奥で何やら観音丹次が、番頭の彦七とゴソゴソしているのを眺めて居た痣の重吉。まぁ、売り出し中の親分だからと、信用仕切りで御座います。
暫く、奥へ消えた彦七が、三宝に半紙に包んだ物を載せて戻って来て、其れを丹次に渡しますと、丹次が其の三宝を持って参ります。
丹次「さて、お待たせしました。手切金の二百で御座います。お収め下さい。」
と、謂うと観音丹次。三宝を痣の重吉の前に置きます。
重吉「では、お言葉に甘えて、頂戴致します。」
と、返して三宝の上の紙包みを掴みます。手に持つと、どうも感触が山吹色をしているとは思えません。
重吉「オヤオヤ?観音の親分!」
丹次「何んだ?」
重吉「失礼さんですが、こりゃぁ、幾ら有るんです?」
丹次「約束通り、二百に決まっているじゃないか?!」
重吉「二百と謂うと?」
丹次「穴空銭で二百に決まっているだろう?ちゃんと、差しに通してある。嘘だと思うなら、確かめてみろ!」
重吉「何んだと!この野郎。誰が銅銭で二百なんて手切金で黙って帰るか?馬鹿にするのも、大概にしろ、ガキの使いじゃねぇんだぞ。
荒波ノ清六の跡を取る、観音ノ丹次だと謂うから、今売り出し中の親分だ、年は若いが仲人を任せてやろうと花を持たせた、俺の善意だ。
其れを乞食の掛け合いじゃねぇ〜んだ、ベラ棒めぇ。是ッぱかりの目腐れ銭で、誰が女房を他人様に呉れてやる馬鹿が居るもんか!!」
と、一丁前に痣の重吉が啖呵切って、丹次を睨み付け、その掴んだ二百文を、怒りに任せて投げ付けた。
だが丹次は、サッと体を交わしたので、二百文は壁に当たり、差しが外れて、店中に穴空銭が飛び散るのでした。
丹次「ヤイ!サンピン。汝は二百文じゃ気に入らないと謂うのか?なら手切金は無しだ。空手で帰りな!お帰りはあっちだ、早くしろ!」
重吉「コン畜生が!糞喰らえだ。俺様を本気で怒らせたなぁ〜、俺の腕前を知らなねぇ〜からそんな太平楽を謂いやがる。
荒波の威を借る狐の癖仕やがって、ケツの青い鼻垂れが、一人前の口利く何んざぁ十年早ぇ!さっきの銅銭は三途の川の渡し賃だ、死ね!」
と、謂うと懐中に忍ばせた匕首を、サッと取り出して、鞘を払い逆手に握ると猪突猛進!、丹次に斬り付けた。
併し、まぁ腕前は相撲に喩えると、序二段と三役・大関位の力量差ですから、ニッコリ笑って丹次は、重吉が匕首を掴んだ手首を直に握り、
更には、後ろ手に決めて、捻り上げますと、堪らず、「痛い!」と叫び、重吉は匕首を地面に落として仕舞います。
其れでも観音丹次は、攻撃の手を緩めません。更に執拗にその手を捻り倒してやりますから、遂に痣の重吉の口からは泣きが入ります。
重吉「止めろ!止めろ!卑怯者、腕が折れるじゃないか?コン畜生。」
丹次「何が卑怯者だ。汝が先に刃物を抜いた癖して、腕を折るのは勘弁してやるが、悪事の罰だ!之でも喰らえ。」
と、謂うが早いか、丹次は重吉の身体を抱えて上げて、往来の野次馬に叫びます。
丹次「此の野郎を、放り投げる。往来の衆は退いて呉れ!当たると怪我するぞ!」
そして、抱えた痣の重吉を、顔面から往来の地びたへ、叩き付ける様に投げたのである。喩えて言うと、ボディースラムの裏返しである。
思いっ切り、全身を地面に叩き付けられた痣の重吉。運が良いのか?悪いのか?人は時々口にするけどの無縁坂。
クッションやマット、何も緩衝材の無い地面に、若し、叩き付けられていたら、大袈裟だったが、丹次の情けなのか?偶然か?
