その後も庄屋の六太夫は、実の妹のお凛を後妻にと、高橋丹左衛門の元へ足繁く通い其れを薦めに来た。
丹左衛門は、亡くなった妻・お竜の遺言もあり、この度重なる申し出にも、なかなか『うん』とは返事をしない。
併し、庄屋の六太夫は、水澤村では町人、百姓を取り纏める一番の顔役だから、丹左衛門としても、無下に断る訳には行かず、
六太夫が、四度目にやって来た時に、「其れならば、奉公人として暫くお凛殿を、此方に預かり、様子を確かめてから返事を致します。」
と、渋々ながら、後妻を前提とまでは言わないが、お凛を暫く試して見て、判断すると丹左衛門は六太夫に返事をするのだった。
数日後、水澤村庄屋六太夫の妹、お凛が身分を伏せて高橋家へ、新しい奉公人としてやって来た。
丹左衛門は此の時初めて、お凛を見て非常に意外に思った。なぜ、是程に美しく、淑やかで、而も底抜けに明るい娘が、なぜ?行かず後家なのだ。
容姿は、色は抜ける様に白く、身体はスラッと痩せていて背は高く、首も長い。
目は一重で切れ長、鼻筋は通り高からず低くからず、鼻と上唇の間が狭く、その唇は薄くおチョボ口である。
また、如何にも江戸で武家奉公していただけあって、兎に角、当たりが柔らかく言葉使いは丁寧だし、気遣いが細やかである。
其れでいて、嫌味な所がなく、素直にハッキリモノを言うし、何より明るくて行動は常に前向きである。
そんなお凛ですから、直ぐに他の奉公人とも仲良く輪に入り、一月もすると女中連の中ては、頭(リーダー)的な位置を占める様になります。
こうして丹左衛門の身の回りの世話は、いつの間にか、お凛が務める様になり、其れを、丹左衛門自身、嬉しく思うのだった。
一方、丹左衛門の倅、丹次郎はと見てやれば、最初はお凛に他所他所しい素振りだったが、亡き母から『後妻には妾(わたし)以上に孝行せよ!』
と、最後に言われた事もあり、お凛を『小母(こぼ)様』と、呼んで他の下女とは一線を画す敬う気持ちを見せ始めます。
軈てお凛が高橋家に奉公へ来て半年が過ぎ、お竜が亡くなり二年半が過ぎて、ぽっかり空いた『奥様』の穴に、このお凛が嵌るのを、
高橋家では、丹左衛門、丹次郎、そして奉公人の下男、下女、全員が感じる様になって、其れが心地よい生活のリズムに成っていた。
高橋丹左衛門は考えた、お凛は庄屋の六太夫が言う通りに、性格は申し分なく、何よりも丹次郎を母の様に可愛がって呉れる。
更には、奉公人にも受けがよく、皆んなの嫌がる様な面倒で手間な仕事を進んで熟して、影に日向に進んで仕事をする性格である。
そして、丹左衛門にも癒すような憎い心配りをするお凛が、今では大層気に入ってしまいます。
この様にして、丹左衛門は庄屋、六太夫の妹、お凛を後妻に迎える決心をして、六太夫へ正式に、お凛を後添えに欲しいと申し出ます。
すると勿論、六太夫は大喜び!二つ返事で是を承知致しまして、吉日を選び、然るべき仲人を立てゝ輿入れとなります。
併し、お凛は既に歳も歳だと言って派手な披露宴を好まず、結婚式は身内だけで質素に済ませて欲しいと希望しますし、
花嫁道具も、先のお竜の家具や着物が高橋家には揃っているので、衣類だけを持ち込み、しかも、自分とお竜の衣類で重なる物は、
気前よく奉公人の下女たちに分け与えて仕舞いますから、下女たちは「若奥様!若奥様!」と、益々尊敬致す様に相成りました。
そして、お凛が後妻に収まりまして、更に半年ほどが経ち、高橋家は平穏な日々が流れるので御座いますが。。。
ところが、此の年の秋半ばの事で御座います。其の日は月見の催しが高橋家では行われ、作男や下男・下女の上戸には酒が、
