江戸表へ向けて武州岩槻を出立した小天狗小次郎と観音丹次は、寒雀ノ幸次から江戸へ行ったなら、必ず真っ先に、
神田三河町の『上州屋嘉四郎』という口入屋の親分を訪ねる様にと教えられ、幸次が書いた紹介状を渡される。
此の上州屋嘉四郎は、かの幡随院長兵衛と同商売、大名相手の仲間奴(ちゅうげんやっこ)の口入れ家業を生業とする大親分である。
二人は当初、折角武州岩槻まで来ているなら、このまま日光街道沿に、日光東照宮へと参詣してから江戸表へとも考えましたが、
其れだと、五、六日の日延べが無駄に思えて、もう、真っ直ぐに江戸表を目指そうと決意致します。さて、そんな岩槻を出た二人は、
先ず越谷へと出て此処に一泊する。翌日は大きな街道沿に越谷、新田、草加、竹ノ塚、西新井、江戸四宿の一つ・千住で一泊致します。
そして、三日目に千住を出発し、千住大橋を渡り三ノ輪、そして上野で昼食を取る事になるのですが、二人は全て物珍しそうにしています。
殊に江戸が初めての丹次には、江戸市中の賑わいが、流石、将軍様のお膝元と謂うのに、実に相応しい物と目に映りまして、
家屋の立派な事といい、人々の雑踏する有様を見て、一々感動しきりで、あれは?是は?と小次郎を質問攻めにしながら、
未刻を過ぎた頃に漸く、二人は神田三河町へとやって参ります。さて、此の神田三河町と聴いて皆さんは何か思い当たりませんか?
そうです、岡本綺堂先生の『半七捕物帳』の半七親分が住んでいるのが、この神田三河町です。捕物帳の草分け的作品で私は大好きです。
其の神田三河町に着いて、尋ねると直ぐに目指す上州屋は直ぐに見付かった。店の間口が実に七、八間。恐ろしく立派な口入屋である。
小次郎「幸次の奴、こんな凄く立派な口入屋とは、一言も云ってなかったが…看板に書いてあらぁ〜『上州屋嘉四郎』。」
丹次「流石、大名行列の仲間(ちゅうげん)や人足を世話する口入屋だけの事はあるねぇ、兄ぃ。兎に角、入ってみましょう。」
小次郎「どうも!御免下さい。」
若衆「へぇ〜、何方様で御座いますか?」
小次郎「ハイ、武州岩槻の寒雀ノ幸次親分からの紹介で参りました。嘉四郎親分はご在宅でしょうか?」
若衆「奥に居りますんで取次ます。お名前は何んと仰りますか?」
小次郎「へぇ、小次郎で御座んす。」
と、謂ッて幸次からの紹介状を、その若衆に渡すと、じっと用心深く、其の取次の若衆は二人を鋭い目で見つめた。
若衆「少々お待ちになって下さい。」
と、謂って若衆は手紙を持って奥へと入って行く、程なく出て参りましたのが、当家の主人嘉四郎、年齢は五十格好、貫禄十分の親分です。
嘉四郎「どうぞ、遠路ご苦労さんに御座んす。では此方へお通りなすって、大層足元が汚れて御座らっしるので、濯ぎを持って来い!」
と、嘉四郎親分は若衆に、桶に水を持って来る様に命じて、小天狗小次郎と観音丹次は、足を濯いでから奥へと上がった。
さぁ、店先の構えだけでなく、中も上州屋は立派な造りで、彼の上州屋嘉四郎の居間へと二人は通されるのでした。
嘉四郎「どうぞ足を楽にしてお座り下さい。お初に御目文字致します。私が江戸で口入稼業致して居ります、上州屋嘉四郎で御座います。」
小次郎「どうも、お初にお目に掛かります。私は元水戸藩浪人、現在は、忍の行田に一家を構えます小天狗小次郎で御座います。」
丹次「アッシは、此の小次郎の舎弟分で、上州高崎の観音丹次と申します。まだ、本の駆け出しですが、以後、お見知り於き願います。」
嘉四郎「幸次からの手紙読ませて頂きました。お手紙に寄りますと、何んでも仇討ちと、実の親探しとか、出来る限り御助成致します。」
丹次「早速の良いお返事有難う御座います。」
嘉四郎「ところで、幸次の野郎は、変わらず元気にして居ますか?」
小次郎「ハイ、一家を弁慶組と名乗って、武州岩槻から日光街道では有名な親分に成って居ります。子分も五、六十人は御座いますよ。」
嘉四郎「左様ですかぁ、幸次も一人前になっているなら嬉しい限りだ。まぁ、其れより何より、お二人はお疲れでしょう?
