数ある大岡政談のなかで、所謂、『難訴裁判』。大岡越前守だからこそ、解決出来たと謂う難しい裁判が幾つか御座います。

『難訴裁判』、詰まり犯人の手口が巧妙だったり、逆に大胆過ぎて手掛りが少ない。そんな難しい謎解きを必要とする裁判の事です。

その代表が「藪原検校」で、他にも「村井長庵」そして、「畔倉重四郎」も同じ様に、真犯人が誰か他人に濡衣を着せて潜伏します。

中々容易に白黒付けられない難事件ですから、お裁きの跡で、大岡越前守自身が「極悪非道な輩で在った。」と言い残す位です。

そして、『難訴裁判』だからこそ、犯人の所業は激しく残忍で、まぁ、その中でも此の盲人、藪原検校などは、大胆且つ横道。

人外であることは申すまでもなく、越前守曰く「憎んでも憎み切れない奴」なのであり、健常者よりタチが悪い!と、謂っている。

アレ?二代目山陽先生からの受け売りで、六代伯山先生は仕切りに「徳川天一坊」「村井長庵」そして、「畔倉重四郎」の三人をして、

「憎んでも憎み切れない奴」と仰いますが、どうやら四人目が居りました「藪原検校」、是も「罪を憎むより人が憎まれる」

そして、此の講釈を語る三代目神田伯龍先生は、此の藪原検校をして、日本人民が諸外国に恥じるような犯罪者とまで言い切ります。

更には、諸人の戒めの為に「昔々、こんなにも悪い盲人が居た!」と、話すから是非、皆さん!聴いて呉れと謂うのです。

さて、皆さん!大体、此の検校の父親という奴がそもそも悪党なので御座います。而も、その素性が知れない輩で御座いまして、

検校の父の性格が、極悪非道ならば、畢竟、その子供である検校も、父の気質を承って極悪非道の横道者に御座います。

遂には、大岡様の眼力で悪事は悉く見破られて、白洲へ引摺出され裁かれて、処刑場の露と消えたばかりか、長く悪事は語り継がれた。


さて、江戸は深川の八幡裏のナメクジ長屋に、ひっそりと慎ましく、夜泣き蕎麦やを営む、太助という男が住んで居りました。

此の太助は、もう年恰好は四十の分別盛りでは御座いますが、別段家族は無く、今日も今日とて昼間っから蕎麦の仕込みです。

そして終わると、煙草を蒸しまして、夕景になると、ボテ振り道具を担いで宅を出て「蕎麦ぁ〜うぅ〜」と深川界隈を流します。

声の届く範囲の住人は「二八の太助」をえかく贔屓にして居りまして、中々是で繁盛する日は百杯近くを売上る大人気です。

太助の商いは、暮六ツ過ぎに長屋を出て、先ずは纏まった売りが見込める家から家へと流して廻る、この段階で六、七十杯。

更には、一見さん狙いで、芸者を上げて遊んだ帰り客が流れて来る色街角に、今度は店を構えて、獲物を待つという遣り方です。

