
老母「之れ半之丞。馬鹿馬鹿しいとは何んですか?!お前は其の仇となりし化猫とやらを、若し自ら発見致さば何と致す所存だ?有体に母に申して御座れぇ!」
半之丞「何を申されます母上。其の様な事、決まって御座います。彼の妖怪変化と成りし化猫のクロは、愛して可愛いがったのは妖怪に変化致す以前の事。
今と成っては紛れも無く我が主君、信濃守綱茂公の仇で御座いますれば、忠義の臣下である半之丞、化猫と変化したクロを討ち取る所存で御座います。」
老母「其の勇気と忠臣ぶりには感心すると申したいが…、半之丞!妾(わらわ)は敢えて申し上げます。左様な殺生は決してせぬ物です。妖怪変化に怨みを買うなど良く有りません。
其れに今日と謂う日は、貴方の父上妾の良夫の月命日十六日なんですよ。ですから其の化猫を万一見付けても、手出しはせず逃してやるのです。小森の家に禍を招きますよ!半之丞。」
半之丞「母上、何を仰いますやら其れは女人の考える浅はかな事に御座います。喩え父上の命日でも主君の仇を討つのが忠臣の勤めに御座いまする。
ミスミス主君の仇なる妖怪の化猫を屋敷内に住まわせて置くなど、到底出来る所業では御座いません。そして母上のお言葉とも思えませぬ。」
老母「イヤ、早まるでない半之丞殿。其れついては母が其方に謂い聴かせたい事が有ります。殿様は一城の主、一國の領主、天下に何人も在る存在ではない。
其れは妾も重々存じますが、だからこそ人から怨みを買い、又人だけに限らず時に魔性の者からも、知らず知らずに怨みを受けて仕舞う者で御座いまする。
つまり畜生道に生きる物にも、止むに止まれず万物の長人間、且つ、一國の太守に対して謂うに謂われぬ仇、怨みを持つ事が無いとは限らないのです。
其れらの道理を弁えて、一事の武勇を誇り忠義に立って働き、其の畜生、魔物を退治し太守への誠を現し貫くが、其方は武士道と謂うかも知れませんが、
貴方に討たれんとする魔性の畜生も、無抵抗では御座いません。魔性の術や畜生、動物の本性に返り思いも寄らざる反撃に合えば、正に『毛を吹いて疵を求む』
此の喩えが道理。触らぬ神に祟りは無く、此処は探す體は取りつつ、捨て置くが一番と老女の知恵を、老婆心ながら此の助言を聴き入れて下さいませ。
妖怪変化の化猫とは申せ、既に手負いの畜生なれば長くは生きられますまい。放置しても何れ命は尽きると存じます。退治せずとも滅びまする、半之丞殿。」
さて、小森半之丞の老母は、床下から発見した白骨化した人骨に対しては些かも意見は申しませんが、何時に無くクロの化猫に対しては『捨て置け!』『太守に非が有るやも知れぬ!』
などと、普段は絶対に口にしない穏やかならぬ口調で、半之丞へ命令するかの様な屁理屈とも思われる支離滅裂な意見を浴びせて、謂うだけ謂った後は自室に下がって仕舞ます。
半之丞『ハテ、今日の母上は様子が不思議(おかしい)。太守、綱茂公を悪く謂った試しなどは無く、そもそも老いては子に従えで、拙者に意見なと申した試しが無い。
あの白骨の死骸を合わせて考えるに、若しかすると既に老母はクロの化猫に喰い殺されて、クロの化猫変化が老母に化けて、成り澄まして居るのではないだろうか?!』
そんな疑念を強く抱く半之丞。床下に穴を掘り発見した白骨は、老母の亡骸かも知れないと、心に病みながら全て埋めて一旦隠して仕舞います。
そして暫く縁側に胡座を描いて思案致しますが、答えが見付かる訳もなく…日が西に傾いた頃、隣家の医師、越智照山の元へ内儀と下女を連れに行きます。
二人にはさりげなく老母には余り構わない様にと言付けをした上で、上屋敷へ用事があると謂って提灯を仲間に持たせて外出する小森半之丞で御座います。
行き先は、田中三太夫の部下で、半之丞が日頃から留守居役としての役目で助言を貰っている側用人の大澤倉之丞の屋敷を訪ねまして、化猫探索の件から、
自身の元飼い猫、クロが変化して妖怪に成った噺から、我が屋敷の床下から白骨の死骸を発見し、其れが老母であり化猫が老母に化て潜伏している推理を語りました。
すると、大澤倉之丞はじっくり、小森半之丞の噺に黙然と耳を傾けて居たが、軈て目をパチリと見開いて小森半之丞に正対し向き直りますと、
大澤「之は其処元には大英断が必要に成り申すが、拙者が御伝授致す事を、よーく承りませぇ。」と語り始めました。
つづく