日本橋横山町の藪原検校の屋敷を出発した、亀五郎。漆黒の僧侶の袈裟衣に、真っ白な羽二重の薄造りの着物。白足袋に白い手甲脚絆の草鞋履き、
左の手には、先に銅製の輪付きの六尺杖を持ち、坊主頭に大きな竹網の丸笠を被りまして、右手は懐中に隠しながら、僧侶の程で旅を致します。
道中、横山町を出て東海道を品川宿から、六郷の渡場までは自ら歩いて船で川崎宿へと渡り、続く神奈川宿まで歩き続けると、駕籠に乗り替えて、
保土ヶ谷宿、そして戸塚宿へと入ります。丁度、この戸塚で時刻は午刻、昼飯時分となりますから、一軒の立場茶屋へと入りまして、床几の端に腰掛けます。
亀五郎「オヤジ、酒だ!あと適当に肴と飯を。酒は、なるべく大きい徳利で、猪口ではなく普通の湯呑で頼む、あぁ、あと酒は十分熱くして呉れ頼む。」
主人「ヘイ、ご出家様、畏まりました。」
と、そんなやり取りが有り、亀五郎が暫く待つと、二合の大徳利と湯呑が運ばれて来ます。
さて、亀五郎、相変わらず右手は懐中に突っ込んだまんま、左手一つで湯呑に、酒を注ぎ、又、左手で湯呑を口へと運びます。
すると、其処へ一人の岡っ引きが、立場茶屋へと走り込んで来ます。此の男、南町与力、高梨斬九郎の配下の手下で、勘次と申す者で、
何やら御用の筋で、此の戸塚界隈へ調べて廻り、昼食の弁当を使う為、偶然、飛び込んだ茶屋で、亀五郎と出逢う事に成るのです。
勘次「大将!済まないが、弁当を使わせて呉れ。茶代は払うから、其処へ座って構わねぇ〜かい?!」
主人「ハイ、親分さん。どうぞお使い下さい。直ぐに、お茶をお持ち致します。」
さて、そう言って岡っ引きの勘次は、亀五郎の床几の斜め後ろに座りまして、手持ちの弁当を広げて、茶を頂きながら、是を食べて居りますと、
前に座っている僧侶が、実に、身なりは立派な癖して、右手を懐中に突っ込んだまんま、左手一つで手酌酒を呑んで居るのが目に止まります。
何て不精者の生臭坊主め?あの様に人品の良い衣装(ナリ)ならば、普通は精進物を持参して、茶を啜るのが僧侶たる者なのに…、不思議な奴!と、思います。
更に、膳部が運ばれて、筍と鰯の煮物が丼鉢に盛られ、香の物、飯と味噌汁が出されても、この僧侶は、一向に右手を使おうとは致しません。
流石に、怪しい奴?と、勘次の職業的な勘が働いて、更に観察眼を鋭くして、この僧侶を観ておりますと、箸の代わりに匙が欲しいと言い出して、左手一本で食事を致します。
さあ、此れは打っちゃっては置けない。犯罪の臭いをプンプンと感じました勘次は、不躾では御座いますが、いきなり声を掛ける事に致します。
勘次「ちょいと、御免なさい!ご出家。貴方様は、右手をどうか、なさいましたか?随分とご不自由なご様子なので…。」
亀五郎「エッ!何でぇ〜?!」
と、いきなり後ろからの声掛けに、匙を置いて振り向いた亀五郎の目に、後ろで弁当を使っている勘次の姿が飛び込んで来ましたが、
その腰には、黒い房の付いた十手も同時に、飛び込んで来ましたから『仕舞った!こいつは、飛んでもない野郎の目に止まった!!』と、心に呟き狼狽の色に変わります。
勘次「ヤイ!坊さん、その右手を懐中から出して見せやがれ?!」
亀五郎「無礼者!余計なお世話だ。貴様如き岡っ引きに指図される筋合いは無い。支配違いだぞ、町方。予は僧侶である、町方の指図など受けぬ。」
勘次「言うねぇ〜、坊主は寺社方と言い張る積もりだろうが、偽坊主の盗っ人は、其の限りじゃねぇ〜。右手は斬られて付いて無かろう?」
亀五郎「なっ何を言う!町方風情が…、無礼であるぞ。」
