お登勢が両國橋で身投げをして、其れを八丁堀の岡崎町で小間物屋を営む、伊勢屋亀四郎に助けられて、早一月が過ぎました。

漸く、お登勢は床を離れて、食事も普通に取れる様になり、お虎に受けた傷も癒えて、身投げの後遺症も治りました。

すると亀四郎の口から、父、戸澤三吾は、浅草福井町の家を全部引き払って、日本全国六十余州を武者修行の旅に出たと知らされます。

兎に角、いずれは父が江戸に戻ると信じて、八丁堀の伊勢屋の店で、お登勢は、亀四郎を義理の父と思って暮らす事に致します。

さて、このお登勢。本当に幸が薄い女で御座いまして、伊勢屋亀四郎に引き取られて、半年が過ぎた頃、今度は亀四郎が流行り病で寝込んで仕舞います。

当然、命の恩人、亀四郎が病とあって、お登勢は付きッ切りで看病を致しますが、亀四郎の容態は一向に良く成りません。それどころか日に日に、悪く成るばかりどす。

そんな折、伊勢屋の番頭、利兵衛が亀四郎が床に伏せった事を宜い事に、白鼠から黒鼠へと変身し、悪の本性を表します。

是までも、問屋筋からのリベートのキックバックや、空増しの注文などで、亀四郎には内緒の裏金を造り、外妾を囲い、陰で贅沢三昧をしていたが、

遂に、伊勢屋の身代を根刮ぎ奪う算段を仕掛けます。其の方法は、問屋筋に一斉に大量の注文を掛けて、品物は同業他社に安値で全て転売するのです。

この番頭利兵衛の策略で、亀四郎が病に掛かった半年後には、問屋筋から一斉に仕入れの支払い請求が掛かりますが、伊勢屋の現金は全て、利兵衛に持ち逃げされていて、

とうとう、伊勢屋は、店の土地建物と店の在庫、及び、掛け売りしていた得意先の借用書・手形の一切を差押されて、

奉公人全員には暇を出し、亀四郎とお登勢も僅かな金子を持ち、着の身着のまま、裸同然で放り出されて仕舞います。

病人である亀四郎を抱えてお登勢は、亀四郎の古い友人から、京橋五郎兵衛町の長屋を紹介されますが、亀四郎の薬と当座の食料を買うと僅かな金子は底を尽きます。

併し、そこは貧乏長屋の近所付き合いに助けられて、味噌・醤油・米の貸し借りで、何んとか三ヶ月程は食い繋ぎますが、年末を迎えていよいよ困窮を極めます。

すると、このお登勢と亀四郎の現状に見兼ねた、隣家の世話焼き婆さん、お梅が、お登勢の元へとやって来て、助け船を向けて呉れるのですが

お梅「お登勢さん!居ますか?」

お登勢「ハイ、アラ、之れは之れはお梅さん。何んの御用でしょうか?」

お梅「いえねぇ、病気のお父っあんの具合はどうだい?」

お登勢「ハイ、相変わらずで。良い医者に診せて、良い薬を飲ませてやれば、少しは良くなるとは思いますが、妾の甲斐性では、其れも叶いません。」

お梅「そうかい。其れでねぇ。物は相談だが、お登勢さん。汝さん、外妾に成る気はないかい?お前さん程の器量なら、武家の娘さんだし、

月に二両、三両のお手当を下さる、武家の殿様や、大店の旦那は幾らでも、お世話する事は、出来るんだよぉ。アタイが、決して悪い様にはしないから、

今の内職みたいな、売卜や針仕事だけでは、病人を抱えて、食うにも困る有様でしょう?決して、悪い様にはしないから、囲われ者にならないかい?」

