さて、柳ノお仙は必死だった。亭主の三次を唐丸籠から出して呉れた観音丹次への恩返しに、丹次を落延びさす為、荒石ノ定太を殺した。
柳ノお仙は少しも狼狽える事もなく、一撃必殺の度胸、荒石ノ定太の背中に突き刺さった匕首を見て、流石の観音丹次もシャッポを脱いだ。
丹次「姐御、飛んでもない事に成りましたね?」
お仙「親分、こう成ったからは、一刻も早く落ち延びて下さい。亭主の三次も幸手に戻らぬ所を見ると、若しかすると白河かも知れません。
そして、此処に五十両有ります。之を路銀の足しにして、一日も早く白河の亀右衛門親分を訪ねて下さい。妾も始末が済んだら跡追ます。」
流石、幸手ノ三次の女房で御座います。全てに於いて抜け目無く、痒い所に手が届く、侠客妻の鏡。この実に憎い計らいで御座いますから、
丹次「折角の思召しですから、之は、遠慮なく頂戴致します。併し、此の跡大丈夫ですか?逃げ切れますか?姐御の事が、些か心配です。」
お仙「イヤ、何んとか致しますから、心配はご無用に願います。」
お仙と丹次が、そんな噺を致しておりますと、幸手ノ三次の子分で、四天王の一人の小佛ノ死太が、血相を変えて、飛び込んで参ります。
小佛「姐さん!荒石の手下が、代官所へ駆け込んだ様子で、凄い数の上役人や捕り方が、此の家を取り囲んで、時期に踏込んで来ますぜ!」
お仙「観音の親分、グズグズして居られないよ!小佛、アンタは親分を逃してお呉れ、アタイは之で、追手を食止めるから、早鷹!蝮!」
早鷹・蝮「ヘイ、姐御?!」
お仙「お前たち二人は、出来るだけ多く子分達を沢山連れて逃げなぁ。そして、賭場の売り溜め、アレは全部お前達で宜い様に分けてなぁ、
そして、決して死ぬんじゃないよ!喩え、アタイが死ぬ様な場面が有っても、お前達は三次親分を後世に語り継ぐ義務が有るんだからね!」
「ヘイ、姐御さん、委細承りました。」と、早鷹ノ寒吉と蝮ノ傳八の二人も奥へ消えて、屋敷には柳ノお仙一人で、駆寄る役人と捕り方を迎討つ覚悟でしたが、子分は其れを許しません。
鷹ノ寒吉と蝮ノ傳八、若気ノ三太の三人と、其の子分、計十五人は屋敷に残り、向こう鉢巻、襷姿でお仙と一緒に玉砕覚悟で御座います。
お仙「馬鹿野郎だね!お前達は。」
早鷹「姐さんが、賭場を雷蔵の野郎から取り返して下さった、あん時に目が覚めました!」
蝮「アッシ等、四天王は姐さんと一心同体です。」
若気「だから、賭場の売溜は貰ってません!三途の川は六文で足りますから。」
お仙「厭だよ!アタイは白河へ落ちるだからね。もう一度、三次親分に逢うんだから。」
早鷹「惚気ですか?ご馳走様。」
お仙「馬鹿言うんじゃないよ!」
さて、一同がワッと笑って居る所へ、小佛ノ死太が戻り「丹次親分は無事に行かれました。」と告げられて、お仙は安堵の表情に成ります。
お仙「小佛、ご苦労だったね。お前は裏から逃げてお呉れ。」
小佛「何を謂うんですか?姐さん。早鷹達と一緒に、アッシにも手伝わせて下さい。」
お仙「馬鹿!汝は此の一家の跡目を継ぐんだ、生きて貰わないと困る。三次親分は凶状持で幸手には恐らく帰れね〜、汝しか居ないんだよ!