勘次「そんなら力付くだ!偽坊主。」
そう言うと、勘次は亀五郎が懐中に隠した右手を掴み引っ張り出すと、案の定、手首から先は鋭い刀で斬り落とされて、有りません。
勘次「どうだ!やっぱり、京橋桶川町の鍛冶屋、吉兵衛宅へ家尻切りで押し入り損ねた、盗賊の片割れだなぁ?!神妙にしやがれぇ、御用だ!!」
そう言うと、勘次は亀五郎を高手小手に縛り上げて、戸塚の問屋場へとしょっ引きます。そして、直ぐに唐丸籠を用意すると、亀五郎を南町奉行所へ移送し、
吟味与力の高梨斬九郎へと身柄を引き渡すのです。さぁ、是を受けた斬九郎、亀五郎も中々口を割りませんから、水責め、石責め、火責め、そして瓢箪責め。
凡ゆる拷問を駆使して、亀五郎を取り調べますと、いよいよ、亀五郎、包み隠す事が出来なくなり、鍛冶屋吉兵衛への押し込みを認めます。
rolling stone
坂道を転げ落ちる石の如く、亀五郎は、全てを白状し、『俺なんか!小物の雑魚だ。どうせ捕まえるんなら、俺達の親分、藪原検校と仙臺屋輿兵衛を捕まえないと…。』
こう白状した亀五郎は、杉の市から藪原検校と、元々自分達の親分で、盗賊の親玉だった仙臺屋輿兵衛の悪事を、知り得る限りをぶちまけます。
さぁ、吟味与力、高梨斬九郎からの報告を受けました大岡越前守忠相は、直ちに杉の市の、藪原検校一味召し捕りの下知を飛ばしまして、
是又、越前守の右腕で御座います、探索方与力、白石治右衛門に命じまして、実に二十四人もの捕方を、藪原検校屋鋪へと差し向けます。
そして、杉の市の藪原検校をはじめ、番頭の彦次、女中頭のお虎、更に女中として召し抱えられていた元遊女を三人、そして盲目の弟子七人の合計十三人を捕縛致します。
併し、この大捕物の最中、悪運の強い仙臺屋輿兵衛は、近所に在る髪結床『碇床』で、髷を直して髭を当たった後、床屋で将棋に興じていた為、召し捕りを免れます。
ただし、当然、江戸から出る街道に通じる四宿は勿論、各町内の木戸番にも、仙臺屋輿兵衛の人相書が出回り、非常線が張られますから、輿兵衛は矢鱈とは出歩けません。
そこで、輿兵衛は仕方なく、仙臺屋から暖簾分けして、亀戸神社近くに荒物屋の店を構える、忠次という元子分の元に、逃げ伸びます。
輿兵衛「忠次、済まないが、暫くの間、俺を匿って呉れ!頼む。」
忠次「親分!どうなさいました?そんなに血相変えて、何が有ったんです?!」
輿兵衛「面目無ぇ〜、恐らく、カクカクしかじか、亀五郎の野郎が、ドジ踏みやがって御用になり、悪事が露見したに相違ない。」
忠次「兎に角、二階の空き部屋をお使い下さい。相手は南町の大岡様だ、外へは出ない様にして下さいね、お願いします。」
そう言って、元子分の忠次の、亀戸の店の二階に匿われた仙臺屋輿兵衛。半月ほど大人しくしている間に、忠次の口から、やはり亀五郎が召し捕られ、
藪原検校一味、仙臺屋輿兵衛一味の悪事は、全て、大岡越前守に知れていて、藪原検校以下十三人が捕縛されて、受牢の上、吟味中と聴かされる。
輿兵衛「忠次、事の次第は全て判った。そこで、お前さんに折り入って一つ頼みが有る。俺の願いを聴いちゃ呉れないか?」
忠次「何んですか?親分。」
輿兵衛「お前さん、日本橋横山町の藪原検校の屋敷へ行っちゃ呉れないか?!」
忠次「なっ、なッ、な何を言い出すんです親分。気は確かですか?厭ですよ、飛んでも無い。馬鹿も休み休み言って下さい。
いいですか?私は今は堅気(カタギ)をして居るから、親分を匿っていても、奉行所の上役人や岡っ引きが訪ねて来ないんです。
