肥前國佐賀、鍋島藩は信濃守綱茂公の家臣、小森半之丞は、太守綱茂公に仕える御近習頭で、五百石取りの忠義無二の武士(もののふ)で有ります。
其の半之丞が、前回お噺致しました通り誰かに命じられた訳でもなく、独自の考えで高井検校は鍋島家並びに綱茂公の為に成らない仇敵と思い込み、
自らが刺客と成り深夜太守の屋敷から帰宅する高井検校の跡を付けて殺害!その検校の死体は佐賀城の堀の中へバラバラに刻んで遺棄するのでした。
さて、高井検校を深夜佐賀城内で殺害した小森半之丞は、其の後藩の都合、イヤ信濃守様の御意向に依って、江戸勤番を命じられ江戸勝手の身と成ります。
実は四月の参勤交代で、鍋島信濃守綱茂公は江戸にて勤使と成るのに合わせて、綱茂公お気に入りの半之丞も、留守居役兼近習頭として是に同道致します。
そんな訳で半之丞は殿様の江戸入り前に、鍋島藩の千駄ヶ谷に在る下屋敷へと前乗りで這入り、殿様の江戸入りの諸準備に余念が御座いません。
この様に小森半之丞は殿様近習役の長として、大変に綱茂公からのご寵愛を受け、常に殿様が國元佐賀に在る時も、江戸表に在る時も傍から離れません。
又抑々葉隠の鍋島家では元来どういう経緯かは存じませんが、不動明王を厚く厚く信仰で御座いまして、就中下総國成田山新勝寺をば悉く御信心で、
毎年正・五・九の三ヶ月には、江戸表から代わる々わる御代参を立てられて、成田山新勝寺より護摩札なる物を申受けて立ち帰ります。
その様な事情で御座いますから、肥前佐賀の鍋島藩江戸屋敷には『護摩札堂』と呼ばれる実に立派な御堂が建てられて御座いました。
さて今年は、其の護摩札御代参の役目を仰せ遣ったのが、彼の江戸勤番中の小森半之丞で御座いまして、此の御代参ともなると五百石でも立派な旅行列で御座います。
即ち、御代参の半之丞は金錦で飾られた黒塗りの駕籠に乗り、若当に槍を持たせ、雨具合羽笠用の駕籠まで用意された上に、七、八人仲間をお伴に従え旅を致します。
駕籠が人用道具用で二丁、駕籠かき人足が六人、更に家来の槍持ち一人に仲間が八人、そして最後に小森半之丞が居る訳ですから、計十六人の立派な旅行列です。
この行列で、成田山新勝寺へ向かいまして三日間逗留し護摩を焚き上げて業を為し、勿論半之丞たちも一緒に護摩業を積んで浄化され、有難い護摩札を頂戴します。
そんな決して物見遊山では無いのが如何にも武士の成田山詣でゞ御座いまして、やはり落語や絵草紙に出て来る町人の其れとは、全く違った様で御座います。
そんな護摩業の末に頂戴した御札を持ち、小森半之丞一行は成田山に近い、下総國は佐倉城下に来ていました。佐倉には馴染みの茶屋『武蔵野』が御座います。
この『武蔵野』は、武家しか泊まらない陣屋、本陣と言うのでは有りませんが、茶屋旅籠では各式の高い立派な旅籠で御座います。
そんな『武蔵野』の前を駕籠が差し掛かると、若い仲間が一人駕籠を一旦止めて、其の脇から中へ向かって話し掛けます。
仲間「旦那様に申し上げます。只今武蔵野の前に差し掛かりましたが、本年もこちらで少々休憩をお取りに成りますか?」
半之丞「オウ、其れが宜かろう。拙者は御酒と莨が呑めれば宜いが、その方達は好きに呑み食いするがよい、遠慮するには及ばんぞ!」