部屋を直ぐに用意させますから、先ずは、湯屋へ行ってサッパリして来て下さい。若衆に案内させますから旅の垢を落として来て下さい。」
嘉四郎親分に呼ばれた若衆が、小天狗小次郎と観音丹次を直ぐに『桜湯』に案内して呉れた。江戸市中には必ず町内に一軒は在るお湯屋、
是を丹次は、ここ神田三河町で、初めて体験した。そして生まれて初めて柘榴口を潜り、丹次は湯屋の広い浴槽に浸かったのである。
小次郎「どうだ?湯屋は。」
丹次「刺青者の品評会だなぁ。筋彫だけの者や、色を入れている途中の奴も居る。まぁ、驚いたのは、手首、足首まで身体一面刺青の奴。
アレは何んだ?全身、身体の裏側は全て刺青で覆われている。若い奴(やっこ)の様だが、集団で仲間同士の様だなぁ奴等は何者なんだ?」
小次郎「臥煙だ。町火消し、普段は鳶と呼ばれる高い場所で働く大工の仲間(なかま)だ。ほぼ、例外なく全員刺青者だ。」
丹次「アッ!そう謂えば、荒浪の親分に神田の火消しで、『神田ノ長兵衛』ッて親分を訪ねる様に言われてたんだ。明日、逢いに行こう。」
小次郎「神田ノ長兵衛と謂えば、俺でも名前だけは知っている火消し一番組の大親分だ。高崎の貸元の知合いなら、是非、行ってきなぁ。」
丹次「兄貴は、明日はどうするねぇ?」
小次郎「俺かぁ、俺は、明日は朝一番で神田明神にお参りに行って、その後は千代田のお城の周りをブラブラしてみようかと思う。」
丹次「じゃぁ、明日は一緒に明神様のお詣りをして、その後は別行動で。」
お湯屋で、そんな明日の予定を決めた二人は、三河町の上州屋へ戻ると、奥の離座敷に二人の為に一部屋用意されていた。
更に、子分一同には親分からの御触れが出ていて、今日草鞋を脱いだ二人は大切な客分だから、万事粗相の無い様にと言付けられていた。
翌日、観音丹次は朝食を済ませると、此処三河町から然程遠くない小柳町に住んでいると聴いて、神田ノ長兵衛の家を訪ねる事にした。
神田ノ長兵衛は町火消し、一番組よ組の頭で、神田の鎌倉町、永富町、鍛冶町、多町、大工町、白壁町、須田町、鍋町、紺屋町、小柳町、
平永町、そして三河町までがその特別受持区域であり、配下の臥煙の人数は実に七百二十名で火消し組の中ではダントツの大所帯である。
さて、此の町火消しの誕生から、町火消しの特徴などを、歴史的な経緯なども踏まえて、少し解説しておきましょう。
「火災が起きたときは、風上及び左右二町以内から火消人足(臥煙)三十人ずつ出すべきこと」
是は『徂徠豆腐』で有名な儒者荻生徂徠の「江戸の町を火災から守るためには、町組織の火消組を設けるべきである」との進言を受けて、
時の町奉行大岡越前守忠相が出した奉行令である。この町触れによって、消火に当たった者を、最初は店火消と呼んでいましたが、
いろいろな人々の集まりでしたから統制もなく、火災現場へ駆けつけてもただ右往左往するばかりで、殆ど機能しませんでした。
併し、この制度が町火消誕生の芽ばえとなり、大岡越前守忠相は享保三年には町火消をつくり、その後「いろは四十七組」に組分られます。
