お見立て済んだ亥刻に、銘々の部屋へ引き上げて、振られた奴がお越し番、

逆に朝寝の色事師、手練手管の花魁が、「ありんす」忘れ、「ズラ、ダラ」と、

お國訛りを思い出し、主の為よと縦を引く、此処は吉原仲の町。


そんな夜の事でした。中引け子刻の鐘が聴えて来た頃、一人悶々と眠れぬ夜を、神田小柳町、一番組、よ組の頭領・長兵衛は過ごしていた。

この夜、長兵衛に付いたお職は、もう、一年半で年が明ける大年増の夕霧であり。「怒れ突かれて 流した汗に 主の泪か ため息か」

夕霧「主、何ぞお有りんしたか?アチキの粗相でありんしたら、謂うてくんなまし。」

長兵衛「イヤ、お前のせいではない、夕霧。皆んなオイラが悪いのさぁ。」

夕霧「尾藤イサオでありんす。」

長兵衛「一寸、じょんべんして来る。」

夕霧「お早いお帰りで。」

部屋を出て、次の間で着替えて外に出た長兵衛は、長い廊下を通り、子分の二人と客人の小次郎、丹次が寝て居るか?確認し、

彼等が全て白川夜船の最中と分かると、顔をパンパンと、音がする位力士の様に気合いを入れて、急ぎ足で七軒の俵屋へと向かう。

すると、途中、番太郎の峰次と廊下で声を掛けられて、長兵衛は少しドキっとした。

峰次「どうしました?小柳町の親分。憚りですか?」

長兵衛「いや、一寸大切な用を思い出して、神田に戻る所だ。丁度良かった。峰次、提灯を貸して呉れ。俵屋に置いて於くから頼む。」

峰次「そいつはご苦労さんです。」

峰次に借りた提灯をブラ下げて、神田ノ長兵衛は七軒の俵屋へと戻り、雨戸を叩く。すると、誰だ?ッと嫌な眠むそうな顔で若衆が開ける。

若衆「一寸、誰ですか?こんな夜中に。」

長兵衛「俺だ!開けて呉れ。」

若衆「ハイ、今開けます。なんだぁ、神田ノ長兵衛親分。今頃、何んですか?」

長兵衛「何でも宜い、早く開けて呉れ。」

若衆は、眠い目を擦り擦り、戸を開けて、長兵衛を中へ入れた。

長兵衛「イヤ、済まないなぁ、叩き起こして。俺が連れて来た客人や、子分はまだ寝ているが、俺はやんごとない用事が出来て家に帰らないといけなく成ったんだ。

勘定を済ませて、明日四人が少し呑み食いする位の銭は置いて行くから、夜明けには、家に居ないとまずいんだぁ。」

若衆「左様ですか、では駕籠を呼びますか?」

長兵衛「イヤ、其れには及ばない。歩いて帰るから心配は要らない。其れより宵の口に預けた腰の物を出して呉んなぁ。」

若衆から預けて置いた胴輪の一刀を受け取ると、神田ノ長兵衛は、サッと腰に落とし差しにして、俵屋を後にすると大門をでた。

そして五十軒から吉原土手へと掛かって参りますと、堤に掛かる辺りで、適当な陰になる茂みに身を隠した神田ノ長兵衛は、

『仙台藩の連れが有るから、芝の野郎は、大引け過ぎに、必ず、出て来るに違いない。』と、心で呟き、眉間に出来た今日の傷を触ります。

そして『よくも、男の面体に刻印を打ちやがって、今にどうするか見てやがれ、糞ッたれめぇ!!』と、念じまして、一刀の目釘を湿し、

