二十四回目の仕切りで、遂に行司の軍配が返ります。喧嘩四つのこの相撲、立合いの瞬間に勝負が決まって仕舞います。
綾錦は、頭から立髪の胸板へ当たり、頭を相手の胸に付けて、前三ツへの両差し。一方の立髪は右上手に拘り掴んだが、もう勝負あり。
綾錦が、グッと両前三ツを引いて、頭を付けたまんま、電車道!白虎柱と朱雀柱の間、向こう正面に立髪を一気に寄り切り!軍配は綾錦。
綾錦!日本一!
又、割れんばかりの歓声の中、神田ノ長兵衛の升からは、一斉に二十、三十の夥しい数の羽織が土俵ん中へ投げ込まれます。
一方、芝ノ長兵衛の升はと見てやれば?立合い前の勢いは何処へやら?立髪が負けるやいなや、桟敷を立って帰る子分が一人又一人。
親分の芝ノ長兵衛ですら、霧隠才蔵の如くドロンと居なくなります。其れでも、ご招待の伊達家の連中と水谷大膳は仲後も観戦しています。
軈て今日も結びの一番。この日も無事に取組みが終わり、客は三々五々、家路へ帰る人の流れが生まれ様としています。
長兵衛「お客人、相撲が果てましたぜぇ。早く出口、回向院の正門へ先回り致しましょう。微力ながら、アッシ達も助太刀致します。」
そう神田ノ長兵衛から言われた小天狗小次郎と観音丹次は、顔を見合わせやがら、折角の長兵衛の申し出だが、丹次は是を拒否した。
丹次「長兵衛親分。折角の助太刀の申し出ですが、たった一人の相手ですから、どうか其ればかりは遠慮させて下さい。
其れに此の仇、水谷大膳は髙の知れた小物中の小物です。大勢で討ったりしたら、親分の沽券にかかわります。」
長兵衛「判った。二人で存分になるといい。」
そう謂って、神田ノ長兵衛は、此の件から手を引いて呉れた。さて、小次郎と丹次は混雑する回向院の中を、力士の支度部屋を抜けて、
更に塀を乗り越えて一旦、外に出てから回向院の正門へと先回りをした。そして、彼等が正門と両国橋へ抜ける前の道に立った時、突然!
火事だ!火事だ!
けたゝましく半鐘が鳴らされた。神田ノ長兵衛も芝ノ長兵衛も出番です。銘々の子分も皆、顔色を変え脱兎の如く火に向って駆け出した。
火事の騒ぎで、周囲は騒がしく成っても、小次郎と丹次は、目を皿の様にして、水谷大膳が現れるのを今か?今か?と、待っていた。
すると、例の伊達家の侍の二十人余りの集団が現れまして、きっと此の中に、水谷大膳も紛れているに違いないと思いますから、
小次郎と丹次は素早く手拭いで頬冠をして、伊達家の二十人余りの集団に、正門から正面に向かって突撃しながら捕まえようと致します。
一刀を腰に落とし差しにして、二人共頬冠をして顔を見難くしながら、明らかに伊達家の一団で、首実見、人探しをしている様子ですから、
やられている伊達家の連中も、『妙な風態の怪しい奴等だ?!』と思いつつ、二人の間を通り抜けて回向院の正門を出て行きます。そして、
丹次「ヤイ、待てぇ〜!其処へ行く汝、水谷大膳だなぁ?!」
小次郎「ヤイ、水谷大膳!一寸用がある、待て!」
水谷「誰だ、拙者の名前を呼ぶ奴は?」
丹次「誰でもない!俺だ、観音ノ丹次だ。見忘れたか?籠原の地蔵堂で逢ったではないか?」
小次郎「水谷大膳、流石に俺の面を忘れたら若耄碌だぞ、灸を据えてやる足を出せ。俺だよ小天狗小次郎だ!もう諦めて尋常に勝負しろ!」
と、謂って二人が頬冠を取って面を晒すと、流石に図太い水谷大膳も、狼狽して後退(あとすざり)した。
水谷「そもそも、拙者を掴まえて、仇呼ばわりする理由を教えて呉れ!?甚だ奇怪千万の濡衣で、全く身に覚えが御座らん。」
丹次「黙れ!上州安中領主板倉伊予守家臣、津田新十郎なる若侍を、籠原の地蔵堂で、汝は卑怯にも不意打を喰らわして斬り殺しただろう?