お登勢「折角のお話ですが、妾は囲われ者に成る、成らないが原因で、大川へ身投げして、死ぬ思いをした所を、今の義父に助けられて生きております。

だから、其の義父を看病する為とは言え、外妾に成ったのでは、義父は勿論、六十余州を武者修行中の実の父に対しても、申し訳が立ちません。」

お梅「そうかい。無理するんじゃないよ、お登勢ちゃん。アタイに出来る事なら相談に乗るから、何でも噺して、頂戴よ!宜いねぇ?!」

お登勢「態々、有難う御座います。お梅さん。」

と、そんなやり取りを、長屋のご近所のお梅婆さんと、有ったりもしますから、お登勢は、亀四郎の治療と、二人分の食い扶持を得る為に、

年末の筑波颪が吹き荒れる中、毎日、浅草の観音様へと出向いて、人品の良い中年、老人に目を付けては、袖乞いをして、百文ばかりの銭を稼ぎ始めます。

勿論、義父の亀四郎には、浅草へ袖乞いに出掛けるなどゝは言えないので、表向きは、病の回復を願っての願掛けを、三七・二十一日間、観音様へのお詣りと称しております。


今日も、今日とて僅かばかりの日銭稼ぎに、袖乞いをと、浅草浅草寺の裏通りで、目に付いた裕福そうな年寄りに『病の父親を抱えて難渋して居ります、お恵みを!』

と、声を掛けては二十文、三十文とお恵みを頂戴しているお登勢。真昼間からは恥ずかしいのか?物乞い出来ないので、夕刻暮六ツ過ぎから始めます。

そして、浅草見付から、馬路へと差し掛かる通り路で、やや遠くの方から歩いて来る、すこぶる人品の宜しい侍が、お登勢の目に止まります。さて其の出立ちはと見てやれば、

山岡頭巾を以って、其の面上を隠し、黒縮緬の無紋の羽織を着て、硬い折目の小倉の袴に、立派な大小刀二本を差しこなし、白足袋の上から高足の下駄を履いて居ります。

また其の侍は、片手に茶色の大きめな蛇目を持ち、もう片方には馬提灯を下げて、足元に積もった雪を踏み分けながら、サクサク!サクサク!音を立てゝ歩いて参ります。

お登勢は、其の侍の下げている馬提灯に目をやりますと、表には笹竜胆(ささりんどう)の紋で、裏には『戸澤』の文字を見付けます。


笹竜胆に『戸澤』の家名


そうです。笹竜胆は自分の家の紋に違いなく、では?!このお侍様は、頭巾で顔を隠してはいるけれど、自分の父、三吾なのか?!併し、背格好は父よりやや大きい。

そう、思ったお登勢、もう居ても立っても居られずに、其の山岡頭巾をした侍の前に飛び出し、立ち止まって、侍の顔をジッと見詰めます。

侍「何んであるかなぁ?娘さん。」

お登勢「お侍様、大変失礼な事を伺うかも知れませんが、ご無礼を承知で、お聴き届け下さい。貴方様は、元、備前國は岡山藩の方では御座いませんか?!」

その侍は、お登勢の言葉に、明らかに狼狽を覚えて、山岡頭巾の奥の目が泳いだ。そして、じっと睨む様に、お登勢の顔を睨む様に見た。

どうやら、お登勢の顔に見覚えが有るか?必死に思い出しているが、見覚えが無いので、狼狽したに違いない。ならば、決して父・三吾ではない。

お登勢「妾は、備前岡山藩の、戸澤三吾の娘で、登勢と申します。妾の紋も、其の馬提灯同様で、笹竜胆で御座います。

さすれば、貴方様は、私の父、三吾の御舎弟、備前國は岡山藩浪人、戸澤輿兵衛様、妾の叔父上様では御座いませんか?!