それを此方から『仙臺屋輿兵衛の使いの者です。』て、藪原検校を訪ねたら、そりゃぁ〜もう、お召し捕り下さいと、名乗り出る様なモンだ。だから厭です。」
輿兵衛「だから、違うんだ。そんな昼間にのこのこ横山町へ行けとは言わん。夜中に取りに行って貰いたい物が在るんだ!忠次。」
忠次「夜中に、取りに行く?何ですか?詳しくお聴かせ下さい。」
輿兵衛「実は、藪原検校の屋鋪と、北側の隣家の間には、塀伝に土蔵が三つ建っている。其の真ん中の土蔵と塀の間に、敷石がして有るんだが、
其の敷石の、土蔵の方から三番目、三番目の敷石を除くと、其の土の下に、二尺半ばかり掘ると、大きさ四半分荷入り位の壷が埋めてあるんだ。
其れは、俺が万一の場合に備えて埋めてある隠し金の五百両だ。其れを掘り出して来て欲しい。若し、掘り出して呉れたら、汝に二百両は呉れてやる。」
忠次「本当ですか?!合点です。」
と、忠次は喜び勇んで、其の日の深夜、丑刻過ぎに、藪原検校屋鋪から、四半分荷入り位の壷を掘り出し帰って参ります。
そして、二百両は手間として忠次に渡した、仙臺屋輿兵衛は、残り三百両を胴巻に入れて、江戸表を、千住から出まして、房州の街道筋を北へと旅して、下総國は結城宿へと参ります。
結城城下は、一万八千石の小大名だが、徳川家康以来の譜代であり、水野日向守の御陵地として、幕末まで続く由緒ある土地柄である。
だから、当然、関八州の役人の目が能く光り、仙臺屋輿兵衛の手配書・人相書が、数多く出廻り、それにより、輿兵衛は直ぐに召し捕られます。
さて、唐丸籠に乗せられて、江戸表へと移送された仙臺屋輿兵衛は、直ぐ様、南町奉行所の牢屋へと送られて、大岡越前守の直接吟味を受ける事に成ります。
併し、ここで吟味段階で、大きな問題が浮上します。其れは、右手首を斬り落とされた亀五郎が、全ての悪事を白状し、その事実を突き付けたにも関わらず、
杉の市の二代藪原検校は、まさか実の叔父が、初代藪原検校以下二十人を斬殺したとは知らないし、その叔父がお泥棒の押し込み強盗とは、毛程も気付いて居なかったと主張し、
ただ、盲人が一人で管理できる座頭金の規模ではないから、身内の叔父に助成を依頼して、番頭の彦次共々、一緒に座頭金の仕事をやっていただけだと、白を切り通します。
一方、仙臺屋輿兵衛はと見てやれば、初代藪原検校以下二十人の殺人は勿論認めないばかりか、亀五郎が白状した数々の盗賊事件に関しても、身に覚えが無いと言い張り、
番頭の彦次と、戸塚宿で捕まった亀五郎が、京橋桶川町の鍛冶屋吉兵衛に家尻切りして、押し入ろうとした事件も、全く知らなかった。二人が勝手にした事だと主張します。
吟味を担当した高梨斬九郎は、藪原検校の杉の市には、寺社方の手前もあり拷問は控えていますが、輿兵衛に対しては厳しい拷問を加えましたが、全く白状する気配は御座いません。
些か手詰まりと成った南町奉行、大岡越前守忠相は、実の叔父から、七十五両を恵まれたと言う一件で、奉行所内の牢に留置しているお登勢の事を思い出します。
まず、お登勢に仙臺屋輿兵衛を面通しさせますと、お登勢は声と背格好は、七十五両を恵んで呉れた戸澤と書かれた笹竜胆の家紋入りの馬提灯の侍に似ていると証言します。
併し、恵んで呉れた侍の顔は、山岡頭巾で隠れていて、一切見ていないので確実に同一人物かは断言できないと、正直に、大岡越前守には答えます。
其れでも、越前守は、若し、仙臺屋輿兵衛が、お登勢が言うように、お登勢の実の叔父ならば、お登勢には、一つ歳上の兄などは存在せず、