相手は重度の眼病で、暗く成ると盲目になる鳥目だ。其れを知って薄暗い地蔵堂の中で汝は目が見えない津田新十郎を斬り付けた。
何故なら、お前は、其の津田新十郎の父親、津田新左衛門も闇討ちにして、逃げている親の仇だったからだ。まだ、言い逃れる気か?」
水谷「ウーン、さてはお前、あの時の金毘羅詣りのお遍路さんか?!」
丹次「そうだ!やっと思い出したか、此の大悪党。汝に瀕死の重傷を負わされた津田新十郎が、虫の息で俺に遺言したんだ、仇討ちを。」
小次郎「水谷!貴様は何故、黙って俺の家を飛び出した?此の丹次のお遍路さんの格好を見て逃げた癖に、身に覚えが無いとは片腹痛い。
俺ん所を逃げたのが、動かぬ証拠だ水谷大膳。本当に武士の風上にも置けぬ、卑怯者の権化だ汝は。正々堂々、名乗りを上げて斬り合え!」
水谷「如何にも、汝の推理通り。安中家中の津田新十郎を討ったは拙者だが、アレは仇討ちの返り討ちに過ぎんからなぁ。
そして、もうこうなったら破れ被れだ!観音ノ丹次とか申したなぁ。侠客の剣術ゴッコと、武士の真の剣の違いを教えてやる!来い。」
そう謂うと、水谷大膳は一刀をズラりと抜くと、上段に構えて丹次に対峙した。丹次も負けじと一刀を抜くと此方は正眼に構えた。
もう相撲が果て半刻は過ぎ、火事で野次馬は少なくなっているとは言え、回向院の正門前で、刀を抜いて斬り合うと流石に野次馬は来る。
更に、伊達家の連中は、側に居て此の水谷大膳を『先生』と呼んで、こんな奴から剣術を教わっている若侍も若干は居るのである。
そんな奴等が七、八人。「水谷先生、助太刀致す!」「水谷先生、ご助成致す!」と助っ人と成り此の仇討ちを、邪魔して来るのだ。
小次郎「丹次!兎に角、助っ人は気にするなぁ、此の七、八人は俺が何とかするから、お前は水谷大膳に集中して討ち取れ。」
思わぬ妨害は有ったものの、伊達家の助っ人は小天狗小次郎が、豪快に本息で斬り付けると、チャリン!の音にビビり腰が引け、
全く戦意喪失して、自らは誰一人、斬り掛かっては来ないので、小次郎は揶揄う様に時々、順番に斬り付けては、後退させて楽しんでいた。
一方、事実上の一騎討ち、観音丹次と水谷大膳は、やはり丹次の方が圧倒的に腕に勝り、大膳は全く歯が立たず追い込まれて仕舞う。
すると、又しても水谷大膳は刀を引いて逃げ出した。丹次は「卑怯者!待て、尋常に勝負しろ!大膳。」と叫び其の後を追う。
こうなると、小天狗小次郎も、伊達家の助っ人と戯れている場合ではないので、水谷大膳の跡を、観音丹次を追って走り出した。
さて、逃げ出した水谷大膳は相変わらず健脚の持ち主で韋駄天である。回向院正門から飛び出した大膳は千歳から大川沿に土手を南下する。
萬年橋を渡り、南下を続ける水谷大膳は何処へ向かう積もりなのか?深川へ逃げ込む積もりか?逆に八丁堀、銀座、日本橋方面か?
