龍造寺家には、家宝と呼ぶに相応しい、代々受け継がれている碁盤『初櫻』が存在致します。是は、龍造寺家の中興の祖、山城守隆信公の時に、

彼の大明國より、海を渡って齎らされた逸品であり、一説には元々、宗氏第十九代当主、對馬守義純公が、朝鮮半島経由で、所有していた家宝の碁盤を、

偶々目にした隆信公が、余りに懇望する為に、義純公が、断腸の思いで手放し、隆信公に譲り渡した。其れ以来龍造寺家に、彼の碁盤は秘蔵される事になる。

そして、是を譲り受けた龍造寺山城守隆信は、此の碁盤に和名の呼び名を付け、『初櫻』と命名しましたが、歴代の山城守が、此の初櫻の碁盤を用いての碁会を催すと、

何故か?不慮の事故や、天変地異、はたまた、食当たりや、喧嘩が元での果たし合い等で、必ず血を見る災いが起こり、御身内に死者が出ると謂う迷信に祟られます。

そんな不吉な碁盤、『初櫻』は随分と長い時を、蔵に仕舞い込まれて、日の目を見る機会は御座いませんでしたが、隆信公より百年以上が経過して、

封印した山城守より、三十年を経た又八郎信忠公が、年末大掃除の折りに、土蔵の中で見付けた『初櫻』に興味を示されて、大層な囲碁好きも手伝いまして、

此の碁盤『初櫻』を土蔵の中から取り出して、光澤(ツヤ)布巾を掛け、碁盤の目を職人に黒漆で引き直しさせます。又八郎君、初櫻を手元に置き可愛がります。

さて、又八郎信忠公の奥方様、井蘇の方様は、公家の娘らしく、大変優しい心の持ち主で、迷信を強く信じる傾向にある、御婦人なれば、

夫である又八郎君が、宝物蔵より『初櫻』を、取り出した件を、大層憂いまして、主人又八郎君に女ながらに意見を致します。

井蘇「御前様、女だてらに意見など、致したくは御座いませんが、是ばかりは謂わずには居られませぬ。其れは他でも御座いません。

其処に御宝蔵より持ち出された、『初櫻』と申す碁盤の事で御座いまする。其の碁盤は、何代も長きに渡り、此の龍造寺家に伝わる宝物なれど、

用いると、当主其の家族、はたまた家臣に、祟りを齎し不幸たらしめる不吉な碁盤と聴いております。由えに御宝蔵に仕舞置くべしと存じます。

他に碁盤が無い訳でもあるまいに、左様な忌しき碁盤を、態々使わずとも良いと、妾は考えまする。御前様、どうか井蘇の我儘をお聴き入れ下さい。」

と、半ば手打ち覚悟で夫を諌めようと、進言いたしますると、傍らで此れを聴いていた、息子の又七郎が、カラカラと高らかに笑いました。

又八郎「之れ!又七郎。下品であるぞ、母を其の様に笑うではない。」

又七郎「失礼仕りました。併し、母上が真顔で迷信に踊らされなさるから、つい笑って仕舞ました。」

又八郎「さて、井蘇。其方が龍造寺家を思う気持ちは嬉しく思いますが、世の中には『怪力乱神を語らず』と謂う言葉が御座る。

つまり、悪戯に神秘的な迷信を語ると、悪戯に人心は乱れ、ただただ、不安を煽る結果に成るだけである。結果、不安が事故を呼ぶ。

すると、この不安から生じた事故を、愚者は祟りと呼び、引いては初櫻は不吉な碁盤であると信じ、祟る碁盤との札付と成るのだ。

由えに、初櫻には祟りが有るなどゝ、軽々しく謂う物ではない。そんな女々しく怯えるなど、武士の料簡に有らざれば、拙者は信じぬ。

又、『妖は徳に如かず。』と謂う言葉も御座る。現に、拙者が初櫻をこの屋敷に持ち込んで、早十日が過ぎたが、何も起こらぬワぁ!」

と、妻・井蘇の方様を一喝する様に叱り飛ばすと、頑固者の又八郎信忠公は、昼間は初櫻の碁盤で定石の確認作業、新手の研究を独り行い、

