こうして、赤穂義士四十六人は細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、そして水野監物の四家に預けられて、一ヶ月と十九日を過ごします。

そして、元禄十六年二月四日。赤穂浪士四十六人、及び、吉良左兵衛の処分が決し、公儀よりの沙汰が下された。

先ず、吉良家頭首である所の左兵衛は、評定所へ呼び出される。御沙汰申し渡し係官は大目付・仙石伯耆守であり、

加えて同席に、老中・若年寄、勘定奉行、寺社奉行、南北江戸町奉行など幕府の要職者が列席している。

さて一方、出頭する側の吉良左兵衛は、町奉行所に町人が出頭する場合と同じく、町人の場合の同行者=『大家、町役人五人組』

是に匹敵する同行者=『寄合衆』として、荒川丹波守と、旗本衆の職制上の統括者、鉄砲組組頭の猪十左太夫が同行しての出頭となります。

この評定所に、裁きを受ける側の武士が出頭する場面と言うのは、講釈ですら殆ど聴く機会は無く、

当然、落語では聴いた試し無く、映画やテレビドラマの時代劇でも扱われないので、評定所に出頭する際にも、同席付添者が義務付けられていた事は余り知られていない。

喩えば、『徳川天一坊』などは本来、南町奉行の大岡越前が裁くべき案件ではなく、どう考えても、老中の肝煎りで大目付が裁くべきなのだろう。

そして、出頭した吉良左兵衛に対し、仙石伯耆守は『宣告文』を、声高らかに読み上げます。


吉良左兵衛

 浅野内匠頭家来共、上野介義央を討ち候節、其方の仕方甚だ不行届に付き、

 領地召し上げの上、諏訪安芸守に御預け仰せ付け候也。

                        稲葉丹波守

                         秋元但馬守

                         小笠原佐渡守

                        土屋相模守

                         阿部豊後守


グサリ!っと胸に応えた左兵衛だったが、静かに肩を落とし、此の公儀の沙汰を受け入れる以外無かったのである。

直ちに、左兵衛は乗って来た吉良家の駕籠ではなく、罪人を送る所謂『網駕籠』に乗せられて、吉良邸の門は竹の封印バツ付の閉門となる。

また、身の回りの必需品を家中より受け取ると、左兵衛は其の儘、安芸守の江戸屋敷へと、其の身柄は送られて仕舞うのであった。

そして二月十八日。左兵衛は再び網乗物に乗せられて、諏訪安芸守の領地、信州高島へと移送されるのですが、此の際は罪人なので青縄が掛けられます。

そして、身の回りの世話をする家臣、只二人の同行が許されて、哀れ主従三人は信州高島へと赴く事になるのである。


是より先、吉良左兵衛が配流の処分を受けると同時に、赤穂浪士四十六人にも、処分伝達の為の使者が立ち、

各預け置かれた四家へと公儀の御沙汰が、上位として告げられたのである。

そして此の使者には、御目付荒木十右衛門、御徒組番頭久永記内等が務めるのであった。その使者の面々はと見てやれば、


【細川家】

・御目付 荒木十右衛門

・御徒組番頭 久永記内

【松平家】

・御目付 杉田五左衛門

・御徒組番頭 駒木根長三郎

【毛利家】

・御目付 鈴木次郎左衛門

・御徒組番頭 斎藤次左衛門

【水野家】

・御目付 久留十左衛門

・御徒組番頭 赤井平右衛門


また、各家には其の御小人目付、御使衆等、御検死役など二十人程が配下として伴立って使わされたのである。


そして、此の使者一行が各四家に到着したのが、未刻。

赤穂義士の面々は、この時、卒爾に『御沙汰』を聴かされた訳ではない。

月が変わり、二月初日には、其の裁定が処刑であると知らされ準備を始めていた。

特に、義士一党に強い尊敬と同情の念を持つ細川家では、

其れとなく遺書なども、草して接伴係の方々に委任してあった。

併し、義士の面々は死という事に、全く頓着せず、其の日も普段通りで、

互いに歓談し、時に、笑いが起きる事もあり、其の平常心に、細川家の家臣が驚く程だった。

中でも、吉田忠左衛門は、接伴役の堀内傳右衛門を捕まえて、

吉田「傳右衛門殿!我々の処分が、万一、切腹と決まりましたならば、拙者の遺骸は、

ご覧の通り圓體なれば、甚だ見苦しい物に御座る。依って、二重に風呂敷に包みて、

