誇らしげに、高張り提灯を、四十、五十と掲げて市中の上屋敷へと消えて行きます。

それぞれ、送り提灯の駕籠に揺られながら、「何ぞ?、御用は御座いませんか?」と、先頭を行く細川家は赤穂浪士達は下へも置かぬ御もてなしでした。

時に、四十六人の一党が四つの屋敷に向けて、愛宕下の伯耆守邸を出発したのは、丑の上刻と言う深夜だったが、三家の頭首は是を直接出迎えるなどは無く、全て家老以下に任せ切りだったが、

唯一、細川越中守は、大名小路の上屋敷から知らせを受けたその時から、態々自ら出迎えると仰って、大石内蔵助以下の義士の到着を今か?今か?と、待っていた。

そんな折りに、「只今ご到着に御座います。」と言う声を耳にして、「然らば、之れへお通し致せ!」と、下知になり、受け入れた赤穂浪士の十七名、

大石内蔵助、吉田忠左衛門、原惣右衛門、片岡源五右衛門、間瀬久太夫、小野寺十内、間喜兵衛、磯貝十郎左衛門、

堀部彌兵衛、近松勘六、富森助右衛門、潮田又之丞、早見藤左衛門、赤埴源蔵、奥田孫太夫、矢田五郎右衛門、大石瀬左衛門を一同に集めて声掛けをなさいます。

越中守「此の度の一挙、如何にも神妙の至りである。

その大勢の士を斯くの如く、集め留め置くは、甚だ烏滸がましゅうも御座るが、

是は公儀より、お沙汰が下る迄の辛抱に御座る、そこら辺を慮り頂いて、

諸事決して心置きなく、何んなりと用事、要望が御座ますれば、遠慮なくお申し付け下され。」

と、ご挨拶なされゝば、次いで家来の者が、重ねて「心置きなく、我家と思いて御緩りと為されよ。」と、言った。

是には、十七名は痛く感激して、措く能わず、臨終(いまわ)の際に至るまで、細川候の処置に感嘆しきりだったという。


又、細川家では直ぐに十七人の義士に、着替え用の小袖を用意します。着替えを渡された義士達が脱いだ討入りの黒小袖、是には伽羅の香りが馥郁となく漂った。

是に細川家家臣一同は、成る程!と感じ入り、あの大坂の夏陣で散った、木村長門守重成の事を思い出すのでした。

講釈好きには、釈迦に説法となりますが、大坂冬の陣で木村重成は後藤基次と共に今福砦攻防戦を展開し、徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた。

真田丸の戦いにも参加する。また、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞された。

慶長二十年五月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親と共に八尾・若江方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した。

藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。

その後、敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との戦闘の末に戦死した。井伊家家臣の安藤重勝に討たれたとも、庵原朝昌に討たれたが朝昌はその功を重勝に譲ったともいわれる。

さて、其の首実検で首級が家康に届けられると、重成の首は、月代を剃って髪が整えられ、伽羅の香りさえ漂っているのを見た家康が、その死地に臨む武将としての嗜みの深さを誉めたとされる。