是で少ない日でも七十杯、多い日には百二十杯を売る。一杯十六文の蕎麦で、一分から二分を売上る太助は中々商売上手です。

そんな十月中旬の或日。もう冬隣の四ツ過ぎで御座います。本所の一つ目通りを「蕎麦ぁ〜うぅ〜」と流して居ります太助。

漸く、路地の角に荷を下ろして飯台を組立て「蕎麦ぁ〜うぅ〜」と売声を一つ。この日は風が強く筑波颪が身に染みる晩。

そんな訳で深川の街場は、早仕舞いの店が多く、ここ本所まで出張って仲間奴の賭場の客狙いだったが、当てが外れて閑古鳥。

太助「其れにしても酷い晩だ。人っ子一人居ねぇ〜。魔日だ!魔日。たった二十二杯、一朱と百二文。あゝ材料が全部無駄に


「蕎麦ぁ〜うぅ〜」


もうヤケです。怒鳴り声に近い売声を上げて、一人でも客を呼ぼうと、祈る様に「蕎麦ぁ〜うぅ〜」と叫ぶ太助ですが、

すると其の時です。坂の向こうから女の所謂、金切声、悲鳴です。「アぁ〜レー!人殺し、助けてぇ〜。」と、聴こえて来ます。

この晩は三日月夜で御座いまして、薄い月灯りに照らされて、先ず、バタバタバターっと女が、髪と裾を乱して駆けて参ります、

更にその三、四軒背後から侍風体の男、月光にピカリと光る正しく刃、恐ろしく長い刀を振り被って駆けて来ますから、

さぁ、太助は「アッ!」と謂って腰を抜かし、その場にへたり込み平伏しますが、其れでも此の男に見付かるのは怖い!

無い力を振り絞り、蕎麦や道具の陰に必死で這入り身を隠します。其れでも太助、胴震しながら二人の様子を見ておりますと、

今女は「ギャッ!」と謂って、橋際の所で蹴躓いて倒れます。何んとか再び起き上がり、女は再度逃げ出そうと致しますが、

男が背後に立ち、髻を掴んで引き寄せます。「アーレ〜!」と謂う女の声。男は女はを自分の間合いに入れて、長刀一閃!

後向き肩から胸へと袈裟懸けに斬り付け、女は血煙を上げてその場に倒れます。更に男は馬乗で女の喉を突いてトドメを刺す。

是を見た太助は益々慄え上がって、もう一歩も動けません。『あゝ、酷い事仕やがる。』と思いながら、尚も見ている太助。

彼の男は女の絶命を漸く確認し一息着いて、四方をキョロキョロ見やって、人影が無い事を確かめると、女の死骸を抱えます。

そして橋の中程まで来ると、死骸を川ん中へ放り込みます。ザブン!と音をさせ、女の死骸が川底へ沈むのを見ている男。

軈て、血刀を持った男は『二八そば』と書かれた赤い提灯が目に留まり、其の方角へ、フラッカ!フラッカ!近付いて参ります。

其れにしても、変な侍だと太助は思った。何故なら懐中に何か入れて居て、膨れているのだ。猫か?子犬でも入れている風だ。

侍「コレ、蕎麦や!」

太助「ハッ、ハッ、ハッ、Beautiful Sunday.