叔父上が十年も昔に、江戸は音羽の櫻木町で、備前屋喜兵衛と名乗り、萬雑貨、荒物屋を営んで町人をなさッて居ると言うのを頼りに、

二年半に父、三吾と此の江戸に参りました。父、三吾とは今は由え有って、別々に暮らして居りますが、大病をして寝たきりの養父を抱えて難渋を致して折り、

叔父上様なれば、自身の恥を、正直に噺ますが、女手一つで、老いた病人を抱えて難渋の余り、此の観音様の側で物乞いをして命を繋いで居る始末です。」

侍「イヤっ、拙者は確かに岡山藩に縁故の有る者で、『戸澤』と言う姓に違いないが、輿兵衛などゝ申す御仁ではない。人違いじゃぁ。

拙者は、天下の直参、旗本は戸澤丹後守様の家臣である。併し、だなぁ、袖振り合うも多少の縁、躓く石も縁の端くれと言う。

汝の身の上噺には、拙者、大いに同情致した。由えに、些少では有るが、手持ちの小銭を帛紗に包み恵んでやる!持ち帰りなさい。

残念ながら拙者は、輿兵衛と申す汝の叔父子では御座らぬが、また若し縁が有れば再び会う機会も御座ろう!では、御免。」

そう言うと、山岡頭巾の快男児は、紫の帛紗包みを、お登勢の手にしっかりと握らせて、その場から去って仕舞った。

お登勢は、その帛紗を懐中に仕舞うと、今の御仁は叔父上、輿兵衛様に違いないと思いながら、京橋五郎兵衛町の長屋へと帰り着きます。

そして、翌朝、昨日侍・快男児から恵んで貰った帛紗を開いて、ビックリ!致します。中には、小判と二分金、一分銀で七十五両。

さぁ、一気に金回りが好くなると、長屋の住人、大家、町役人から要らぬ詮索を受けるのが、江戸市中の掟ですから、

取り敢えず、バラ銭で十両くらいの金子を糧に、亀四郎の治療代以外は派手に使いませんから、結局、お登勢は良い旦那様を見付けて、外妾に囲われたに違いないと、噂が立ちます。


さて、此のお登勢と亀四郎が引っ越した京橋五郎兵衛町の長屋には、お登勢達の向かいの店(家)に、日雇いの人足、土方の佐吉が住んで居ります。

佐吉には、今年四十五になる母、お崎が御座いまして、母親との二人暮らし。佐吉は少し頭のネジが緩い、与太郎さんな男で御座います。

佐吉「オッ母さん!三月前に引っ越して来た、お向かいの親子、オッ母さんは、噺をした事があるかい?!」

お崎「挨拶くらいはするし、味噌・醤油の貸し借りはするから、噺も多少はするが、それがどうした?佐吉。」

佐吉「オッ母さん!、オッ母さんは、亀四郎さんにお似合いだよね?歳周りは丁度宜い塩梅だから、オッ母さん!亀四郎さんのお嫁さんに成りなぁ!!」

お崎「何を馬鹿な事を言うんだろうねぇ、此の子は。亀四郎の旦那は、今は落ちぶれた病人だけど、元は一万両の大身代、江戸でも五本の指に入る小間物屋の大旦那なんだよ。

昔は八丁堀の伊勢屋と言えば、アタイが十七、八の娘だった頃からの天下の大商人だよ。そんな旦那が、妾みたいな梅干し婆さんを後妻になんかするもんですかぁ!」

佐吉「其れでも、亀四郎の旦那のお嫁さんに成れよ、オッ母さん!お母さんが亀四郎の旦那と夫婦になれば、勢いでアタイもお登勢チャンをお嫁さんに出来るかも知れねぇ〜。」

お崎「何んだよ、アタイを出汁にして、お前がお登勢さんと夫婦に成る算段かい?呆れたよぉ〜、此の子は。」

そんな訳で、与太郎じみた土方の佐吉は、お登勢に岡惚れして、ぞっこんです。『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ!』で、与太郎なりに策を用います。