なるべく人目に触れぬ様に、何卒よしなに図らいて、お頼み申しまする。」

と、言いながら頭を掻き掻き、大笑いしたという。


また午刻前には、細川家では、処刑は斬首ではなく切腹だ!との情報が漏れ伝わり、壮年の浪士は是を喜び、

楯屏風の影に隠れて、趣向の芸尽くしが始まるのである。得意の踊りや、狂言のモノマネ、笑う、唄う、騒ぐ!と、飛んでもない。

大坂堺か?木挽町か?と思うばかりの賑やかさに、細川家中は、驚くばかりだったと、伝えられている。

そして、使者到着前に、大石内蔵助は細川家お預かりの十六名を集めて、白装束に着替える前に、一同に最期の訓示を行うのである。

内蔵助「御一同、もう充分にこの世の名残りを、楽しみなすった事と存ずる。

この度は、首尾良く亡君の仇、上野介殿の首級を上げて、殿の墓前に奉る事が出来た。

実に執着至極。また、処刑の沙汰は下るも、仕様は切腹なれば、望む処悔い無く、

又、何より吉良左兵衛殿への公儀の御処分が、改易の上、吉良は領地没収、

左兵衛殿は、信州高島の諏訪安芸守様へ、永の御預けの身となられると聴き、重ねての執着に御座る。

皆、是より気を引き締めて、最後に赤穂武士の意地を示して、あの世で内匠頭様の元、又集まろうでは御座らんかぁ!イザ。」

と、内蔵助の号令一下、「オウ!」と、答えた一同は、我先にと矢継ぎ早に白装束へと着替え始めた。


さて、定刻の未刻、上使が細川家に赴き、『切腹』の沙汰を下すと、検死役だけを残して直ぐに引き上げます。

細川家接伴役、宮村團之進と長瀬助之進は、越中守の内意を受けて、一同の前に姿を現し、非常に落胆した様子て口を開いた。

宮村「貴方達が、当家預かりとなって以来、我々も、貴方達に吉左右の来る事を、一緒に願っておりましたが、

意に反して、残念至極にも、『一切お構い無し』とは成らず、『切腹』と言う仕儀に決したとの知らせを耳に致しました。

併し、と、申した所で、本日の沙汰を我々の力では如何とも変え固く、此の上は、皆様に御心静かに御支度の手伝いを、我々させて頂きます。」

内蔵助は、この言葉を聞いて、三十九日間の彼らの真心を思い出して泪を流し、

内蔵助「イヤイヤ、仇討ちを成したからは、最初(ハナ)から許されようとは我等は思わず。

ただただ、斬首ではなく、切腹を許される事が、我々、唯一の望みに御座いましたが、

本日、吉良家の領地お召し上げと、左兵衛殿、信州高島への永久追放との沙汰をも耳に致しました。

是こそ、我々には何よりの吉左右に御座いますれば、もう、この世に未練など御座らん。」

と、申します。更に、吉田忠左衛門が、続けて、

吉田「討入りの日より今日まで、種々御手厚き御接待(おもてなし)の数々を賜り、本に、御礼の言葉も御座いません。

只此の上は、一途に有難く御礼申し上げ奉りますより、他に術知らぬ我等なれば、

此の心中を御察し頂き、御前、越中候に対し宜しくお伝え願いまする。」

と、付け加えるのであった。すると、他の同志も、口々に自らを担当した接伴役に謝礼の言葉を述べ始めた。


そして、白装束に身を包んだ一党の者、漱手水に身を清めて、今は最期の一礼を待つばかりと成った。

軈て、原惣右衛門、辞世の一首を

 かねてより 君と母とに 知らせんと

       人より急ぐ 死出の山道

と、書き記せば、続く様に間喜兵衛、此方も懐中を探って、辞世の一首取り出し、接伴役に是を差し出した。

 草枕 結ぶ仮寝の 夢醒めて

    常世に帰る 春の曙

と、そこには書かれて有った。

次に、富森助右衛門、

 春帆燭賛

        四日は姉の忌日なれば

 先立ちし 人も有りけり 今日の日を

      終の旅路の  思い出にして

と、記しつけたる短冊を取り出し、是を託した。

次に、潮田又之丞、

 武士の 道とばかりを 一節に

     思い立ちぬる 死出の旅路に

と、書いた物を差し出した。

次に、早見藤左衛門、

 地水火風 空のうちより 出し身の

      辿りてかえる 元の住処に

と、此れも用意の辞世の一首を差し出した。

こうして、義士達は、接伴役の方々へ、口々に辞世を伝えたり、遺品、遺言を託したりするので御座います。

そして、いよいよ、時は満ちて、未の下刻から申刻になろうとしていました。



つづく