更に享保十五年には編成を「いろは四十八組」とし、本格的な町火消制度を発足させます。
◆嘉永四年 江戸町火消配置図
いろは組は、隅田川を境とした西側の区域に組織された物で「へ」「ら」「ひ」「ん」の四文字は「百」「千」「万」「本」に変られます。
「へ」は屁に、「ひ」は火に通じ、「ら」は隠語、「ん」は語呂が悪いというのが理由です。
また、隅田川の東側の本所・深川には、区域を三つに分けて十六組の火消組を置きました。
そして、町火消に要する費用は、町費をもって賄うよう、それぞれの町会などに分担させました。
こうしてつくられた町火消は、お互いに組の名誉をかけて働くようになり、纏をかかげて功を激しく競いました。
はじめは出動範囲も町屋だけに限られ、武家屋敷の火災に纏をあげることはできませんでしたが、徐々にその功績が認められ、
武家屋敷の火災は勿論、延享四年には江戸城二之丸の火災にも出動して、定火消や大名火消にも勝るとも劣らぬ実力を示し、町火消全盛時代を築いていきました。
因みに三田村鳶魚は、町火消しの出動風景を「名主は、野袴に火事羽織、兜頭巾というなりで先頭に立ち、それに続いて家主がその組の印のある半纏、紺股引というなりで、
これも頭巾を被ってゐる。 鳶の者は刺子半纏に猫頭巾、道具持は道具を持ち、その他の者は皆鳶口を持ってゐる。
その出かけていくとき、うち揃って木遣を唄ふがその声を聞いてゐると、キャアー、キャアーといって如何にも殺伐な声である。・・・」と記しています。
さて、観音丹次は朝食の後、小天狗小次郎と二人して神田明神にお詣りし、丹次はお茶の水から神田小柳町の神田ノ長兵衛の家へ向かった。
長兵衛の家に着くと時刻は辰の下刻、長兵衛は朝湯から帰った所で、家に居た。上州高崎の荒浪ノ清六の身内と名乗ると直ぐ奥に通された。
取次の子分に伴なわれて、奥へ入ると、長兵衛は長火鉢の前にドッカと腰を下ろし、長い羅宇の煙管を使い煙草をプカプカ呑んでいた。
取次「親分!上州高崎の荒浪の親分さんのお身内、観音ノ丹次さんをお連れしました。」
長兵衛「オー、宜く来なさった。サッ遠慮なくお上がり下さい。さあ、此方に布団を当てゝ、お座り下さい。足を崩して楽にして。」
丹次「お初にお目に掛かります。荒浪ノ清六の身内で、観音ノ丹次と申します。以後、御見知り於き願います。」
長兵衛「此方こそ、神田の火消し長兵衛です。江戸は何処の旅籠屋にお泊りですか?」
丹次「実は、泊まっているのは旅籠ではなく、三河町で口入稼業をなさっている上州屋嘉四郎親分の所に、昨日から草鞋を脱いでおります。
此の江戸表への旅は、カクカクしかじか、そんな訳が御座いまして、小天狗小次郎という兄貴分と仇を探す事が一番の目的なんです。」
長兵衛「成る程、その様な大望がお有りで、お二人して江戸へ来たと謂う訳なんですね?ところで、荒浪の兄弟は元気にしていますかぁ?」
丹次「ハイ、お陰様で高崎でまだまだ元気にやって居ります。今回の仇討ちの旅も、荒浪の親分の助成が有ればこそ、実現出来ました。」