馬が糞尿を垂れ流した小山に、重吉は叩き付けられて、頭から、顔、手足、身体と、全身馬糞塗れと成るが、大した怪我は有りません。
大勢の野次馬は、この重吉の姿を見て、笑って笑って、大笑いして野次馬だけに、当然の如く野次り始めます。
野次馬A「オイ見てみろ、あの野郎。観音の親分に投げ飛ばされて、頭から足先まで馬の糞塗れだぞ。
そして、あの顔を見ろよ?右半分は黒い痣塗れで、左半分は馬糞塗れだぞ?まるでマジンガーZの阿修羅男爵だなぁ?」
野次馬B「全くだ!馬糞の川流れッて言うのは、昔、自民党の金丸信が社会党を指して謂った言葉だが、
野郎は痣塗れの糞塗れだ。ヨシ、野郎に新しい名前を付けてやろうぜぇ。オーイ、重吉、貴様は今日から『痣糞ノ重吉』だ!」
野次馬A「皆さん、痣糞の重吉に慰めのエールを送りましょう。痣糞!痣糞!、痣糞!痣糞!」
痣糞!痣糞! 痣糞!痣糞! 痣糞!痣糞!
痣の重吉改め痣糞の重吉の襲名披露が始まり、地鳴りの様な『痣糞!』コールに往来は包まれて、イタチの最後ッ屁!の様な捨て科白を吐く重吉。
重吉「ヤイ、観音ノ丹次!こんな目に合わせやがって、必ず、仕返ししてやる。覚えてやがれ!!ベラ棒めぇ。」
丹次「あぁ、何時でも来い!俺は逃げも隠れもしない。九蔵町の家に居るから掛かって来い。
但し、今後近江屋さんに指一本でも触れてみろ?!次は馬糞位じゃ済まないぞ!命を頂くからそう思え。」
重吉「宜くも言ったなぁ、必ず、汝に吠え面かかしてやるからなぁ!きっと、此の事を後悔させてやるぞ!」
そう謂って、バタバタと痣の重吉は、倉ヶ野の方を目指し逃げる様に帰って行った。
すると、漸く野次馬が静かになり、飛び散る銅銭を小僧さんが奪い合う様に競争で集め始め、意地悪い番頭、彦七は、店の銭だ!と、其れを取り上げます。
こうして、近江屋の店に日常が戻り、商いが始まると漸く、近江屋の主人、伊兵衛が奥から出て参りました。
伊兵衛「親分、この度は、お骨折り真にご苦労様で御座います。之は些少では御座いますが、鼻紙代にお受け取り下さい。」
と、半紙に載せて三宝で、二十五両の切り餅を渡そうと致します。
丹次「こいつはいけません、旦那。アッシはお華さんの身投げを止めた行きがかりで、仲人を務めて掛け合いしただけだ。
こんな銭が欲しくて、助けた訳じゃ御座んせん。アッシの料簡に反しますし、貫目が下りますから、金子は仕舞って下さい。」
伊兵衛「分かりました。では、酒、肴をご馳走しましょう?どうぞ、上がって行って下さい。」
丹次「ハイ、ご馳走になりたいのは山々ですが、今日は九蔵町で盆茣蓙が立ちますもんで、そろそろ屋敷に帰らねば成りません。
又、日を改めて、お邪魔しますので、その際に是非ご馳走して下さい。相済みません、今日は之で失礼致します。
伊兵衛「では、必ず、親分のご都合の宜しい時に、お迎えに上がります。本に、今日は有難う存じます。」
丹次「では、失礼致します。」
と、近江屋の店を出て、九蔵町の方へと進み掛けたら、野次馬ん中から、今弁慶ノ金太とその子分四、五名が「若親分!」と声を掛けて来た。
金太「親分、ご苦労様で御座んした。いやぁ〜、又、漢を上げましたね。」