侍「お前は、ダニエル・ブーンかぁ!!」

太助「ハイ、命ばかりはお助け下さい。」

侍「イヤ、汝には何んの恨みも無い由え、敢えて汝を殺す様な事は致さぬ。ただ、喉が乾いて仕方ない。水を一杯呉れ。」

太助「あゝ、申し訳有りません。水は御座いません。」

侍「その桶に有るではないか?!」

太助「いいえ、其れは丼鉢を濯ぐ水で、もう二十杯以上濯いでますから飲めません、あゝ、蕎麦湯で宜しければ御座いますが?」

侍「蕎麦湯で構わん、蕎麦湯を呉れ!」

太助「ヘイ、只今。」

そう謂うと、太助は道具箱を開いて、蕎麦の茹汁を丼鉢に注いで、醤油出汁を足して、最後に岩槻葱をサッと入れ、侍に渡した。

侍も漸く我に帰ったらしく、血刀を半紙で拭うと刀を鞘に収めた。そして、丼鉢を受け取った侍は旨そうに蕎麦湯を啜る。

侍「オヤジ!蕎麦湯、旨かたぞ、出汁を奢っているなぁ?!」

太助「分かりますか?鰹節は良いのを使っていますから。」

侍「さて、オヤジ。拙者、もう一つだけ頼みが有るのだが、聴いて呉れまいか?」

太助「頼みですか?金なら有りませんよ。今日は魔日で、売り溜めもシケてますから。」

侍「馬鹿を申せ!拙者は強盗ではない。造作もない。赤子の首を捻る様なモンだ。」

太助「其れを謂うなら、赤子の手を捻るでしょう。簡単な事なんですか?」

侍「あゝ、造作もない事だ。やって呉れるか?」

太助「やれる事ならやりますが、兎に角、噺てみて下さい。其れからです。」

侍「実は、此の赤子を殺して欲しいのだ。」

と謂って其の侍が、膨れている懐中から、赤子を取り出して、太助に渡そうと致しますが、太助は是を拒否して謂い返します。

太助「お侍様!サラッとご冗談を仰いますね。赤子を殺せなどゝ。貴方ねぇ、あの女の人をあんなに無惨に斬り殺せるなら、

それこそ、この赤子を殺すのなんて、正に、赤子の手を捻る様なモンだ。私に頼まず、ご自分でやりなさいよ!ご自分で。」

侍「あの女子は、拙者の内儀だ。だから他人なんで殺せるが、この赤子は拙者の実の息子だ。だから、流石に殺すに忍びない。」

太助「其れにしても、都合の良い理屈ですね。其れはそうと、そもそも、何故、ご内儀を斬り殺したんです?不義密通ですか?」

侍「そうではない。詳しく仔細を噺た所で、武士でもない蕎麦や風情に理解できぬと思うが、拙者、さる藩の江戸勤番だ。」

太助「猿藩?!猿の惑星?お殿様は何猿ですか?ゴリラ?、チンパンジー?、日本猿?、それとも、オラウータン?」

侍「混ぜ返すなら、汝も斬るぞ!」

太助「すいません。つい、さる藩に定型のボケを入れて仕舞いました。ところで何故、子供を産んだご内儀を斬るのですか?」

侍「拙者の内儀は、同藩の腰元で行儀見習いに来ている町家の娘だ。拙者には出世の夢があり、内儀を貰うなら其れなりの格式の。」

太助「つまり、町人の娘さんじゃぁ、出世出来ないと。」

侍「平たく謂うとそうだ。だから、割ない仲に成り胤を宿したが、藩に結婚が届けられず、内儀は病気と偽り宿下りさせた。」

太助「其れでご内儀は、ご実家で此の子を産みなさったんですね?併し、何故、ご内儀を殺す必要が有るんですか?!」

侍「内儀は『浪人しても、三人で幸せに暮らしましょう!』と謂うが、謂うは易しだが、拙者は浪人などはしたくない。」

太助「其れで?」

侍「其れならば、現世では添い遂げられないならば、あの世で一緒になろう!と、内儀が謂うから拙者も心中に同意した。」

太助「変ですね。心中の體では有りませんよ、どうなったんですか?」

侍「其れが自ら心中と言い出した癖に、内儀はイザとなったら死にたくないと謂い出した。又、浪人だ!三人で暮らすだ!と、

噺を蒸し返してグチグチ謂うから、頭に来て拙者が刀を抜き、跡は見ての通りだ。由えに赤子を殺して欲しい!頼む蕎麦や。」

太助「そう謂われましても。」