即ち、仙臺屋と杉の市が実の叔父甥だと言う噺は嘘に成ります。大岡越前守は、此の嘘を突破口に、杉の市と仙臺屋を追い詰め様と考えます。
そして、お登勢と仙臺屋輿兵衛が、実の叔父姪である事を決定付ける為には、まず、お登勢の父である戸澤三吾を探しだして、戸澤三吾に仙臺屋輿兵衛を引き逢わせる事。
更には、お登勢が話した、十年程前に、江戸表は音羽の櫻木町で、備前屋喜兵衛と名乗っていた人物が、現在の仙臺屋輿兵衛と同一人物である事の裏付けも同時に進めます。
さて、戸澤三吾が、浅草福井町の長屋を引き払って、全国武者修行は、奥州白河での修行を終えて、一旦、江戸表へと帰参致します。
三吾が江戸を離れて九、十ヶ月が経ち、お登勢の書置きにより、藪原検校の下女から、罠に嵌められて、泥棒の濡れ衣を着せられ恥辱を受けた事を知ります。
由えに、武士の娘らしく死んで父上にお詫びしますと言う娘は、両國橋から身投げしたと確信し、世話に成った大工の棟梁助五郎だけに、
日本全国六十余州を武者修行に出ると書き証て旅に出て、いずれは機が熟したら、娘の仇討ちをと、助五郎には覚悟を伝えて御座いました。
そして、娘が身投げして一年が経つ前に、娘の供養をしてやらねばと、遺骨の有無には拘らず、娘の位牌を持って、備前岡山へ菩提所へ向かう決意で江戸に戻るのでした。
やって来たのは、浅草福井町の大工の棟梁、助五郎の家で御座います。
三吾「御免下さい。棟梁の助五郎殿は、ご在宅でしょうか?!」
取次「ヘイ、居りますが、どちら様ですか?」
三吾「拙者、一年程前まで同町内に住み、柳原土手で易者をしていた、戸澤三吾と申す者。一年ぶりに江戸表へ帰参し、助五郎殿にご挨拶に上がりました。」
取次「其れは態々、ご苦労様です。直ぐにお呼び致しますので、此方でお待ち下さい。」
取次の若衆に案内されて、玄関から上がってすぐの客間で待っていると、助五郎は、直ぐに奥から現れて、顔を見るなり大変驚いた様子で、話し始めた。
助五郎「戸澤の旦那!お元気でしたか?!」
三吾「ハイ、挨拶も無しに、置手紙して出立したご無礼、お許し下さい。」
助五郎「一体全体、何が有ったんですか?」
三吾「実は…。」
と、戸澤三吾は、一年前に起こった、藪原検校と其の番頭、彦次が、お登勢を外妾に囲いたいと言い出して、一悶着起こった事件のあらましから、
更には、逆恨みした検校の手先のお虎が、三吾の留守中に、銭湯にて、置引き強盗の濡れ衣をお登勢に着せて、長屋の連中を巻き込み辱めた事。
そして、お登勢は其の恥辱に堪え兼ねて、父である三吾に顔向けできない、戸澤家の恥だ!と、言って両國橋から身投げして亡くなったハズだと訴える。
併し、
この噺を全て聴いた助五郎の方が、今度は、もっと驚きまして、此のお登勢の身投げと、その事の顛末を、戸澤三吾に話して聴かせるのです。
助五郎「旦那、驚かないで聴いて下さい。実は、娘さん、お登勢ちゃんは死んではいません。偶々、屋形船で両國橋を通り掛かった、
伊勢屋亀四郎って旦那に助けられて、今も元気に暮らしてるハズです。八丁堀の岡崎町で小間物屋を営んでいる大したお方だから、どうか?安心して下さい。
助けた直後に、其の亀四郎さんとはアッシも会いましたし、其の後、三月ばかりしてから、すっかり元気に成ったお登勢ちゃんにも、アッシは会いました。
戸澤の旦那が武者修行から戻る迄は、伊勢屋の旦那を義理の父親だと思って親孝行して、旦那の帰りを待っているから、旦那が戻って来たら、知らせて呉れッて頼まれてんだ。」