丹次「何んだぁ、弁慶。来てやがったのか?」
金太「ハイ、大親分や朝比奈、小勇が留守ん時に、親分が掛け合いなさると聴いて、万一に控えておりました。
相手が重吉の野郎なら、親分が負けるなんぞとは思いませんが、思わぬ助っ人や、飛び道具が出ないとは限りませんから、
遠くから様子を見させて、頂きましたが、大方の予想通りで、競艇で言うならB2がA1と戦う様なモンで、
競輪ならB2がS1と、競馬なら障害馬とオープン馬が平場を走る様なモンで、戦う前に勝負が付いておりました。」
丹次「そうかい。気使い有難うよ。じゃぁ〜、ボチボチ帰ろうかぁ!」
と、謂って観音丹次は九蔵町へと引き上げた。往来の野次馬は、四方にいよいよ消えて仕舞う。
所が、先程、小僧の銭を取り上げた番頭の彦七。この男が、最前、丹次から耳打ちされた番頭で御座いまして、
帳場格子に入りまして、嫌な悪魔の様な笑いを浮かべて、立派な莨入れを、其の膝元に隠し持っております。
さて、その莨入れはと、見てやれば、銀鎖が三十六本、饅頭の根付、革張りに銀箔押観音の柄で金の鋲入、三十両、いや五十両の値打物。
又、刺した煙管は金銀張り合わせの分け細工の昇龍、吸口には毛彫の細文字で観音丹次と一寸分かるか?分からぬ文字が入っております。
この莨入れと煙管。言わずと知れた観音丹次の持物ですが、彦七は、是を先程、丹次が耳打ちした時に、サッと煙管と帯の間を緩めます。
そうて於いて、丹次が重吉と格闘致しました由え、その煙管と莨入れは店の土間の隅に落ちて仕舞います。
其れを、此の彦七、まんまとこっそり拾い上げまして、そっと懐中に仕舞い、何食わぬ顔で喧嘩が治るのを見ておりました。
是が、人の難儀を救ったばかりに、思わぬ不幸が自分の身に降り掛かるという、実に大災難という事に相成ります。
そして、その諸悪の根源が、この番頭、彦七で御座います。白鼠を装う忠義の番頭、彦七ですが、一皮剥くとドロドロ真っ黒!大悪党の黒鼠。
兎に角、時期あらばと、近江屋の二万両以上ある其の身代を、虎視眈々と狙っているという、大胆不敵な黒鼠で御座います。
ですから、此の観音丹次が落とした莨入れ、是を手に入れた事で、彦七の頭ん中には、痣の重吉と言う格好の『駒』を使って、
観音丹次を磔刑に落とし入れて、近江屋の莫大な身代を我が物にする謀略を、いよいよ、実行に移すので御座います。
丹次が、痣の重吉と近江屋の店先で揉めてから、三日後で御座います。番頭の彦七は、早目に昼食を取り、午後はお得意先廻りで御座います。
本町の店を出て、二、三軒得意先廻りを致します。その帰り道、紺屋町の通りで彦七は、痣の重吉が歩いているのを目撃します。
彦七「ちょいと、倉ヶ野の親分さんじゃありませんか?!」
重吉「あゝ?!誰だてめぇ〜、どっかで見た面だなぁ〜、誰だ?」
彦七「私は、本町の呉服屋、近江屋伊兵衛の番頭を致しております、彦七で御座います。」
重吉「何だとぉ〜、近江屋だぁ?俺を馬鹿にしょうってんだなぁ〜、笑いに来たのか?コン畜生。」
彦七「違いますよ。痣の重吉親分に、ちょいとご相談が有るんですよ。」