下帯を外して是を襷十字に綾なして、手拭いを捻り向う鉢巻に致します。そして、土手の片側に生い茂る場所に身を隠して埋伏致します。


この吉原土手から堤の辺りは、江戸勤番の大名家の藩士が、大引け過ぎに集まり、江戸屋敷へと集団で帰る為の集合場所なのである。

是は、現代の様にタクシー代を節約する為の相乗りではないが、各人が屋敷へバラバラの時間に駕籠へ乗って帰ると、門番が堪らないから、

此処は最低のエチケットで、この場所に集合して、集団で屋敷には帰るのである。そして、この日も夜桜帰りの集団が既に二組出来て居た。

すると時刻は寅刻を過ぎ、東雲の空が揚々に白く見え始めた時である。又、別の新しい集団が、この吉原堤の前に集まって来た。

芝長「さぁさぁ、危のう御座いますから、足元に気を付けてください。櫻井様。」

櫻井「よいよい、大丈夫だ。少し迎え酒が過ぎた。併し、長兵衛!汝のおもてなしは格別であった。女郎の見立ても良く、礼を申すぞ。山田!お主の相手は如何であった?」

山田「オウ、櫻井。いやぁ〜今宵はモテた!モテた!」

櫻井「そうか?松本、貴殿もモテたか?」

松本「あぁ〜、モテた!モテた。我々も捨てたモンじゃない。之は又近日、裏を返しに来ないいかんなぁ、櫻井。」

櫻井「勿論だ!裏を返しに又来よう。桜の有る内にもう一度。のう、長兵衛!又世話して呉れるか?宜しく頼む。」

芝長「ハイ、畏まって御座います。本日は誠に有難う御座いました。」

そう言って、堤に沿って、四人が歩き始めると、暗い茂みの中から、人影が飛び出したので、一瞬ドキッとして四人は足を止めた。

神長「ヤイ!芝ノ長兵衛。待った!!」

芝長「誰れだ?待てと止めやがるのは?」

神長「俺だ!神田ノ長兵衛だ。用が有るから待ちやがれ!」

芝長「何ぃ〜、神田ノ長兵衛だとぉ〜。野郎、乙な事をしやがる。さては、俺が櫻井の旦那に成り代わり、汝の眉間を割ったのを、

まだ怨みに思って居やがるなぁ。女々しい野郎だ。お前一人なのか?」

神長「男の面体、眉間に傷を付けやがって、客人を連れて居たから俵屋では我慢したが、もう、容赦しねぇ〜から覚悟しろ!サッ抜け!」

芝長「内弁慶の癖に、生意気な事を吐き(ほざき)やがる。」

櫻井「ヤイ、長兵衛。如何いたした?何者だ、其奴は?」

芝長「此の野郎は、神田ノ長兵衛と言って、アッシの同業の火消しの頭なんです。そして、さっき七軒町で、櫻井様の頭に猪口をぶつけた、

あの一件で土下座をしたのが此の野郎で、アッシに煙管で眉間を割られて、逆怨みしやがって、アッシ達を待ち伏せしてやがったんです。

伊達家の旦那方、二番組め組の用心棒としての初仕事に御座んす。この腐れ外道の神田ノ長兵衛を叩き斬ってやって下さい。」

櫻井「相分かった。そいつは面白い。ヤイ、下郎!宵の口は一旦、許してやったが、こうなったからには噺は別だ。我々は長兵衛の助太刀だ。汝の息の根を止めてやる、覚悟しろ!」

神長「巫山戯た事を吐くな田舎侍。あの場面は廓ん中だから、刃傷沙汰が面倒だし、大切な客人も居たから我慢してやっただけだ!