侍「分かった!では、タダとは謂わん。五両出す、五両。どうだ五両で頼む。」

さぁ、五両は蕎麦やの太助にすれば大金です。太助の蕎麦やの売上が平均一分二朱、利益は二朱も無く一朱百二十文位だ。

蕎麦やで、五両の利を出すには、丸二ヶ月は掛かる計算ですから、此の五両の誘惑に、太助はあっさり負けて仕舞います。

太助「ハイ!分かりました。五両で赤子の事は、万事引き受けます。」

さぁ、是を引き出した侍は、太助の気が変わらぬ内にと思いますから、紙入れから五両と一分銀(ガク)を二枚取り出して、

侍「ホレ、此処に五両と二分有る。是を汝に呉れてやる!だから頼んだぞ。」

太助「大きに、有難う御座います。」

侍「其れでは、此の子を殺して呉れ。」

太助「ヘイ、承知しました。」

そう謂うと、赤子を懐中から取り出し、その怪しい侍は太助に渡すやいなや、橋を渡り両国の方へ駆け出していった。


赤子を抱き上げて、走り去る侍の姿をじっと見詰めておりましたが、太助は思います、世の中には身勝手な人も有ったモンだと、

どんな仔細が有るかは知らぬが、子まで成した内儀を殺し、あまつさえ其の赤子迄も殺そうとは鬼か蛇か何とも喩え様が無い人だ。

併し、五両二分と謂う金子を手にしたからは、赤子を殺さねばならん。と、思いながら、其の赤子を見ますと、ニコッと笑います。

流石に太助も、天真爛漫な天使の、無邪気な笑顔を赤子に見せられると、殺すなんて!出来ません。仕方なく長屋へ連れ帰ります。

五両二分有るから、赤子は殺さずに育てゝみよう。案ずるより生むが易しだ、成せば成る、成さねば成らぬ何事も!だ。

あゝ、こうして赤子の寝ている顔を見て居ると、本当に殺さなくて宜かった。実に平和なかおだ。併し、泣かれると困る。

赤子は腹が空けば泣く。泣くのが商売だから、所構わず泣くが。と、今日の蕎麦の茹で汁を丼鉢に入れて、枕元に置きます。

こんな物でも乳の代用になるかなぁ〜、さぁ、ねんねん、ころりよぉ〜、おころりよぉ〜、坊やは良い子だネンネしなぁ〜。

と、心に唱えて、四畳半一間の貧乏長屋、兎に角、今日は寝て、仔細は明日考えようと先送りして仕舞う蕎麦やの太助です。

烏カァ〜、成らぬ「オンギャァー!フンギャァー!」で目が覚めた太助。今の時代の様に粉ミルクだの牛乳だのは有りません。

枕元に置いた丼鉢の蕎麦湯を匙で飲ませてみますが、流石に騙されて呑んでは呉れない。困った太助は、黒糖を混ぜてみる。

すると、やや甘みを感じる位の塩梅に仕上げると、赤子は騙され、黙って飲むでは有りませんか!漸く何とか泣き止みます。

腹が満ちるとまた、スースー寝入る赤子。此の隙にオシメも替えようと、代わりに手拭いを巻いて、何とか体裁を整えます。

更に、脱がせたオシメは手洗います。オシメの履かせ方が分からない!兎に角、寝ている隙に外出し、赤子の餌の調達です。

太助は、搗粉と片栗粉を搗米屋から仕入れて来て、母乳の代用品の試作に掛かります。黒糖は醤油出汁用に常備しているので、

兎に角、粉っぽく無い、心地良い白いとろみの、仄かに甘い液体の調合に試行錯誤。漸く、暮六の鐘が鳴る頃に完成します。

そして、赤子が好む温度まで、冷やし調整して、匙を匠に使い是を、たっぷり与えてやると、又、赤子はスヤスヤ眠ります。

ヨシ、此の寝ている隙に、湯屋へ行こう!と、思い立った太助。湯の支度をし、赤子を行火(アンカ)に包み、行燈は点けたまんま、隣に声掛けして湯屋へと参ります。


さぁ、湯屋へ出ました太助。半刻では戻る積もりで出たのですが、普段なら絶対に仕ない時間に湯を使うから、今日休みかい?

と、会う人会う人から声を掛けられて無駄噺、結局一刻以上、太助は湯屋に足留されて仕舞います。さて一方、長屋の赤子は?

太助が思って居た通り半刻過ぎた頃、オギャーオギャー!と泣出して仕舞います。ですから、是を隣家が気付かぬ訳がない!