重吉「ご相談だぁ?此の野郎、観音ノ丹次の廻しモンだなぁ!俺を騙して近江屋へ連れて行って、丹次野郎に始末させる魂胆だろう!?」
彦七「違いますよ、私は貴方の味方です。」
重吉「嘘を謂え!俺が度々、近江屋を強請って居たのは、貴様も知っているだろう?其れが何んで俺の味方なんだ?」
彦七「親分さん、観音ノ丹次みたいな若造に、往来で大勢の野次馬の面前、あんな赤ッ恥掻かされて、黙って居る積もりですか?」
重吉「馬鹿野郎!黙っちゃ居ないさぁ。必ず、仕返しはする積もりだ。併し、野郎の周りには荒波の四天王始め綺羅星の如く子分達が居る。
だから、一対一になる機会を待って、其の上で仕返しする積もりなんだ!俺が本気に成って油断さえしなけりゃあんな小僧には負けねぇ〜。」
彦七「一対一なら勝てますか?油断しなけりゃ、本当に親分の方が、あの観音ノ丹次に勝てますかねぇ〜、
私は、又糞塗れにされる様な気がします。いや、今度は殺(や)られて仕舞ってあの世行きかも知れませんよ、親分?!」
重吉「貴様、俺の味方と言いながら、何んて謂草だ!結局、俺を馬鹿にするのか?」
彦七「違います、違います。私は正真正銘、貴方の味方です。ただ、正面から喧嘩を売っては分が悪いと謂っているだけです。」
重吉「じゃぁ〜、どうするって謂うんだ?」
彦七「其れは、こんな往来の立噺では出来ないので、場所を変えましょう。料理屋の若狭屋で一杯やりながは、噺を致しましょう。」
痣の重吉は、まだ、此の近江屋の番頭・彦七が胡散臭いと思いますから、半信半疑で、跡に付いて二丁ばかり離れた若狭屋へ入ります。
彦七「御免なさいよ!」
女中「ハイ、アラ?近江屋の番頭さん、いらっしゃいまし。」
彦七「二人だが、離れの個室は空いてたら、そこが宜いのだがぁ?」
女中「生憎、離れは予約で塞がって御座いますが?」
彦七「そうかい、其れじゃぁ、二階だ。二階の一番ドン突きの狭い部屋は?」
女中「桔梗の間ですね?其れなら御用意できます。」
彦七「ヨシ、ならその桔梗の間へ案内して下さい。」
女中「畏まりました。」
そう言って女中は、彦七と重吉を二階の一番ドン突きの部屋に案内した。四方に隣接する部屋が無く、間狭だが他人に噺を聴かれる心配は無い。
彦七「取り敢えず、冷やで宜いから二合徳利を二本、後から熱燗を二本追加で頼みます。其れから、今日の肴のお薦めは?」
女中「刺身はカンパチ、其れに鮪ですね。房州から中トロの宜いのが入りました。焼魚はキスが有ります、尺物の大きなキスです。
煮〆はアイナメとカサゴに成ります。旬の出花は青菜のおひたしですね。何になさいますか?番頭さん。」
彦七「そうだな、では中トロとカンパチは二人前の刺盛にして下さい。キスも一疋ずつ、煮〆はカサゴで、酒と一緒に青菜と冷奴を下さい。」
女中「畏まりました。少々お待ち下さい、お早いのから、直ぐにお持ちします。」
と、謂って女中は下へ降りると、直ぐに酒と青菜に冷奴、そしてカサゴの煮付けを持って上がって来た。
又暫くすると、熱燗を二本と刺身の盛り合わせ、更には大振りのキスの塩焼を持って来た。
女中「之でご注文の品はお揃いですか?」