其れにアタイや此の三人が、関八州の役人を蹴散らして、日本國中逃げ廻って幸手に帰って来た時に、此の一家が無いと淋しいじゃないか。」
小佛「判りました姐さん。俺が若衆の面倒ながら、三次一家を守って於きます。だから、必ず、何処へ落延びても幸手に帰って下さい。」
そう言って、柳ノお仙も四天王の面々も、瀧の様に泪を流し、別れを惜しむ暇も無く、小佛ノ死太は自分の重大な役目を胸に閉まって、裏口から屋敷を飛び出して行く、遠寺の鐘は申刻。
代官所から関八州の上役人と、捕り方が合わせて三十人ばかりが、お仙の家を取り囲んだ。そして上州の代官所では鬼より恐いと噂の与力、
山田甚五郎と言う人物が、此の捕物の総指揮を取る責任者として、お仙の屋敷へと出張って来た。配下の捕り方は三十人、絶体絶命である。
山田「おい!屋敷の中の連中に告ぐ、手配中のお尋ね者、観音ノ丹次を速やかに引き渡せ!さもなくば、屋敷に踏み入り、一斉捜索致す。」
お仙「待って下さい!お役人様。妾(わたし)どもは、其の様な人物を全く知りませんし、勿論、此処へ匿うなど一切致しておりません。」
山田「兎に角、問答無用!栗橋の荒石が、先発の先乗りで、参ったはずだ?!荒石を出せ。荒石に仔細を聴けば、全て明白だ!早く出せ!」
お仙「栗橋の荒石のオジキですか?来て、いませんよ。」
山田「嘘を申せ、手下が五名、此の屋敷へ一緒に来て離れの座敷に入ったが戻らんと、自身番へ駆け込んだから、今我々が出張って居る。」
お仙「そんな事を言われても、荒石のオジキは来ちゃ居ません。」
山田「エーイ、問答無用。家探し致せ!」
と、謂う山田甚五郎の命令で、役人と捕り方がドカドカ中へ這入り込み、家探しを始めるて、三次の子分達と揉めて小競り合いになります。
お仙「誰も隠れちゃ居ないのに、其れ以上、家ん中を土足で荒らす様なら、コッチは何時迄も大人しくはして居ないよ!之が最後だからね」
山田「何を生意気なぁ!無宿渡世の長脇差が。職業人別帳にも載らないならず者が!一人前の口を利くな!床板、天井板を剥がして探せ!」
遂に家を破壊し始めた、関八州の役人捕り方に対して、柳ノお仙の堪忍袋の緒が切れて、素手の小競り合いが、刃を交える事に相成ります。
お仙「ヤイ、野郎ども!もう仕方ない。三次一家の心意気を、段平抜身で此の腐れ外道の木端役人に、たっぷりと思い知らせてやりなぁ!」
山田「皆の者、此方も手向かいして、探索の邪魔をする奴等は、容赦なく斬り殺せ!縄目を掛けて生捕りの必要はない。即刻、斬り殺せ!」
さぁ〜双方の司令塔から、『斬り捨て已むなし!』の許可が出ましたから、さぁ〜、小競り合いから、本格的な斬り合い、殺し合いです。
お仙「オーイ、早鷹!奥の八畳間の箪笥ん中から、三次親分の刀を持っておいで、早く頼む。直ぐに、持って来てお呉れ!早くだよぉ!」
さて、早鷹ノ寒吉が奥より持って参りましたる刀は、幸手ノ三次が秘蔵の名刀、不動國行の逸品で、刀身が二尺二寸の大太刀で御座います。
さて、役人側は、三次一家の人数は二倍ですから、小競合いの最中は優勢でしたが、刀で斬り合い始めると度胸の差が戦いに現れ始めます。
殊に、不動國行を鬼神の如く振り回し、一家の主領として勇敢に戦うお仙の存在が大きくて、一人、又一人と捕り方は敵前逃亡を始めます。
是を見た山田甚五郎は、遂に決心をして、柳ノお仙を、自らの手で殺(た)おしに掛かります。甚五郎はお仙の太刀筋を見切り、先ずは、
横へ横へと廻り込んで行きます。そして、甚五郎が廻り込んだ逆側から、配下に攻撃させて、其方にお仙の注意を、引付させた上で、突然!