下戸や女子供には、団子などが振舞われて、大層賑やかに盛り上がりまして、丹次郎も少し調子に乗り過ぎて、団子を食べ過ぎて仕舞います。
そんな月見をした夜の事、時刻は子の下刻。丹左衛門やお凛、そして奉公人も寝静まる真夜中で御座います。
団子を食い過ぎた丹次郎が、腹が痛くなり目が覚めまして、慌てゝ雪隠へと駆け込むのですが、其の雪隠は丹次郎の寝間から些か遠くに在ります。
部屋を出て、庭沿いの長い廊下を北に進みまして、両親の寝間の前を通り過ぎると、廊下の突き当たり、
そこから更に左へ曲がり、渡り廊下を四、五軒ばかり先へ進むと雪隠が御座います。
秋風がヒューッ!ヒューッ!と吹きます中、雪隠に屈んで、漸く安堵する丹次郎。
調子に乗って食い過ぎた自分を反省しつつ、尻を拭いて、手水場で手洗いし、ブラ下がった手拭いを使っていますと、
遠寺の鐘がボーン!ボーン!と鳴りまして、是は丑刻を告げる鐘で御座います。
すると、両親の寝間の障子戸が開き、母親のお凛らしき人物が廊下に出て参ります。
廊下を音も立てず、忍者の如く擦り足で進むお凛。丹次郎は『まずい!雪隠を使うに違いない。』
と、思いますから、子供心に団子を食い過ぎで深夜に雪隠へ駆け込んだ自分を、この美しい母親に見られたくない!
そんな思いが働いて、裸足で庭へと飛び降りて、植木と石灯篭の陰に隠れます。
すると、お凛は雪隠の渡り廊下の手前に佇み、月の様子を眺めながら、
『あぁ〜、仕様がないねぇ〜、今丑刻の鐘が聴こえたから出て来たのに、来ないつもりかねぇ〜、ッたく。』
と、丹次郎には意味不明の独り言を、お凛が呟くので御座います。
すると、塀の外から、小さな粒手(小石)が庭へ投げ込まれ、是は何かの合図?!
お凛は途端にソワソワし出して、庭下駄を履いて飛び出し、裏木戸の閂(カンヌキ)を外し、鍵を開けると、
外からの人影を、そっと中へと招き入れるので御座います。
人影は、明らかに頬冠をした男で、キョロキョロと怪しげに辺りを見回して、サッとお凛の元へと近付きます。
そして、徐に頬冠を取り、履脱石の辺りから縁側へと上がろうとしています。
『此の男は、何者だ?!』
丹次郎は、日頃自分にも、父・丹左衛門にも優しい新しい母、お凛が、
なぜ、こんな頬冠して来る様な男を家に引き入れたか?全く見当が付かなかった。
月夜なので、頬冠を取った曲者の様子が、丹次郎にはよーく分かりました。
胡麻柄の唐山の廣袖に、身には五分詰まりの腹掛け、色はあくまで白く頭は中月代で御座います。
尤も、紺縮緬の三尺帯を、グイッと前で締め、履物は麻裏草履を突っ掛けて御座います。
そして、歳の頃は三十四、五か?一癖ありそうは厭な目付きのヤサ男で御座います。
さて丹次郎、出るに出られない此の状況なので、暫く、二人の様子を伺う事に致します。
お凛「もう、来ないのかと思ったよ。」
曲者「悪い、水澤村は初めてだ。道に迷ってやっと着いたんだ、勘弁して呉れ、お凛。
併し、水澤村一番の金萬家、高橋家の女将さんが板に着いてなさるじゃねぇ〜かぁ、お凛さんよぉ〜。上手く化けなすった。」
お凛「冗談言って貰っちゃ〜困るよ。お前さんみたいなもんに高崎で堅気の屋敷奉公している時に知り合い、
二人して先ずは川越へ逃げて共働きの住込で小料理屋に入ったが、アンタの喧嘩が元で川越にも居られなくなり、
流れ流れての江戸暮らし、アタイが水茶屋で働いて何んとか食い繫いで居たが、どうにも借金で首が回らない。
とうとう、江戸を売る事になり、兄の六太夫には本当の事は今更言えず、暇を出されたからと、金持ちへ後妻の噺はないかと尋ねたら、
此の高橋丹左衛門の家が、宜かろうと兄の六太夫が言うから、最初(ハナ)は下女、女中奉公からだよ!!