彦七「ハイ、有難う。其れから、暫くは呼ぶまでこの座敷には来ないで呉れ、親分さんと内密な噺がある。少ないけど、之は茶代です。」
と、彦七は女中にご祝儀を一朱握らせて、下がる様にと促した。
彦七「ささぁ、先ずは親分、一杯行きましょう。エッ!どうしました?用心なさってますね?毒など盛りませんから、私が先にお毒見します。」
と、余りに痣の重吉が警戒しているので、先に、彦七が呑み食いして見せると、漸く、重吉も酒を口へ運び、料理に箸を付けた。
重吉「それで、汝の謂う、正面から喧嘩を仕掛けずに、観音ノ丹次を懲らしめる方法ってのは、一体何んなんだい?」
彦七「其れはですねぇ、公儀(おかみ)の力を借りて、観音ノ丹次の野郎を獄門台に送って始末するんです。」
重吉「丹次を獄門台に送る?一体、どうやって?」
彦七「其れは、之を使うんです。」
と、彦七は例の丹次が落とした大変立派な名入り特注の莨入れを重吉に見せて、謀略の全貌を語り始めた。
彦七「つまりですね。うちの土蔵脇の裏口、非常口を、私が夜の火の用心の見廻りん時に開けて於きます。
其処から親分には、深夜、押し入って貰って、大旦那様と若旦那、そして嫁のお華さんの三人を殺害して貰うんですよ。」
重吉「エッ?!お前は近江屋の番頭だろう?何て事を謂うんだ?正気か?彦七。」
彦七「勿論正気です、狂っちゃ居ません。三人を殺(や)って、その殺害現場に、此の莨入れを残すんです。」
重吉「そんなぁ、此の莨入れ位で、本当に観音ノ丹次を磔刑にして獄門台に晒し首に出来るのか?彦七。」
彦七「其れは任せて下さい。高崎藩の奉行、柏木半左衛門様と、吟味与力の池田叉助には、日頃、出入りの際に鼻薬(賄賂)を利かせて御座います。
三人を殺害して、莨入れさえ残して置けば、観音ノ丹次に濡れ衣を着せて、主人の仇だと巧く謂って、厳しい拷問に掛けた上で、獄門台に上げてみせます。」
重吉「理屈は分かったが、なぜ、三人纏めて殺(や)る必要がある?例えば、誰か一人殺せば、丹次の野郎は磔獄門だろう?」
彦七「其れは、貴方。近江屋の身代を私が全部頂くからに決まってるじゃないですかぁ。近江屋は、あの伊兵衛が一代で築いた店なんです。
だから、親戚はあるが、全部畑違いの稼業をしていて、呉服屋渡世など知る奴は無くて、店を切り盛りする器量は全く有りません。
まぁ、親戚に一文も払わず、身代をそっくりは奪えないにしろ、搗き米屋の損料位、二分も渡せば店と八分の身代は奪えるでしょう。」
重吉「併し、お前は悪い奴だなぁ〜。其れで、身代を奪うと謂うが、伊兵衛の女房は健在ではないのか?」
彦七「大女将ですね?伊兵衛の内儀は、不治の病で余命は幾許も無い身体で、郷の実家に戻っています。
だから、お華の嫁入りをあんなに慌てゝ進めたりしたんです。そんな理由(ワケ)で伊兵衛の女房殺しは不要です。」
重吉「分かった。漸く汝の陰謀が飲み込めた。其れで俺は幾ら報酬が貰えるんだ?!」
彦七「ハイ、今夜、首尾良く殺(や)って下さいましたなら、五十両差し上げます。」
重吉「五十両だぁ?!巫山戯るなよ、番頭。人を三人殺(や)って、たったの五十両で収まるか!!