お仙の背後に飛び移り、柔術の心得の有る山田甚五郎は、お仙を真後ろから羽交い締めにし、身動きが取れない状態にして捕まえたのです。
山田「どうだ?!柳ノお仙、動けまい?観念しろ。誰か早く縄を持って参れ。この女子(おなご)を縛り上げろ、急げ!急げ!早くしろ。」
絶対絶命!
山田甚五郎の縄目を掛けろと叫ぶ声が、周囲に木霊して、目に見えて三次一家の士気がが下がり始めた、その時突然、お仙が笑い出します。
お仙「ハハハァ、ヒヒヒィ。仕様が無いねぇ、『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』とは、宜く謂った。アタイはタダじゃ、死なないよ!!」
お前も一緒に道連れだ!
手に持った不動國行を、いきなり逆手に持ち変え両手で掴んだ柳ノお仙は、其の鋒を自身の胸に突き刺して、山田甚五郎ごと串刺しにした。
山田「馬鹿!何んて事しやがる!」
お仙「流石、名刀・不動國行!能く斬れるよ。」
そう謂うと、お仙は刀を一気に抜いた。其の場に血煙が上がり、倒れる二人。山田甚五郎は絶命し、お仙も虫の生き。子分が集まって来る。
早鷹「姐さん!何んて無茶しなさる。」
蝮「全くだ、命を粗末にして、バチが当たるぜ!」
若気「姐御!しっかり。」
お仙「アタイはもう駄目だ。でも、与力と同士討ちなら御の字だね…早鷹!」
早鷹「ハイ、姐さん。」
お仙「此の家に、火を点けろ!早く…早くするんだ。じゃぁアタイは先に行くよ。早く、火を点けな!」
早鷹「ヘイ。」
そう謂うと、お仙は部屋の隅を指差し死んで行った。そして其の指の先を見ると、大きな甕に入った灯油(ともしあぶら)が置かれていた。
早鷹ノ寒吉は、甕の油を蝮ノ傳八と若気ノ三太、其の子分数人で、家中に撒いて火を点けた。忽ちに、紅蓮の炎が上がり煙に包まれた。
さぁ役人達は慌てゝ逃げ出す。捕物どころではない。何とか同心達が協力して山田甚五郎の死骸だけは抱え出したが、唯々一目散に逃げた。
一方、早鷹ノ寒吉、蝮ノ傳八、そして若気ノ三太の三人はお仙を白河へやれなかった事を悔いて殉死切腹。松吉が不動國行を使い介錯した。
そして、三人の幸手ノ三次四天王と、お仙の首級は、松吉に依って後日懇ろに葬られたと謂う。柳ノお仙、享年・三十三歳、女の大厄だ。
翌日、焼け跡で検死が行われた。役人捕り方の犠牲者は荒石ノ定太、山田甚五郎を含む十六人。全てが真っ黒の炭で、多くは判別不能だ。
一方、お仙を始め三次一家はと見てやれば、首無しの黒焦げが四体で、捕縛に行った観音丹次の遺体は無く、逃げたと目されたが行方不明。
こうして、幸手の三次一家への関八州代官による捕物は、実に二十人もの死者を出す惨事となり、関東でも稀に見る事件と成って仕舞った。
併し、此の事は奥州白河へ逃げた観音丹次、並びにまだ、奥州路を彷徨う小天狗小次郎には幸いで、役人の追手は鈍るに違いないのである。
其の役人が検死をしている頃、観音丹次は栗橋宿に来ていた。そして、泊まった旅籠で「幸手ノ三次の屋敷が全焼した。」と、噂で聴いた。
今朝は早立の予定で、小山を目指すつもりが、朝飯を食っていると女中が幸手の火事の噺を始めたので、丹次は気に成って仕方なかった。