我慢して、虫一疋殺さぬ顔して、兎に角、倅の丹次郎に好かれる様に取り入って、奉公人仲間にも好かれる様に、人の嫌がる仕事を買って出た。
徐々に、主人の丹左衛門にも好かれる様になり、一年掛けて、漸く騙し通したんだからね!
其れも是も、金さん!アンタを生涯の色だと決めたから、お前さんが、八月十五日の十五夜に、
アタイを迎えに来ると言ったあの言葉を信じて、兄の六太夫も高橋丹左衛門も騙して今日まで過ごして来たんだ!分かっているのかい?金さん。」
金助「馬鹿を言うな。俺だって亥の下刻か?子刻には塀の外には来てたんだが、中から合図は一刻待ったが何も無い。
だから痺れを切らして、俺の方から粒手を飛ばしてみたんじゃねぇ〜かぁ、其れに、流石に手元が淋しくて、お前に借りようと思ったんだ。」
お凛「どうせそんな事だと思っていたよ。ホレ、此処に二十両在るから、之で暫く遊んで繋いでゝお呉れ。
もう少し、丹左衛門を安心させて、この家に一番銭が集まる頃合いが分かったら、お前さんに知らせるから、そん時迄の辛抱だからね。」
金助「ベラ棒めぇ!好いた同士互いに別れ、汝(おめぇ)に大仕事をさせた負い目が在ればこそ、
ギッとオイラも辛抱している。憚りながら生まれ故郷の八王子じゃぁ〜、随分賭場の仲間からは、
人に知れたる小悪党、八王子の賽の目の魔術師、詐欺(イカサマ)博打の小天狗様たぁ〜、俺の事よ、
詐欺の名人、穴熊の金助と謂っちゃぁ〜、五分でも引けを取った人間じゃねぇ〜やぁ、
其れに自分の大事な女房を、他人様に差し出して、弄ばれて居るのも、
まんまと其の身代を、全部せしめてやる魂胆だからこそ、
だから、オイラも奥歯噛んで、辛抱しているんじゃねぇ〜かぁ。
其れに引き換えお凛!貴様は何んだ、毎夜毎夜、丹左衛門と乳繰り合って、
巫山戯るにも程があるぜぇ!ッたく。便りも呉れずの半年過ぎて、
やっと顔を合わせりゃ、目腐れ銭が二十両。
俺は、こんな目腐れ銭の為に、大事な女房を他人に貸した覚えは無ぇ〜!
必ず、身代をそっくり貰う算段だ!少なくとも二百両。頂戴しないと気が済まねぇ〜。」
と、小博打に興じる小悪党の癖に、この穴熊の金助、一人前(いっちょまえ)に啖呵を切ります。
お凛「馬鹿言わないでお呉れよ、お前さん、アタイだっておんなじ気持ちだよ。
我慢して丹左衛門の女房しているのは、お前さんと此の先遊んで暮らせるだけの纏った銭を掴む為さぁ。
厭な相手のご機嫌取って、辛抱しているのは、皆々、お前さんの為なんだよぉ〜。
だけど、此の家の主人丹左衛門は、まだまだ用心深くて、何かあるとアタイを遠避ける。
少しも油断しない。其れが証拠には、金庫や金蔵の鍵は、アタイの自由にはさせて呉れない。
だから、あと半月ばかり辛抱して呉れ。金蔵の鍵さえ自由になれば、お前さんを又呼びにやるから。」
金助「じゃぁ何かい、あと半月も経たないと、二百両と纏まった銭にはあり付けないのか?