三吾「本当ですか?!助五郎殿。登勢は、娘は生きて居たんですか?!」
助五郎「あぁ、本当だ。まぁ、アッシは半年ばかり前に会ったきりだけと、八丁堀の岡崎町へ行ってご覧よ。伊勢屋さんに居るハズだから…。」
さあ、大工の棟梁、助五郎にそう聴かされた戸澤三吾は、もう、居ても立っても居られません、助五郎に礼を言うと、八丁堀岡崎町へすっ飛んで行きます。
ところが、伊勢屋は二月ばかり前に潰れて離散したと謂われて、三吾は又々驚きます。そして、亀四郎と娘さんは、京橋五郎兵衛町の長屋に居ると、元奉公人から聴かされます。
さぁ、そして京橋は五郎兵衛町の長屋に来てみると、伊勢屋亀四郎は、寝た切りで床が上がらず伏せって居て、弱々しい声がやっと出せる有様。
絞り出すような声で、カクカクしかじか、七十五両の施しの銭が元で、十日程前にしょっ引かれ、南町奉行所の牢屋に居ると聴かされるのです。
是を知った戸澤三吾。直ぐに助五郎の元に帰ると、仔細を話して、町役と岡っ引きの親分を紹介して貰い、自ら願書を認めて、南町奉行所へ訴え出ます。
病床の亀四郎が言うには、登勢に七十五両を恵んだ相手は、三吾の実弟、輿兵衛に違いない。だから、武士の娘の登勢が、そんな大金を受け取ったに違いない。
身内が身内を助けた金子だと証明すれば、奉行所に兎や角言われ、罰を受ける筋じゃないと思いますから、戸澤三吾、自ら娘の無実を晴らさん!と、致します。
こうして、大工の棟梁、助五郎が付き添いまして、町役人五人組と、南町同心の手下で岡っ引きの権六親分の口利きで、戸澤三吾が南町奉行所へ訴え出ます。
一方、此の噺を聴いた南町奉行、大岡越前守忠相も、是は渡りに船の好都合!直ぐに、お白洲を開いて吟味となり、牢屋からお登勢と輿兵衛が召し出されます。
蹲いの同心が二名、居る白洲に、其々が牢屋から引き出された、お登勢と仙臺屋輿兵衛。輿兵衛は、アッ!あの時、観音様の近くで会った姪子だ。
と、は思いましたが、強いて平静を装い目を合わせない様に、正面を睨んで正座して居ります。其処へ、吟味与力、高梨斬九郎と書記の同心が着席致します。
そして、蹲い同心のシーっと言う静寂を促す、慶秩の声がして、正面の唐紙がサッと開くと、麻裃に袴姿の、南町奉行、大岡越前守忠相が登場致します。
越前守「一同の者、面を上げ。本日は、京橋五郎兵衛町、紳助長屋に住む、伊勢屋亀四郎の娘、登勢。この登勢が隠し持って居た金子七十五両の出所について吟味を致す。
さて、お登勢。その方が、大枚七十五両もの金子を恵まれた武家とは、そこに居る仙臺屋輿兵衛ではないのか?有体に、申してみよ。」
お登勢「ハイ、お奉行様、其の侍程の御仁は、山岡頭巾を被り、目の周りだけ出していて、夜の事由えに、此のお方とは判断致しかねます。」
越前守「相分かった。では、仙臺屋輿兵衛、その方、十日程前に、浅草浅草寺の裏通りを、黒縮緬の無紋の羽織を着し、小倉の袴に大小刀二本を手挟んで、
雪避けの高足の下駄を履きながら、片手に茶色の大きめな蛇目、もう片方には馬提灯を下げて通っては居らぬか?提灯には笹竜胆の家紋と『戸澤』と記してあったのだが、如何である?」
輿兵衛「ハァ?私は商人なれば、その様な格好は致しません。」
越前守「しかし、二十数年前までは、武士だったはず。杉の市、二代藪原検校の叔父で、元は岡山藩の家臣だったと覚えて居るが、違うのか?」
輿兵衛「違いませんが、既に、私は町人に成って二十数年経ちます。確かに大小は箪笥の奥には御座いましょうが、今は箪笥の肥しです。」