夜になると、鍋島藩の家中より対戦相手を屋敷に招いて、初櫻を囲み碁会を開く事で、家族や家臣に、初櫻の祟りなど無い事を示した。


さて元来、又八郎君は短気で頑固者。やや怒りっぽい性格だったが、初櫻を蔵から出して用いる様に成ってからは、益々気性が荒くなります。

些細な事で、呼び付け説教しては叱り、虫の居所が悪いと打擲なさいます。其れ程でもない失敗、粗相にも、激昂しカン高い声で怒鳴り散らす。

初櫻を使い始めて三月が過ぎる頃には、彌々、狂人の如くに癇癪を起こしますから、家来は勿論、妻である井蘇の方様、養子の友之丞ですら側へ近寄ろうとは致しません。


更に月日は流れて、元号は寛永の八年、1634年の正月の事で御座います。その元旦に、尤も大不吉な珍事が、彼の龍造寺家を襲いまする。

此の事件の発端は、大坂より九州肥前國佐賀へと落ちて参った、元は豊臣の家臣由えか?本名を伏せ、天野一陽軒と名乗る浪人が在ります。

此の者は、囲碁の妙手、囲碁名人・算砂が起こした名人碁所で二段の腕前でした。其の身は浪人、播州路より中國へ駆け、九州の地に渡ります。

道中、郷族、大名を品定めするが如く、注意深く、囲碁を通して観察した、天野一陽軒は、肥前國佐賀へと流れ着きました。

其れは昨年暮れの事で、佐賀藩内、白山町の旅籠に泊まり、宿の主人とも徐々に打ち解けて、主人、日向屋勘兵衛と、この様な噺をして居ります。

天野「ご主人、此方、佐賀は『葉隠れ』でも有名な鍋島藩、信濃守勝茂公の御領分で、天下太平に治り、士農工商は仕事に励み、実に豊かな暮らしをなさって御座るご様子。

そうなると、文化や民度は高いとお見受けいたすのだが、碁なんぞを嗜む御仁は御座いますかな?其れとも、当地では、碁は全く流行らぬものでしょうか?」

日向屋「左様で御座いまなぁ〜。百姓町人の間では、その日の暮らしに忙しく、碁なんぞ打つ暇は御座いませんが、上流の武家の皆さんは嗜みなさる。

鍋島藩には、所謂御三家と呼ばれる勝茂公の御兄弟家、蓮池鍋島家・小城鍋島家・鹿島鍋島家の三支家が御座います。

次に四男様以下と従兄弟、親戚筋に当たる白石鍋島家・川久保鍋島家・村田鍋島家・村田御本家の四家が奉行職を務めまする。

更に鍋島家の代々家老職を務めた家柄として、横岳鍋島家・神代鍋島家・深堀鍋島家・姉川鍋島家・太田鍋島家・倉町鍋島家の六家が御座います。

こちらの皆様は、丸の内にお住まいで、折に触れて碁会をお開きになり、随分と熱心に囲碁をなさると、私も聴いて居ります。そんな中でも、

『輿賀』と呼ばれる館にお住まいの、龍造寺家のお殿様は、囲碁を好まれる事で、非常に有名で、毎夜毎夜、囲碁をなさると、承っております。」

天野「何ぃ?龍造寺家とは、あの元は九州随一、島津を凌ぐと言われた!あの龍造寺か?」

日向屋「左様です。元は鍋島様の主人家に当たる龍造寺で御座います。今は、その末裔、又八郎信忠様が、鍋島藩の客分として、三千石で輿賀の館にお住まいで、

若し、天野様が碁に精通なされる御仁であるなら、輿賀の又八郎君を、ご紹介申し上げるに、吝かでは御座いません。

天野様が、碁を通して鍋島藩に食い込むお積もりならば、この日向屋勘兵衛、微力ながら又八郎君と、貴方様を引合せする位は出来まする。

ただし、其れより先は、貴方様の碁の腕前、技量次第で、又八郎君を通じて、鍋島藩の重臣連中ともお近付きに成って下さい。」

天野「其れは宜い事を承った。もとより拙者、急ぐ旅で無し、万一、先方の龍造寺家の方でお取り上げ下さるのならば、本に幸い!幸い。