其れに、貴様は近江屋の身代を八掛けだが、そっくり手に入れる算段なんだろう?五十両なんかで間尺に合うかぁ〜!折半だ、折半。」
彦七「折半?って事は、身代の半分?其れは欲張りですねぇ〜重吉親分。」
重吉「いいよ、厭なら他を探しなぁ。其の代わり、近江屋の三人が盗賊に殺(や)られたら、公儀にお恐れながらと訴えるけどなぁ。」
彦七「弱りましたね、重吉親分。貴方の強欲ぶりには負けました。では、近江屋の身代の半分で手を打ちましょう、二百両ですね?」
重吉「ヤイ!番頭。お前と言う奴は、本当に悪どいなぁ。俺が近江屋の身代が幾らか知らずに強請っていたとでも思うのか?馬鹿。
一万五千から二万両の身代だろう?近江屋は。其れを折半だから八掛けにしても、悪く見積って六千五百両だ。」
彦七「いやはや、御見逸れしました。親分、ちゃんと知っていますね。では、伊兵衛の親戚筋としっかり噺を付けて、
近江屋の身代が私の物に成ったら、折半と言う事にしますから、今夜、三人の始末を親分!お願いします。」
重吉「ヨシ分かった。其れは引き受けるが、身代を折半にする件は、お前さんだと口約束だけじゃ駄目だ!此の場で誓約書を書いて呉れ。」
彦七「誓約書ですかぁ〜、紙も硯箱や矢立も有りませんよぉ。取り敢えず、口約束で宜しいでしょう?親分。」
重吉「紙と硯何んて此の店で借りれば宜いんだ。其れに貴様と噺をしていて、信じろ!と、言う方が土台無理だ。
誓約書を書いて爪印が厭なら、この噺は無しだ。他を当たれ!併し、三人が死んだら俺が奉行所に駆け込むけどなぁ!」
痣の重吉は、そう謂って酒を茶碗で煽り、彦七の方を睨み付けた。彦七は、この機会を逃してはと思うから、仕方なく重吉の要求に従わざるを得なかった。
彦七「取り敢えず、之で契約は成立ですが、では次に細かい段取りを決めましょう。まず、決行は今夜丑刻です。
土蔵脇の非常口の閂(カンヌキ)は、大嶽山の瀧澤禅寺の鐘を合図に開けて於きますから、直ぐに侵入して下さい。
大旦那の寝間と、若旦那夫婦の寝間へは私が誘導しますが、万一、親分が討ち漏らして逃した時は、私が始末する様になるので、
私は、親分を寝間へ誘導したら、一旦、庭へ降りて様子見をしております。宜しいですか?」
重吉「分かった。兎に角、今夜丑刻の少し前には近江屋の土蔵脇に行くから安心しろ。」
彦七「其れで、最後にお金の噺ですが、近江屋の身代は、三人が死んで、伊兵衛の親戚と噺が着いてからになるので、
二、三ヶ月先にならないと、親分に身代の半分は渡せません。また、実行犯の親分は、少なくとも観音ノ丹次が磔獄門に成るまては、
何処か?遠くに身を隠して頂く必要があるので、当面の高飛びの費用として、五十両、今夜三人を始末したらお渡します。
二月、三月は、旅をしてのんびりしていて下さい。丹次が獄門首になりる迄は、絶対、高崎へは戻らないで下さい、約束ですよ。」
重吉「よーし、段取りは分かった。サッ!前祝いだ。まだ、宵の口だ、ジャンジャン呑むぞ、彦七。」
彦七「親分、三人を始末するんですから、程々に頼みますよ!」
重吉「分かっている。お前も、遠慮せず呑め!」
と、ひとしきり呑み食いして、二人は一旦、若狭屋で別れます。彦七はここの払いを済ませて、近江屋へと戻ると戌の下刻でした。
時刻は、子の下刻。近江屋は主人も奉公人も寝静まり、番頭の彦七だけが、起き出して『火の用心』の見廻りに出ます。
主人と若旦那夫婦、並びに奉公人一同な寝静まり、台所の吊り戸棚へ登り、新人女中に夜這いを掛ける様な輩が無いのを確認して、