越前守「左様かぁ、ならば、どうあっても、戸澤輿兵衛ではないと言い張るのだなぁ?!」
輿兵衛「ハイ、違います。」
越前守「ならば、この御仁と対面しても、輿兵衛!お主は、違うと言い張るか?!さぁ〜、証人を之れへぇ!!」
南町奉行、大岡越前守忠相の声に呼び込まれ、証人として、お登勢の父親、戸澤三吾がお白洲へと歩み寄ります。
そして、二十数年の時を越えて、元備前岡山藩の兄弟が再会を果たし、お江戸の南町のお白洲で、対峙する事に成ります。
三吾「オッ…、お前は輿兵衛ではないかぁ!?」
輿兵衛「オヤッ!兄上ですか?!」
全く知らされずにお白洲の上で、突然のご対面。互いになぜ?相手がココに居るのか?疑心暗鬼と狼狽が隠せません。
互いに暫しの無言が続きましたが、漸く、兄の三吾の方が奉行、大岡越前守に向かって、口を開きます。
三吾「恐れながら、お奉行様に申し上げます。今、此のお白洲に引き出されし娘。京橋五郎兵衛町の伊勢屋亀四郎殿の娘子、お登勢さんですが、
実は、このお登勢さんは、私の実の娘であり、日本橋横山町の藪原検校に目を付けられて、番頭の彦次とか申す輩を名代に差し向けて、外妾として囲いたいと、言い寄られました。
勿論、拙者もお登勢も、武士の娘にその様な下劣極まりない所業はさせられぬと、追い返そうと致しましたら、金銭を恵むだの、月々のお手当も十分払うと、恥を上塗り致します。
余りに武士を愚弄致す言動を、其の彦次が吐きます由え、盲人の頂点に立つ検校ならばと、説教じみた言葉で人の道を説いて聴かせたら、逆上して匕首を抜き斬り掛かって参ります。
結局、降り掛かる火の粉は払うしかなく、些か、腕に覚えも御座いますから、柔術の技で投げ飛ばし、懲らしめてやると、今度は逆恨みされた様子で、拙者の留守に娘が罠に嵌められて、
金子を置き引きしたと濡れ衣を着せられて、長屋の隣家の仲の良いご婦人達の面前で、激しい折檻を受け、眉間を割られ、左目の上を抉られて、あの様な酷い傷物にされて仕舞います。
そして、娘のお登勢は、家名にキズを付ける程の恥辱に耐えられず、両国橋から身投げし、自害しようと致しますが、偶々、船で通り掛かった伊勢屋亀四郎殿に一命を拾われて、
現在は、其の亀四郎殿の方が病の床に伏せって御座いますから、亀四郎殿を義父と慕い、親孝行の真似事と、お登勢は独り、健気に看病して面倒を診ているので御座います。
そんな暮らしですから、何んとか袖乞いをして、其の日の日銭を稼いでいたお登勢は、偶々、笹竜胆に『戸澤』の馬提灯の武家と出逢い、その御仁から七十五両を手にします。
ヤイ!輿兵衛。お登勢は、紛れもなく貴様の実の姪。拙者の娘ぞ。其れでも、七十五両は知らぬと、まだ、言い張る積もりか?そして、貴様も、お登勢を身投げに追い込んだ一味か?
若し、貴様が、子分の逆恨みに加担して、湯屋の置引きと、娘の顔に傷を付けさせた、黒幕ならば、此の兄が、お前を許さんからなぁ〜。今すぐ、尋常に勝負を致せ!この外道。」
輿兵衛「兄貴、拙者とて腐っても鯛。武士の端くれに御座る。卑怯な計略の絵図を描いて、姪子である嫁入り前の登勢を、傷物にするような所業は誓って致しません。
そして、お奉行様、あの日観音様の裏手で、登勢が出逢いし山岡頭巾の武士は、拙者に間違い御座いません。余りに不憫な身の上を聴いて、七十五両を渡しました。
あぁ、其れにしても、登勢が左様な次第が御座ったとは…、一つ屋根の下、杉の市、彦次と一緒に暮らしてるのに、知らなんだ自分が恥ずかしゅう御座います、兄上!