声掛けした隣の熊五郎。熊公が是を聴いて『長屋に赤子は居ないはずだが?』と、不思議に思いますから、外に出て見ます。

すると、灯台元暗し!隣の太助ん家から赤子の泣き声がするので、障子戸の穴から中を覗くと、若い女が百日位の赤子を、

抱き上げて、仕切りに乳を与えています。太助の奴!何時の間に女房子を拵えたんだ!と、驚きながらも、女房の顔を見てやろう。

そう思って必死に穴から中を覗くのですが、女房の顔は見えません。戸を叩いて「今晩は!」と声を掛けても、開けて呉れない。

仕方なく「恥ずかしがる柄か?!」と、捨て科白を吐いて、太助の女房を見るのを諦めた熊公は、自分の家に戻ります。

女房「どうだった?アンタ。赤子の泣き声は?!」

熊公「どうもこうもねぇ〜。お崎!隣の太助ん家に、女房子が居るぞ!」

お崎「何んだって?!四十過ぎだよ、太助さん?!」

熊公「其の蕎麦やの太助に、若い女房が出来たんだよぉ。」

お崎「若いって何故、分かるのさぁ?!」

熊公「障子戸の隙間から見たんだ、色の白い若い女だ!」

お崎「顔は?どんな顔だい。」

熊公「其れが、顔は隙間から見えないんだ。」

お崎「顔が見えないのに、何故、若いって分かるのさぁ?!」

熊公「赤ん坊に乳をやる姿が見えたから、あの乳は若い女だ。」

お崎「イヤらしいよ!此の助平、隣の女房の乳を見たのかい。」

熊公「見ようとして見たんじゃない、偶々、見えたダケだ。」

お崎「じゃぁ、アタイが顔を見て来るよ。」

熊公「馬鹿!もう止めろ。」

お崎「狡いよ、アンタだけ見て、アタイも顔を拝んで来るよ。」

と、熊五郎と崎、相変わらず馬鹿な夫婦で御座いまして、太助の女房が乳をやる姿を、お崎の方も、障子戸の穴から覗きます。

併し、乳を与える太助の女房のアングルは一緒ですから見えるはずもなく、又、女の声で「今晩は!」と訪ねても、反応無し。

やはり恥ずかしいのか?中からは返事も無く、戸を開けては呉れません。仕方なく、女房のお崎も自分の家に戻って来ます。

お崎「アンタ!確かに若い女が赤ん坊に乳やりをしているね。」

熊公「其れにしても、太助の奴は水臭いぜ、長屋の連中に内緒で、女房子を住まわせる何て!」

お崎「そうだねぇ〜、水臭いね。何か曰くが有るのかしら?」

熊公「曰くも疑惑も大有りだ!相談して呉れりゃぁ〜、長屋の皆んなで協力するし、祝儀だって渡すのに。本と水臭い野郎だ。」

そんな噺をして居りましたが、隣家の熊五郎と崎夫婦は、太助の湯屋からの帰りが待てずに、結局、其の夜は寝て仕舞います。


烏カァ〜で夜が明けて、さぁ翌朝は大変です。井戸端会議でお崎が、長屋中の皆の衆に「太助さん家に女房子が出来た!」と、

誰彼構わず謂い降らしますから、もう蕎麦やの太助は時の人で、井戸端へと来てみると、長屋の衆の挨拶が他所他所しい。

熊公「太助さん、おはよう。昨日は仕事を休んだのかい?珍しいね。何が有ったの?」

太助「イヤ、一寸、外せない用事が出来てねぇ。」

熊公「外せない用事って何んだい!謂って呉れよ、水臭い。」

太助「まぁ、大した用じゃない。野暮用さぁ。」

熊公「野暮用じゃないだろう〜、女房を貰ったんだから。」

太助「冗談じゃない、女房何んて貰ってないぜ。」

熊公「隠すなよ。昨日の夜、見たんだ、汝さんの女房を。」

太助「だから人違いだろう?俺の所に嫁入りする女なんて、そんな酔狂な人、有るはずたいだろう。」

熊公「悪いけど、見ちまったんだ昨夜。汝ん家の障子戸の穴から中を見たら、若い汝さんの女房が、赤ん坊に乳やりするのを。」

太助「エッ!何時の噺だ?!」

熊公「汝が湯屋へ行った後だ。赤ん坊の泣き声がするから、出てみると声は汝ん家からだ、で、覗くと若い女が乳やりしてた。」

太助「本当か?!」

熊公「本当さぁ、見たのは俺だけじゃねぇ〜、お崎も見ている。」

太助「何んてこった!南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、そりゃぁ〜、幽霊だ。乳やり幽霊。」