本日は、お日柄も宜しく、天気も麗かなれば、龍造寺の輿賀の館へ、当主の又八郎信忠公を、名刺と何か手土産を下げて、訪れてみよう。」

と、すっかり日向屋勘兵衛の噺に乗せられで、天野一陽軒は、丸の内の鍋島藩の重臣を飛び越えて、龍造寺家当主、又八郎信忠公を訪ねる事にします。

一方、又八郎信忠公はと見てやれば、先に、ご紹介した通り、初櫻を土蔵から客間に運び出し、日々使い込む毎に、又八郎君の性格が荒れ捲りまして、

最近は、丸の内の住人は誘っても、誰一人、碁の相手など努めてくれる者は無く、城下に碁を嗜む商人、町役人を探しては、相手をさせるのだが

其れも、悪い噂と、一局打つと又八郎君の料簡が知れます由え、裏が返る試しは無く、彌々、碁の相手をして呉れる御仁は居なく成っておりました。

そんな中、玄関から取次の若い家臣が飛んで来て、遥々、浪花より天野一陽軒と名乗る、彼の囲碁名人・算砂の流れを汲む、名人碁所で二段の腕前と謂う棋士が来客だと謂う。


早速、又八郎信忠公は、天野一陽軒と申す旅の囲碁棋士を奥の客間へと通し、逢って見ると、歳は既に還暦近く、頭は白髪、髭も白髭で、面体は皺だらけである。

又八郎「其の方が、大坂より参ったと申す天野一陽軒なるか?!予が龍造寺又八郎である。本日は遥々、上方より能く参られた。ささぁ、遠慮なく布団を当てられよ。」

天野「恐れ入り奉りまする。輿賀公の御高名は、京・大坂にも轟いて御座いますれば、此の一陽軒、お慕い申して推参仕りまして御座いまする。

早速、ご尊顔を拝し恐悦至極に存じます。御高名は又八郎君に、彼くも容易に、彼くも軽々しく面会が叶うとは、一陽軒、悦に存じ上げ奉りまする。」

又八郎「世辞を申すでない。汝、佐賀の城下で予の良くない噂を耳にして、揶揄う為に参ったのであろう?!」

一陽軒「イヤイヤ、揶揄うなどゝ、決して左様な料簡で参った訳では御座いません。中國辺りから九州の地へ這入りますれば、先ずは、肥前國へと足を踏み入れてから、この佐賀へ参ります。

その道中、五十里、いやいや、七、八十里先から、佐賀藩鍋島家の今は客分で、元、領主である龍造寺家は歴代の当主が、囲碁に熱心で、

殊に定石の研究も独自になさるとか、色んな囲碁の名声が、聴こえて参ります。ですから、拙者の様な囲碁の師匠を生業とする棋士は、

肥前國佐賀藩の領分に這入らば、是非にも、龍造寺の殿様と、一局、お手合わせを願いたいと思うのは、至極当然な事なのですよ。」

又八郎「いやはや、拙者は勿論、龍造寺家の関係者は、決して我が家自慢は致さぬ。依って、誰が広めた噂かは知らぬが、言われて悪い気持ちは致さぬ。

では、天野一陽軒殿、直ぐに碁盤の準備をさせるので、一局、お手合わせをお願い致しまする。本郷一馬!碁盤と石の用意をしなさい。」

天野「之は之は、実に、有難う御座いまする。」

と、此の様なやり取りが御座いまして、又八郎君は、大坂よりやって来た天野一陽軒と申す旅の囲碁棋士を相手に、一局、碁を打つ事に成ります。

かくして、寛永七年の極月に知り合った両人は、運命的な出逢いと成りまして、又八郎君と此の二段と称する天野一陽軒は、囲碁の実力伯仲でして、

又八郎君が勝つと、次は一陽軒が勝ち、ほぼ、互角の勝敗で、五日、十日と過ぎまして、彌々、大晦日から始めた対局は年跨ぎで、翌元旦のお昼迄続きます。

もう、良い好敵手を見付けた又八郎君は、天野一陽軒を手放すハズがなく、既に、八日前からは、日向屋の旅籠から輿賀の館へ移り住んでいる一陽軒は、又八郎から部屋を与えられて御座います。