長兵衛「二年程前に清六の兄弟が故郷の阿波徳島へ旅した折、帰りに江戸表に寄ると言っていたのに、結局、急な用事で逢えず仕舞いで。」
丹次「其れは、カクカクしかじか、アッシが磔の刑にさせられて、間一髪の所を清六親分に助けられて、そんな事情で江戸には寄れずで。」
長兵衛「何だぁ、其れじゃぁ〜、丹次さん!お前さんが、荒浪ノ清六の倅なんじゃないですかぁ。水臭いなぁ、遠廻しに身内だなんて!」
丹次「いいえ、武州岩槻の兄弟分、寒雀ノ幸次の紹介で、上州屋さんに草鞋を脱ぎましたので、長兵衛親分には遠慮して仕舞いました。」
長兵衛「何んの上州屋の親分でしたら、同じ神田の別稼業ですから、侠客同士は同商売の方がどうしても仲が悪い。特に火消しは。」
丹次「そうなんですか?」
長兵衛「身内の恥を申すようですが、火消し同士は火事場で隣接した町内の別の組同士が、我先に一番纏を上げて、火を消しに係るから、
どうしても、その一番を巡る争いになる。だから、火事場での争い、喧嘩が絶えなくて、而も命懸けの喧嘩だから、仲は悪く成ります。」
丹次「成る程、火消しの皆さんにも縄張り争いが在る訳ですね。」
長兵衛「ハイ、火事場での遺恨が少なからず御座います。」
そんな話をして、丹次は神田ノ長兵衛にも、仇である穴熊ノ金助、お凛の二人と、もう一人の仇、水谷大膳に付いて探して欲しいと頼んだ。
すると、長兵衛は荒浪ノ清六の倅、観音ノ丹次に頼まれた事が嬉しかった様子で、二つ返事で是を引き受けるのだった。
小天狗小次郎と観音丹次が江戸表に来て、大凡、見物して廻る先は上州屋嘉四郎と神田ノ長兵衛に連れられて遊山し尽くします。
さて、そうこうしている内に、其の年も明けまして、翌文政四年三月の半ばを迎えます。春季は風誘う宜い陽気に成りまして、上野、向島、
飛鳥山、浅草、そして吉原と桜の名所では、花が咲き始めまして、折しも神田ノ長兵衛の方から遣いの者が参りまして、貰いが掛かります。
長兵衛「さて、お二人をお招き申したのは他でも有りません。今日は一つ吉原へと繰り出して、満開だと聴いている夜桜を見物しようと、
そういうご趣向を考えておりまして、お二人は吉原何てどうです、花見の次いでに出掛けませんか?吉原は夜桜が綺麗ですよ。」
と謂う申し出です。兼ねてよりの噂には聴く、花の吉原ですから、若い盛り小次郎も丹次も、それじゃぁ是非、お伴をしますと噺は纏まり、
長兵衛の身内からも、『神田の二人権六』と異名を取る、小勇ノ権六と腕ノ権六の二人が、長兵衛親分の警護役としてお伴致します。
さて、この小勇ノ権六と腕ノ権六と言う二人は、生粋の江戸っ子にして、三度の飯より喧嘩が大好きという落語『天災』の八五郎気質。
そんな権六二人を加えてまして、長兵衛、小次郎、丹次の五人は、夕景より吉原へとフラッカ!フラッカ!出掛けております。
長兵衛「失礼ながらご両人、未だ『仲』は初めてゞしょうか?」
小次郎「へぇ、アッシも丹次も、色恋は不調法な時次郎で御座んして、観音様までは何度も参りましたが、裏手の方へは足を踏み入れた事は御座んせん。」
