さて、九回に渡りお届けして来た『鍋島猫騒動』で御座いますが、近年この御噺を講釈や浪曲で聴く場合、殆どの演者は、此の一話から九話はダイジェストに編集し、

九話の後半、小森半之丞の母親が化猫と成ったクロを目撃する辺りから、語り始めるのがごく普通で、碁盤『初櫻』の由来、天野一陽軒との賭け碁、又八郎と友之丞の確執、

呪われた碁盤『初櫻』の行方、龍造寺家のその後と高井検校登場、鍋島信濃守綱茂公と高井検校の囲碁勝負、刺客!小森半之丞の凶行、老母井蘇と黒猫の復讐、成田山の護摩札、

この辺りの八話半は、噺の冒頭にト書きとして三分程度語られるだけなので、かく謂う私も初めて松林伯圓先生の速記を読んで詳しく知った次第なので御座います。


正保元年三月十五日、兼ねてより上屋敷からのお触れの通り、江戸千駄ヶ谷の下屋敷では、毛氈やら床几の準備整いまして、

百石取り以下の下級武士は、朝七ツ過ぎ寅の下刻には起きて花見の準備怠りなく、接客開始を待つばかりに致して居ります。

さて、此の下屋敷、廣さは敷地三万坪(東京ドーム2個分以上)、中央に大きな池を配し其処から流れが御座いまして、

其の流れに添って御殿が在り、其れを鍋島家中は『御茶屋』と呼びます。そして其の御茶屋の北方に位置する築山、

是は自然の山をそのまま利用して築いた天然の平山で、其処には悉く奈良吉野よりの桜が実に百本を越える数移植されています。

この下屋敷は現綱茂公の祖父、鍋島信濃守勝茂が約五十年も前に造らせた建物で、その勝茂公は尊敬する太閤殿下の聚楽第を真似たと傳えられている。

よって其の桜の美しい姿は耽美であり華やかで、咲き誇る弥生の頃の盛りは、実に言葉では語り尽くせぬ光景で、

然れば当年は太守が江戸勤使の年由え、此の花見の会に正午過ぎには正室、側室、其の他腰元衆も十数人、又御近習と其の内儀など、

大凡三十五、六人が御茶屋の中央に鎮座して、家臣、招待客などなど、実に総御同勢二百人が此の下屋敷の桜に興じるのです。

中央の御茶屋では、太守綱茂公や内儀、重臣、近習、そして貴賓客といった連中が酒盛りを始めて大層優雅で上品な酒宴が繰り広げられます。

一方、築山と流れを挟んだより桜の木に近い側では、地びたに毛氈を強いた下級武士や仲間達は酒を呑み唄を歌い、都々逸の廻しっこなどに興じるのです。

軈て、流れに依って分断されていた垣根を越えて人は行き交うようになり、御茶屋の連中も芸の有る者は其れを披露するし、互いの芸に興じ始めます。

こうして、下屋敷中が一体と成って相互に混じり合うと、もう無礼講で酔いも手伝って、唄や踊りは激しさを増し、羞恥心とか身分の上下が薄まり始めます。

そして遠寺の鐘が暮六ツ、酉刻。辺りは夕景となり、桜の枝に吊るされた桃色の燈篭に火が入り一気に夜桜ムードが高まると、笛と太鼓で硬派な祭の雰囲気を醸します。

其のうち太陽(ひ)は西に沈み、代わりに北山の辺りからは月が顔を出し、其の十五夜の満月は美しくも妖しくも、宴も酣の人々の気持ちを更に盛り上げて呉れます。

白蝶の如き甘い露を含んだ夜桜は月に寄り添い、燈篭の灯に反射するなど彼是の眺めは絶景・美景と言う他は無く、正に帝釈天の喜見城が如く王侯貴人の宴である。

中々平々凡々たる下等な社会に住む者には、思い付かぬ快楽であり、実に(げに)貴人に生まれた者だけの特権の様な宴が繰り広げられておりました。併し


さて花見の趣向は夜桜となり、正午から既に午、未、申、酉と四刻。つまり現座の時間に直すと実に八時間、ブッ通しでやっておりますから、

披露された芸は、上品な演舞から下世話な裸踊り、雅楽や謡から都々逸の廻しッコ迄と、料理や御酒にも美しい女性にも殿様は飽きて参ります。

主君「是々、腰元どもの舞踏も同じ様な趣向ばかりで面白うない。もう見飽きた由え何ぞ!他に興なる遊びはないのか?!