軈て、現在の清澄庭園、元々は紀伊國屋文左衛門の屋敷だったが、この当時は関宿藩久世長門守広運屋敷で、その傍を通り更に南下する。
此の辺りでは前を行く、水谷大膳と観音丹次の差は、七、八間あり、回向院を出た時は十二、三間在った差が徐々に詰まっては居た。
更に、観音丹次から五、六間遅れて小天狗小次郎が追って来ている状況で、二人は何んとしても、水谷大膳をもう二度と逃したくなかった。
そして、佐賀堀を抜けると水谷大膳は右に曲がり永代橋を渡り始めた。観音丹次は直ぐ後ろ、半間一寸しかない、手を伸ばすと届きそうだ。
その時だった、水谷大膳は何んと!橋の欄干に飛び乗って、思いっ切り蹴り上げる様にして、大川へ飛び込んで仕舞ったのである。
観音丹次は呆然となり、永代橋の真ん中辺りに立ち尽くしていると、軈て小天狗小次郎は追い付いたが事態が呑み込めず、丹次に尋ねた。
小次郎「丹次、どうした?何が在った?」
丹次「野郎を、あと一寸で捕まえられると思った矢先、橋の欄干を飛び越えて、水谷大膳の野郎!卑怯にも、大川に飛び込みやがった。」
小次郎「そいつは仕方ないぜぇ。野郎も一か八か、命懸けの大博打で大川に飛び込んだはずだ。其れに生きていたら、又機会は必ず有る。
其れと、あの助太刀に入った侍は間違いなく伊達家の家臣だ。と謂う事は、水谷大膳の野郎、逃げ込むとしなら、伊達家の江戸屋敷だ。
上州屋の親分と長兵衛親分にも知恵を借りて、どうやったら大膳の野郎を捕まえられるか?又、作戦を練り直して闘おうぜ。
もうすぐ戌刻だろう?空はもう真っ暗だ。三河町へ早く帰ろう。あゝ、腹がペッコペコだ、鰹が食いたいなぁ〜初鰹。さぁ!帰ろう。」
二人は永代橋を渡り、神田三河町に着いた。上州屋へ帰ると、此の悔しさを語らずにはおられず、嘉四郎親分にも回向院の相撲から話した。
上州屋嘉四郎も、大層悔しがって呉れて、伊達家とは口入稼業では、知らぬ仲ではないから、探りを入れてみると、約束してくれた。
又、時刻は戌の下刻。神田ノ長兵衛が、火事も消えたと謂うので、現場からの帰り道、小次郎と丹次を気に掛けて寄って呉れて、
長兵衛「併し、其の水谷大膳とかいう野郎。そう遠くへは逃げませんよ。伊達屋敷に又潜り込むなら、私も何か策を考えてみましょう。」
そう謂って長兵衛は、小柳町へと帰って行きました。さて、その後も上州屋、長兵衛、両方から伊達屋敷に探りを入れては見ましたが、
早々、簡単に尻尾(しっぽ)を出す程、間抜けな相手では有りませんし、屋敷内の事を外から探るのは、中々もどかしく思うに任せません。
水谷大膳が永代橋から大川に飛び込んでから、今日で五日が過ぎたが、生死を含め大膳の消息は杳として知れなかった。
小天狗小次郎と観音丹次は、小柳町の長兵衛の家に来ていた。初鰹を丸々一匹仕入れたからと片身は刺身、もう片身はタタキにすると謂う。
長兵衛「どうです?江戸の初鰹は。」
小次郎「江戸っ子は、何は無くとも初鰹だと聴きますが、正直、アッシはマグロや鯛の方が好きです。」
丹次「俺は此の薬味を、たっぷり乗せて食う鰹が大好きです。生姜、大蒜、茗荷、そして葱を乗せて大葉に巻く、之が堪らない。」
長兵衛「アッシは江戸っ子だから、辛子だけで頂きますが、まぁ、人それぞれで美味しく頂ければ、其れに越した事は無い。」
そんな噺をしながら三人が、昼間から初鰹で一杯やっていると、長兵衛宅に来客があり、其れは今川橋の料亭『千歳』からの遣者でした。
遣者「御免下さい。」
取次「何んだい?」
遣者「へぇ、私は今川橋の料理屋、千歳から参ったのですが、只今一人のお武家様が店に来られて、此方にいらっしゃる観音ノ丹次さんを、
呼んで来て欲しいと仰られまして、此方へ参った次第で御座います。どうか、観音ノ丹次さんに、お取り次ぎ願います。」
取次「そのお武家様のお名前は?」