丹次「仲居さん、そんなに酷い火事だったのかい?」
仲居「ハイ、幸手ノ三次親分のお屋敷が火事で、全焼したらしいんです。」
丹次「そいつは大変ですね、他に延焼は無かったのかい?」
仲居「圓生は居なかったけど、志ん生は居たみたいです。」
丹次「冗談はさて起き、火事で亡くなった人は?」
仲居「其れがねぇ大きな声じゃ謂えませんが、火事は放火らしくて、丹次親分の女将さん、お仙さんの点け火だって噂ですよぉ。それに、
屋敷じゃ大太刀廻りが有ったらしくて、その喧嘩で、此の栗橋の荒石の親分と、代官所の与力で、山田甚五郎って旦那が、殺されたとか。」
丹次「ホー、其の喧嘩で沢山亡くなったのかい?」
仲居「ハイ、其れがお客さん!代官所の捕り方は十六人も殺されて。」
丹次「侠客の幸手の一家の方は?」
仲居「其れが…」
仲居は、丹次により近付いて、更に声を抑えて噺ます。
仲居「四人亡くなった様ですが、焼跡の死体は全部首無しで、ハイ。何でも三次親分の女将さんのお仙さんも、亡くなったと聴きました。」
丹次「エッ!お仙さんが、亡くなった!」
丹次は、思わず右手の箸を落としてしまう位にショックを受けた。そして直ぐに、幸手へ引き返す事も考えたが…堪えて白河へと出発する。
旅籠を出た観音丹次は、栗橋宿で姿(ナリ)を変えて、縞の帷子に道中合羽と三度笠を捨て、如何にも田舎者が日光見物に来た體を拵えた。
藍染の木綿の単衣にヘコ帯、一刀は敢えて横に差して徹甲脚絆に草鞋履き、麦藁の浅い笠を被り、下には汚い豆絞で頬冠を致しております。
そんなドジ拵えで、栗橋を出た観音丹次は、小金井、石橋、そして雀宮神社で有名な雀宮へ到着し、丹次は此処で昼食を取る事に致します。
さぁ、此の私の講釈シリーズをお読みの皆様にはお馴染み、雀宮です。『寛永三馬術』『宇都宮吊り天井』共に登場します、雀宮神社⛩!
さて、少し昼食を終えてもまだ午刻。直ぐに丹次は宇都宮城下に入りましたが、まだ旅籠へ入るには時刻が早過ぎる。仕方なくブラブラと、
此の辺りを散策して廻っておりますと、実に立派な八幡様が目に留まります。仇討ち成就の祈願だと是に参詣をしまして、出た絵馬堂の脇、
是へ丹次が出て見ますと大勢の人と其れへ群がる野次馬が集まって、何やら大層騒がしく、又物騒な怒鳴り声が中から聴こえて参ります。
町人「ヤイ、何を呑気にグズグズしてやがる!早く、そんな奴は叩き殺せ!!」
そう、黒山の中心で商人風な町人が、怒鳴り散らして居るから、観音丹次は、其の高見の見物をする野次馬達を押し除けて、中を覗きます。
すると、誠に見る影も無い有り様の一人の女乞食が、抑え付けられ地びたに平伏して居ます。身体の見える所は一面、梅毒(カサ)掻いて、
腫れて膿が出て悪臭が漂います。髪は殆ど抜け落ち、ポヤポヤッと生毛が有るだけで、身には和布を貼り付けた様な着物を付けて居ります。
そして、其の上から古く汚れた筵を被り、実に『ベンハー』か?『砂の器』を連想する癩病(らいびょう)病みの様な有様の乞食です。
一切の全財産を仕舞い込んだと思しき麻袋を脇に置き、地びたに押さえ付けられても、尚、ジタバタ激しく抵抗を繰り返している、女乞食。