若衆、近習、何んぞ下世話な遊び、下衆な余興で構わぬ、隠し芸の様な物は無いのか?予を楽しませた者には褒美を取らす!」


さぁ、御茶屋の庭に面した縁側には、ズラりと綱茂公付きの若衆、近習達が十人ばかり並んで座って居て、其の中には我らが小森半之丞も居た。

君主「三太夫!お主からも近習達に、何んぞ隠し芸を披露する様に謂うて呉れ。徳川将軍は確かに武断を持って天下を治めたが、

其れは御上が天子様に任ぜられ、下々の大衆に愛されたさらであり、その上で今四海平穏にして波風も立たず、百余年諸侯に於いては、

先祖先人の奮功の上に今の繁栄が有り、太平の恩恵を謳歌することが出来るのである。さりとて、『治に在りて乱を忘れず』と申す。

兵学武芸は日頃から常々怠り無くが武士の本分なれど、太平の御世に於いて中々、堅く正攻法だけで其れを学ぶは厳しと予も存じおる。

だからじゃぁ。隠し芸で宜いと申しておる。隠し芸を披露するのは、つまりじゃぁ、『治に在りて乱を忘れず』の精神に通じると予は思う。

何でも良い。意外である事が大事なんじゃぁ。予はそんなギャップの産物。隠し芸に興じてみたいのじゃぁ。決して武芸で無くても構わぬ。

意外性で笑えたり、驚いたり出来れば、予はそれで満足なのじゃぁ。三太夫!連中を汝からも説得致せ!予は隠し芸が見たい!見たい!」

さあ、殿様の無理強いが又始まったと、やや困った様子の留守居役筆頭で家老職でもある重役、田中三太夫さんが若衆、近習にハッパを掛けます。

三太夫「之れ!皆の者、殿が何かあぁ仰せだ。何か意外な隠し芸を披露しなさい!稲穂じゃないんだ、そんなに頭をタレてばかり居ては

小森、小森半之丞!!貴様が一番年長で禄高も高い、貴様から若い連中の見本に成りなさい!さぁ、早く誰かに何かやらせて見せよ!」

小森「畏まりまして御座まする。ヤイヤイ!汝等、田中様も下知を飛ばして御座る。お上の再三、再四の御命令だぞ、頭を上げよ!!

さぁ誰か隠し芸を殿に披露してご覧に入れなさい。芸の中身は、下世話でも構わぬと殿は仰っておられる。さぁ、誰ぞ隠し芸を!!」

近習「小森様、小森までがその様な物言いでは困ります。我々は無芸大食。この様な宴席で披露する芸は御座ませぬ。どーかご容赦を。」

小森「そう申すでない、身も蓋も無い。そうだ!長谷川氏、貴殿は腕が上がった由えに新しい三味線を作らせたと自慢していたなぁ。長谷川氏!貴殿の三味線を披露しなさい!」

長谷川「馬鹿は休み休み言って下さい。拙者の三味線は清元とか常磐津、身内じゃありません。♪岡崎女郎衆は宜い女郎!と、唄う、

宴会芸や都々逸の廻しや、佐野さみたいな艶唄で下衆の極み。とてもとても殿の耳に入れて良い芸では御座いません。勘弁願いまする。」

小森「ならば、清元、常磐津で思い出した。鈴木氏、貴殿は清元を習い始めてもう十年には成るよのぉ〜、どうだ?貴殿の清元を披露してくれないか?」

鈴木「小森様!残念ながら、拙者喉を少々、痛めて御座いまする。」

小森「喉など気にならるには及ばぬぞ、鈴木氏。貴殿に美声など求めては居らぬ。殿に意外な隠し芸を求められておる。由えにその意外性に賭けてみるのじゃ。」

鈴木「併し、少々風邪を引いていて。」

小森「構わぬ鈴木氏、清元を一段だけでも披露下されぇ!」

命じられた鈴木禽太夫は、渋々、清元を披露するのだが………

君主「おい、鈴木禽太夫!其れは豚が喘息を患う真似であるか?!女中衆はコロコロと笑う由え、和みは致したが、何ぃ〜清元。その様な清元の流派が有るのか、予は始めてゞある。」