長兵衛「じゃぁ一つ、今日はゆっくりたっぷりじっくり、遊びにいらっしゃるが宜しかろう。お楽しみは追々にと謂う事で参りましょう。」
そう謂うと長兵衛に連れられて、一々、解説付きの道中で御座いまして、是が土手八丁、次に日本堤、そして見返り柳、アレは衣紋坂、
向こうへ参り此の通りは五十軒、丸で鳩バスか?の案内者と化す長兵衛で御座います。そして、丁度燈が入る頃合いに大門を潜りまして、
仲の町の通りは正に不夜城。数多の雪洞に火が点けられて、実に夜桜が映える演出満点の光景に、小次郎と丹次はあんぐり見惚れます。
其処は江戸中から湧いて出た様に数多の人で賑わい、雑踏は鴻大もない事です。兼ねて向七軒に『俵屋』と謂う引手茶屋が御座いまして、
長兵衛、今宵は小天狗小次郎と観音丹次を、先ずは此の俵屋へ案内して、今満開の吉原の夜桜で、もてなそうと致します。
長兵衛「どうだい?女将は居るかい?」
女将「おやぁ、神田の親分じゃありませんかぁ。ささぁ、お二階へどうぞ!神田ノ長兵衛親分だよ、五名様お二階へご案内ぃ〜。」
俵屋の女将の威勢の良い通る声が店中に響き渡り、其れに送り出される様に、太った女中に付いて、広いハシゴ段を五人は二階へと昇った。
W権六が、デブ女中を押し除けて、窓際の欄干から外の夜桜がよく見える席を陣取りまして、長兵衛、小次郎、丹次も席に付きます。
長兵衛「お姐さん!何はともあれ先ず一献…」
女中「冷やは、真澄と剣菱ですが?」
長兵衛「剣菱だ!直ぐに一升頼む。肴は女将に任せる。兎に角、早くだ!」
女中「ハイ、畏まりました。」
江戸っ子の気が短いのは百も承知ですから、太い身体で素早く降りて行ったデブの女中に、小次郎と丹次もびっくりします。
そして直ぐに酒、肴を持って昇って来ると、机に其れを手際よく並べて「ごゆっくり」と謂うと又、太い身体を揺りハシゴを降りるのです。
腕権「何とも、見せ物小屋の熊を見ている様な女中だぁなぁ小勇のぉ。」
勇権「全くだ兄弟。着ぐるみ着たら、熊として奥山で人気になるぜ、あの動きは。」
腕権「あと、俺はハシゴ段が心配だ。何時か折れる。間違いない!」
長兵衛「馬鹿を言ってんじゃねぇ〜。さぁ、お二人さん、じゃんじゃん食べて呑んで、夜桜を楽しんで下さい。」
五人は馬鹿ッ噺をしながら、大いに食べて呑んでとしておりますと、時刻は戌刻。五人が来た時分は五、六割の入りの俵屋は満員御礼、
そして、欄干の手摺り越しに見る外の雑踏も、五人が来た時とは比べ物にならない位に、今が盛りと賑わいを見せて居ります。
小次郎と丹次も、その欄干から外の様子を見ながら酒、肴に舌鼓を打っておりますと、俄に「喧嘩だ!」「喧嘩だ!」という怒号です。
その雑踏の渦ん中を、西に東に駆け出して行く者があり、「喧嘩だ!」の声は止みません。すると、小勇ノ権六は血が騒ぐ様子で、
窓際から身を乗り出す形で欄干に掴まって、外の様子を見ておりますと、斜め向かいの引手茶屋からデッぷりと割腹の宜い侍が出て来ます。
其の侍は、是より茶屋かは廓へと送られて行く道中らしく、朋友、取巻を四、五人連れております。どうやら先頭の町奴が案内役か?
