時は文明九年、足利八代将軍、東山義政公の治世が始まったばかりのお噺に御座います。皆様ご存知、『応仁の乱』が勃発し、是より百余年、
天下は千々に乱れて、英雄豪傑が、丸で蜂の如く湧き出て参りまして、日本全国六十余州は、麻の如く乱れまして、市民は枕を高くして眠る事能わず。
鬨の声は昼夜を問わず、絶える事なく、今日在る命も明日無きモノと心得て、由えに商人は商売に精を出さず、農民も田畑を耕やさずして、
遂には、野盗、山賊・海賊の類が、実に日本全国中に溢れ返り、力のみが世の中を支配する、宛ら、日本は修羅の世界と、相成り変わりました。
そんな暗黒の時代を経て、百十数年の後、足利十三代将軍、義輝公の頃より、十四代義永公十五代義昭公の時代に成りますと、正に将軍とは名ばかり、
彌々、将軍職など有名無実、十五代義昭公は、就任中、織田信長の後ろ盾を失うと、都の住居すら成り兼ねて、四国西国の島々を徘徊致しまする。
由えに、義昭公は『島の公方』と影では呼ばれておりました。係る事態になれば、足利氏の政の力など、全く諸国に及ぶ訳も無く、日本は宛無闇夜如し。
然るに、この群雄割拠の所謂、戦国時代が終わるのは、天正と元号が改まり、羽柴秀吉が関白となり、天下統一に着手してからの事に相成ります。
但し、秀吉の台頭が明らかとなり、上方より東北圏は平定されますが、当時、九州地方はまだまだ、群雄割拠の乱世が続き、秀吉の支配は及びません。
其の九州の諸侯は?と、見てやれば、所謂大友、菊池、島津、秋月、大村、龍造寺、そして松浦の七つの大名が時に戦い、時に和し、昨日の友は今日の敵。
喩え、血を分けた親兄弟でも、心を許す事が出来ない、実に、表裏反復、表面を見ただけでは、腹では何を考えているのか判らない、疑心暗鬼の世界でした。
其の頃、肥前國佐賀はと見てやれば、龍造寺山城守隆信と謂う武将が、佐賀の地を収めていて、外には肥後熊本にも領分を有して石高は実に七十万石以上。
常に、菊池氏、大村氏、そして大友氏とは戦闘状態にあり、戦闘ばかりではなく、四つ共の戦い由えに、智略、謀略の渦巻く頭脳戦が展開されていました。
さて、此の隆信公は、実に智略謀略に長けた武将で、兵を動かす能力も高く、時に、菊池氏、大友氏と合掌軍、連合軍を形成して島津氏を攻めたりもしたが、
隆信公の跡を継いだ小太郎、政家公と言う人は、父に似ず、公家風を好み、詩歌や絵、そして大層囲碁が好きな御仁で、政や戦には全く興味が御座いません。
そんな政家の代になると、一気に周囲の敵に攻め込まれて、領地を失い続けるもんですから、肥前國を、龍造寺氏が支配する時代は終わり、
所謂下克上により、龍造寺の家臣団の筆頭家だった鍋島氏が、是に、取って代わり肥前國佐賀の領主と成るので御座います。
併し、鍋島氏は下克上とは謂え、元主人家の龍造寺氏を追放したり、処刑したりして、佐賀の地を受け継いだのではなく、龍造寺氏を客分として城下に住まわせます。
龍造寺家は肥前の守護であり、その身分は保たれて、名ばかりの将軍ですが、義昭存命の間は、「予は将軍家と直接謁見できる身分ぞ!」と、威張り居ります。
そんな訳で、鍋島の殿様は客分ながら、敬意を持って龍造寺政家公を『龍造寺の殿様』と称し、住まいを佐賀城内に設けて『輿賀の館』と呼んでおりました。
因みに、この『輿賀』と言うのは、地名で、佐賀領内の西地区に在し、龍造寺家の菩提所の在る御社(みやしろ)が御座います。この社で龍造寺氏は地頭職に任命され、
当初は三千石の地頭から、佐賀の郷族、肥前一國の守護へと出世したので、この『輿賀』は龍造寺家の聖地であり、敬意から鍋島公は、其の屋鋪を『輿賀の館』と呼ぶのでした。
そして、時代は秀吉から家康、徳川の治世となり、江戸に幕府が起きますが、鍋島藩の客分、龍造寺家は三千石の扶持を貰い『輿賀の館』に今も健在です。
ただ特に役職は無く、政家の代から変わらず、当代の又八郎君、信忠公は、公家風の詩歌を好み、春の花見、秋の月見には歌会を開いて、囲碁に将棋と釣りも大好きです。
さぁ、此の又八郎君。常に気の合う家来の四、五人とご一緒。する事も御座いませんから、専ら、家に居て面白、可笑しく、平和な贅沢を謳歌して居られます。
そんな又八郎君にも、悩みが無い訳では御座いません。唯一の悩みと申すのが、四十を過ぎて居りますが、又八郎君には、世継ぎの子が男女共に御座いません。
勿論、妻は御座いますが、何故か?子無しで御座います。佐賀藩の厄介人では有りますが、実に名門の家柄で、その末裔です。腐っても鯛なのです。
当代の鍋島の殿様、丹後守光茂公は自分の代で途絶えられては、ご先祖様に面目が立たない!と、考えます。婦人七年去の内に子なき女は離縁されたし!