熊公「何を言ってるんだ、太助さん。気でも違ったか?」

太助「いやぁ〜、間違いない。斬り殺されて、成仏出来てないんだ!あの腰元。南無阿弥陀仏。」

熊公「どうしたんだ?太助さん。」

さぁ、井戸端で二人が噺をしていると、又、太助の家から赤ん坊の泣き声が致します。もう、太助は秘密にしては於けません。

熊五郎とお崎に、一昨日の夜、内儀を斬り殺す侍に逢った噺から、渋々、赤子殺しを五両二分で引き受けた噺を致します。

熊公「もうこうなると、長屋の衆では解決出来ねぇ〜よ、太助さん。大家に相談しよう。」

太助「俺は、此の長屋の大家、藤兵衛さんは苦手なんだ!熊さん、一緒に来て呉れるかい?」

熊公「あゝ、引き受けた。女房のお崎も連れて行ってやる。さぁ、大家ん所へ行こう。」

そんな噺が纏まりまして、赤ん坊を抱いた太助と、熊五郎、お崎の夫婦が、長屋から少し離れた家主、藤兵衛さんの家を訪ねます。


突然、店子三人に押し掛けられた家主、藤兵衛。赤ん坊を抱いて、一昨日の夜の噺を太助から聴いて、此方もビックリ致します。

大家「其れで、其の武士の體をした、此の赤ん坊の父親って奴は、一体全体、何者なんだい?」

太助「其れが其の、全く判らないのです。」

大家「太助、汝と謂う奴は、後先考えずに、全く飛んでもない噺を引き受けたモンだ。」

太助「そうは謂ますけど大家さん、厭だと謂うとアッシが斬り殺されている所ですから、仕方有りませんよ。背に腹は替られねぇ。

仕方なく殺す積りで引き受けましたが、イザ殺そうとすると、此の赤ん坊が、俺を見てニコニコ笑うんで、人情として殺せません。

そんで仕方なく長屋に連れ帰って、俺が育てよう!面倒をみよう!と、決心して、仕事を休み、片栗粉や搗粉を買って、

黒糖と水飴なんぞを混ぜて、母乳の代用品を作り、一日中掛けて赤ん坊に呑ませて、漸く赤ん坊が寝たんで湯屋へ行ったら

私自身は湯屋に居たから見てはいませんが、熊さんとお崎が謂うには、其の赤ん坊の父親、夫に斬られた内儀の幽霊が、

俺の家に化けて出て、赤ん坊に乳をやっていたと聴いて、もう、居ても立っても居られなくて、大家さんに相談に来たんです。」

大家「成る程。其れで?」

太助「だから、そんな斬り殺された女の幽霊に毎晩来られたら、『牡丹燈篭』の萩原新三郎お露の幽霊に取り憑き殺された様に、

アッシも乳やり幽霊に、呪い殺されたりしないかと、心配で心配で、一度は赤ん坊を殺す約束を侍としていますから、心配で。」

大家「其れは、大丈夫だろう?萩原新三郎お露の幽霊と交わったから生気を吸い取られて、其れに直接殺したのは伴蔵だ。」

太助「だから、私も霊験新たかなお札とか、開運如来の金の仏像とかで、守って貰わないと、乳やり幽霊に生気を吸われるかも?」

大家「馬鹿を謂え!お札や仏像で守ったら、幽霊は汝の家に近付けないではないか!乳母を雇うにも、其れなりに金が要るんだぞ。

其れを全て幽霊にやらせたら、丸々ただ!こんな旨い噺が他にあるか?!幽霊が来る時だけ、お前は留守にすれば宜いだけだ。