案内「どうです旦那!吉原の夜桜は?実に乙なもんで御座いましょう。」
デブ侍「確かに、此の夜桜は格別だ!気に入ったワイ。併しだ、さっき儂にぶつかった奴は、何んだ!実にけしからん!何処へ行った?」
案内「なぁ〜に、旦那、そんな野郎は一々相手にしないで捨て置きなさい。逆にそんな小物に目くじらを立てると旦那の貫目が下ります。」
デブ侍「無礼な奴だ!身共に突き当たりおって黙って立ち去りおった。一言も詫言も申さず行って仕舞うとは不埒千万、斬って呉れる。」
案内「マァマァ、旦那!機嫌を直して下さい。花魁が待っていますから、そんな野暮は放って置いて、勘弁してやりなさい。」
そう言って往来でぶつかって来られて「御免!」の一言も無く立ち去られて、憤慨するデブ侍をしきりと宥め賺している町奴。
是を凝視していた小勇ノ権六が、ハッ!とした表情で、何か大変なモンを見付けた様に、非常に興奮した様子で、腕ノ権六に声を掛けます。
勇権「腕の兄弟、彼処で太ッちょの武家を宥めている揉み手野郎が居るだろう?」
腕権「どれだ?幇間か?」
勇権「違うよ、結城の対に若草色の長襦袢をチラチラ見せてやがる五十絡みの町奴だよ。」
腕権「あゝ、あの野郎かぁ〜、其れがどうした?」
勇権「見覚えが有るだろ?奴だよ、芝ノ長兵衛!二番組め組の頭領、芝ノ長兵衛だよ。」
腕権「何ぃ〜、生意気にも、芝ノ長兵衛の奴が、吉原の夜桜に来てやがるのかぁ?!」
勇権「俺はあの野郎の面を見るってぇ〜とぉ、虫唾が走るんだぁ、さて、どうして呉れよう。二階から飛び掛かろうかぁ?!」
腕権「まぁ、止しねぇ〜、小勇のぉ、親分に迷惑が掛かる。」
勇権「馬鹿を謂っちゃぁ〜いけねぇ〜。折角、美味い酒を頂戴していたのを、あの面が台無しにしたんだ。ヨシ、俺に万事任せろ。」
と、喧嘩ッ早いW権六には天敵とも言える同業で、芝は増上寺門前に住みます二番組め組の頭領、芝ノ長兵衛を見付けて仕舞います。
此の芝ノ長兵衛と神田ノ長兵衛は、同じ長兵衛同士ですが、水と油、幡随院長兵衛と水野十郎左衛門、阪神と讀賣くらいに仲が悪い。
だから、子分同士も仲が悪いく、子分は相手の親分も当然憎い。腕ノ権六の方は、親分である神田ノ長兵衛が客人連れだから我慢の様だが、
小勇ノ権六の方は、喧嘩する気満々で、手に持ったお猪口の酒を呑み干すと、其れを芝ノ長兵衛目掛けて投げたが、狙いが逸れ侍に当たる。
猪口はデブ侍の頭部を直撃し砕ける「痛い!」と叫んだデブ侍は、辺りをキョロキョロしているから、小勇ノ権六は窓から顔を引っ込める。
デブ侍「誰だ!あーッ痛い。待て、何処のどいつだ!!」
芝長「旦那、どうかしましたかぁ?」
デブ侍「どうもこうも無い。拙者の頭(つむり)に其の二階から、盃を投げ付けおった輩がある。もう勘弁ならん!成敗して呉れる。」
そう謂うと、其のデブ侍、怒り心頭のご様子で、斜(ハス)向かいの俵屋へと這入(はい)って参ります。
デブ侍「ヤイ!汝の店の二階に、拙者、此の前を通行の折、頭に盃を投げ付けた不埒者が有る。許し難い、即刻、下へ降りて参れ!」
女将「あのぉ〜、お武家様。その不埒者を、確かに当店の二階に、見留められまして御座いますか?」
デブ侍「イヤ顔や姿は見てはおらぬが、間違いなく、拙者を狙って投げたに違いないし、人影が此の二階に隠れる様子は此の眼で見た。
拙者は、奥州仙台藩主、伊達陸奥守斉義候の家臣、櫻井禽太夫と申す者だ。盃を投げられて黙っては居れん。即刻、引き渡して貰いたい。」
女将「可笑しいですねぇ〜、誰か、誤って落とした盃が偶々当たりましたかねぇ〜。」
櫻井「馬鹿を申すな、誤って落とした位で、盃が砕けたりはせん。早く投げた輩を出せ!」