などと、仁なき事を世間では申しますが、龍造寺家に相応しい姫を、関白家筋から輿入れしたからには、子無しを理由に離縁など出来ず、今日に至ります。
余りに止ん事無いお方を嫁にもらうから、側室、妾を設ける訳にも参らず、今の事態を招いているからは、もう、養子を取るより道は無いと考えます。
養子による家名存続となれば、龍造寺家に相応しい養子、且つ、又八郎君にも、十分気に居られ、養子として迎えても、依存の無い少年でなければ成りません。
こうして、鍋島藩中の家臣を見渡し、総吟味とも言える調査を致しますれば、鍋島丹後守の家臣に、多上刑部と申す御用人が御座いまして、総領を主税、次男を友之丞と申します。
この兄弟を、又八郎は、可愛がっておりまして、自らが開いている私塾に迎えて、詩歌、俳句、論語や儒教を教え、
且つ、時に囲碁・将棋などを通して触れ合う関係です。そして、兄の主税は十一歳で、舎弟の友之丞は、まだ八歳で御座います。
勿論、学問など室内での触れ合う機会ばかりではなく、時には、凧上げ、独楽回しに、竹馬などを拵えて、二人と庭で遊ぶ又八郎君。
そんな場面で、又八郎君は、幼い友之丞に此の様に尋ねるので、御座います。
又八郎「之れ、友之丞。其方は、儂の息子に成らぬか?!」
すると、友之丞も、ニッコリと笑いながら、答えまして。
友之丞「どうぞ、当家に貰われとう存じまする。」
と、幼な心には、一点の曇りなく、正直と謂おうか?無邪気に愛らしく申します。
依って或日の事、龍造寺の当主、又八郎信忠公は、友之丞達の父、多上刑部と会った登城の折りに、呼び止めまして、相談を持ち掛けます。
又八郎「之は、多上殿。お久しゅう御座る。」
刑部「これは、輿賀の殿様。日頃より、我が倅どもが、詩歌、論語など、学問の素養を学ばせて頂き、感謝申し上げまする。」
又八郎「なんの、拙者は無職で子は無く、退屈して居る。そんな所へ、御子弟が遊びに来てくれるのは、拙者としても好都合で御座る。
さて、足下は、主税殿と謂うご立派な総領が有り、嗣子には差し支え御座るまいから、次男の友之丞殿を、拙者の養子に迎えたいが?曲げて叶うまいか?刑部殿。」
さぁ、面と向かって、いきなり、次男の友之丞を養子に呉れと謂われた、多上刑部でしたが、此の人は中々思慮深く、聡明であるが由え、
刑部「殿様よりのお言葉、忝なく存じまするが、不肖なる友之丞、龍造寺様へ家督相続人として養子に貰われる事は、拙者も嬉しい限りです。
ただ、未だ奥方様は二十九歳、万一にも、お子を授かるやも知れませんし、又、総領の主税とて未だ十一なれば、流行り病や事故で死なぬとは限りません。
由えに、友之丞を今養子に出す決意を、拙者、致しかねまする。友之丞はまだ暫く、手元に置いて於とう存ずる、勿体無い縁組では御座いますが、残念ながら謝絶申します。」
さぁ、強いて自ら『次男の友之丞を養子に!』と、願い出た龍造寺家、当主の又八郎信忠は、多上刑部に拒絶されましたが、そう簡単に諦められません。
鍋島藩家中の伝手(ツテ)を頼りに、多上刑部へ、『友之丞を養子に欲しい!』と、各方面より、あの手この手で、貰いを掛けて参ります。
そして、遂に鍋島藩家老、神代鍋島家から、友之丞の龍造寺家への養子縁組の仲人、媒酌人としての使者が立てられて、刑部も断り切れなくなります。
こうして、多上刑部の次男、友之丞は、龍造寺家側から乞われる型で、友之丞、八歳の時に龍造寺家の養子となるのでした。
さて、友之丞が養子に入り間もない一月、二月は、又八郎も奥方様も、それはそれは、下へも置かぬ可愛がりようで、友之丞は大事に育てられますが…。
養子に来て、僅か三月目に、奥方様の懐妊が分かると、もう、掌を返した様に、又八郎信忠公と奥方様は、腹の子に全愛情を注ぎ込み、友之丞への愛は冷めて消え失せます。
軈て、十月十日が過ぎると、奥方様は玉の様な男子をご出生。その子は、又七郎と名付けられまして、目に入れても痛くない可愛がり様で、スクスクと育って行きます。