明けて正月二日、三日も、相変わらずで、又八郎は一陽軒を客間に呼び、朝から碁三昧で御座います。日に十二、三番の対局をして、過ごす二人。

朝食を済ませて、辰の上刻辺りから碁を打ち始めると、昼は握り飯を食べながら打ち続けて、夜の戌の下刻辺りに漸く、対局を終えまする。そして、

軽く御酒を頂戴しながら、夕食の席で、その日の打ち筋を、ああだこうだと一陽軒が評論めいた調子で語り聞かせて、其れを又八郎は聴き入ります。

又、又八郎に判らない手筋、理解不能な新たな定石を質問すると、一陽軒が是を、誠に丁寧に解説致します。益々、一陽軒の株が上がります。

そして迎えた七草の頃。天野一陽軒は、又八郎君に対して、或る提案を始めます。

天野「御前様、私が佐賀へ参って十七、八日余りが経ちますが、流石に、握らない平場の勝負ばかりだと、勝負の意欲に欠けて仕舞ます。印しを握ろうでは在りませんか?!」

又八郎「印し?握る?」

天野「平たく申しますと、握るとは賭けると謂う事で、印しとは銭です、金子の事に御座いまする。」

又八郎「何んとぉ!貴様、碁の勝負に金子を賭けると申すのか?無礼者、不埒なぁ。」

天野「イヤぁ〜、賭け碁とは申しますが、拙者は浪々の身なれば、大金を賭けるなど出来ません。

御前様が憂いを申される様な、不埒な賭博行為では御座いません。手慰みです、ご安心下され。」

又八郎「併し、拙者は武士(もののふ)である。侠客、博徒の輩の様な真似は、拙者は好まぬ!」

天野「御前様、堅い事は言わないで下さい。何も握らず同じ相手と、二百回以上碁を打ち続けるのは、退屈過ぎると申しておるダケです。」

又八郎「どうしても、印しは握らぬ!賭博は厭だと、予が申したなら、如何いたす?一陽軒。」

天野「御前様が、どうしても握らぬ!と、申されるならば、御暇を頂戴して、肥後國熊本辺りを目指しまする。」

又八郎「ウーン。佐賀を出ると申すかぁ?!」

天野「仕方有りません。残念ですが、面白い、興味深いだけでは、正直囲碁は退屈過ぎまする。」

又八郎「左様で有るかぁ。」

天野一陽軒は、一か八か、又八郎に暇を願い出て、輿賀の館から立ち去る素振りを見せるのでした。

もう、皆さんお分かりですね。此の天野一陽軒と申す男は、玄人の囲碁棋士では御座いますが、将棋の世界で謂う『真剣士』と同じで、

金銭を賭けて碁の勝負を行い、素人の金持ちの相手には五分五分の実力、腕前だから、今度こそ自分の方が勝つと、思わせる位に伯仲した接戦を演じ続ける。そして、

最後は、自分の方が僅差で勝利して、結果として纏まった大金を巻き上げる。イカサマは、一切行わないが、圧倒的な実力差を武器に、素人を型に嵌めるゴト師なのである。

又八郎「判った!一陽軒、其れで握る印しの金子は、幾ら用意いたせば、汝は、碁を続けて呉れるのだ?」

天野「ハイ、でしたら拙者も浪人由え、大した金子は持ち合わせませぬ。小判一枚、一両の印しを握り、賭け碁を致しましょう。」

と、天野一陽軒、まんまと龍造寺又八郎を、賭け碁に誘う事に成功します。もう、こうなると一陽軒の掌で、又八郎は踊らされて仕舞います。

初日は、勝ったり負けたりで始まり、最後に三連敗して五両の負け、翌日は二両勝ち、三日目は全敗し十二両負け、四日目は引分、

そして五日目は、出足は連敗が重なるも、最後は四連勝して五両の負けで済みますが、併し五日間で、既に総額二十両の負けです。