そうでなけりゃぁ、汝等如き腰抜けの町奴と、奴田舎侍が十人二十人束になっても、怯む神田ノ長兵衛じゃねぇ〜!掛かって来い三一!」

そう謂うと、神田ノ長兵衛は最後の啖呵を切りました。


一方噺は変わりまして、吉原の廓ん中はと見てやれば、三浦屋治郎左衛門に於いては、小天狗小次郎、観音丹次の二人は大引け前には起きて、

東雲、三津の両花魁の細帯を、襷十字に綾なして、襦袢用の中帯を後鉢巻に致しますと、実に、廓から出陣武者へと早替わり。

勘の宜い二人ですから、仔細は知らねど、宵の口の一件を、神田ノ長兵衛くらいの親分が、呑み込んで仕舞う筈が無いと踏んだ二人。

引手茶屋の俵屋まで引き返してみると、案の定、女将が謂う事には神田ノ長兵衛は帳場を済ませ、半刻ばかり前に大門を出たと謂う。

小次郎「如何やら神田の親分は、俺たちを寝かせて於いて一人で、出入りの支度をし、宵の口に揉めた連中と喧嘩する気だぜぇ。」

丹次「何んとも、水臭ぇ〜じゃねぇ〜かぁ、親分さんは。でも、グズグズしちゃぁ〜おれない、兄弟!早く長兵衛親分の助太刀に。」

小次郎「こりゃぁ、長兵衛親分は何処かで埋伏しているに違いない。女将、俺たちは江戸へ来て日が浅い、親分が喧嘩するなら何処を選ぶと思いなさる?」

女将「さぁ〜、妾(わたし)は女ですからねぇ〜、喧嘩の事は。でも、勤番のお侍様を待ち伏せするなら、多分、堤傍の土手ですよ。」

小次郎「ヨシ、有難う!女将。丹次、行くぞ。神田ノ長兵衛親分を死なせる訳にゃぁ〜いかない。」

益々合点が行きました兄弟分の二人は、急いで大門を出て日本堤の真ん中辺りまで来ると、見えました。二人の長兵衛が対峙して、

芝ノ長兵衛の方には、三人の侍が付いて助太刀をしている様子、『神田ノ長兵衛の命が危ない!』そう心で叫びます、小次郎と丹次。


待て!待て!待てぇ〜。


小次郎「オーイ、神田ノ長兵衛親分。小天狗小次郎と観音ノ丹次が助成します。おう、三時間一、俺たちが来たからにゃぁ生かして置かない。覚悟しやがれ!」

と、叫びながら素早く一刀を抜いて、土手を降り、神田ノ長兵衛の脇に立って、二人は抜いた刀をピタッと構えます。

一方、め組の用心棒、伊達家の侍三人は、迎え酒で酔っておりますし、高々町奴三人位と舐め切って御座いますから、

此方も刀を抜いて受けて立ちます。チャリン、チャリンと火花が散って斬り合い出しますと、いやはや強い!と、侍達は気付きます。

殊に助っ人に入った二人、小次郎と丹次は勢いが有り圧倒的な手数で斬り付け、受けが遅れると手傷になり、侍達は手や頬を斬られます。

愈々、伊達家の侍、め組の用心棒の三人は酔いも冷めて参りますと、此のままでは殺される!と、感じ必死に二人の刃を交わします。

最初の勢いは何処へやら、伊達家の連中は土砂を二人に投げて、目が見えない隙に、土手を上がり堤の向こうへ一目散に逃げ出しました。

さぁ〜こうなると、芝ノ長兵衛は堪りません。逃げ出した頼り無い用心棒の跡を付いて逃げるしかなく、姿を消して仕舞います。

小次郎「卑怯者め!逃げ出しやがった。長兵衛親分、追い掛けますか?」

神長「イヤ、逃げ出した奴を追うには及ばねぇ〜。所詮、卑怯者の集まりだ。下手に深追いして、又、奴等の卑怯な計略にやられては、

間尺に合わないだろう、其れにしても、実に危ない所を助けに来て呉れて、本当に有難う。助かったぜぇ、礼を謂うよ、ご両人。」

丹次「おや?長兵衛親分、血がぁ。お前さん怪我をなさったか?」

神長「イヤぁ、大した事はない、ほんの擦り傷だ。まぁ兎に角、無事に納まり、俺の面子も立った。改めて礼を謂う、有難うよ!」