そんな会話を俵屋の店先で、櫻井禽太夫と女将が揉めているので、斜向かいから同藩の松本と山田、そして芝ノ長兵衛か寄って来て、噺に加ります。
松本「どうした櫻井?」
櫻井「イヤ、松本。此の店の二階の輩に、身共の頭に盃を当ておって、勘弁できぬ由え談判に参ったが、中々、降りて参らぬのだ。」
さぁ、俵屋の女将が困りました。相手が四人になり三人は伊達六十二万石の家来、もう一人は芝の町火消しの頭領である。
盃を投げた相手は、芝ノ長兵衛とは反目の神田ノ長兵衛の子分のどっちかだとは、先刻承知なのですが、兎に角、喧嘩ッ早い連中なので、
知らぬ振りして誤魔化せるならと、白こく惚けて逃げる積もりでしたが、流石に無理と判り、女将は二階の神田ノ長兵衛にお伺いに行く。
女将「まぁ、大変な事か起きて仕舞いました、親分さん。」
神長「何んだ、どうした?女将。」
女将「実は今、店の前を仙台藩のお侍が通り掛かりましたら、どう言う間違いなのかは知らないんですが、盃が頭に当たったとかで、
其の侍が『絶対に勘弁ならぬ!盃を投げた奴を出せ!』と、凄い剣幕なんです。此方に乗り込んで来る勢いなんで、親分!お願いします。」
神長「オイ!小勇のぉ、お前、何んかしたなぁ〜。」
勇権「イヤ、親分。斜向かいを芝ノ長兵衛の野郎が、侍と子分を三、四人連れて通ったんで、余りに小癪に触るから、猪口をブン投げたら、
一寸ばかり狙いが逸れてデブ侍に当たってしまったんです。だから宜ぉ〜御座んす。アッシが一人で行ってあんな奴等蹴散らして来ます。」
神長「馬鹿!それじゃ火に油だ。お前は降りるなぁ。俺が行って侍に謝って来る。宜いなぁ、お前達は絶対に手出しはするんじゃないぞ。」
そう謂うと神田ノ長兵衛は、喧嘩を鎮める為、子分は置いて一人で火中の栗を拾う。是は客として招いた小次郎と丹次を巻き込まない為だ。
併し、当然。此の一部始終を傍で見ていて、黙っていられる小天狗小次郎、観音丹次の二人ではない。先ずは兄貴分の小次郎が謂う。
小次郎「大変な間違いに成りましたね、長兵衛親分。アッシも下へお伴致しますか?」
神長「いいえ、ご遠慮願います。」
と、謂うと神田ノ長兵衛は、目力で小天狗小次郎と観音丹次を制して、二人の子分を残し、一人で女将の後ろから下へと降りて行きました。
神長「どーも、是は旦那方、申し訳御座いません。どうやら手前どもの若衆が、誤って盃を下へ落としまして、偶々ご通行の旦那様の頭に、
当てると謂う不作法を致しまして、誠にご無礼を働きました。私の配下の若衆でして、監督責任は私の責任です。どうか平に平にご容赦を。
決して故意に当てた訳では有りません。偶々、手を滑らせて高く上がりました由え、頭に当たり砕けて仕舞いました。許して下さい。」
櫻井「成らぬ勘弁ならぬ。武士の頭上に係る無礼を働き、黙って水に流せる道理が御座らん。其の粗忽を是へ連れて参れ!手討ちに致す。」
神長「イヤ暫く、冷静にお成り下さい。お怒りはご最もですが、此処は廓で御座います。刃傷に及びますと、後々ご面倒に御座いますし、
何よりお家、伊達家の名に傷を付ける結果になり兼ねません。公儀の目が厳し廓です。決して態とでは有りませんからお許し願います。」
櫻井「馬鹿を申せ、捨て置き、安易に許したりすればこそ、お家の恥に成るワ。問答無用、斬り捨てゝやる、早う粗忽の輩を出せ!」
さぁ、神田ノ長兵衛は困りました。どうやら、此の仙台藩の侍は、初めての江戸勤番で、廓の掟や侠客との付き合いに不慣れな田舎侍です。
是が二、三年も江戸暮らしを経験している侍なら、面子をある程度立てやれば、引いて呉れるのに、此の田舎侍は初めての吉原なのか?