今日も今日とて、仕事を終えた佐吉は、饅頭なんぞを手土産に、相変わらず床に伏せって居る亀四郎を訪ねて、見舞いと称して家に上がります。

佐吉「今晩は?亀四郎さん!!」

亀四郎「ハイ、何んだ、お向かいのぉ、佐吉さん。今日は又、何か?!」

佐吉「いいえ、横丁の菓子屋を覗いたら、美味そうな饅頭を見付けたんで、買って来たんですよ、アレ?お登勢さんは?!」

亀四郎「お登勢は、田所町の薬師問屋まで、私の薬を買いに行っております。」

佐吉「そうですか?其れなら、勝手知ったる他人の家で、アタイが、お茶を入れましょう。」

亀四郎「そいつは、忝い。茶ッ葉は急須の中のヤツが、まだ、出ますから、長火鉢の鉄瓶のお湯で入れて下さい。」

佐吉「ハイ、畏まりました。亀四郎さんは、寝てゝ下さい。全部私がやりますから!」

そう返事をすると、小さな飯台を部屋の脇から出して来て、其処に饅頭を置くと、急須にお湯を入れ、湯呑みを二つ並べて茶を注ぎます。

佐吉は、床に寝ている亀四郎を、半身起こして座椅子に座らせて、飯台を脇まで移すと、饅頭を広げて、亀四郎に一つ薦めました。

薄皮で、上品な濾しアンの饅頭を、亀四郎は美味しそうに食べながら、佐吉が入れた、熱い茶を啜ります。

亀四郎「美味いよ、佐吉さん!いつも、親切にして呉れて、済まないねぇ。有難うよぉ。」

佐吉「何を言いなさる。隣人は相身互です。お母さんからも、そう言われていますから。」

亀四郎「そうかい!佐吉さんは、親孝行の良い御人だ。」

佐吉「さて、亀四郎さん、お登勢さんの分の饅頭が二つ余ったけど、之は何処に仕舞おうかねぇ〜。」

亀四郎「それなら、長火鉢の抽斗(ひきだし)に仕舞って於いてお呉れ。煎餅なんぞも入っているから、其れと一緒に仕舞って下さい。」

と、亀四郎は、長火鉢の抽斗に、饅頭を入れる様に佐吉に指図するのですが、実は、お登勢が叔父の輿兵衛らしい侍から貰った金子七十五両、

是を小分けにした十両を、小判五枚、二分金六個、そして一分銀(ガク)を八枚に両替し、それを、お手製の小さな信玄袋を拵えて仕舞い込み、

此の長火鉢の抽斗に入れて有ったのですが、其れを亀四郎は知りません。だから、佐吉は是を何だろう?と、開けてびっくり玉手箱!十両の金子を発見し、悪心が芽生えて仕舞います。

是だけの大金が有れば、大名の様な贅沢三昧の女郎買いが出来る!!何時もは三月、四月と小銭を貯めて、投げ無しの一両の銭を握り締めて行く女郎買い。

それが、十両もの大金を懐中に入れて行けば、正に、竜宮城の様なおもてなしに違いない。そう思った佐吉は、衝動を止められず、後先考えずに、信玄袋を掴んで、

亀四郎には、適当な理由を聴かせて於いて、一目散に、五郎兵衛町の長屋を飛び出すと、品川宿の女郎屋『黄金楼』へと駆け込んで、馴染みの小峰を呼んで居続けします。

さぁ、呼ばれた小峰は、黄金楼では香盤が端から八番目の年増で、お客の佐吉は馴染みではあるが、マブなんぞと呼べる粋な遊びは致しません。

兎に角、一両握り締めて、二分の基本料金と一分の玉代を払うと、酒も料理もシミっ垂れた金使いで、女郎に惚れられる要素は微塵も有りません。

そんな野郎が、やはり三ヶ月ぶりに来たかと思うと、矢鱈、金遣いが荒く、景気良く居続けてするから、佐吉が二泊した後の三日目に、小峰は恐ろしく成ります。

二年半からの常連で、佐吉はタチの悪い客では無いが、毎度、一両を使うのが関の山で、年に四、五回しか顔を出した試しがない。そんなシミっ垂れが三日居続けて、

既に、お直し!お直し!と、明朗会計で七両一分の銭を支払っているのだ?是は、きっと悪い盗んだ銭、泡銭を手に入れて、散財しているに違いない。

そう考えるのが、世の中の常識で、更に、三回目のお直し!を佐吉が言い出したもんだから、いよいよ、小峰は、丁場と相談して品川玄関(品川では番屋を玄関と呼ぶ)へと訴え出るのである。