三人が、そんな会話をしていると、俵屋の女将から起こされた二人の権六が、まだ、眠そうな目を擦りながら、おっとり刀で駆け付けます。

腕権「親分!大丈夫ですか?血が出てますよ。」

神長「ベラ棒めぇ。肝心な時には居なくて、余計な時だけ喧嘩しやがる。だから、お前達は出世しないんだ。お客人を見習え、馬鹿野郎が。

もう、とっくの昔に、小天狗小次郎さんと観音ノ丹次さんが、芝ノ長兵衛達を蹴散らして、俺を助けに来て下さった。今頃来ても後祭だ!」

勇権「何んだ、終わったのかぁ。腹減りません?親分。俵屋へ戻って呑み直しますか?迎え酒の分も勘定済なら、呑まないと損です。」

長兵衛「ヨシ、喧嘩に勝った祝いだし、小次郎さんと丹次さんにお礼も兼ねて、呑み直すかぁ、サッ、俵屋へ戻るぞ。」

五人は、フラッカ!フラッカ!再び大門を潜り、俵屋へ戻ると、心配していた女将がにっこり笑い、湯豆腐と昨夜の残った魚で煮〆を作って呉れた。


そんな吉原の夜桜での事件があり、数日が過ぎましたが、神田ノ長兵衛の方や、小天狗小次郎と観音丹次が居る上州屋嘉四郎の方にも、

芝ノ長兵衛から仕返しや嫌がらせなどは無く、実に平和な時が流れておりました。神田ノ長兵衛という親分は、元来、至って温厚な人で、

自分の方から仕掛ける喧嘩などは無く、芝ノ長兵衛との件でも、神田ノ長兵衛側から攻めに出る事は全く考えておりません。

そして或日。此の日も小天狗小次郎と観音丹次は、夕刻酉の上刻に三河町の上州屋から小柳町の長兵衛の家へと遊びに来て、奥では酒宴が。

長兵衛「ところで、お二人は三浦屋へは裏を返しに行きましたか?」

小次郎「いいえ、まだ。」

長兵衛「それなら、細紐と中帯を返しに行くと謂う口実で、裏を返して何か高価じゃなくて宜いから洒落た手土産を持ってお礼をするといい。モテますよ、絶対。」

小次郎「確かに、襷と後鉢巻に借りましたが

丹次「洒落た手土産って?羊羹?」

長兵衛「まさか、歳暮・中元じゃあるまいし、女子が喜ぶ、櫛や簪は高価なんで、匂い袋とか化粧水、口紅なんぞなら喜びますよ、花魁。」

丹次「何処で買うんですか?」

長兵衛「日本橋、室町、京橋辺りに行って、小間物屋に売っています。自分達で買うのが恥ずかしいなら、上州屋の女中に頼みなさい。」

丹次「成る程。何から何まで、長兵衛親分!勉強になります。」

長兵衛「私は女郎買いの先生、師匠ですか?」

そんな馬鹿ッ噺を三人がしておりますと、誰か玄関に来客が有りました様子で、若衆が慌たゞしく廊下を駆け出して行きます。

若衆が玄関へと来てみれば、其処に居たのは六尺四、五寸の大きな力士で、付人力士を二人連れ、一人には風呂敷包みを持たせております。

関取「御免下さい。長兵衛親分はいらっしゃいますか?」

若衆「ハイ、奥に居ります。どちら様ですか?」

関取「ハイ、東海道で遠州、尾州、伊勢と相撲の地方巡業を致しまして、昨日、江戸表に帰りました、力士(すもう)の綾錦で御座います。

お土産に、万金丹と赤福、そして鈴鹿のお茶で御座います。どうか、お知らせも有りますので、少々御目通りを願います。」

若衆「判りました。丁度、来客中で御座いまして、少し此方でお待ち下さい。」

と、若衆は関取を喧嘩脇の八畳間に案内したが、流石に相撲の力士が三人も這入ると、凄く狭く感じるもんで御座います。

若衆「親分!綾錦関が、此方のお土産をお持ちに成って、親分に逢いたいと、付人をお二人連れて、玄関に来ていらっしゃるのですが?