流石に、周囲の若衆、近習も笑いが我慢できず吹き出す始末で、鈴木禽太夫は小さくなり、下を見て非常に俯きまして御座います。

主君「そうだ!持丸隼人、その方は踊りを習い始めたと聴く。其の方のお取りが予は見たい!ささぁ、早く披露いたせぇ。苦しゅうない。」

持丸「拙者、踊りなどは、とんと覚えが御座いません。」

主君「何んでも宜い、苦しゅうない!唄でも、踊りでも構わぬ、早う何んぞ披露致せ、隼人!!」

持丸「御意に。畏まりました。」

そう答えると、完全に天パッた様子で持丸隼人は扇子を握り、踊り始めて『鞭声粛粛夜よる河かわを渡わたる』と謳い始めたが、

先の二人よりはかなりマシだったから、若衆や近習は自棄に成って拍手喝采を送り、太守・信濃守綱茂公も初めてニッコリ笑顔で隠し芸を楽しみます。


さて、御茶屋前は盛り上がっている中、千駄ヶ谷は八幡山の五ツ、戌刻を告げる鐘が聴こえて来ると、今まで庭を照らした十五夜の月が、

俄に曇り始めて真っ黒い雲に覆われます。すると、山風が吹き八幡颪となり冷たく強く吹き荒れて、桜の枝の雪洞の火が消れて仕舞います。

辺りは一瞬にして真っ暗な闇に包まれ、広い鍋島藩下屋敷の至る所で、ザワザワと驚き沈み不安を感じる面々が顔を見合わせます。

君主「ヤァー、皆の者、どうやら甚だ寒い春風が隣はまだ冬だと知らせて参った。何事も過ぎたるは及ばざるが如しだ。正午頃より始めた桜の宴も、

余りに興が過ぎれば不興となり、八幡颪に桜の花を散らす結果になるのは不本意、残念な事。今夜の桜の酒宴は之迄だ。イザ館へ帰らん!」

さぁ、お上の鶴の一声で、桜を愛でる酒宴はお開きとなり、三々五々、下屋敷の至る所で撤収の準備が始まります。そして軈て、

御茶屋の正面に、鍋島藩太守、信濃守綱茂公を上屋敷へとお連れする乗り物が用意されて、履物を庭先に置き、お手を取ってお連れしようとした瞬間、

今度は冷たくはなく、寧ろ逆に生温かい強い風が同じ北の方から吹き付けますと、突然、築山の陰から黒く大きな獣の影が現れます。

二つの妖しい光が見えますれば、まるで明星の如き妖しき光で、獣は真っ黒な大猫であると分かり築山の前に立つと、ニャ〜と一声鳴いてから御茶屋へと舞降りるのです。

そして、其の大きな黒猫は爪を立て牙を剥き、太守、信濃守綱茂公が乗り込もうと致す駕籠に向かって、ニャ〜ニャ〜奇声を発して襲い掛かるので御座います。

さぁ、暗闇の下屋敷庭先、御茶屋前は不穏な気配に包まれ家臣一同は殺気立ち、怪物掛かって来い!成敗してやる!と謂う血気盛んな面々が多数ある頼もしい状態。

又太守、綱茂公に於いても猛威活発な性格であられますから、即座に御縁側に立って、名工、来國俊の逸品を抜き身にして右手に持つと、その場に居る近習に下知を飛ばします。

君主「今予の目線を遮り、爪を立て牙を剥き襲い掛かって来た化物は、間違いなく予の命を狙って築山より飛んで参った。最早許し難し。」

そう謂うと、太守・綱茂公は来國俊の逸品をズラりと抜いて、巨大な化猫に向かって斬り付けまして、一方の化猫の方も鋭い爪と牙で激しく抵抗致します。

さぁ、周囲の若衆も太守が化猫と斬り合う事態にやや慌てまして、其々、刀や槍を手に致しますと、一人又一人と太守の助太刀に加わろうと致します。

併し、是は不利と悟った化猫、大きな身体を素早く動かして、屋敷の外へと塀を飛び越えて逃げようと致しますが、太守・綱茂公の最後の一突きに手応えが御座いました。


此の一撃でニャ〜と鳴いた化猫は、血をダラダラ流しながら、塀を越えるのは諦めて、御茶屋の床下へと潜ずり込んで、姿を眩ましてしまうので御座います。

君主「皆の者!確かに手応えが有った。此の様な化猫を逃してはならぬ。此の御茶屋の床下へと逃げて行きおった。手負由え血の跡を追えば見付け出せる筈じゃぁ!

手分けして灯りを持って化猫の行方を追うのじゃぁ!決して逃すでないぞ!化猫を討ち取った者には褒美を遣わす。直ぐに化猫を追え!追うのじゃぁ。」

と、太守・信濃守綱茂公の下知が飛びまして、二十数名の家臣、若衆・近習が手濁の灯りを翳して御茶屋の床下を捜索したしますが、化猫の姿は見付かりません。

すると、九ツ子刻を告げる瑞圓禅寺の鐘が聴こえて参ります由え、綱茂公は化猫の探索を、小森半之丞に申し付けられまして、駕籠に乗り大名小路の御上屋敷へとお下がりに成ります。

さて、化猫探索の任務を仰せ遣った小森半之丞は、若衆・近習を組織して、更に一刻半、寅の上刻まで探索したものゝ、手濁の替えの蝋燭が尽きたので、

化猫の探索は、引き続き明朝五ツ、辰の上刻より再開すると皆の者に言い渡して、此の日は各々下屋敷の長屋へと下がる事に致します。

さて、此の姿を眩ました手負の化猫が、この後、鍋島藩下屋敷で新たな騒動を巻き起こすのですが、其れは又次回のお楽しみで御座います。


つづく