是だけ戒められて、折檻されている様子ですが全く悪びれず、強情に反省の様子無く、兎に角悪態を突いて、何か文句を言い続けて居ます。
すると天秤棒を担いでいた商人が、地面に抑えている女乞食を、遂に堪忍袋の緒が切れたか?其の天秤棒で、正に殴り殺さんと致します。
是を見せられた丹次。もう見て居られないし、勿論見て見ぬフリなど出来ません。商人と女乞食の間に入り、商人の天秤棒の盾に成ります。
丹次「待って下さい!此の女乞食を何故、殺そうとなさる。此奴が、殺されんけばならぬ程、貴方に対して、何か悪事を働いたのですか?」
町人「旅の人、通り縋りのアンタには何も判かろうはずがないが、此の女乞食は此の様な哀れな姿で、人の同情を利用し悪事を働きますだ。
可哀想だと言って油断していると、飛んでも無い事を平気でやる女で、何でも盗みますだぁ。米櫃毎飯を盗む、露天売物の餅や饅頭も盗む、
兎に角、手当たり次第に盗むダスだぁ。それで、幾ら注意や折檻しても辞めねぇ〜だぁ。だから、叩き殺して仕舞うしか無いこんな奴。」
丹次「まぁ、待って呉れ。犬や猫じゃあるまいし、人間を天秤棒で殴り殺すだなんて、其れにこの女だって、飢えから来る出来心なんです。
貴方は、もっと寛大な気持ちには慣れませんか?其れとも殺したくなる位、大切な物を盗まれたのですか?一体、何を盗まれましたか?」
町人「イヤ貴方にそう謂われると、確かに命程の価値の物じゃないけど、店に今日並べたばっかりの阿部川餅と赤飯を盗まれたから、つい、
カッとなって、叩き殺すとか、些か物騒な事を口にはしたが、此処に集まった連中は、皆んな大なり小なり、此の女乞食の被害者なんだ!」
丹次「判りました。では、此の人が盗んだ食べ物の御代として、この一両小判を私が置いて行きますから、此の人を許してやって下さい。
宜しいですか?汝達は此の人に、商売物を取られたからって、叩き殺した所で取られた物は戻りません。ならば利を取っては?どうです。」
そう謂って、観音丹次は金一両を懐中から取り出しすと、続けて、此処に集まっている、女乞食の被害者だと謂う連中に向かって物申した。
丹次「さて、皆さんは定めし之まで、此の女乞食に依って少なからず、損害を被ったに違いありませんが、今日は奇しくも、私が志す佛の、
命日に当たるので、私は殺生を見知った上は、捨て置く訳に参りません。跡は私から女に説教致しますから、些少ですが之で許し下さい。」
町人「こりゃぁ〜どうも、何処の何方かは存じませんが、済みませんねぇ〜、気を使わせて。折角の旦那の思召だから、之は頂戴致します。
オーイ、皆んな!此の旦那にお礼を言って呉れよ。損金の代わりにと一両下さった。向こうで分けるから付いて来て呉れ!宜しいかなぁ?」
全員「旦那、有難う御座います。」
そう謂うと、女乞食を直接捕まえて、打擲していた商人達は、何処かへ立ち去っ行った。そして残った野次馬は大人が去り子供ダケになる。
丹次「サァサァ子供衆、君達も、こんな所で見て居るもんじゃ有りません。早く何処かへ立ち去りなさい!………向こうの方で遊びなさい!