仕方がない、無い袖は振れめぇ〜、今日の所は此の二十両で我慢して帰るとする。」
と、言って穴熊の金助は、又、頬冠をして裏木戸から出て行こうと致しますが、お凛は名残り惜しげに猫撫で声になり、
お凛「一寸、お待ちよぉ〜、金さん。」
金助「何んだ!まだ何んか有るのか?」
お凛「お前さんは取る物を取ったら、其れで満足かい?!」
金助「知れた事よ。半月先、つまり次は晦日だろう?」
お凛「冗談はよしこさん。妾(わたし)とアンタが逢うのは半年ぶりだよ、
人に之だけ働かして、自分は取る物取ったら帰っちまうなんて、殺生だよ、金さん!いいだろう?」
金助「恥ずかしいなぁ、女の方から、そういうのは謂わないもんだ。
其れに、家に上がって。。。そんな所を見付かったら、二百両もオジャンだろう。」
お凛「大丈夫よ、丹左衛門も丹次郎も、そして奉公人も皆んな寝てるから、ささぁ、こっちへ来て!金さん。」
金助「参ったなぁ〜、好きだなぁ〜お凛。」
お凛「早く!金さん。」
と、お凛は金助の手を引いて、広い屋敷の客間の一つに引っ張り込んでお楽しみ。。。そんな塩梅で居りますと。
さぁ、此の一部始終を見ていた丹次郎は驚きます。幼いとは言え、後妻のお凛が正体を表したのですから、懐疑的になります。
会話の仔細が聴こえた訳では無いのですが、あの穴熊の金助を、客間へ引っ張り込もうと、真に廊下へ上ろうとしています。
是を見た丹次郎、一寸と幼きが為か?思慮が浅く、本来なら二人が部屋に入り、睦み始めてから声を掛けるべき所を、
泥棒!泥棒だぁ〜、泥棒!
と、丹次郎は大きな叫び声を上げて、庭の石灯篭の陰を出て、渡り廊下へ上がり、二人の前に立ち開かるのです。
是には、流石の金助、お凛も狼狽します。慌てゝ、お凛が丹次郎へ、苦しい言い訳を始めるのです。
お凛「アラ?丹次郎、何をしているのです?」
丹次郎「小母様、泥棒で御座います。泥棒!です。」
お凛「泥棒?何んの事ですか?」
丹次郎「小母様、私は見たのです。頬冠をした胡麻柄の着物の泥棒で御座います。」
お凛「アレは、私の兄上です。」
丹次郎「小母様の兄上なら、庄屋様の六太夫さんです。あの人は違います、泥棒です。」
お凛「違うのです。六太夫は大兄さん、長兄で、その下に次男の兄が、妾にはあるんだよ、放蕩な兄で勘当されて。。。」
と、お凛が苦しい言い訳をしている隙に、穴熊の金助は、そっと丹次郎の背後に廻り込み、頬冠の手拭いで、丹次郎の首を締め上げます。
ギャッ!!
短い断末魔の声を上げた丹次郎は、直ぐにぐったりして、動かなくなります。是を見たお凛は、びっくりして金助を止めに掛かります。
お凛「金さん!何をするのぉ、ガキを殺したら、身代を奪う計略は水の泡だよ!止めて!止めなさい。」
もう、夢中で金助を止めるお凛でしたが、既に、丹次郎の顔色は真っ青で、グッたりして動きません。
金助「ちッ!くたばりやがった。」
お凛「くたばったじゃないよ!どうするんだい?!」
金助「知るかぁ!騒ぐから仕方がなかったんだ。其れに、お前が悪いんだぞ、お凛。
俺が帰ると謂うのを、サカリの付いた猫みたいに誘うから。。。」
お凛「殺(や)っちまったのは仕様が無いけど、死骸を此処には置けないよ。
丹次郎が死んだとしれたら、アタイ達の二百両は、完全にオジャンだからね。