何でも、東海道の地方巡業が、漸く終わり、江戸表には、昨日、お戻りに成られたばかりのご様子です。」

長兵衛「そうかぁ、直ぐに、お通しゝなさい。うん、此の部屋で構わない。」

そう長兵衛が答えると、若衆は直ぐに待たせて居た綾錦と付人を居間へ連れて来た。綾錦は、鴨居が頭に当らぬ様に気にして入って来た。

初対面の小天狗小次郎は、デカい力士だ!と、驚くのだったが、一方観音丹次は『綾錦』と聴いてピン!と来た。だが黙って遣り過ごした。

綾錦「長兵衛親分、ご無沙汰しております。正月相撲が終わると、ずーっと地方巡業で、東海道を伊勢まで行って参りました。」

長兵衛「そうかい、そうかい。大層なお土産を頂戴して有難う。さて、小次郎さん丹次さん、之は私が長年贔屓にしている力士で綾錦です。

漸く、此の正月の番付で、幕内に入りましてなぁ。今江戸の相撲では、間違い無く一番花形の関取だ。汝達も是非贔屓にして呉れ。

そして綾錦関。此方の二人の親分方は、上州屋の親分に草鞋を脱いでおられる方々で、暫くは江戸に居られるから贔屓にして貰いなさい。」

そう長兵衛から互いに紹介された綾錦と小次郎、そして丹次は初対面の挨拶を始めた。先ずは、綾錦は小次郎と対面に成り座り直す。

綾錦「之はお初にお目に掛かります。私は綾錦と申します。先程、長兵衛親分が仰った様に、此の正月場所より前頭十四枚目の関取です。

此の後、各部屋の巡業が終わると、梅雨入り前に回向院で、七日間の本相撲となりますので、お二人の親分さん方も是非観に来て下さい。」

小次郎「アッシは、忍の行田に住みます小天狗小次郎と申します。訳有って、江戸表に此の舎弟分と来ており、暫くは滞在しますから、

是非、二人で関取の応援をして、長兵衛親分に負けない位、贔屓に致しますから、次の場所も頑張って、宜い成績を上げて下さい。」

綾錦「有難う御座います。是非、回向院の本場所相撲を見に来て下さい。全部勝つ積もりで、毎日頑張りますから、ご贔屓願います。」

そう謂って小次郎と挨拶しま綾錦が、また、座る場所を変えて、今度は丹次の正面に座り胡座を掻くと、丹次はニコニコ笑った。

綾錦「アッ!何んだ、高崎の丹次さんじゃないですかぁ〜。黙って居るなんて人が悪い。いやぁ〜お懐かしい。お元気でしたか?」

丹次「あぁ、お前さんと吾妻屋で別れた後、刀屋『若松屋』の手代、傳吉と刀を取り返しに乗り込んだ荒浪ノ清六って親分の子分に成って、

その清六親分の跡目で倅格、観音ノ丹次とか呼ばれてるんだが、一寸事情が有って、此の小次郎兄貴と江戸表に出て来る事になったんだ。

其れにしても、背は変わらないが、綾錦関、お前さん、横に大きくお成りだなぁ〜。そうだ、あん時、病気だったお袋さんは元気かい?」

綾錦「あゝ、あの倉賀野の立場茶屋で、オラが食い逃げ呼ばわりされていた時は、まだ三段目でしたから、懐かしいなぁ〜丹次親分。

もう五年以上も前だ。アンタが呉れた刀を取り返したご祝儀。正確には刀屋の傳吉さんから貰った五両。あれで俺の母親は命が助かった。

俺は母(オッカ)を医者に診せて、薬が買えた。あの銭が無かったら、母さんは間違いなくあの世行きだったし、俺も親方をしくじった。

そしたら今の俺が無かったと思うし、本当に親分には感謝してもしきれねぇ。だから恩返しの積もりで頑張るから相撲を観に来て下さい。」

丹次「あゝ、勿論だ。必ず観に行く。お前の晴れ姿を観たら、俺の仇討ちもきっと上手く行く気がする。贔屓にするから頑張れ、綾錦。」

と、急に互いに抱き合う様に、語り合う観音丹次と綾錦。五年半ぶりの再会に熱く語り合うのを見て、長兵衛が不思議そうに尋ねる。

長兵衛「何でぇ〜、お前達、知り合いなのかい?」

丹次「済みません、親分。此の綾錦とは五年半前に高崎は倉賀野の立場茶屋で会ったのが縁で、カクカクしかじか、と言う訳なんです。」

長兵衛「其れは、奇妙な縁も有るもんだ。丹次さん、末永く、綾錦を贔屓にしてやって呉れ。」

丹次「勿論です。喩え、江戸を離れても、アッシは生涯、綾錦のご贔屓です。」

こうして、この日は夜が更けるまで、綾錦を囲んで、長兵衛も小次郎もそして丹次も、ベロベロに酔い潰れた。


さて、神田ノ長兵衛が綾錦関を贔屓にしている様に、当然反目の芝ノ長兵衛にも贔屓の力士が御座いまして其れは立髪輿市と申す力士です。

立髪は綾錦より二年、入門、初土俵が早く前頭十一枚目。年齢も四つ年上で、二十六歳。

文政四年四月二十二日。回向院の本場所七日間勝負の幕が切って落とされました。神田ノ長兵衛は、贔屓として『綾錦』の幟を出します。

是の噺を聴いていた小天狗小次郎と観音丹次も、『綾錦』の幟を造り、同じく回向院の参道に並べられます。

一方、勿論、芝ノ長兵衛も贔屓である『立髪』の幟を出して、立髪関の幟も沢山並んでは居ますが、大関三役以外では綾錦関が一番の本数。

此の相撲見物でも、一番組よ組神田ノ長兵衛と二番組め組芝ノ長兵衛は激しい鍔迫り合いで、常に客席は一触即発、何時喧嘩が勃発しても可笑しくない。

ただ少し幸なのは、綾錦が東方で、立髪は西方なので、神田ノ長兵衛は青龍柱の升席を、一方、芝ノ長兵衛は白虎柱の升席を取るので、

相撲の最中は、丁度、向かい合う形となり、互いの子分達が、客席で接種する心配は有りませんで、客席での喧嘩は御座いません。

無事に取組みは、晴天に恵まれて初日、二日目、三日目と取り進みまして、今日は迎えた四日目で御座います。愈々、仲入り前


綾錦には琴ノ海!