天野「どうですか?御前様、勝負は勝ったり負けたりの波が御座います。今は御前様の勝ちの波が来ていますし、私は勝ち逃げしたくありません。

そこで、握る印しの金額を、少し嵩上げてみませんか?今は一つ勝負一両ですが、三両にしてみませんか?御前様、さて如何ですかなぁ?!」

又八郎「おぉ〜、済まぬなぁ、一陽軒。気を遣わせて。相判った、今日は三両の印しで握ろうではないか、一陽軒!取り返しで見せるぞ!」

と、又八郎は一陽軒の巧みな誘いで深みに嵌りまして、更に五日が過ぎ十日目を終えると百両の負けです。

更に、握る印しを五両に上げて、十五日目には二百両を巻き上げると、一つ勝負を十両に印しを上げて握る事を提案し、又八郎は是を受け入れます。

そして一旦は二十日目に、又八郎の負けが七十両まで目減りしますが、更にそこからの十日間で、一陽軒が一気に捲り返して、結局、一月で三百両負けて仕舞います。


さて、もう印しが五両の印しへと、握り(賭け)のレートが上がった段階で、又八郎の眼は血走り、そして、更に一局十両勝負になると、正に狂人と化したので御座います。


さぁ負け金は三百両。


流石に三千石取りの龍造寺家にとっても、三百両は大金ですし、又八郎が、一人で右から左に、お財布の中から用意出来る金子では御座いません。

当然、妻である井蘇の方に、軍用金の中から金子を貰わないと、支払いできる金額ではなく、龍造寺家が"いざ!"と謂う場面用に蓄えている、五百両の軍用金。

其の軍用金を、井蘇の方に出せ!と迫り。「何に用いるのですか?!」と謂う井蘇の方を、「煩い!早く出せ。」と打擲し、奪い取ったのですから、尋常では御座いません。

奥方の井蘇の方は、この事をまず、用人である樋口大膳に相談しますと、其れならば、養子ながら嫡男である友之丞様に、御前様を諫めて頂くのが最善策だと進言を受けます。

日頃から疎んじている友之丞ではあるが、八歳の又七郎よりは、十七歳の友之丞の方が、まだ、適役に違いないとも思いますから、友之丞を、自分のお部屋に呼び入れます。

井蘇「友之丞、宜く参られた。近こう!近こう!」

友之丞「母上、何の御用でしょうか?」

井蘇「友之丞、聴いてくりゃれぇ。実は、先程、お父上、又八郎君が、軍用金を全て出せ!と、突然、妾に命じられますから、

何用ですか?と、尋ねますと、つべこべ謂うなぁ!と、殴られました。もう、眼は逝っていて、常人の様子では有りません。」

友之丞「誠ですか?!」

井蘇「ハイ。五百両もの軍用金を持ち出して、狂人の如く血走った眼をしておられました。そして、恐らくは、あの如何わしい囲碁棋士の口車に乗り、

軍用金を賭けて、碁をなさるお積もりだと思われまする。父上は、初櫻の祟りで気性が荒れておられた所に、あの妖しい棋士の誘惑が追い討ちで、完全に発狂しておられます。

だから、友之丞!総領のお主の口から、父上をお諌めして、軍用金があの囲碁棋士に、奪われない様に、しっかりと父上を、正気に戻して下さい。」

友之丞「ハイ、其れを拙者が試みるのですか?!」

井蘇「友之丞!試みるのでは有りません。必ず、お諌め致して、軍用金を取り戻すのです。あの五百両を、囲碁棋士に奪われては、龍造寺家は滅びまする。」

友之丞「ハイ、判りました、母上。出来る限りにお諌め致しますが、併し果たして、拙者の申す事を、父上が聴いて下さるかぁ。」