仲間「有難う御座います。皆さん!武蔵野にて休憩と致すそうである。小森の殿様から好きな物をとお許しだ!御礼を申し上げて中へ這入れ!」
一同「畏まりました。旦那!有難う存じまする。」
こうして、小森半之丞一行十六人が勢いよくズカズカと店内に這入って来ますから、武蔵野は主人と女中達が慌てゝ上客の御迎えに出て参ります。
主人「お早いお着きでご苦労様で御座います。ささぁ、小森のお殿様、庭を突っ切って直接離れの座敷にお上がり下さい。
ハイ、駕籠は庭の隅に置いて構いません。お清!お兼!お梅!殿様とお伴の方々の御々足をお濯ぎして下さい。今日は混み合いまして!」
そう謂うと主人の指図で、小森半之丞一行は奥にある二十畳程の離れの座敷へ通されます。さぁ其処へ先の主人が袴を付けて再度登場、そして低頭平身致します。
主人「本年も相も変わらず御代参、ご苦労様に存じまする。毎度ご贔屓に賜り大変感謝致して居ります。」
半之丞「ご主人、頭を上げられよ!併し、何時も繁盛で何よりで御座る。」
主人「有難う御座います。旦那様、御支度は如何致しましょうか?」
半之丞「肴は有り合わせで宜いから早く出来る物を、そして御酒を宜しく頼む。オォ酒は上燗で大きな徳利にして呉れ。」
主人「畏まりまして御座います。暫くお待ちを。」
こうして茶屋『武蔵野』で休憩を取りながら、家来仲間、駕籠カキ達に食事をさせ酒を呑ませて、半之丞自身も女中の酌で酒を呑んでいると、
何やら庭の方からニャ〜ニャ〜と、幼い仔猫の鳴き声が聴こえて参ります。さて、此の小森半之丞と謂う御仁、無類の猫好きで其のご内儀も大の猫好き。
更には同居する半之丞の実母も猫好きと来ておりますから、子無しの三人家族が全員猫好きなので、当然過去に何匹かの猫を飼った経験は御座います。
併し…
是が何故か?小森家には長くは居付きません。初代飼い猫のタマは半月程で家出をして帰って来ず行方不明、次の二代目、三毛猫のミケはお城の掘割に落ちて溺死。
三代目の白猫のシロは城下で台八俥に敷かれ轢死。最後の四代目のトラに至っては犬と喧嘩の末に噛み殺されて仕舞います。依って猫には縁が無い物と諦めた半之丞でした。
さぁ、そんな猫に目が無い半之丞の耳にニャ〜の鳴き声聴こえて来ますから、もう、箸を置いて夢中で猫の姿を探します。そして居ました向かいの主屋の屋根です。
生まれて二、三ヶ月の仔猫です。色は真っ黒ですが未だ生毛のポワポワした毛並で、其れは其れは大層可愛いらしい仔猫で御座います。
半之丞「ウーム、可愛い奴よのぉ〜、之れお女中、あの向かいの屋根に居る猫は、此の武蔵野で飼われている猫ですか?!」
女中「いいえ、女将さんは大の猫嫌いですし、其れに終ぞ見掛けた事の無い猫です。其れにしても気味が悪い黒ですなぁ〜、塗り物みたいやぁワァ。」
半之丞「何の何の、全身頭の先から尻尾まで黒い猫は薬に成ると承った事がある。之は本に良い猫に違いない。何処から紛れて来たのやら?!」
女中「さぁ〜、初めて見る猫です。」
半之丞「魚の匂いに惹かれて来たか?ヨシ、ヨシ、魚を与えてやろう。」
そう謂うと小森半之丞は、自分の皿に盛られた魚を半身、小皿に乗せて縁側へと出してみた。すると、仔猫は屋根から庭の木を上手に伝って庭へと降りて来た。
そして、ゆっくりやや警戒する様子で、のそりのそりと縁側まで上がって来て、辺りをキョロキョロしながら、魚の乗った小皿に近付き魚ををペロペロし始めた。