さぁすると、品川定廻りへと玄関の岡っ引きが走りますから、三回目のお直し!を、小峰に告げた佐吉は、南町奉行所へと、しょっ引かれて参ります。

そして、南町奉行所の留置用の牢屋へと泊められて、其の身柄は、吟味与力、高梨斬九郎の手により、厳しいお取り調べと言う運びになりました。

さぁ、縄目を受けて留置牢に止め置かれた佐吉は、最初は金の出所は、両國橋で拾ったなどゝと、のらりくらり供述していたが、与力・高梨の厳しい拷問を受けても、最初(ハナ)は、

十両の銭を盗んだ自覚が御座いますから、口を割ったら死罪!確定だ、と百も承知です。だから、我慢に我慢を重ねますが、吟味役高梨の秘技!!

爪の皮剥がし、耳削ぎ!鼻削り!更には瞼を引き千切る!!この拷問責めを、牢内で見知りますと、自らが、味わう前に、怖気付いて全て白状する与太郎な佐吉で御座います。

盗んだ金子十両の在処は、長屋のお向かいの亀四郎の家の長火鉢の抽斗からだと、高梨斬九郎に、あっさり白状してしまいます。

さぁ、これを聴いた高梨斬九郎、岡っ引きを二人連れて、京橋五郎兵衛町の長屋へと出張りまして、亀四郎は床が離れず、どう見ても佐吉の十両とは無縁と分かりますから、

直ぐに娘のお登勢が、仔細を知るに違いないと確信して、その亀四郎の家で、お登勢の帰りを待ち、帰ったお登勢から事情を聴くと、アッサリと物乞いを浅草の観音様で行い、

人品の宜い武家から、七十五両の施しを受けた話を致します。更に、この武士は、恐らくは戸澤輿兵衛と言う自身の実の叔父君に違いない事まで白状し、残り六十数両を差し出します。

この神妙で、素直なお登勢の態度を見た、高梨斬九郎は、お登勢の申し立てに嘘は無いと思いましたが、この七十五両を恵んだと言う叔父、戸澤輿兵衛なる人物への疑念を抱きます。

また、お登勢も、信玄袋に小分けにした十両を盗まれた事には、前日の内に気付いていたので、

南町の与力、高梨斬九郎から佐吉が十両を盗んだと聴かされて、これは包み隠さず、全てを正直に喋った方が良い!と、感じたので御座います。

こうして、お登勢は、この恵まれた七十五両の件で、更に詳しい吟味を受ける事と成り、南町奉行所内に有る牢屋に勾留される事に相成ります。


さて、一方、お虎がお登勢を罠にハメて、玉川湯と言う湯屋で、置引き泥棒の濡れ衣を着せ、顔を鎖付きの南京錠で折檻し、眉間を割って恥辱を与えたら、

そのお登勢は、どうやら翌日、両國橋から身投げ自殺したらしく、その事を知った父親、戸澤三吾は、失意の内に江戸を逐電して仕舞ったと、杉の市の藪原検校は聴かされます。

暫くは、藪原検校も、戸澤三吾の復讐を警戒し、外出を控えておりましたが、半年も経つと、普通の生活に戻り、また、いよいよ、仙臺屋輿兵衛(戸澤輿兵衛)は、京橋通二丁目の荒物屋の店を手代の紳助に任せて、