そもそも、汝は夜泣き蕎麦やじゃないか?暮れ六ツに出て九ツ半に家に帰るのなら、幽霊と交代で、赤ん坊の世話をしろ!」

結局、大家の藤兵衛に上手く丸め込まれた感じも致しますが、太助が長屋で此の赤ん坊を育てる事になり、名を太吉と付けます。


さて、大吉と赤ん坊に名前を付けて暮らし始めると、長屋に赤子が誕生する家が出来て、太助は貰い乳をして、

長屋の子無し夫婦に太吉を預けては、夜泣き蕎麦やの仕事を再開致します。其れでも、太吉は幽霊の乳で育った赤子と陰口を叩かれ、

暫くは、子守の受け手が、熊五郎と崎夫婦くらいだったのが、太吉が非常に愛嬌の有る賢く可愛い子供だった事と、

日に五十文の子守賃が有り難がられ、長屋中の応援が有る中、太吉は三歳に成ります。そして、太吉三歳を迎えた夏。

太助が夜泣き蕎麦やの仕事に、太吉もお伴に付いて出る様になり、「蕎麦ぁ〜うぅ〜!」の夜泣き声は、太吉の仕事になり、

太吉は四歳で、丼鉢洗いの担当となり、五歳になると、醤油出汁の仕込みと蕎麦茹で、酒の燗付けが務まる様になります。

また、六歳になると勘定場で、客に釣銭が渡せる様に成りますし、包丁が使えて、蕎麦やの仕事一通りが務まる感じです。

更に大人顔負けに客とは世間噺を致しますから、贔屓のお店からは、太吉を是非、奉公に欲しいとまで謂われ始めます。

併し順風満帆の太助、太吉親子に、或日突然、不幸が訪れます。太吉が六歳になった、其の夏の終わりに、疱瘡に掛かると、

何とか一命は助かりますが、両目の視力を失います。其れでも見えないなりに、太吉は蕎麦やの仕事を手伝い太助を支えます。

そんな親子を更なる不幸が襲い、今度は太助が流行り病に罹り、太吉の必死の看病も虚しく、亡くなって仕舞います。

一応、長屋の衆と大家の藤兵衛さんの世話で、太助の葬いは出せたのだが、此の太助には、江戸に身寄り頼りが御座いません。

故郷も、武州熊谷だとは皆んな知っては居りますが、親兄弟、親類さえ無く、天涯孤独の太助ですから太吉の引取手が在りません。

一人に残った太吉はまだ八歳。暫くは熊五郎と崎夫婦や、長屋の連中の世話に成っていましたが、貧乏長屋の住人には負担です。

思い余った熊五郎が太吉を連れて、家主の藤兵衛の所を訪ねて、大家と言えば親も同様、店子は子も同様と直談判致します。

熊公「大家さん!そんな訳で、暫くは長屋、三十六軒の店子で、夫婦者の十二軒が協力して、此の太吉を面倒見ていたが

もう、限界だ!昔から長屋は相見互い。大家は親で、店子は子供と謂うじゃありませんかぁ?大家さん、太吉はアンタの孫だ!

だから是からは大家さん!家主さん!藤兵衛さん!、一切アンタが、此の太吉の面倒は、宜しくお願い致します。」

大家「イヤ、急に言われても、長屋の互助会で何とかならんのか?熊公!」

熊公「冗談謂っちゃ困ります。太助さんの葬式の後、一旦は、太吉を長屋で預かりましたが、長屋の夫婦は元々、子沢山だ!