併し、まだ生まれて三ヶ月足らずの仔猫には、魚の骨から其の身を食い千切る力が備わっておらず、身を食べたいが食べられないジレンマに有りました。
半之丞「オイ、仔猫!儂が身を取ってやろう!さぁ、膝に来なさい。身を食べさせてやる。」
そう半之丞が謂うと、仔猫は人間の言葉が分かるかの様に、チョコンと半之丞の膝に乗って参ります。是を見た半之丞は、魚の身を箸を使い毟っては、
猫好きに有りがちな、自身の箸を使って仔猫に毟った魚の身を与えます。すると、仔猫も美味そうに是をムシャムシャ頂いて、実に嬉しい目に成ってニャ〜ニャ〜鳴くのでした。
さぁ、縁側に胡座を描いて、黒い仔猫に小森半之丞が魚の身を解して与え始めた所に、くだんの武蔵野の主人が現れて、さぁ、血相を変えて怒鳴ります。
主人「ヤイ!泥棒猫、何んて事をして呉れてんだ!コン畜生。旦那様の膝に乗り箸で魚を食べさせて貰うなんて!芸者の積もりか?飛んだネコ違いで申し訳有りません旦那様。」
半之丞「コレコレ、ご主人、構わん構わん。猫に無礼だの失敬だの謂うても詮方ないぞ。此の縁側に於いて魚を食わしておるのは拙者の勝手だ。打っちゃて置いて呉れ。
其れより今女中さんに承ったのだが、此の仔猫は当家の飼い猫に在らず、此の辺りで見掛けた事の無い猫だと謂う。シテ見れば野良猫に相違ない。
と謂う事は、此れも何かの縁であると拙者は思うのであるが、そこでじゃ武蔵野のご主人、此の仔猫、拙者が貰い受けて帰りたいのだが?如何だろう?構わぬかなぁ。」
主人「ハイ、其れはもう、旦那様がお気に召しますならば、其の仔猫は飼主知れずの乞食猫ですか、煮るなと焼くなと旦那様のご存分になさって下さい。
私どもに異存など有りません。コレ!仔猫や、其方は大変運が良いぞ!こちらの旦那様が江戸表に連れて行き、貴様を飼って下さるそうだぞ!
ミャ〜じゃ判らぬ、有難う御座います、と申せ。名前は何んと申す?生國は何処であるか?父母の姓名は?そもそも生まれは何時なんだ?」
半之丞「オイオイ、ご主人、猫はミャ〜しか申すまい。其れに飼い主が居らぬのに名が有るとは思えぬし,何より生國など猫は知らぬに決まっておるワ。ハッハハ〜」
と、そんなやり取りを半之丞と武蔵野の主人がしていると、又、人間の言葉が分かるかの様に黒い仔猫は半之丞の懐中にもぐずり込んでゴロゴロいって寝て仕舞います。
さて、小森半之丞の一行は食事を済ませて酒を飲み、ゆっくり休憩し酔いも醒めた正午下刻の鐘を聴いた頃に、半之丞は勘定を済ませて、女中達にも心付を渡しお立ちと成ります。
主人「小森の旦那様、誠に過分に頂戴して有難う御座います。又のお越しを武蔵野一同お待ち申し上げております。」
武蔵野の主人以外奉公人に送られて、小森半之丞は黒い仔猫を連れて江戸表へと帰ります。道中、佐倉から三日を要し千駄ヶ谷の鍋島藩下屋敷に到着すると、
十日ぶりに逢う老母と内儀が出迎えまして、半之丞の帰りを慶びますが、くだんの武蔵野で拾った黒い仔猫を見せると更に一際喜ぶ二人に、半之丞は閉口します。
翌日、小森半之丞は江戸上屋敷の『護摩札堂』に新しいお札を納めに出向き、無事に成田山より勤を果たして帰還した事を江戸家老と留守居役に報告を致します。
