鍋島藩の客分ながら、三千石の大臣龍造寺家の養子、友之丞は、義父である又八郎君の怒りを受け、家宝の初櫻の碁盤を打附けられました。
若し其れが、真面に頭に当たって居たなら、頭が柘榴の様に砕けて即死に違いなかったが、身体を避けたお陰で、碁盤の角が小鬢に当たり、
其れが為に、気絶位で事なきを得ます。一室中に母親を始め用人医者なども来て、傷を洗い止血し膏薬を貼り、薬を飲ませて介抱しました。
其の夜の苦痛は一方ならず、明けて翌日に相成りますと、傷を受けた顔半面は、鞠の如く腫れ上がり、見るも恐ろしい有様と成りました。
友之丞池の水鏡に写し、己の面の醜きを見て、一時は落涙し深く落込みましたが、あれ是と今更申してみても、父又八郎君が賭け碁に負け、
常軌を逸した狂気の場面で、お諌め申した由えに父又八郎君の逆鱗に触れ、斯くの如く折檻を受け、生まれも附かぬ容貌と相成ったが…。
考えて見るに此の身が愚か成るが由え『人に依って法は説くべし』とは正に此事であろう、思えば昨日の事は、此の友之丞が誤りであると、
変わり果てた我が身を怨みもせず、只々、吾の短慮からなる失策と諦めて、自らの寝所に横に成りて、静かに身体を休めて御座いました。
そんな元旦の悲劇から三日の時が過ぎました。友之丞は朝早くに目が覚め、漸く痛みも少し和らいで布団から起き、朝の膳部に向かいます。
そして後れ髪を掻き上げ、衣服を着替えると、
父又八郎君の部屋の前に来て、襖を開き両手を仕えて、『父上、ご機嫌麗しゅう!おはよう御座います。』と、友之丞は父親へ声を掛けた。
然るに、又八郎は実に執念深く、諦めの悪いたちですから、一昨日天野一陽軒と申す囲碁棋士を逃がした後、只だ其の事ばかりを心に思い、
又八郎「嗚呼、予が負ける筈が無いのだ…、あの手は定石の応用の積もりだったが失策だったのか?あそこは一陽軒の打ち込みをこう留て…」
と、昨年極月から元旦までの、一陽軒との対戦の『棋譜』を記憶を紡ぎながら拵えて、ブツブツ独言を呟いて御座います。是を見た友之丞、
友之丞「父上、ご機嫌宜しゅう!御目通り願いまする。」
と、一段大きな声を掛けると、又八郎君、漸く此の声が耳に届き心附きまして、
又八郎「おや?友之丞であるか?如何致した?」
友之丞「申し訳御座いません。昨日は一日床に臥せりまして、ご機嫌伺い出来ませんで誠に御無礼申しました。今日は御恐悦を申します。」
又八郎「フム、今日は正月三日。昨日は何故床に臥せって居った?!」
友之丞「御意に御座います。少々傷が痛みました由え、終日臥せり居りました。」
又八郎「ハテ?痛んだと申すは?…、嗚呼、一昨日元旦の事か?面を見せてみろ!、おぉ〜確かに腫れておる様子。まだ痛むのか?」
友之丞「ハイ、まだ少し。」
又八郎「去りとて友之丞!父を怨むなよ。汝は未だ乳臭い身を以って、老年博識の父に対して諫言したは、出過者の極みと申す者である。
自然と自らを戒める為に、其の傷其の痛みが有ると思え!その様な醜い面体に相成ったとて、決して父を怨むでないぞ!良いなぁ友之丞。
時に触れて、姿見鏡面に写し又は庭池の水鏡に写りし、是を見るに附け宜く此の事を思い出し、以後身を慎むが宜い!口は禍の元である。
宜いかぁ?!若年の身で過ぎたる處(ところ)への諫言沙汰、其の騒動のどさくさで、己れが為に大切な軍用金三百両の黄金を失っておる。
人を走らせて一陽軒が潜伏しそうな旅籠は探索させたが、奴は既に領外に逃亡した後、もう取り返しの附かぬ事態と相成った。是も全ては汝の由え在るぞ!」
斯く養父又八郎君より、自分の罪は棚に上げて得手勝手な事を申し、剰え、又八郎の癇癪で附けた友之丞の面体の傷と腫れを、見ても格段不憫と思う様子も無い。
併し、友之丞は元より父、又八郎君を怨む様な料簡は御座いません。ですから、全く父親に逆らう様子は無く、素直な返答を致します。
友之丞「以後慎み心得て御座います。由えに、父上!一昨日の諫言の件は、お許し頂けますようお願い申します。」
又八郎「以後気を付けろよ!必ずや是より若しや不具(かたわ)に成ったとて、父の折檻は神の思召しと思いて宜いか父を怨むでないぞ。」
友之丞「御意に。決してお怨みとは存じません。」
又八郎「コリャァ友之丞!本日は丁度正月三日なれば、此の三賀日にご挨拶、御礼を賜った家中の面々には、各家に出向き返礼を致さねばならん。
予が長裃を附け各家を返礼に廻ると、受けた方は返って恐縮致す。かと謂って片禮だけと謂うのは具合が悪い。当家から誰か遣わす必要がある。
次男又七郎は未だ九つの幼年なれば、返礼の使者など相務まらぬ。其処で友之丞!汝が予の名代として、若当草履取を召し連れて年始廻りをして呉れ。」
友之丞「ハッ!畏まりまして御座います、其れは最と容易い事では御座いますが、父上、彼様な面体に相成りまして、
初春早々の御家中を、歩行きましたならば、人が怪しんで五月蠅く『如何なされましたか?』
と、聴いて参るに相違ありません。係る際に、拙者、返答に窮して返答に苦しみまする。」
又八郎「ヤイ!己れは不思議(おかし)な事を申す奴だ。何だ?面に傷が付いて腫れ上がっていると、家中の者が彼是と聴かれた時に、答えに苦しむとは何だ?!