そして、お菰さん!貴方も、此の様な姿迄落ちぶれたから、盗みなど働くとは思いますが、其の料簡は大いなる心得違いをして居りますぞ。
サァ、貧して鈍すると申します。個々に二分の金子がある。之を貴方には差し上げる。余り大きな儘だと返って迷惑だろうから一朱で八個。
使い易い様にしてやるから、之を元手に、こんな所は立ち去り、河原に蒲鉾小屋など建てゝ、
其処へちゃくと住居して、慈悲のが心有るお大尽を見付けて縋れば、満更汝一人が喰う位は、
出来ぬ噺では決してない。盗みなどは一日も早く止めて、ゆっくりと養生して、其の病を治す事だ。諦めず神信心し、正しく生きられよ。」
と、物穏やかに、観音丹次が彼の女乞食に対し、謂って聞かせると、女は丹次の慈悲深さに感動した為か?オイオイ、泣き始めるのです。
女乞食「あゝ、誠に有難う御座いました。寸での所で、大勢に取り囲まれて、あの儘打擲され嬲り殺しにされる所を、お情けを持ちまして、
命が助かりまして御座います。又、命を助けて居たばかりか、此の様な金子まで賜りまして、お礼の申し様も無く、誠に相済みません。」
観音丹次が、差し出す二分の金子を、女乞食が押し頂いて下から見上げ、一方丹次は上から是を見下ろす様にして、互いに見交わす顔と顔。
向き合った互いの顔へ、思わず目が行きますと、何んと!驚いた事に、嘗ては親子と呼合った、あの母の、あの息子の、顔で御座います。
お凛「オヤ!貴方は、………」
丹次「オッ!汝はお凛!!」
お凛「誠に、面目次第も御座いません。」
そう言って、乞食へと身を窶した嘗ての義母お凛は、崩れる様に地びたに平伏して、さめざめと泣いた。流石の丹次も暫くは言葉が出ない。
丹次「イヤ、失礼。さて『世の中は 三日見ぬ間の 櫻かな』などゝは能く申しますが、ヤイ!義母殿、一体全体その醜い姿は、どうしたんだ?
因果応報会者定離。自身がして来た悪事の報いが、今に成って我が身に返って来たご様子ですなぁ。如何ですご気分は?思い知りましたか?
併し、汝さんが連れ沿って居た穴熊ノ金助は、ご一緒では無い様子だが、はて?何処へ消えて仕舞ったんですか?金助はなぜ一緒じゃない。
お願いです。最後に、金助の居所!其れだけを今際の際に懺悔して呉れ!父、丹右衛門の仇である、お前達夫婦を討つ為だけに、関東中を彷徨いながら、艱難辛苦を乗越えて来たんだ。」
そう謂うと丹次は、先程迄とは打って変わって、大魔神の変身が如く、佛から鬼へと変わりお凛を睨み返す。お凛は目を逸らし口を開く。
お凛「あゝ、誠に取り返しの付かぬ、済まぬ事をして仕舞いました。今更貴方にはお詫びの言葉も有ません。既に先年、此の通りの始末で、
一度ならず二度までも、幼い貴方を殺そうとして、遣り損じて悪事が露見しそうになると、金助と共謀して家中の金子を奪って逃げました。
其の後は、二人して上州、野州、常陸に下総、上総、そして武州へ流れ着き、最後は江戸表へと参りまして、浅草馬道で口入屋を始めます。
まぁ、口入屋とは言っても其れは表向き。堅気の商じゃ有りません。裏では拐かしに人攫いで金助が、女を江戸へ連れて来ては廓へ叩売る。
江戸に来て一年半は面白、可笑しく悪事三昧していたら、突然、アタイの頭や顔に梅毒(カサ)が出来て…医者に通い始めたが塩梅悪い。
そしたら金助の奴、店の有金全部持ち出して、外妾(メカケ)と一緒に、江戸を逐電しちまった。途方に呉れた妾は、暫くは半狂乱だった。
どんどん梅毒(カサ)は悪くなる一方だし、どうやら金助の野郎は外妾を連れて奥州へ逃げた所迄を突き止めたから、店を売って旅に出た。
併し、路銀は底をついて、この宇都宮で身動きが取れなく成り万事休す。乞食に成り、挙句はコソ泥になり…捕まって叩き殺される所でした。
此の梅毒(カサ)って病は兎に角、腹が空く。地獄の餓鬼に成ったような心持ちで、絶えず何んか食っていないと落ち着かない。厄介です。