兎に角、金さん、アンタこの丹次郎の死骸を、何処か?人目に付かない場所へ捨てゝ来て頂戴。」
金助「捨てるのは、ガッテンだが、捨てゝどうするんだ?」
お凛「決まってるだろう?丹次郎には家出して貰うのさぁ。
其れで、家出した丹次郎を探すふりをして、丹左衛門を油断させて、身代を奪うって寸法さねぇ〜。」
金助「へぇ〜、相変わらず、悪知恵が働くなぁ〜、お凛。」
お凛「さぁ、黙って死骸を運び出すんだよ!絶対に見付からない様に、始末するんだよ、金さん。」
金助「あぁ、判ってるよ。」
そう謂うと、穴熊の金助は丹次郎の死骸を小脇に抱えて、裏木戸から出て行った。
すると、一旦、お凛は此の裏木戸の錠と閂を絞めるのだが、丹次郎は家出だと装う事を思い出して、再び開け放って寝室へと戻った。
さて、丹次郎の死骸を抱えた穴熊の金助は、夢中で山の方に向かって走って行った。
特に土地勘の無い金助は、捨てる当ては無い。漠然と山を目指しただけだった。
其れでも、夢中に進んで行くと、潅漑用の大きな溜池、堤のような池に出会した。
ヨシ、この溜池に石を抱かせて沈めて仕舞おう!そう決めた金助は、
丹次郎の死骸の袂や懐中に、必死に大きな石を詰めて、目方が倍になる位重くして、
金助は溜池の周囲をよーく見渡して、全く人気が無い事を確かめると、
素早く溜池の淵に立って、二、三軒ばかり離れた所へ、力を込めて投げ入れた。
ブクブク、ブクブク
石を抱かされた丹次郎の死骸は、二度と浮き上がる心配もなく、溜池の底へと沈んで仕舞う。
是を見届けた、穴熊の金助、長居は無用!と、一目散で駆け出し、月夜の闇へと消えてしまう。
さぁ、皆さん!何んと珍しい講釈です。始まって二話目の半ばにして、主人公が殺されてしまいます。
是では、穴熊の金助やお凛は万歳でしょうが、伯龍は大変困ります。おまんまの食い上げです。そこで。。。
この丹次郎が、其の死骸が投げ込まれた溜池には、その滸に蒲鉾小屋が御座いまして、
この中には、此の辺りの主の様な乞食が一人在りまして、寅刻近いこの時間にも、
ちゃんと、目を輝かせて、この一部始終を見ていたので、投げ込まれた死骸を、
穴熊の金助が立ち去ると、直ぐに、引き上げて確かめるのです。
首に巻かれた手拭いを取って、鼻を摘み、口を開け気道を確保すると、息を吹き込みます。
そして、心臓マッサージ、また、人口呼吸。是を繰り返すうちに、
ゲボッ!ゲボッ!
っと、呼吸が戻り、目を開いて、丹次郎は蘇生致します。本当に捨てられた場所に恵まれた。
乞食「大丈夫ですか?貴方は、高橋の坊っちゃんですよね?」
丹次「ハイ、高橋丹左衛門の倅の丹次郎です。本当に危ない所を助けて下さり、有難う御座います。」
乞食「誰ですか?あの男は、貴方を溜池に捨てた男ですよ。此の辺りでは見ない顔ですが?」
丹次「えぇ、金助と名乗る、博徒の様な遊び人の様です。江戸から流れて来たようです。」
乞食「そんな、流れ者の博徒に、なぜ、坊っちゃんが命を狙われたんです?」
と、訊かれた丹次郎。一瞬、口籠もって仕舞いますが、
この命の恩人のこの乞食には、隠す事も無いと思い、全部、此の夜の出来事を語り聴かせてた。
乞食「其れは難儀な事でしたねぇ〜、其れで坊っちゃんは、どうなさるお積もりですか?