そして、佐倉の茶屋旅籠『武蔵野』で拾った仔猫に、クロと名を付けて飼い始めるのですが、此のクロが半年余りで、人間の子供くらいある大猫へと成長します。
まぁ、此のクロの噂が、成田山への御代参の帰り路、佐倉の『武蔵野』から連れて来られて、たった半年で見る見る大猫に成ったと、鍋島家中に広まります。
そして秋風が吹く冷たい季節。老母は早寝早起きなのですが、其の日もクロをアンカ代わりに布団の中に入れて就寝していましたが、
余りにデカいクロが布団の中から、ズルズルと抜け出して外に這い出たから、流石に白川夜船の老母も目が醒めてしまいます。
老母「オヤオヤ、クロ!何処へ行くんだい?オシッコ?喉が渇くのかい?」
さて、真っ暗な老母の寝所、クロはゆっくり布団を這い出すと唐紙を鼻で押し開け、頭を狭い隙間に捩じ込んで縁側へと出て行きます。
満月の光が障子戸を伝わり、クロが身体でこじ開けた唐紙の隙間から老母の寝所へと漏れて来ます。老母はクロが気になり起き上がると、
仏間の手濁を取り、その薄暗い灯を頼りにして、細い縁側の廊下をクロを探して進んで行くと、クロは正に今障子戸に前足二本を掛けて、
後足二本だけで人間の様に立ち上がって居るでは在りませんか?ニャ〜と鳴き振り返るクロ。
さぁ手濁の灯に照らし出され、、二足歩行のクロは悪魔の様に釣り上がった目を輝かせ、老母の方を睨み付けて、今にも化ける妖気を放ちます。
老母「誰か来て頂戴、クロが!クロが!化け物に成るぅ〜!?」
そう大きな声で老母が叫びますから、書斎に居た半之丞が縁側へと飛び込んで来ます。左手に大刀を持ち何時でも抜身に出来る臨戦態勢です。
半之丞「母上!如何致しましたか?!」
老母「おぉ〜、半之丞、見て下さい、アレを。クロが立ち上がり人の如く化けて、妖気を放って居りまする。」
半之丞「何と!出たな化猫?!何と謂う姿をして居る。拙者が成敗して呉れん!」
そう叫び、小森半之丞は刀を鞘払いし、抜身で斬り付けんとしましたが、一足早く二足歩行の化猫クロは障子戸を開けて庭へと降り、月灯りの中を獣の足で、塀を飛び越えて山の方へと逃げ去るのでした。
老母「半之丞、クロは如何致したかえ?!」
半之丞「北の方、山の方へと脱兎の如く逃げ去りました。」
老母「もう、戻っては来ませんよね?クロ。」
半之丞「戻っても、拙者が斬り捨てまする。アレは化猫、クロに在らずで御座いまする。」
老母「本に、小森の家は猫に良い縁が御座いませんねぇ。」
さて、そんな夜に妖しい出来事が御座いまして、小森半之丞が成田山への御代参の帰りに佐倉にて拾った仔猫クロは、
実に一年にも満たない間に、大きな黒猫に成長したと思いきや、妖怪化猫と成りまして、何処へ立ち去って仕舞います。
さて、そんなクロが妖気を帯び化けて立ち去った噂は、鍋島藩中に暫くは広まりまして、家中は化猫の祟りを恐れて居ましたが、
人の噂も七十五日と申しまして、年が変わり元号も改った正保元年/1648年、三月十五日を迎えて、此の年は尚も信濃守綱茂公は江戸勤使のまま、
依って三月十五日は、鍋島藩恒例の千駄ヶ谷江戸下屋敷での花見の会が催されまして、実に百本を越える桜が咲き乱れての大宴会と成るのですが、
さぁ、この花見の宴で、最初の化猫騒動が起きるので有りますが、今日はここまで、続きは次回のお楽しみに、乞うご期待!!
つづく