若し家中の者に『友之丞殿、お顔の怪我は如何致したので御座いますか?』と訊かれた時には、義理深き養父に対して明らかな無礼を行い、
其の逆鱗に触れたが由えに折檻を賜りましたと答えて何が恥ずかしい事が有る?!其れを素直に謂えぬ汝の料簡こそ、忌み嫌うべき物だ!!
年始廻りの名代を仰せつかって、顔に腫れが有ると家中の者から兎や角訊かれた時に何と云うなどゝ、其の様な屁理屈を武士は謂う者ではない。
早く支度をして参れ!其の醜い面体に裃を付けて丸の内を往来致さば、正月早々化物の年始廻りが来た!と申すであろう、アハゝゝゝ。早く参れ!決して横着は相成らんぞ。」
何んと謂う悪口、その一言に友之丞に於いては心中にヒシヒシと應えまして、この時初めて養父又八郎君を怨む気持ちが芽生え、無念胸に溢れます。
我儘で短慮な情け無い事を常々謂う御仁とは思っておりましたが、養父でも有り縁有って龍造寺の家に参った訳ですから、胸中を察し我慢と堪えて、
友之丞「委細承知仕りました。只今、支度を致して年始参りに出掛けまする。」
と、謂って再び自分の部屋へと戻りまして、身の周り付きの侍女(腰元)を呼びまして、着替を行い挨拶を受けた家中に、年始の返礼廻りに出掛けようと致します。
さぁ、呼ばれた侍女が年明け後初対面の友之丞の面体を見てビックリ仰天致します。着替をと謂われ持参した裃と紋付袴を入れた衣物入れをおもわず落とす程です。
侍女「若様!年始の挨拶廻りにお出掛けに成ると伺いまして、着物を用意致しましたが、其のお怪我の面体で裃姿で何方へ行きなさいますか?」
友之丞「お父上様から強っての頼みで、丸の内の御家中に年始の返礼挨拶廻りを致しに行くのだ。」
侍女「でも…、まさか其のお顔で?」
友之丞「其方の謂わんとする心は判る。だが父上の強っての頼みなれば、断る訳には参らず万一断ると返って機嫌を損ねる。捨て置いて呉れ!」
侍女「しかし、そのお顔では…。」
二人がそんな話を交わしながら、友之丞が着替をしていると、其処に母親の井蘇の方が現れます。井蘇の方は立ち聴きしていた様子で、
井蘇「コレ友之丞や、妾も今聴いていたが殿様は一度謂い出したら一寸も跡へは引かぬ御人じゃ。定めし邪険な父上だとうんざりだろうが、
此の年始参りの件は妾でもお諌め申し上げ兼ねる。一昨日の一件は言い出しっぺの妾が招いた災いで、汝を其の様な醜い面体にした。
妾は貴殿に対して、又貴方の実のご両親刑部御夫婦に対しても大変済まない事をした。其の面体で裃を付けて丸の内を歩行ける者では無いが、
又妾が兎や角謂うと殿様の機嫌を返って損ねてややこしく成る。かと謂って之が多上刑部殿や奥方様に知れるのも心苦しい、如何致さば宜いか…」
友之丞「母上、ご心配には及びませぬ。拙者も同じ憂いを最初感じていましたが、若し家中の者に怪我について尋ねられたら、
それは拙者が屠蘇を過ぎて酔っ払い縁側から落ちて、庭の敷石の角に面体を強く打ち附けただけだと謂って誤魔化しまする。」
そう謂うと、友之丞は熨斗目を着いたし、其の上に大小刀を差し更に裃を着けまして、
友之丞「母上、お伴の若当・仲間へのお声掛けをお願い致します。」
井蘇「友之丞、本に其の面体ではお気の毒な事である。せめて丸の内へ這入るまでは頭巾を被って参られよ。」
友之丞「拙者も、其の積もりで御座います。」