遣者「其れが名前を仰りませんで。ただ、人品の宜しい方です。そして、観音ノ丹次さんを呼んで欲しいとだけ。」
怪しげな此の誘いを、取次の子分から聴いた、長兵衛と小天狗小次郎は、水谷大膳の計略かも知れないと止めましたが、
観音丹次は、喩え、大膳の計略でも、虎穴に入らずんば虎子を得ずと、大胆にも、此の謎の武士の誘いに乗って、千歳へと出向くのです。
さて、当たって砕けろ!人生成り行き!鬼が出るか?邪魔が出るか?吉と出るか?凶と出るか?三万円、五万円、十万円運命の分かれ道、
と、思いながら、観音丹次は、遣者に連れられて、『謎の武士』が待つと言う、神田堀の今川橋の料亭千歳にやってきた。
間口が三、四間ある実に立派な比較的新しい檜の匂いがしそうな料亭である。千代田城に程近く、如何にも武家が好む店構えである。
遣者「観音ノ丹次親分をお連れしました。 観音の親分、こちらで暫くお待ち下さい。直ぐに案内の者が参ります。」
そう謂うと、遣者は広い玄関に丹次を置いて去り、代わりに直ぐ仲居が奥から現れて、丹次に丁寧な物言いで尋ねるのである。
仲居「ようこそいらっしゃいませ。貴方様が、観音ノ丹次親分で御座いますか?」
丹次「そうです。私が観音ノ丹次です。さて、私をお呼びになったのは、お武家様とお伺いしましたが、大勢の皆様なのでしょうか?」
仲居「いいえ、御侍様、お一人です。先刻より大層お待ち兼ねに成っておられます。さぁ、ご案内致しますので、お上がり下さい。」
そう謂うと仲居は丹次の前に立ち、其の奥へと長い廊下をズイズイ案内して行ます。丹次が正面を見て進むと、奥に一人の人影が現れます。
一番奥の座敷の前には、実に人品の宜しい、三十七、八歳の侍が一人、出迎えて呉れる様に立って居たが、丹次は一向に見覚えがない。
その侍は、丹次を確かめる様に見ると、仲居にボソボソと耳打した。さて其の床の間の刀架には、侍が手挟んで来た長刀が置かれていた。
仲居は出迎えて呉れた侍に向かって、今更の様に丹次を紹介するのである。又、侍は部屋へ先に戻り着座すると、帯前に小刀を指して居た。
仲居「あのー、旦那、観音ノ丹次親分に御座います。」
武士「オウ、其れは大きにご苦労様。さぁ、親分、どうぞ中へお這入り下さい。」
侍に入室を促された観音丹次。もう戦いは始まっていると感じたからか?用心した様子で、刀を右に置き、敷居を跨がず廊下に座ります。
此の刀を『右』に置くのは侠客の礼儀で、敵意が無い事を示す為に、侠客は刀を敢えて右に置きます。何故なら利き手で刀が抜けないから。
丹次「えゝ、私がお招きに預かりました観音ノ丹次で御座いますが、何か御用がお有りでしょうか?」
武士「親分!態々こんな所にお呼び立てして申し訳ないが、流石に其処に居られては、噺が遠いので、もそっと中へお進み下さい。
警戒なさるのは、至極御尤もではあろうが、敵意は御座いません。中へ這入って下さい。仲居!親分に早く布団を差し上げぬかぁ!」
気が利かぬ仲居に侍が怒鳴る様に謂うと、仲居はやや驚いた様子で、布団を出して観音丹次に薦めた。そして、唐紙を閉めて立ち去った。
初めて二人だけになり、密室には一寸重い空気がドンよりする。どちらも、相手の様子を伺う感じで沈黙が続く、其処へ仲居が戻った。
仲居「熱燗と、お連れ様のお料亭をお持ちしました。」
武士「ハイ、お願いします。そして、配膳が済んだら、手を叩くまで誰も此の座敷には這入るなと伝えて呉れ。宜しいなぁ?」
仲居は、手際よく配膳して、一杯ずつ熱燗を二人に御酌をすると、「ごゆっくりどうぞ!」と、言って立ち去り、又、密室に戻ります。
丹次「あのー、単刀直入に。先ず汝は一体全体誰なんですか?私は汝を一向に見覚えがないのですが?」
武士「ハハハ、ハハハッ!確かにそうであろう。拙者と貴殿がお逢いした折、貴殿はまだ幼い子供で在った。