此の仲の町のど真ん中、夜桜見物の往来で人を斬るなど考えられぬ事。喩え酔っていても其れ位の分別は有れよと、思いましまが詮方ない。
一方、此の様子を傍で見ていた芝ノ長兵衛。天敵、神田ノ長兵衛が困った様子を見てニタニタしてはおりまして、もっと苦しめ苦しめ!と、
心で念じて高見の見物なのですが、遂にキレた連れの仙台藩の侍三人が、刀の柄に手を掛けたのを見て、是は流石にマズいぞ!と思います。
其りぁそうです。芝ノ長兵衛とて、此の場で斬り合い血を流せば、仙台藩六十二万石をしくじる訳ですから、塩梅良い落とし所が必要です。
芝長「まぁまぁ、廓に入る時間の事も御座います。旦那方、此処は一つ。私、芝ノ長兵衛の顔を立て、此の件は預からせて下さい。
お怒りはご最もではありますが、たかが町奴相手に、お武家様の刀を穢してはいけません。餅屋は餅屋に任せて下さい。
今から、きっちり数(ケジメ)は付けますから、刀は引いて下さい。宜しいでしょうか?櫻井様、松本様、山田様。」
そう謂うと、芝ノ長兵衛は、三人の侍と神田ノ長兵衛の間に割って這入り、神田ノ長兵衛に対して、日頃の鬱憤を晴らすのだった。
芝長「ヤイ!一番組の長兵衛さんよ。思い掛けない所で会ったなぁ〜。」
神長「お前ぇ〜は、め組のぉ〜。」
芝長「どうした?青菜に鹽みたいな面して、神田じゃ馬鹿に威勢が宜いが、仲じゃぁ、カラっきしだなぁ〜。さて、
よくも、汝はアッシがご案内の旦那衆に、粗相をして呉れたなぁ。是から此の芝ノ長兵衛様が、キッチリ落とし前を付けてやる!
有り難く思えよ、神田のぉ!俺が居なかったら、汝、旦那方の刀でナマスにされている所だぞ。俺が居たから命が助かったんだ。
さぁ、取り敢えず、土下座をして、櫻井様に謝罪をしろ。そして、此の芝ノ長兵衛様にも、感謝の言葉を言え、喜べ!其れで許してやる。」
そう言われた神田ノ長兵衛。仕方なく、土下座をしまして、地びたに手を突き頭を下げて、先ずは櫻井禽太夫に向かっ謝罪をします。
そして、次に、芝ノ長兵衛にも、謝辞を言っていると、いきなり芝ノ長兵衛は莨入れからキセルを抜き、其の雁首で神田ノ長兵衛の眉間を思いっきり打擲致します。
ギャッ!何しやがる。
神田ノ長兵衛が眉間を割られて出血し、その場に倒れて居ますと、芝ノ長兵衛は笑いながら、神田ノ長兵衛に向かってタンを吐き掛け去って行くのです。
神田ノ長兵衛は、今はグッと我慢(こらえて)俵屋の二階に戻り、手拭いを傷に当てゝ止血します。
是を見た小勇ノ権六と腕ノ権六は色めき立ち、誰に何をされたかと、親分を問い詰めますが、今日は小次郎と丹次を連れているので、
全く仔細を子分には語らず、俺が自分で勝手に付けた傷だと言い張って、今日は客人が生まれて初めて女郎買いに来たんだからと、
あくまで、喧嘩をするなと二人の権六を鎮めるます。そして笑顔で此処、俵屋の勘定を済ませます。
こうして、俵屋を出た五人は、仲の町通りを歩いて、予め噺を通して有る廓、三浦屋治郎左衛門へと上がりまして、
神田ノ長兵衛達五人は、遣手のお梅婆の斡旋(しきり)で長兵衛には大年増の夕霧、小勇には霧里、腕には唐橋、小次郎には東雲、
そして丹次には一番若い三津がお見立てとなりまして、小天狗小次郎と観音丹次の初めての女郎買いの夜は更けて行くのでした。
さて、皆さん!またしても、三代目神田伯龍先生の『錦血染色褪』は、第二章「小天狗小次郎編」が大団円となり、
噺を引き継ぐ形で、次回からは第三章「柳ノお仙」が始まります。初めての女郎買いの寄る、新たな事件が発生する所からの新展開、乞うご期待!
完