母、井蘇の方様は険しい表情で、お伴の若衆と仲間を呼びに納戸へ向かいます。
一方、友之丞はと見てやれば、侍女を遠ざけて改めて姿見に写る夜叉の如く腫れ上がる左反面を見て、ハラハラと落涙に及びます。そして独り言。
友之丞「嗚呼、身体髪膚これ父母に受く、と謂う諺とは真逆、敢えて損ない破らざるは孝の始めとや、我は多上刑部の次男と生まれ、
家に在る時は蝶よ花よと寵愛を受け、蚤にも喰われず成長なし、十にも満たざる稚児の時より此の家の養子となりしが、
舎弟又七郎出生いたしてより忽ち憚る龍造寺殿の御心底、就中、元旦の事は飽くまで父上の御所業を母上の願いも込め諫言申して、
この身の斯く禍を生ぜしが、豹変の醜い姿を哀れ不憫とは思召されず、年始廻り致せとのご難題、其の上に化物が裃を付けて丸の内を通行するは、
又春の一興であろうとは邪険も又沙汰の限り、父、父たらずと謂えども、子は又子たらずんばあらずと、今まで孝行尽くせしが、最早今日が孝行の極、元は他人の龍造寺家。」
と、鏡に向かって呟く友之丞の心中に、激憤の嵐が初めて渦巻くが…、イヤイヤ是は心得違い!左様な事は聖人の教えに無い。
君々たらずと謂えども臣又臣たらずんばあらず。又父父たらずと謂えども、子は又其の道を守らざるべからず。
今の考えは邪推であろう。案ずるよりは産むが易い、裃付けて父上の前に参りなば余りに外聞宜しからず、
今日の止せと優しい言葉が在るやも知れぬ、と、其のお言葉を聴いて又我が心を治せようか?!
と、そんな思いを巡らす十八歳の若年にも似合わず分別深き友之丞は、心を取り直して刀は次の間の唐紙の陰に起き、小刀のみ手挟みまして、
友之丞「父上、仰に従い只今から家中に返礼廻りに参ります。」
又八郎「ウム、顔を見せろ!…、ウム宜い姿だ。最前我が申したる化物が裃着けたる姿に相違ない。丸で係る姿は土佐家の絵巻物にある百鬼夜行の妖怪である。」
友之丞「父上、お戯れも時に依りまする。只今のお言葉、其れは私のこの姿を土佐家の絵巻物にある百鬼夜行の妖怪に比し賜うかぁ?!」
又八郎「如何にも。シテ、そうだと予が肯定致さば貴様は其れに逆らうのか?!」
友之丞「いいえ、逆らいは致しませんが、此の醜い面体は誰が拵えた物かぁ?」
又八郎「黙れ!黙れ!思えば思う程憎っくき奴よのぉ〜、此の又八郎が親子由えに戒める為、折檻致したるを貴様は遺恨に思いよるかぁ?!」
ここに至り友之丞は、遂に堪忍袋の緒が切れ仕舞ったと思いまして、少し居合腰を取りまして、
友之丞「父上、ヤサぁ〜龍造寺又八郎殿!我が最後の一言を其の耳の根に能く留め給え、怨みは須彌蒼海にも比し難けれど、
一旦は親子の契りを結びし仲なれば、子の道に従い我慢し勘弁致せしが、今日只今この場に於いてもう勘弁は相成らん、
龍造寺又八郎殿!我が怨みは、一々御身の胸中にあるならん、さぁ〜イザご覚悟!願うものなり。」
と、謂いながらスッと立ち上がった友之丞、唐紙に立て掛けた大刀を取り、鞘払いをすると中身は里方持参した名刀『松倉郷』の一刀は、
二尺一寸の細身ながら充分な業物、足を肩幅に開いた友之丞、是を下段に構えて、居合腰を保つ姿勢で又八郎を憎しみ込めて睨み付けます。
又八郎「己れ、乱心者め…父に対し刃を向けるかぁ?!」
友之丞「もうこうなれば、親でも無ければ子でも無い!我は多上刑部の次男友之丞だ。今改めて遺恨の刃を受けて見よ!