自身は日本橋横山町二丁目の藪原検校の家へ転宅し、主に座頭金の貸付と、取立てを仕切りながら、番頭の彦次と東海道の旅帰りの亀五郎に指図をしていた。

さぁ、彦次と亀五郎。仙臺屋輿兵衛が、横山町の座頭金の仕事は全て仕切りますから、日に二分、偶に、一両、二両の小遣いを恵まれますが、

兎に角、自由になる纏まった金子が御座いません。是には、彦次も亀五郎も、不満が溜まり、両人は時折り集まっては、悪い相談を始めます。

彦次「なぁ、兄弟。このままじゃぁ、どうも詰まらないのなんのって有りゃしない。此処らで又、内職でもオッ始めようじゃないか?」

亀五郎「何ぃ〜、内職?!どこか?手頃な押し込み先が有るのかい?!」

彦次「勿論、目を付けて下見してある押し込み先が在る。」

亀五郎「何処だ?!」

彦次「京橋の桶川町、鍛冶屋吉兵衛って野郎が随分溜め込んで居るらしい。五百両は硬い獲物だ。」

亀五郎「家人は何人だ?二人で押し込める相手か?!」

彦次「亀の兄貴の家尻切りの腕が有れば、簡単に押し這入れる。女房は三年前に死んでいるから、相手は六十近い吉兵衛と、住込の小僧の弟子が二人だけだ。」

亀五郎「で、何時押し入る?」

彦次「明日、加賀様に売った刀の代金が入るらしいから、明日の夜中に押し這入ろう!兄弟。」

亀五郎「ヨシ、合点だ。」

さぁ、両人の悪い相談が纏まりまして、亀五郎は家尻切りの道具などを用意しまして、黒装束に頬冠りをして、子刻過ぎの深夜、目的の鍛冶屋の前に現れます。

表戸の前に立った亀五郎は、手早く家尻切りの道具を出して、壁に穴を開け始めます。一方、彦次も、連携して周囲を見張りながら警戒しています。

さぁ、アッと言う間に丸い手が這入る穴を開けた亀五郎。自らの右の手を中へ差し入れて、閂(カンヌキ)を外し、戸を開けて侵入しようと致しましが、


併し、


亀五郎が家尻を切る物音で、鍛冶屋吉兵衛が目を覚まして仕舞うのです。『之は?泥棒だなぁ?!』と、心で呟き、自ら鍛えた一刀を下げて土間へ降ります。

この吉兵衛、滅法界、気が強い人で、壁の穴から出ている手を見付けると、矢庭に抜き打つ腕に覚えの居合抜き!亀五郎の手首を斬り落として仕舞います。


ギャッ!!


吉兵衛「泥棒だ!押し込み強盗だ!」

と、家ん中から吉兵衛が、大声で叫び出しますから、さぁ、亀五郎と彦次は堪らない。家尻切りの道具など放り出して一目散に逃げ出します。

最後に残ったのは、亀五郎の斬り落とされた右の手と、家尻切りに使った道具一式。其れらは、鍛冶屋吉兵衛が持って番屋へと事の次第を訴え出ます。

さぁ是を受けて、最近頻発している丸く壁をくり抜く家尻切りの仕業に違いないと思った南町奉行、大岡越前守忠相は、右手首が斬られた怪しい人物を指名手配致します。

一方、這う這うの程で横山町の藪原検校屋敷に戻った亀五郎と彦次でしたが、早速、このしくじりを親分である仙臺屋輿兵衛に報告致します。

彦次「親分、大変な事になりました。亀五郎の兄貴が、カクカクしかじか、桶川町で右手を斬られて。」

輿兵衛「何んて、頓馬な仕事をしているだ!?俺様の指図無しで、勝手にお勤めなんぞ、仕やがって、まぁ、起きたモンは仕方ない!彦次、亀の手当を二階でしてやれ。」

彦次「ヘイ。申し訳有りません。」

と、彦次は右手首を斬り落とされた亀五郎を、二階へ連れて行き、止血の膏薬で必死に看病を致します。

医者を呼ぶ訳にも行かず、亀五郎は数日間痛みに苦しみましたが、不幸中の幸いで、化膿や破傷風に掛かることはなく、一月余りで元気になります。

すると、もう、こんな片手無し(カタワ)に成ったからは、稼業からは足を洗い、坊主と成って日本全國六十余州を廻りたいと、亀五郎は言い出します。

まぁ、それも良かろうと、仙臺屋輿兵衛、五十両の路銀を与えまして、亀五郎は、頭を丸めて墨衣に杖と饅頭笠を被り旅にでます。

さて、いよいよ長かった『大岡政談 藪原検校』も、次回が大団円を迎えます。乞うご期待!!


つづく