井蘇「其れでも、女子(おなご)の妾が謂うよりは、まだ聴く耳をお持ちです。友之丞、汝だけが頼りです。宜しくお願いします。」

友之丞「御意に御座いまする。」

と、義母、井蘇の方様から、父、又八郎君を諌めて軍用金を取り戻す様に頼まれた、友之丞は、自分の都合で、宜くも俺に頼めたものだと、

昨日まで継子虐めしていた母親が『汝が総領なんだから、父を諌めて呉れ!』何て宜く謂えるものだ、どんな神経してやがる?と、は思いましたが、

軍用金の五百両を、あの食客、天野一陽軒とか申す、囲碁棋士に奪い取られては、龍造寺家の一大事!と、思いますから、早速、二人が賭け碁をしている客間へ参ります。

そして、二人に茶と菓子を差し出して、碁盤・初櫻を囲み、パチパチと白熱した勝負を繰り広げている両人から、少し離れた脇に座り、勝負の様子を眺める友之丞です。

勝負は既に終盤戦。戦局は、友之丞が観ても判るくらいに、一陽軒の白が一方的に有利で、最早、どんな奇策を用しても、又八郎の黒が逆転する望みは御座いません。

天野「御前様、此の局はどうやら拙者の勝ちの様ですなぁ。暫し、茶を飲み、菓子など頬張り、休憩してから再開致しましょう。」

又八郎「待たれよ、一陽軒。菓子など食っている場面ではないワ!之を負けたら、予の負けは幾らに成る?!予は昨日から負け通しぞ!誠に腹が立つ。」

天野「ハイ、御前様の負けは三百両ばかりです、勝負時の運、其れが証拠に一時、御前は百五十両負けて御座ったが、五両の印しで一日八十両を取り返したでは御座いませんか?」

又八郎「確かに、左様では有ったが。」

天野「今は十両の印しで握りよりますから、運次第で一日二百両の挽回も、夢では御座らぬ。御前様、茶など啜り、少し鋭気を養いなさると宜い。さぁ、菓子も召し上がれ!!」

友之丞「イヤ、暫く!暫く待たれよ。父上、眼を覚まして下さい。この食客の天野一陽軒なる囲碁棋士と、父上の実力差は、大人と赤子程、天と地程の差が御座います。

貴方が勝つ場面は、この詐欺師、ゴト師が、わざと負けているだけで、父上!貴方の実力では有りません。喩えるなら『西遊記』の孫悟空が、お釈迦様の掌に乗るが如し。」

さぁ、薄々感じていた又八郎君は、疎ましい存在の養子の友之丞から、一陽軒の居る目の前で、図星を言われて、激昂し完全にブチ切れてしまうのです。

又八郎「蛇かましい!若干十七の小僧の分際で、何を悟った様な戯言を申すかぁ!小童めぇ。貴様の如き未熟者に、囲碁の何が判る!無礼者、恥を知れ!!」

友之丞「父上、冷静にお成り下さいませ。母上や用人の大膳も、心より心配しておられます由え、拙者が諫言に参りました。あの様な詐欺師に惑わされては成りません。

ただ碁を打ち、此の輩に受講料を、一両、二両程度お恵みに成るのなら、友之丞は文句は御座いません。併し、賭け碁などをして軍用金にまで手を付けられては黙りませぬ。」

さぁ、突然、茶と菓子を持って来た若侍、又八郎の息子らしい青年が、急に正論を吐きながら、又八郎を諌め始めたので、一陽軒は狼狽し焦ります。

一陽軒「何を申されます。若君様、拙者は詐欺師などではありませんし、之は囲碁の真剣勝負に御座いまする。御前様、倅殿は勘違いなさって御座います。」

友之丞「ヤイ黙れ、ペテン師。そして父上、貴方は仮にも、元七十万石の大大名、龍造寺隆信公の末裔ですぞ。そんな貴方が、賭け碁に現を抜かし、三百両の軍用金を使い込むなど、恥を知りなさい!恥を。」