汝と我とは仮に親子と相成れども、佛説に謂う悪因縁修羅道に苦しむ者也。観念しろ!!」
と、謂うと、躙り寄りながら間合いを詰めて、友之丞は斬り掛かる機会を伺います。一方、又八郎に於いても容易ならざると思いますから、
傍らに有った小刀を手に取り構え相対しますと、透かさず飛び掛かり斬り込む友之丞、遂に龍造寺又八郎の首を斬り落とします。
さぁ、水も溜まらずスッポリと斬り落とし其の首が傍らに有った初櫻の碁盤の上にポトンと落ちて、血汐は四方に散乱し、
其の姿は時ならざる竜田川の紅葉が如く、物音と又八郎の断末魔の声を聴いて、驚いた母親の井蘇の方と舎弟又七郎が駆け出して来て、その惨劇を見て仰天します。
井蘇「友之丞!貴方と謂う人は…父又八郎殿を刃に掛けて如何とする。母は其方を気の毒と思い同情していたが、最早夫の仇!容赦はならん、覚悟致せ!生きては去らせん。」
と謂うと、流石、武家の嫁で御座います、鴨居の長押しに掛けた薙刀を取り、鋒の鞘を払うと、二度、三度、扱き上げて、友之丞を薙立て来る。又七郎も若年ながら小刀を抜いて、
又七郎「只今より、汝は兄に在らず。我が父上の仇敵に御座る。此の又七郎が討ち取り申す。」
と謂うと、舎弟又七郎は、か弱い腕で友之丞目掛けて斬り付けて参ります。母と弟の薙刀と小太刀の間を掻い潜り、まず、弟の小太刀を手に峰打ちを喰らわし払い落とします。
太刀が握れぬ手に成った又七郎は、其れでも友之丞の袴に縋り組付ますが、是を倒して友之丞、足で弟を踏み附け動きを止めます。
一方、母井蘇の方が突いて出た薙刀の柄を脇でガッチリ受け止めて、腕力に任せて母から薙刀を奪い取りますと、母は鬼の形相で謂い放ちます。
井蘇「エイ、悔しやぁ!女と侮りて手向かい致すかぁ、友之丞。」
更に、薙刀を奪われた母井蘇の方は、帯の間に挟んだ懐剣の匕首を抜いて、是を逆手に構えて友之丞に斬り掛かろうと致します。
一瞬早く、友之丞は井蘇の方の利き腕を両手で受け止めて、是を逆手に返し匕首も、井蘇の方は畳に落とします。そして友之丞は利き腕を握って、
友之丞「母上!又七郎!手向かいは致さぬ由え、静かに拙者を武士として死なせて下さいませ。父又八郎殿との事は、前世の遺恨、宿業と諦めて下さい。
委細の事は備に認め於きたる書置を我が部屋に残して御座いますれば、後にご覧下さりませ。我に於いてはもう之まで、静かに最期にさせて下されよ。
如何に、龍造寺又八郎殿をイザ冥土へ送り申さん。仇敵同士の友之丞なれど、三途の川をお伴に従いご案内申し上げる所存也。」
そう口上致しました友之丞は、井蘇の方と又七郎を自由に放し、自ら手に持つ『松倉郷』の刀の中程に半紙を巻いて握り、碁盤『初櫻』の角に座ります。
友之丞「母上、又七郎、どちらでも構わないので、介錯をお願い仕る。友之丞、之より武士らしく最期を遂げて見せまする。」
井蘇「又七郎に介錯は難しかろう、妾が仕ります。」
と、母井蘇の方が、薙刀を短く持って友之丞の背後に立ち、友之丞はゆっくり呼吸を整えると、息を止めて松倉郷を脇腹に突き刺し、横一文字に斬り付けます。
そして母の薙刀が首筋を仕留め、哀れ十八歳の玉の緒の切れて冥土へと旅立ちます。そして、母により斬られた首は、初櫻の上、白髭混じりの又八郎君の首と並べて置かれます。
母井蘇の方と舎弟又七郎は、ただただ、咽び泣くばかりですが、此の正月三日に起きた龍造寺家の騒ぎは一朝一夕の事にあらず、
用人樋口大膳を始め其の他御老女のお嶋と謂う者が当日是なる事件の証人と相成りまして、此の事をば、
御主君鍋島信濃守綱茂公の御傍許まで上聞に達ますと、寛仁大度の綱茂公が如何な沙汰を下されるか?それは、次回のお楽しみ!乞うご期待。
つづく