彦七は、独り庭へと降りて、ひたすら遠寺の鐘の音がするのを、ジッと今か?今かと待っておりますと、
いよいよ合図の丑刻の鐘の音が聴こえ、土蔵脇の閂を抜き非常口を開放します。すると、待ってましたとばかり、今度は痣の重吉が引き込まれて参ります。
重吉は、黒い単衣の木綿物に、黒の三尺の帯を締めて、頭から黒っぽい手拭いで頬冠をすると言う黒尽くめの出立ちです。
重吉「番頭!直ぐに、伊兵衛の寝間へ案内して呉れ。」
彦七「へぇ、此方です。」
二人は庭から縁側へと上がり、廊下伝に大旦那の伊兵衛の寝間に入ります。十二畳の部屋の中央に布団を敷いて伊兵衛は寝ております。
障子戸を開けて独り入った重吉は、ゆっくり息を殺し擦り足で枕元に近付くと、匕首を懐中から出して、伊兵衛の口を塞ぎ、喉を一突きにします。
目を一瞬開いた伊兵衛は、声も無く息絶えてしまいます。絶命を素早く確認した重吉は、再び廊下へ戻り若旦那・伊太郎とお華夫婦の寝間へ、
番頭彦七の先導に付いて進んだ。こちらも、熟睡する二人を起こさない様に、障子戸を開けた重吉だったが、
枕元に着いて、お華の寝顔を見ると、こんな極悪人の重吉でも、かつて一夜を共にしたお華には愛おしいと言う気持ちが湧き、
伊兵衛に対して見せた様に、速攻での殺戮は出来なかったのである、そして、此の躊躇が彦七が立てた陰謀の歯車を狂わせた。
そうです、重吉が匕首を刺す前に、お華が目を覚まして仕舞ったのです。お華が目を開けると、目の前に頬冠をした顔が飛び込んで来たから、「泥棒!泥棒!」と、叫び起き上がります。
重吉「仕舞った!!」
と、声にして初めて正気に戻る重吉だったが、お華は布団を飛び出し、横で寝ていた伊太郎も目を覚ました。
一瞬、狼狽し身体が固まる重吉。すると其の隙に、伊太郎は脱兎の如く布団を出て、障子を蹴破り「人殺し!」と叫びながら庭へ飛び出した。
こんなに早く重吉がしくじり伊太郎が逃げ出すとは彦七も想定外で、彼はまだ庭に出てはおらず、裏の非常口から外へ逃げ出されて仕舞う。
此方も「仕舞った!」と思った彦七は、慌てゝ跡を追い外へ出たが、既に伊太郎の姿は無く、取り敢えず、利根川の堤の方へ追跡する。
一方、重吉はと見てやれば、逃げた伊太郎の方は諦めて、直ぐに唐紙を開けて逃げたお華を追い次の間で追い付き、是を匕首で滅多刺しにする。
お華は「人殺し!」「泥棒!」と、悲鳴まじりに叫んだが、重吉の仕業とは気付かず、直ぐに絶命して仕舞う。
併し、この物音で奉公人が目覚め、一人、二人と起きて来て、血塗れのお華や、二つ隣の伊兵衛の死骸を見付けて騒ぎ始めます。
こうなると、重吉もグズグズはしれ居られなくなり、庭へ飛び出し、土蔵脇の非常口から外へ出て返り血を気に仕ながら、
此方も、利根川堤から倉ヶ野方面へ抜ける道を、急ぎながらも用心して、闇の中へと消えて行った。
さて、寝室から飛び出した伊太郎で御座います。大変狼狽(あわてた)と見えまして、無我夢中裸足で、一生懸命に駆けて来て、
時刻は丑の下刻で御座います。誰一人として往来で出会う人は無く、前へ前へと明治北島監督のラグビーの様に着いた所は利根川の堤。
あゝ、慌てゝ家を飛び出し、こんな所まで来たが、寝間に置き去りにしたお華はどう成ったやら?あの賊は何者なんだ?
そんな事を自問自答しながら、歩いていると、後ろの方から、「オーイ、オーイ、若旦那!」と、呼ぶ声が致します。そして、人影が?!