因果応報
お奉行様、人は悪い事をやり続け、上手く逃げ切れたつもりで居ても、天網恢恢疎にして漏らさず、いつかはバチが当たるもんで御座います。
白状致します。私はあの杉の市、二代藪原検校とは血縁などではなく、赤の他人で御座います。そして、其の杉の市に頼まれて、初代藪原検校以外二十人を殺害しました。」
そう言うと、仙臺屋輿兵衛、こと戸澤輿兵衛は、杉の市が師匠藪原検校の金子二百両を盗み破門に成った後の出逢いから、初代藪原検校の身代乗取りに至る迄を全部白状します。
そうなりますと、この白洲へ、杉の市の藪原検校、番頭の彦次、更には、女中頭のお虎の三人が牢屋から引き出されて、吟味に加えられます。
越前守「こりゃぁ、藪原検校!いや、杉の市。仙臺屋輿兵衛が、悪事の全てを認めて、今、この白洲で白状致した。最早、逃れられぬぞ!貴様も、有り体に白状致せ。」
杉の市「誰が何を喋りましょうと、私は盲人由え、一切、感知致しません。」
輿兵衛「ヤイ、ド盲人(めくら)、杉の市!!」
杉の市「ハイ?!」
輿兵衛「俺だよぉ、声で判らぬか?!」
杉の市「其の声は、叔父上様。」
輿兵衛「もう、芝居はいい。俺は全てをお奉行様に白状した。貴様も、最後は一切を正直に申し上げろ。悪党は往生際が良くないと、末代までの恥になる。」
杉の市「いやぁ〜、何を申されますやら…一向に見知らぬ事を。」
輿兵衛「駄目だ!駄目だ!杉の市。仙臺屋輿兵衛が、全ての悪事を白状致した後の祭だ。拙者の兄、三吾と、娘の登勢もこの白洲に居る。」
杉の市「本当か?!彦次、お虎。」
彦次・お虎「誠で御座います。」
と、言うと、彦次もお虎も、戸澤三吾、お登勢とは、目を合わせる事が憚られるのか、終始、下を俯いて神妙にしております。
輿兵衛「俺は、さっき、白洲で知ったが、杉の市、貴様は私の姪、登勢を外姪に囲おうとして、兄貴と登勢が拒むのを逆恨みして、
其処に居るお虎婆さんを使って、嫁入前の登勢の面体に、大きな傷を拵えて呉れたそうだなぁ!俺が若し早く知っていたなら、貴様とお虎を重ねて四つに斬り殺していたぜ!ッたく。」
杉の市「黙れ!下郎の意気地無しめ。余計な事を謡いやがって…、糞ッタレ。バレたなら仕方ない。ヤイ、奉行。名奉行が聴いて呆れるぜぇ。
人の四相を見たならピタリと当てる。天下随一の人相見とか言う割には、俺の本性は見抜け無かったなぁ。
先代の藪原の師匠を殺して身代を奪えたのも、半分は奉行!お前の助けが有ったからたぞ、ベラ棒めぇ。」
と、杉の市の藪原検校が、悪口を突いて啖呵を切ると、白洲の脇から、二人の若侍が飛び出して、杉の市に向かって語り始めます。
若侍A「私達に、見覚えが在るであろう?」
若侍B「知らぬとは言わせんぞ、検校。」
言われた藪原検校の杉の市は、二人の顔を、マジマジと見て、「貴様達は?!権十郎と、伊織ではないかぁ?!何故、お前達が、この白洲に居る?!」と、杉の市は言った。
権十郎「その通り、実は俺たちは、お奉行の指図で、一年も前から盲人のフリをして、貴様に弟子入りして、検校屋鋪の悪事の内定を進めていたんだ。」
伊織「お奉行はなぁ!杉の市、貴様が検校になり、外に妾を囲い、屋敷内にも、女中と称して遊女を引き入れている事など、とっくの昔にお見通しだ!観念しやがれぇ。」
さぁ、この両人の潜入捜査が、最後の決め手となり、杉の市の藪原検校も、全ての罪を認めます。そして、この白洲で一件落着となり、悪党共は一旦、牢屋に戻され、お登勢は解き放ちと成りました。
こうして、主人先代藪原検校殺しの罪で、杉の市は南町奉行、大岡越前守より、寺社奉行へと告発されて、斬首となります。
また、仙臺屋輿兵衛と、彦次、並びに、亀五郎の三名は、市中曳き廻しの上に、磔獄門。千住小塚原で処刑の上、首は十日間晒されます。
尚、お虎と佐吉は、共に百叩きの刑で、江戸所払いとされました。
一方、戸澤三吾は、お登勢を亀四郎に預けて、舎弟である輿兵衛の菩提を葬いつつ、骨を備前岡山に葬った後は、再び、日本全国を修行の旅に出ます。
そして、亀四郎はお登勢の介護により全快し、奉行より払い下げされた、七十五両を元に、また、八丁堀岡崎町で、小間物屋渡世を再開します。
更には、店が軌道に乗ると、神田鍛冶屋町の三河屋という、小間物屋の次男を、お登勢の婿養子に迎え、二代伊勢屋亀四郎を名乗らせて、身代は元の一万両を回復させます。
『陰徳あれば、陽報あり』の喩えの如く、親孝行と、他人様への親切を忘れずに生きた者は、必ず、最後は報われるのです。
完