此処まで三日間全勝の綾錦、相手は前頭十三枚目の琴ノ海。肥前長崎出身、佐渡ケ嶽部屋。年齢二十八歳、二十三貫五百匁、五尺四十五寸。

◇左の相四つ。軍配返って直ぐに上手を引く綾錦。下手は浅目に取り、一気に吊り出して、四戦全勝。琴ノ海に全く相撲を取らせない。


仲入りの休憩タイム。客席には仕出茶屋が弁当や酒を売りに来て、又、予約仕出の重箱が届いて盛んに客席は昼食となる。そして仲入り後、


立髪には鬼面!


立髪、此方も此処まで三日間全勝、相手は前頭七枚目の鬼面、薩摩郡玉里町出身、錣山部屋、年齢三十歳、二十五貫、五尺八十五寸。

◆左右喧嘩四つ、立ち合い激しい鬼面の張り手に苦しむが、立髪は冷静に右上手を引き、左も深く差して、押して寄り切り。四戦全勝。


そして、結びの一番の後に、明日の取組みを知らせる、『早触れ』が読み上げられて、その仲入り前の一番で、客席が割れんばかりに成る。


立髪には綾錦!立髪には綾錦!


遂に、両雄の対決が五日目に実現する。町火消しの代理戦争とか謂われて、兎に角、前日から大盛り上がりの『立髪vs綾錦』

立髪が新入幕したのが半年前、綾錦は先場所の正月場所なので、此の対戦が初対戦となる訳である。正に江戸相撲の将来を担う両雄の激突。


綾錦は、四日目も取組みを終えたら家に帰る前に、神田小柳町の長兵衛の家を訪ねた。

長兵衛「関取、今日も立ち合いから申し分ない相撲で、かなり調子は良さそうですね?」

綾錦「ハイ、巡業中からみっちり稽古が出来ていましたし、親分からのちゃんこの差し入れで、益々力が付いていますから絶好調です。」

長兵衛「そして、愈々大一番の立髪関との取組みですね。勝って下さい、大いに期待していますし、大応援団を率いて観に行きます。」

綾錦「ハイ、勝てる様に精進します。」

と、其処へ、小勇ノ権六と小天狗小次郎が現れ、彼らも明日の取組みを知り、噺の輪に加わります。

権六「綾錦関!明日はもう何があっても勝って下さい。相手は芝ノ長兵衛が贔屓する立髪ですからね、絶対に勝って下さい。

もう、負けたら親分の顔に泥を塗る事に成るんですから、負けたら本気で、腹切もんですよ。だから、命懸けで必ず、勝って下さい。」

と、小勇ノ権六が、「勝て!勝て!」発破を掛けていると、他の相撲好き子分も集まり、「必勝!」を唱えて、綾錦に重圧が掛かります。

さぁ、是を見て居た小天狗小次郎は、綾錦の重圧を和らげてやる為に、子分達の輪に割って入り、小次郎なりの意見を聴かせます。

小次郎「皆んな余り強く『勝て!勝て!』謂うと綾錦が重荷に成って気鬱が出るぜぇ。其れに『勝つと思うな思わば負けよ』って歌もある、

過ぎたるは及ばざるが如しだ。重圧を掛け過ぎると普段の力が出せぬもんだ。綾錦に平常心で闘わせてやって呉れ。そしたら必ず勝てる。」

小次郎の言葉で、綾錦は重圧を跳ね退け、憑き物が取れた感じで、スッキリした顔で迷いが消えた。そして、晴々と家路に着いたのである。


さて、翌日五日目。雲一つ無い晴れ空は正に相撲日和で、神田ノ長兵衛は、小天狗小次郎と観音丹次の両人を始め、

その他子分三十数人を引連れて、全員が揃いの羽織を着て、何だったら綾錦が勝った暁には、此の羽織を全員土俵に脱ぎ捨てる覚悟です。

この日は客席の升も特大で、五間四方の桟敷を、青龍柱の前に設けまして、而もまだ序ノ口、序二段の相撲から座って観ております。

さて一方、芝ノ長兵衛はとみてやれば、こちらも気合い十分に同じく五間升の桟敷席で、白虎柱の真前に陣取りまして、此方は明らかに武士と判る面々が半分以上を占めております。