見忘れたと謂われても無理はない。拙者は貴殿がまだ、水澤の高橋の家に居らした時分に能く逢っている。
丹次「水澤の高橋の家で、私と能く逢って居たと仰いますか?いや〜、全く記憶に無い!思い出せません。」
武士「ホゝォ〜、左様かぁ。まぁ仕方ないだろうなぁ。拙者は其の当時、実に卑しく穢い見窄らしい格好(ナリ)をしておったからなぁ。
当時、拙者は水澤の宿外れの溜池の脇に蒲鉾小屋を拵えて、其れを住処にして居た、乞食非人の六蔵と名乗っていた者だ。
貴殿は拙者を忘れる事はあるまい。其の当時は乞食だったが、其の実は仙台藩伊達陸奥守の家臣、大塚文左衛門というのが拙者の本名だ。
どうしてあの様な乞食に迄身を窶したかと謂うと、我が國元に於いて、先年我が兄・大塚左内が同役の馬場一角に暗殺されたのが始まりだ。
部屋詰めだった私は、兄の仇を討たねば家督を継げず、大塚の家が断絶するので、仇討ちの旅に出たが、中々、馬場一角は見付からない。
先ず奥州中を探し、そして関東へと足を伸ばしたが、全く見付からず、当々路銀を使い果たし、身動きが取なく成ったのが水澤村だった。
生きる為拠なく乞食となり、あの溜池の傍に蒲鉾小屋を建て、其処を寝ぐらに仇討ちを見失いかけた其の時に、溜池で貴殿を助けたのだ。」
丹次「エッ!ではあの時の命の恩人、六蔵さんが貴方でしたか?!」
いやー丹次は驚きます。あの水澤村で、穴熊ノ金助と毒婦お凛に二度も殺されかけた丹次を助け、その後、初代剣術指南と成った六蔵です。
蛇足さん!謎が解けてお喜びでしょう。あの六蔵は唯の乞食ではなかった。そして、丹次の剣術指南を突然辞めたのは、仇討ちの為でした。
流石、三部構成の超大作。力士の綾錦に続き、乞食の六蔵までも伏線回収!そして、講釈あるあるですが、綾錦も六蔵も読返しちゃいます。
大塚「丹次殿、驚かれるのは御尤も。あの折、貴殿が金助達に命を狙われて、大変だった際には、貴殿を守護して遣りたいのは山々なれど、
拙者にも仇討ちと謂う大使命が有り、軈て貴方の方が突然、水澤村から居なく成った。探したんですよ拙者は汝を。だが見付から無かった。
皮肉な物で、丹次殿、貴方の消息を探していると偶然、馬場一角の居所が信州だと知れて、遂に信州路に赴き、紆余曲折色々有って、
信州の北の外れ、越後との國境に在る戸隠村で仇・馬場一角を討ち取ります。其れにより仇討ちが藩に認められ、愛でたく兄の家督を相続。
其れが一昨年の事で、國元に帰参が叶い兄と同俸禄、八百石を頂いて、今年からは此の江戸勤番と相成ったとう訳で御座います。
そんな訳で、拙者、今は芝の伊達家江戸屋敷住まいと成っておるのだが、出入りの口入屋、上州屋嘉四郎から、観音ノ丹次の噂を聴いて、
観音ノ丹次に付いて色々と仔細を聴き入る内に、此の観音ノ丹次は、高崎水澤村の高橋丹次郎さんに違いないと確信したのです。
其れで、最初は上州屋へ遣いを出したら、火消しの神田ノ長兵衛親分の家に出掛けたと謂うから、小柳町へ更に貰いを掛けたという訳です。
併し、丹次さん!貴殿は立派に成られた。拙者はこうして、再会出来て本当に嬉しい。本当に宜かった、一人前の漢の丹次さんに逢えて。」
此の噺を聴いた観音丹次は、布団を外して座り直し、畳に手を着き、頭を下げて申します。
丹次「あゝ左様で御座いましたか、旦那様、誠に恐れ入りました。お見外れしまして相済みません。又仇討ち成就!おめでとう御座います。
そして何んと申しましても、水澤でのあの折、一度ならず、二度までも命を助けて頂き、此の丹次が今日在るのは一重に貴方のお陰です。
いやぁ〜、旦那様は何度尋ねても、乞食の六蔵としか仰いませんし、國元の水澤村を飛び出してからも、六蔵さんはどうしているか?と、
ずっと旅の空で、六蔵さん、旦那様の事を考えては又逢いたいと常々思って居りましたが、本当に旦那様にこうして逢えて丹次幸せです。」