伊太郎「あゝ、怖かった。お前は誰だえ?」
彦七「ハァ〜ハァ〜、私で御座います、若旦那。」
伊太郎「オー、汝は番頭の彦七ドン。」
彦七「貴方は、何故、急に飛び出しなすって、こんな川端へお逃げなさったのですか?」
伊太郎「違うんだよ、黒尽くめの盗賊が出たんだよ?私とお華が寝ている所に。。。」
彦七「私は奥で寝ておりましたら、急に騒がしくなり、人殺しだ!泥棒だ!と小僧や手代が騒ぎますから、慌てゝ外へ飛び出して、
私もこんな所まで逃げて来たんですが、盗賊は、若旦那の寝室に入ったんですか?併し、此処まで逃げれば、もう大丈夫です、若旦那。」
伊太郎「あの盗賊は、何者だろう番頭さん?」
彦七「さぁ〜、私にも見当が付きません。其れより、流石に、もう大丈夫でしょうから、一旦、店に戻りましょう。」
伊太郎「でも、まだ賊が庭や土蔵に隠れていて、襲って来るかも知れない。店に帰ると危険だよ、番頭さん。」
彦七「何を仰いますかぁ、ホレ、今、役人があんなに大勢で、此方の方へ向かっているじゃありませんか?見てご覧なさい?!」
と、本町の店の方を、彦七が指を差しながら申しますから、伊太郎は是に釣られて、
伊太郎「エッ!彦七ドン、何処に役人が居るんだい?」
と、仕切りに彼が指差す方を見ていると、そっと、彦七は伊太郎の背後に廻り、手拭いを取り出し捻って紐状にすると、
サッと其れを伊太郎の首に掛けて、背中合わせの格好をして、力任せに引っ張って、伊太郎を自身の背中で首吊りさせて殺します。
更に、グッたりと動かなくなった伊太郎の死骸は、念が入った事で、帯びを持って担ぎ上げて、堤から利根川の濁流に流して沈めて仕舞うのです。
そして、その流れから藻屑と消えた伊太郎の死骸を見届けて、彦七は、堤を降りると、来た道を引き返し店の方へとフラッカ、フラッカ、歩き始めます。
さて、今度は又新しい人影が此方に来ます。そうです、この真っ黒い影は、間違いありません、痣の重吉だと彦七は確信します。
彦七「親分!汝って人は。。。」
重吉「すまん、二人は仕留めたが、小倅には逃げられた。」
彦七「小倅には逃げられたじゃ有りませんよ。若旦那の伊太郎を逃すと、近江屋の身代はオジャンですからねぇ〜。」
重吉「申し訳ない。お華の寝顔を見て、情が湧いて、殺(や)るのが惜しくなり、一寸躊躇ってしまったら、目を覚ましやがって。。。」
彦七「何を仏心を出しているんですか?悪党の癖して。。。中途半端は命取りですからね、以後、気を付けて下さい。」
重吉「では、二人して小倅の立ち回りそうな先を捜索するか?!」
彦七「いいえ、其れには及びません。小倅の伊太郎は、たった今、私が此処で締め殺して死骸は川に投げ入れたから安心して下さい。」
重吉「本当か?助かった、其れで、此の後はどうする?」
彦七「ハイ、此処に五十両有ります。汝はこの銭で暫く高飛びして姿を眩まして下さい。先に申した様に、観音ノ丹次が磔に成る迄は、
絶対に、高崎界隈、いや!上州へ戻ってはいけません。何処か遠くに隠れて居て下さい。宜しいですね?」
重吉「オウ、合点だ。其れは宜いとして、近江屋の身代は折半だからなぁ!忘れるな、番頭。」
彦七「ハイ、私が相続したら、半分渡しますから、兎に角、大人しく目立たぬ様に隠れて下さい。頼みましたよ。」
重吉「あゝ、汝も、観音ノ丹次をきっちり罪人にして、獄門首にして呉れよ。」
彦七「其れは任せて下さい。細工は流々仕上げを御覧じろってね。では、夜が明けぬうちに、親分!逃げて下さい。」
重吉「アイ、合点だ!」
そう言って、痣の重吉は、倉ヶ野の方へと走り去って行きます。
一方、番頭の彦七は、近江屋の店へと帰りまして、奉公人に指図をしまして、町役人と高崎藩の奉行所へと事件を知らせに走ります。
さて、『近江屋事件』は、愈、三人が殺されて其の罪が番頭、彦七に依って観音丹次へ濡れ衣が着せられるのですが、続きは次回のお楽しみ。
つづく