その継母の悪事を、父上に全部打ち明けられるお積もりですか?」
丹次「いいえ、其れをすると、高橋の家の大きな恥になりますし、
昨日まで、あんなに優しかった小母様にも、その真意を確かめとう御座います。
ですから、一旦、何も知らぬふりをして、高橋の家に帰り、様子を見たいと存じます。
貴方には、本当に大変な恩を受け、いずれは、何かお返しをと思っています。
ですから、今晩、溜池から私をお救い頂いた噺は、他言無用に願います。」
是を聴いて、何んと聡明で度量の深い坊っちゃんだと、乞食は感心した。
乞食「判りました。坊っちゃんが他言するなと仰るなら、私は何も申しません。」
丹次「判って頂き、本当に有難う御座います。さて、命の恩人の名前を聴かぬ訳には参りません。
失礼ですが、是非とも貴方のお名前を、一つ、お聴かせ願います。」
乞食「イヤイヤ、こんな蒲鉾小屋に暮らす乞食ですから、名前なんぞと言われましても。。。」
と、乞食は謙遜し、遠慮するのを、丹次郎は無理にも聞き出し、乞食は六蔵と名乗ります。
さて、この六蔵、又、此の後も登場致すのですが、ひとまずは丹次郎の命の恩人という事で。
さて、溜池では九死に一生を得た丹次郎。家に帰ると裏木戸は空いておりますから、そこから自分の寝間へと入ります。
何も起こらぬ體で、ぐっすり休みまして、いつも通りに起き、顔を洗い朝食の台所へ顔を出すと、丹左衛門とお凛の姿はまだ御座いません。
一方、丹次郎は死んだと思っているお凛は、いつもよりわざとゆっくり支度して、丹次郎の家出が騒ぎになった頃をと、
自室で伺いながら、ゆっくり着替えてゆっくり化粧しておりますが、意に反し、一向に騒ぎは起きません。
仕方なく、此方も長い廊下を歩き、台所へと足を進めて居りますと、途中で、丹次郎の声が聴こえて参ります。
おや?不思議、まさか?と、半信半疑ながら、顔には出せぬと、無理に平常を装いまして、足を早めて台所へ飛び込みます。
すると、女中達と喋っていた丹次郎が、スッと後ろを振り返り、元気な声で、
丹次「アラ、小母様、おはよう御座います。」
と、挨拶を致します。一瞬、反射的にドキッと驚いたお凛でしたが、顔には出さず、平静に
お凛「オヤ、丹次郎殿。お早よう、お前、昨晩は何んぞ御座いませなんだかぇ?」
丹次「何んぞ?さて、私は知りませんが。」
と、謂うと丹次郎は、常と変わらず旺盛に朝食を食べておりますから、お凛は薄気味悪く、丹次郎の箸が止まるのを待って、
お凛「一寸、此方へおいで。」
と、その手を掴むと、居間へと連れて参ります。四隣には誰も居りませんを幸いに、
お凛「丹ちゃん、能く眠れたかぇ?昨晩は、庭の方に居たように感じたが?」
丹次「ハイ、小母様、宜くご存知で、確かに庭に下りて御座いました。そして夜中に恐ろしい夢を見て御座います。」
お凛「ホォー、妾も恐ろしい夢を見ました。貴方の夢はどんな夢でした?」
丹次「何んだか、奇怪な夢で、私がスヤスヤ寝て居ますと、突然、恐い曲者が現れて、手拭いで首を締めて殺そうと致します。」
お凛「フム、其れで後はどう成った?」
丹次「其れで、私は締め殺される?!と、思ってバタバタ致しましたが、気が遠くなり、
もう駄目だ!と、諦め掛かった所で、死んだ先の母上が現れて、その手拭いを解いて、
口に人口呼吸し、胸には心臓マッサージを施し、色々と介抱下さり、私は蘇生しました。
何んだろう?と、思っておりますと、先の母上は、『お前が悪戯をするからいけない!』と、
戒めの言葉を掛けられまして、
寝間着の乱れを直して下さいまして、庭から寝間へと先の母上が連れて来て下さり、
『小母さんに孝行するのですよ!』とも、仰りまして、ハイと私が答えますと、夜が明けて朝で御座いました。」
と、利口な子ですから、継母と金助の仕業などとは申しませんで、あくまで、夢物語の體で噺を致します。
さて、謂われた毒婦、お凛の方は、ハッとして血の気が引きます。此の丹次郎には、守護霊として、先の母親、お竜が付いて居るのか?