何んとか、奥州へ逃げた金助を見付けて、怨み節の一つも言ってやり、喉元へ喰い付いて噛み殺してやりたいが、哀れ其れも叶いません。
そんな日々を送る中、今日は赤飯二つに阿部川を一つ盗み捕まって、遂に叩殺されると諦めた、其処へ汝が現れて、助けて下さり其の上に二分の銭迄も下さった。泪が出る嬉しさです。
もう!心は定まりました。スッキリした心のまま、此処で貴方に討たれます。直接は金助が殺りましたが、私にも片棒担いだ責任が有ます。
最期に貴方に逢えて、晴々した心で死ねるのは本当に幸いです。盗み食いで叩き殺される所だったのですから、さぁ、私を斬って下さい。」
そう謂うと、お凛は襟垢だらけの穢い首を差し出した。是程の毒婦が菩薩の様な顔になり、一点の曇りなく観音丹次に討たれ様としている。
数々の悪事の報いからか?この様な厳しい業を背負い、不治の病に苦しみ、穴熊ノ金助という亭主にも見捨てられて、地獄で苦しんでいる。
丹次「お凛さん、汝はそんな身体に成っても金助への凛気は止まずか?殺して遣りたい情念が有ると謂う。女の性をまだ持ち続けて居様だ。
一方、私にとっても穴熊ノ金助は父の仇だから、必ずや近日討ち取る所存だ。つまり金助の野郎は私が殺すから、お凛さん!任せて呉れ。
その代わりと言っては変だが、汝は梅毒を治して、尼となり父の菩提を生涯弔っては貰えないだろうか?その方が亡き父もきっと喜ぶ筈だ」
丹次からの全く思いも掛けぬ提案に、お凛は驚いた。何んと此の丹次という漢は自分を許すと謂うのである。お凛は泪が止まらなく溢れた。
お凛「あゝ、丹次さん!汝は本気で妾を助けると仰いますか?水澤村の旦那様を殺す片棒を担いだ妾を。何んと!罪深かき罪人で有ろうに。
でも、汝に助けられた此の命、必ずや、梅毒(カサ)を治して尼となり、旦那様、丹右衛門様の菩提を一生を掛けて、弔い続けまする。」
丹次「ウン!宜く聴き分けて下さいました。汝とは一度は母子としての契りが御座る。幼い日に汝に可愛いがられた面影がまだ胸に有る。」
そう謂うと、観音丹次は改めて、胴巻の中より、金五両を取り出し、其れを紙に包んだ。
丹次「お凛殿。恐らくコレが今生の別れと成りましょう。この金子を差し上げます。コレで身の回りの支度を万端整えて、尼に成りなさい」
お凛「まぁ有難う御座います。又、此の様な纏まった金子を頂戴し、何んともお礼の申し様が御座いません。必ず尼に成り恩返し致します」
お凛は、丹次が渡した金子を、再三、押し頂く様にして見せて、懐中に仕舞うのであった。既に日が大きく西に傾き、影が長く成っていた。
丹次「では、お名残り惜しくは御座いますが、此処で別れましょう。二度と会わぬとは思いますが、お元気で、さらばで御座る、お凛殿。」
お凛「あゝ、丹次さん!今暫く………。」
と、お凛は観音丹次に縋り付き、引き留め様と致しますが「未練な事を致すな!」と、其れを振り切り、強引に其の場を立去って行きます。
そして、四、五町も駆けますと、お凛の姿は見えなくなります。あゝ、世に悪事の栄える事は無いと、丹次はお凛を見てつくづく思います。
水澤村の名主の妹だったお凛。何不自由無く、人生を送り、蝶よ!花よ!とお嬢様として育てられた。併し、穴熊ノ金助という男と出会い、
人生の歯車が狂い出す。朱に染ると紅くなるが、一度染まると中々後戻りは出来ぬ物。果たして、今日のお凛は真に改心したのか?さて?
徐々に、疑心暗鬼に成る、観音丹次で御座います。お凛が単に調子を合わせて、又、口先だけで、芝居を打ってやがるんじゃぁないの?と、
半分は疑った方が宜いぞと思いますから、本当に改心して、尼に成るか?見届け様と思い立ちます。そして、お凛が真に尼になる様ならば、
丹次が宜い医者を見付けてやって、お凛の梅毒(カサ)を治してやる位の積もりで御座いますが、果たして毒婦お凛は改心したのか?否か?
此の続きは、次回のお楽しみと謂う事で、今回は前半に、柳ノお仙の壮絶な死をお届けし、後半は因果応報の業病お凛と丹次の再会でした。
つづく