そんな布陣で、神田と芝の町火消しが対峙していますから、綾錦、立髪、何が勝っても血の雨が降るのは必至だと、周囲の客が囁きます。

そんな緊張が、取組みが進む度に高まり、仲入り前の天下分け目の大一番は、時刻々と迫り、愈々、呼出が扇子を広げ土俵の上で呼び出します。


東ぃ〜綾錦、綾錦。


西ぃ〜立髪、立髪。


もう、土俵の屋根が吹き飛ぶか?と、思う割れんばかりの歓声が上がり、両力士が土俵へと上がり、鹽を撒き、四股を踏み、立合いです。

兎に角、互いの呼吸が合うまで続く、この立合いです。今の相撲の様にNHKの放送の都合で制限時間など無い時代です。

最初は、客席もザワザワして居たが、立合いの息を合わせる為、繰り返される仕切り直しに、耐えられないからか、掛け声が飛び始めます。


立髪!立髪!


負けるな、しっかりやれ!


ウチに親分が付いてるぞ!


小天狗小次郎は、掛け声のするトイ面の芝ノ長兵衛側の桟敷を、何んとなく眺めていると、声を出しているのは、全員向こう鉢巻の連中で、

是は芝居の『成田屋!』『音羽屋!』の掛け声が、決まった仕込みに近いお客様なのと同じ仕掛けなんだと、妙な感心を覚えます。

更に、芝ノ長兵衛側には、伊達家の江戸勤番と思われる二十人位の武士が、升の座敷に居りますから、其方の方も何げに眺めておりますと、

あゝ、居た!居た。吉原夜桜の際に喧嘩に成った見覚えの有る顔が見付かります。アレ?あの野郎は、どっかで見たぞぉ〜誰だっけ?。


分かった!水谷大膳。


そうです。小天狗小次郎が遂に見付けました、元は行田の家に草鞋を脱いで居た、食客の水谷大膳。観音丹次が探す仇の一人です。

小次郎「向こうの芝ノ長兵衛側の桟敷を見てみろ。吉原夜桜の喧嘩で俺が相手した松本とかいう侍が居るだろう?その右から二人隣。

よーく見て呉れ。アレだ、松本の二人右隣だ。右だ!右。そっちは左、箸を持つ方。其の野郎お前が探している、水谷大膳じゃないか?。」

丹次「うー、松本とかいう侍の右、箸を持つ方から二人隣。。。アッ!野郎だ、水谷大膳だ。野郎、宜い所で見付けたぜ。早速!」

と、謂うといきなり一刀を腰にブチ込んで、丹次が、トイ面の客席に殴り込み勢いなんで、小次郎、大いに慌てゝ止めに掛かります。

小次郎「止めろ!丹次。今は場面じゃねぇ〜」

丹次「なぜ止めるんだ、兄貴。仇に逃げられちまう

小次郎「馬鹿、待て!今は待て。」

横で、小天狗小次郎と観音丹次が、こそこそ揉め始めますから、神田ノ長兵衛は「どうした?何かあったのか?」と、尋ねます。すると、

丹次「向かいの芝ノ長兵衛の桟敷に、仇が一人居るんです。伊達家の侍の一団の中に、水谷大膳って名前の仇が紛れて居ります。」

小次郎「其れを、此の相撲の仕切りの最中に、向こうの座敷に刀を持って退治しに行くと、丹次の奴が謂うから、止めたんです。」

長兵衛「そりゃぁ、小次郎さんの謂う通りだ。あんな桟敷で刀振り回しても、仇は斬れませんぜ。此処は一つ我慢のし所だ。

相撲の取組みが全部済んで、客が引くのを待ってから、でないと相手を討つなんて無理です。どうせ出口は一つですから、

回向院の門の前に居て、待ち伏せして、野郎が出て来るのを待ってから、二人で捕まえてから斬り合うしか有りません。」

長兵衛と小次郎が段々と宥め透かして、何んとか丹次も、相撲が果る(はねる)のを待ってから水谷大膳に仇討ちを仕掛ける事を承知した。

さて愈々、綾錦と立髪の立合いの呼吸が合って参りまして、行司の軍配が返り、サーア、大一番が始まる直前ですが、時間一杯!!此の続きは、次回の乞うご期待。


つづく