それとも、水澤観音の『申し子』だけあって、殺しても、観音様が蘇えらせるのか?実に不思議な、薄気味悪い子だ!と、思った。
お凛「丹次郎、良い子だから、そんな噺は父さんには聴かせては成りませんよ、宜しいてすか?」
丹次「ハイ、小母様、判りました。父上には申しません。」
と、此の場は、これで納められたが、流石の毒婦お凛も、丹次郎が薄気味悪く、以後、少し距離を置く様になります。
さて、そうは言っても穴熊の金助との約束の晦日まで、あと三日に迫った。
お凛は一向に金庫や金蔵の鍵は任せては、貰えないが、大切な大口の集金を任され始めたので、
其れを地味に誤魔化して、何んとか百両の銭を拵えた。ヨシ、是を金助に渡そう。
金助が謂う二百両には、半分だが、是を持って、密会前日の二十九日に、
兄の六太夫に久しぶりに逢いに行くと、丹左衛門に許しを得て、お凛は高橋の家を空ける。
併し、晦日には金助が、又、高橋の家の裏木戸に現れるので、是を待ち伏せした。
お凛「アンタ!ここ、ここ。」
金助「何んだ?お凛、なぜ、外に居る?」
お凛「道々、話すから付いて来て。」
金助「何だあ、どうした?倅の家出が災いしたのか?」
半月前に、丹次郎が死んだと思っている穴熊の金助の手を引いて、峠の辻堂へと連れて行くお凛。
その荒格子の戸を開いて中へ入り、持って来た燭台に蝋燭を灯し、お凛は噺始める。
お凛「金さん、兎に角、此処に百両有るから、是を持って隠れて居て頂戴。
其れから、アンタ!あの丹次郎の死骸を、どうなすったね?」
金助「あぁ、あのガキの死骸なら、ホレ、北の山道の途中に、大きな溜池が有るだろう?
あの溜池ん中に、大きな石を三つ、四つ抱かせて沈めたよ。
だから、殺(や)ったってぇ〜のは、バレっこねぇ〜、安心しなぁ。」
お凛「本当かい?本当に沈めたのかい?」
金助「間違いねぇ〜、あの十五夜の月夜だ、ちゃんとこの目で確かめた。」
お凛「其れがねぇ!丹次郎は生きて、高橋の家に居るんだよぉ。」
金助「何んだって?嘘を言うなぁ!」
お凛「嘘なもんか?だいたい、お前さんになぜ、アタイが嘘を言う必要があるねぇ。
悪い夢を見たとか言って、お前さんが、手拭いで締めた噺をするんだよ!あの子。
薄気味悪いったらありゃしない。観音様に守られて、死んだ母親の守護霊が付いてやがるんだよ。」
金助「本当かよ?確かに気味が悪いなぁ〜。」
お凛「そんな訳で、丹次郎より、先に丹左衛門を殺(や)って呉れ!」
金助「そりゃぁ、構わねぇ〜が、何時殺(や)るんだ?!」
お凛「来月の十七日に、丹左衛門は先の女房の三回忌段取りやなんかで、
隣村、丸山村の七郎右衛門の家を訪ねる。この人は先の女房の兄さんだ。
一人で行くって言っているから、待ち伏せして殺(や)るには打って付けさぁ。」
金助「ヨシ、九月十七日、丸山村だなぁ?その丸山村は、この水澤村から何里程だ?」
お凛「何、一里と離れてません。途中に大きな庚申堂があるから、そこに隠れて待つといいよ。」
金助「分かった。其れじゃ百両は預かって行く。」
お凛「頼んだよ、抜かり無く。」
金助「任せとけ!」
っと、悪い相談が、辻堂の中で纏まります。
いよいよ、九月十七日。高橋丹左衛門は、丸山村の七郎右衛門を訪ねて、亡くなったお竜の三回忌や、山林の処分の噺などをして、
戌刻を過ぎた頃に、帰ると言って七郎右衛門の家を出た。七郎右衛門は、かなり執念(しつこく)泊まれ!と言ったが、
丹左衛門は、どうしても家に帰ると言って、提灯だけを借りて、闇夜の中を、テクテク一人で歩いて帰った。
そして、ちょうど丸山村から水澤村への中間地点、堤の辺りに差し掛かり、庚申堂の脇を通り過ぎると、
そっと、暗がりから人影が現れて、丹左衛門には気付かれない様に背後に回り、匕首を懐中から出して、いきなり後ろから突いた!!
ウッ!
短い呻き声を上げて丹左衛門は崩れ落ち、襲って来た曲者は、再度、匕首で今度は喉を刺した。声も出ぬまま、丹左衛門は絶命した。
曲者は、丹左衛門が死んだのを確認して、匕首の血をその衣服で拭くと、懐中から紙入れと、腰にぶら下げた莨入れを抜いた。
更に、曲者は丹左衛門の死骸を抱えて、堤の後へと投げ捨てた。発見を遅らせて、時間稼ぎをするつもりだろうか?
つづく