だからどうしても、太吉は俺ん家みたいな子無しの夫婦が面倒みるが、子無しは子無しなりに、日常に用事が多いんだ。

だから大家と店子は親子なんだ。太吉の面倒は大家さん!貴方が見て呉れないと、長屋の連中は納得しない!宜しく頼む。」

そう謂うと、熊五郎は太吉を一人、家主藤兵衛の家に置いて帰りますから、仕方ありません。藤兵衛が太吉を預かります。

さぁ、藤兵衛が太吉を家に連れ帰りまして、面倒を見るのですが、盲人の太吉にとって、家が変わる事は何よりの不安で、

すこぶる賢い太吉にとっても、慣れない家には戸惑いを隠せませんが、其れでも、やり慣れた洗濯や包丁の扱いは天下一品。

芋の皮を剥かせたり、竈門で飯炊をさせると卒無く働くし、藤兵衛は太吉に盲人としての幸せをと次第に考え始めます。

そして或日。人傳の噺に日本橋横山町の二丁目に、藪原検校という盲人があり、此の人が実に徳の高い賢者だとの評判を知ります。

而も、中々盲人では有るが金萬家。江戸時代は盲人は特権として、座頭以上の位に着くと金融業、金貸が合法でした。

検校という盲人の頂点、藪原検校は按摩、揉み療治、そして鍼灸の道に丈た才能を持つ、盲人界のスーパースターで御座います。

ですから、弟子を取りその弟子達は、三年の年季奉公が課せられますが、御礼奉公を含めた四年以降は、給金が貰えます。

更に五年の修行を経ますと、一本立ちが許されて、座頭の位が貰えて、健常者に負けない贅沢が出来ますから悪い噺では御座いません。

さぁ、そんな日本橋横山町二丁目の藪原検校の元を、家主・藤兵衛は太吉の手を引いて、訪れて入門の懇願を致します。

此の藪原検校の元には、全ての運営を取り仕切る佐平という番頭が、入門の事前審査を致しますから、先ずは佐平が相手致します。

佐平「深川八幡裏、藤兵衛長屋の家主、藤兵衛さんは貴方で御座いますか?さて、用向きを、嘘、偽り無く、申して下さい。」

藤兵衛「ハイ、私が深川八幡裏の藤兵衛で御座います。実は此の太吉は、カクカクしかじか、元は本所の吾妻橋の近くで、

実の母が実の父親に殺されると謂う艱難辛苦を味わい、又、六歳に成ってから疱瘡を患い失明しますが、養父を助ける孝行者で

併し、去年、その養父も失い孤児と成りまして、天涯孤独の身の上なれば、何卒、藪原検校様のご慈悲を頂戴願います。」

佐平「判りました。では、少しお待ち下さい。検校様のご意見を、頂戴して参ります。」

と、謂って番頭の佐平は奥に下り、藪原検校の意見を伺いに参ります。検校は、佐平の噺から平吉がなかやか賢い子供と判断し、

兎に角、奥の面会部屋に案内する様にと、番頭の佐平に指図しますが、藤兵衛と平吉の両人は駄々っ広い客間へ通されます。

まぁ、其の広い客間で、藪原検校と初対面の平吉は、普通の者なら「お師匠様、初めてお目に掛かります。」と謂う場面で、

此の太吉は、やはり一味違うと謂うが、只者では御座いません。「お師匠様、初めまして、お声を拝聴致します。」と、

いきなり、お目には掛かれないので、拝聴致しますと、盲人らしく返して来た事に、検校はいたく感心なさいます。

是で家主の藤兵衛は、喜んで平吉を預けて帰り、採用した藪原検校も、宜い弟子が来たと、自らの手元に太吉を置きます。

中々、利発で機転が利く事に掛けては、八つの子供とは思えない平吉で御座いますから、一を聴いて十を知る気質て、

その上、此の太吉は体力自慢で、健常者の二倍は働きますから、盲人と比べたら、四倍、五倍は当たり前の働きっぷり。

朝の用はと一回聴くと、更に、気を廻して昼、夜の用事も合理的に済ませられゝば、朝の内に全部済ませる性分です。

又、拭き掃除、掃き掃除、水汲み、水撒きなと体を動かす力仕事を一切嫌わないのも、太吉が周囲に気に入られる要因の一つです。

更に、杖を使って匠に他人との距離を計る技にも、太吉は優れていて、其の勘の良さは天下一品なので益々、藪原検校に好かれます。


つづく