一陽軒「ですから、若君様、拙者はペテン師などでは御座らぬ!」

又八郎「一陽軒殿、此の者は儂の倅などでは有りません。唯の家臣、下僕、若党です。ヤイ、此の無礼者、一陽軒殿を、ペテン師扱いしおって!もう、儂は許さんぞ!」

そう謂うと、又八郎は完全に狂って仕舞い、目が血走り、妙な奇声を上げて、『死ね!死ね!』と、叫びながら盤上の碁石を、友之丞に目掛けて投げ付けます。

さぁ、修羅場と化した客間。節分の豆を撒く様に狂った又八郎が、友之丞に碁石を投げ付ける様子を見た天野一陽軒は、ココらが潮時!と、思い、

一陽軒「では、御前様、拙者は、之にて失礼致します。」

と、謂うとスッと立ち上がり、三百両の金子を、両の袂に分けて納めると、一目散で玄関へ向かい下足番に下駄を貰うと、外へと逃げ出し姿を眩まして仕舞います。

一方、友之丞はと見てやれば、又八郎が投げる碁石を避けるので精一杯。初櫻の碁盤を挟んで、二人は対峙していますが、流石に、一陽軒が三百両を持って退室すると、

碁石を投げいた又八郎、今度は怒りに任せ、初櫻を掴むと、いきなり是を抱え上げて、友之丞目掛けて投げ付けますから、友之丞は避けきれず、側頭部に碁盤の角がモロ当たります。

鈍い音がして、頭を割られた友之丞は、夥しい鮮血で顔面半分を真っ赤に染めて、『ギャッ!!』と叫び、其の場に倒れて仕舞います。哀れ友之丞、耳の穴からまでも出血しています

『お待ち下され!一陽軒殿。』と、叫びつつ、又八郎君は、玄関の方に彼を追い掛けて生きますが、下足番から『食客の方は、帰られました。』と聴かされて、

又八郎「誰か!城下の旅籠『日向屋』に参り、天野一陽軒先生を、又八郎が呼んでいるからと、屋敷へ連れ戻して参れ。」

と、命令しますが、天野一陽軒も、玄人のゴト師ですから、日向屋へのこのこ立ち戻ったりなど、間抜けな事をするハズもなく、

軍用金の内から三百両をまんまとせしめて、佐賀城下からは、姿を晦まして仕舞います。さて、客間での騒動を聴き付けて、樋口大膳と井蘇の方が、恐る恐る唐紙を開けると、

畳を真っ赤に染めて倒れた友之丞を発見します。井蘇の方は悲鳴を上げて、其の場で失神してしまうのですが、用人樋口大膳の方は、気丈に羽織を脱いで、それで友之丞の頭部を包み止血を始めます。

樋口「誰かある!友之丞君が怪我をなされた、床を延べて寝かせて呉れ。奥方様は、血を見て驚かれたダケじゃ、気付の薬を頼む。其れから、誰か!源庵先生も呼んで来て呉れ。」

医師源庵が駆け付けて、頭を八針ほど縫い、何んとか止血は済みますが、友之丞の意識は、なかなか戻らず、井蘇の方も弟、又七郎、そして樋口大膳も心配しながら、

友之丞が寝かされている床の脇に、座って、じっと目を閉じて祈りながら、待って居ますと、一刻半程の後に、漸く、友之丞は眼を覚まします。

友之丞「ヤァ、母上、其れに又七郎。おぉ〜大膳、お前もかぁ?!」

井蘇「コレ、友之丞!大丈夫かぇ?」

友之丞「面目無い。拙者、父上の怒りを買い、初櫻の碁盤を放り投げられて、避け切れず、小鬢に其れが当たったまでは覚えていますが。あぁ、痛たたた。」

井蘇「命が無事で、母はホッとしました。」

友之丞「併し、其れにしても、父上の今日の凶状には閉口します。御挙動、誠に怨めしゅう存じまする。」

と、ハラハラと涙して悔しがる友之丞を見て、義母の井蘇の方は、是まで、あんなに継子虐めをしたのに、命懸けで又八郎君に諫言した友之丞を愛おしく思い泪致します。

そして、この母と兄の姿に、又七郎も、『兄上、お怪我は大丈夫ですか?』と謂いながら、此方も泪が止まりません。

さぁ友之丞。自ら立ち上がり、母と弟を庇い支えてやらねばと謂う気持ちが、新たに起こった友之丞、龍造寺家当主、又八郎信忠公に、正面からぶつかり、正して行く決意を致します。


つづく