又八郎と奥方は、露骨に生まれたばかりの、又七郎を可愛がり、友之丞には一切、興味を示さないどころか、後継にはしたくないので、継子虐めをされ、
輿賀の館から友之丞自ら逃げ出す様に仕向けますが、友之丞は、そんな義父や継母の虐めに堪えるだけでなく、孝行と忠義を尽くすので、周囲の家臣は友之丞を擁護してやります。
そして、何事も無く九年の歳月が流れて、養子に這入った友之丞は元服も成り十七歳となり、弟の又七郎も十歳を迎える年に成長して居りました。
さて、友之丞を養子に出してより、多上刑部は、毎年新年を迎えると、独りで龍造寺の輿賀の館へと初春の挨拶へと出向くのが恒例行事であり、
この年も、輿賀の館にて、又八郎信忠公、奥方様、友之丞、そして又七郎の四人に出迎えられて、初春の挨拶を行った後、酒肴などでもてなしを受けていた。
さぁ、そこで一年ぶりに逢う倅、友之丞と、十歳になり、新春の挨拶に現れた又七郎の着物を見て、多上刑部は、余りの格差に、絶句して仕舞います。
そして、目配せして、友之丞を庭陰に呼び出すと、二人きりになり、刑部は息子に対して、低い声で、話し始めた。
刑部「なぁ、友之丞!お主は、弟である又七郎が誕生してから、龍造寺様、奥方様から、疎んじられて、継子虐めを受け続けていると、噂には聴いていたが…
今日の貴様と又七郎の、着物姿を見せられて、儂は確信した。汝は木綿の厚ぼったい袷に、履き古した普段の袴のお下がりなのに、
一方の又七郎は、藍友禅正絹の袷と、紬の羽織に龍造寺の家紋、日足紋を錦糸銀糸で五つ所に刺繍されていて、袴も仙台平の新品だ。
なぁ、友之丞!もう我慢致さずとも良い。汝が我慢するのを、見ているのは父は大変に辛いし、母上はもっともっと辛いはずである。
汝の気性、生活ならば、其れでも耐えて義父母に孝行致すと謂うに決まっておろうが、矢張り、喩え武士と謂えども、堪忍ならぬ事はある。
拙者は、こう成る事を見越して、最初から断り続けたのだ、それを、龍造寺の殿様が、家老の神代様を、媒酌人に立てられるから、拙者も断り切れず、渋々承知致した次第なのだ。
だから、汝から離縁を謂い出せぬのなら、もう、辛抱はせずとも良い。この父の口から、離縁を謂い出してやる。向こうも今成れば、又七郎が居り、渡に船の筈だ。」
友之丞「いや、多上様!それは、不用に存じまする。離縁などこちらから謂い出して、拙者は部屋住の身分に戻る訳には、参りません。龍造寺家の方から暇を出されるならまだしも、
多上の家から、しかも、父上の一存で離縁など、申し出たら、其れこそ、鍋島藩内の恥晒しに御座います。多上家、二千石の家名に傷が付く様な真似は、なさらないで、下さいませ。」
刑部「何を申す!恥などゝは、拙者は思わぬし、妻の陸、総領の主税とて、友之丞が多上家に帰って来るならば、心強く、大喜びに決まっておる。遠慮致すな!友之丞。」
友之丞「いや父上、遠慮などては御座いません。又七郎と同じ様な正絹の着物、錦糸銀糸の刺繍家紋の羽織も、龍造寺の殿様より頂戴して御座いまする。
今日は、弓の初稽古をした後由えに、拙者は着替えぬままに、身内である父上の前に参上仕ったゞけに御座いまする。龍造寺の殿も奥方様も、友之丞には宜うして下さいます。」
そう謂う我が子、友之丞の顔を見て、多上刑部は泣いた。又、泪を流す父の顔を見た友之丞は、必死に涙を我慢したが、流れ出る泪を堪えられず、親子は泣いた。
迎えた友之丞十七歳の春、漸く多上刑部は、袖を別って立ち帰り、その小さな後ろ姿を、友之丞は、門の関根に立ち尽くして、
其の影が消える迄、何時迄も、何時迄も見送るのだが、是が二人の今生の別れだったとは、跡から知る事に成りるのです。
こうした因縁が御座います龍造寺の家に、物の祟りが有ると謂う、其の顛末により、怪談奇聞の発端については、次回以降に物語りたいと存じます。
つづく