大塚「ハハハ、ハハハッ、其れは何より結構。ところで、水澤村で汝から仔細を聴いた父上の仇、穴熊ノ金助と義母で毒婦、お凛の両名は、未だに見付からないのであるかなぁ?」
丹次「残念ながら。由えにこうして、私は未だに旅から旅の暮らしで御座います。情け無い事に、今現在も、両人の所在は知れません。」
大塚「おう、然らば貴殿は未だに仇討ちを成し遂げてはおらぬのかぁ〜、さすれば裏を返せば、貴殿は大望を抱く大切な身体だなぁ?」
丹次「ハイ、左様で御座います。」
大塚「其の大切な身体で、貴殿は、何故、あの水谷大膳の様な輩を仇と謂って付け狙う?」
丹次「エッ!どうして貴方が其れを?!ご存知なのですか?」
観音丹次は、驚き狼狽えた。同じ伊達藩とはいえ、大塚文左衛門が、水谷大膳と丹次の関係の仔細を、なぜ知っているのか?不思議だった。
大塚「其れは四、五日前だったか『水谷大膳が回向院の門前で二人の侠客から仇呼ばわりされて斬り合った。』と、同役の者から聴いた。
仔細を教えろと拙者が謂うと、芝の長兵衛の招待で、回向院へ相撲見物に行った帰りの事で、斬り合った相手は小天狗小次郎と観音ノ丹次。
水谷大膳は、禄は低いが伊達家家中だ。それで何人か家中の者で大膳を見知る者が助太刀致したが、大膳は勝負を捨てゝ途中で逃げ出し、
大川沿に永代橋まで来ると、欄干から川へ飛び込み逃げたと謂うのだ。確かに、此の水谷大膳はズバ抜けて、水練に長けている。河童だ。
其れで、丹次さん、貴殿と何時逢うか?と考えて居た矢先此の噺だ。貴殿は小次郎殿と永代橋まで追い掛けたと同役からは聴いた。だから、
貴殿は、其の仇と狙う水谷大膳の事が知りたいに違い無いと睨んで、態々、今日此処にお呼びしたんだ。聴きたい事は何んでも教えます。」
是又、丹次は大いに驚いた。相変わらず六蔵さんは何でもお見通しだと改めて思った。
そして、水谷大膳の件に関しては完成に手詰まりだったので、本当に嬉しく思えた。
丹次「旦那、いやぁ〜恐入りました。実は水谷大膳とは、カクカクしかじかの因縁が有りまして、そんな訳で仇討ちを引継ぎしたんです。」
大塚「仇討ちの引継ぎって…而も、自身は仇討ちの最中なのに、丹次さんは水澤村の時と全く変わってませんね。改めて嬉しくなりました。
兎に角、水谷大膳と伊達家の関係からご説明します。其の辺りが知りたいでしょうから。水谷大膳は丁度一年位前から伊達家に仕えてゝ、
芝宇田川町の仙台藩江戸屋敷に住んでおります。大膳は江戸留守居役小見山藤太夫という方の配下で百五十石取の剣術指南をしています。
ご存知の櫻井禽太夫、松本監物そして山田藤八郎は水谷大膳の門弟で、芝ノ長兵衛から招待された相撲見物の連中の多くもそうです。
拙者も江戸へ参った当初、大膳とは心安い関係に成ったのだが、いやはや中々表面は人当たりの宜い人物に見えて、腹に一物在ると謂うか、
実に腹黒く打算的、武士道とか道理よりも、自身の利益を優先する。あの回向院の門前から逃走した折も、永代橋から河中へ飛び込んだ時、
素より自身の水練の腕前を把握してますから、直ぐ岸へは上がらず、其の儘下流へ泳ぎ行き、遂には上屋敷の水門から泉水縁へ抜けて、
御殿の庭へと上がり着いて、何食わぬ顔で留守居役の長屋へと立ち帰ったのです。そんな訳ですから大膳は全く貝に成り外出しません。
此の儘外出しなければ、丹次さんが大膳を討つのは不可能ですから、拙者が一つ策を練り、大膳の奴を外へ連出て差し上げましょう。」
丹次「其の口降りでは、六蔵さん、いや、大塚の旦那。何か策の心当たりがお有りですぬぇ〜、其れを是非、お聴かせ下さい。」
大塚「実は、水谷大膳は吉原江戸町一丁目の妓楼角の玉屋山三郎に貂蝉妓というお職があり、この貂蝉に水谷大膳は入れ上げております。」
丹次「すいません、吉原の事に疎いので教えて下さい。その妓楼、妓って何ですか?」
大塚「其れは、文化の素養が高い花魁に有って、歌舞音曲、中でも優れた歌詠みの花魁を名妓と呼びます。まぁ玉屋は歌姫の多い廓です。
そんな玉屋の貂蝉花魁に大膳は夢中ですから、吉原へ行こう!と、誘って貂蝉花魁に貰いを予め掛けて於けば必ず、行くはずです。
そして、泊まる事はまず無いので大引け過ぎには帰るから、吉原土手で待ち伏せしたら、水谷大膳は討ち取れると思います。
兎に角、そうですね、準備に時間も必要ですから、今月二十八日はどうですか?二十八日に貂蝉花魁に貰いを掛けて、大膳を誘い出します。
貴方も、小天狗小次郎さんと、よーく作戦を練ってご準備、お願いします。もう、是が最後です。絶対に討ち漏らさぬ様にお願いします。」
そんな吉左右を耳に、観音丹次は大塚文左衛門との再会を祝して、この日も深夜まで酒宴は続いた。
三河町へ帰った観音丹次。小天狗小次郎に今日再会した大塚文左衛門から齎れた策を、噛んで含む様に説明し、二人は二十八日に備えた。
そして、迎えた二十八日。丹次と小次郎の二人は酉刻、夕景よりイザ吉原と、ちょいとおめかし致しまして、雪駄を鳴らして出掛けます。
既に、二人して襷・鉢巻持って裏を返しておりますから、たった二回の吉原なれど、二人は既に色事師。♪丹次は色事師、色事師の丹次!
と、頭の中では唄が聴こえて来るくらいに、少し、仇討ちに託けて、吉原を楽しむ余裕が御座います、観音丹次。向七軒が見えて来ます。
謂わずと知れた引手茶屋の俵屋へと参ります。と、女将は中々百戦錬磨で如才ないですから、泳ぐ様にして、頭の頂上から声を出します。
女将「オヤ、小天狗の親分と観音の親分!よーこそのお運びで、ささぁお通り下さい。」
丹次「女将さん、其の節はお世話になりました。二階、いつもの席は空いてますか?」
女将「ハイ、勿論。親分方のお席ですから。寺尾聰のベストテンみたく、緋毛氈張りにしましょうかねぇ〜、お二階二名様ご案内ぃ〜」
女将がそう謂うと、毎度お馴染み、初回・裏と連続登場!八木節の様なデブの女中が巨体を揺らして二人を連れて二階へと進撃します。
女中「観音の親分、何に致しますが?」
丹次「酒は熱燗にして呉れ。熱くだそ!熱く。そして、肴はカツヲとマグロ一人前。カツヲは薬味に葱と生姜だ。在れば茗荷と大蒜も。」
女中「カツヲとマグロは、一人一人前ですか?」
丹次「違うよ、俺がカツヲで兄貴はマグロだ。其れから女将に直ぐ来て呉れと頼む。」
デブ女中が毎度身体に似合わぬ早技を見せて呉れると、入れ替わる様に女将が、下から上がって来た。
丹次「おゝ、女将!今日も案内をしてくれ。」
女将「ハイ畏まりました。本日も三浦屋さんで宜しいですか?」
丹次「三浦屋はもう飽きた。今日は別にしよう。そうだなぁ〜、一つ玉屋山三郎でお願いしよう。」
女将「おや?角玉ですかぁ〜。知ってます?親分方、角玉の新人(ニューフェイス)、姉の千早太夫と妹の神代太夫の太夫シスターズ。」
小次郎「本当か?それじゃ是非にも俺が千早で、丹次を神代にしないと。実は女将、俺と丹次の女房は姉妹なんだぞ!」
女将「あらまぁ〜、そうなんですかぁ〜。」
丹次「兄貴、其の前に綾錦関を玉屋に連れて行って、千早と神代に連続で振られるか?俺は其れを試してみたいぜぇ。」
小次郎「ところで、女将、玉屋はなぜ、角玉なんだ?」
女将「妓楼角の玉屋を縮めて、角玉です。江戸っ子は何でも縮めます。雁モドキもガンモだし、では角玉へ噺をお通し致します。」
暫くすると、二階が地震の様に揺れて、小次郎と丹次にカツヲとマグロ、そして熱燗が届いた。相変わらずデブ女中の手際はいい。
小次郎と丹次は、今度こそ水谷大膳を討ち取る強い決意を固めながら、千早と神代が気になる様子で、酒と肴を堪能していた。
つづく