つまり、赤穂義士四十七士は、この木村長門守重成の故事にあやかり、武士の嗜みとして、伽羅を焚き死装束に香を残したのである。


此の細川家での赤穂義士十七人の歓待の様子は、小野寺十内が妻に宛てた手紙に詳しく記されていて、

特に、富森助右衛門の黒い小袖の死装束は、其の母親が此の討入りの為に仕立てゝ用意した特別の物で、

是をいたく細川の家臣より口々に褒められて、助右衛門自身が、非常に照れ臭そうにしていたと、伝えられている。

又、細川越中守の家臣で、この十七人の赤穂義士の世話をしたのは、三宅藤兵衛、鎌田軍之助、平野九郎右衛門、横山五郎太夫、

堀内平八、向坂平兵衛、堀内傳右衛門、林兵助、村井源兵衛、八木市太夫、吉弘嘉左衛門、長瀬助之進、

坂崎忠左衛門、宮村團之進、松野龜右衛門、藤崎作右衛門、堀尾萬右衛門、中瀬助五郎、堀七郎兵衛の十九人である。


そして越中守は、大石内蔵助が無類の風呂好きで、風呂上がりに必ず晩酌する事を聴き知り、是を毎日用意させた。

また、風呂は入浴を希望した浪士に与え、必ず、名々に新しく湯を沸かし直して、入浴させる手間を惜しまなかった。

又、夕食(ゆうげ)には必ず酒を振る舞い、ニ汁五菜の膳部に、ニノ膳付で、必ず、焼物が添えられたと言う。

更に、お八ツの菓子、夜の酒と腹に貯まらぬ肴が付いて出された。十七名の義士は、十日も此の接待か続くと飽きて、

「何んぞ、粗末で不味い物を少しばかりの日を作って下さい。余りに胃がモタレてしんどい!」と、贅沢な悩みを口にします。

是を直接耳にした、御相伴役・堀内傳右衛門は、

堀内「お気持ち分からぬでは御座らぬが、主君の命なれば、ニ汁五菜・ニノ膳付は変えられませぬ!」

と、済まなそうな顔で、大石内蔵助や小野寺十内に答えた。すると、十内、是に答えて、

十内「然らば、二汁の一つは具単品、もう一つは野菜のみ。また、五菜は量を一口盛で内二種の菜は香物、

又、ニノ膳の焼物は、豆腐・蒟蒻の味噌田楽などにして貰きたい。」

と、かなり具体的な改善を口にした様で御座います。

まずまず、細川越中守のお屋敷では、斯くの如く手厚い接待であったが、さて、他の三家は?と、見てやれば、


まず、松平隠岐守の屋敷では、頭首の隠岐守定直が病気療養中とあって、細川候の様に頭首自らな先に立ち、指図する事は無かった。

と、言う訳で、松平家では家老の遠山三郎右衛門、服部源左衛門の両名が接待を差配し、赤穂義士十名を犒った。

此の松平家でも、即日、湯が振る舞われ、着替の小袖が用意された。併し、如何せん小藩の事で御座います。

下記の如く、箇条書きの接待上の細目について、公儀にいちいち訴え出て確認した上で、赤穂義士を接待した。


浅野内匠頭家来御預けに付、伺い候覚


一、御預け者十名、今夜は私居屋敷内長屋囲に、一人ずつ差し置き候、尤も、各々には番人差し付け申し候。

尚、明日は三田屋敷へ差し遣わし申すべく候。

一、若し、気分悪き者出たる場合は、手医師の治療、投薬、御公儀お許し有りや?無しや?

一、上帯、下帯、自害の道具と成る畏れ是あり。なれど、是仕り候事、御公儀お許し有りや?無しや?

一、櫛道具、毛抜き、鋏、剃刀など、自害の道具と成る畏れ是あり。なれど、是仕り候事、御公儀お許し有りや?無しや?

一、食事の際に、楊枝を用いる事を要望されし場合、是、自害の道具と成る畏れ是あり。なれど、是仕り候事、御公儀お許し有りや?無しや?

一、紙・筆・墨/硯を用いて、日記、手紙、辞世の作成を望まれたる場合、是を用いる事の可否は如何に?

一、風呂、行水を望まれた場合、是を用いる事の可否は如何に?

一、自然火災など、天災にて避難の必要な場合、避難場所のご指示賜りたく候。


十二月十五日                     松平隠岐守定直


と、爪楊枝の使用に至るまで指図を伺って来る松平隠岐守に驚き、老中名で、「長き御預けにあらざれば、成るべく内匠頭家臣の要望を叶えてやる方向で、心付き次第如何様に!」と、返事を返すのである。

因みに、松平隠岐守預かりの十人は、大石主税、堀部安兵衛、中村勘助、菅谷半之丞、不破数右衛門、千馬三郎兵衛、

木村岡右衛門、岡野金右衛門、貝賀彌左衛門、大高源五であるが、是を松平家では、五名毎の二組に分けて、

大石主税、堀部安兵衛、中村勘助、不破数右衛門、貝賀彌左衛門の組と、岡野金右衛門、大高源五、菅谷半之丞、千馬三郎兵衛、木村岡右衛門の組である。

大石主税の組を番頭役の奥平次郎左衛門が面倒をみて、岡野金右衛門の組は、佃島九兵衛という御徒目付の頭が受け持った。

尚、ここ松平隠岐守屋敷では、最年少の大石主税が、やはり隠岐守家臣の感心を高く引き、様々な質問が、主税に向けられた。

其れでも、主税は、京都の山科から一人、一旦、播州豊岡に母や二人の舎弟、妹に逢ってから北陸より中山道へと道中して、江戸表へと入った噺を、松平隠岐守家臣達に聞かせ、

そして、江戸へ入ると仇討ち一心で、母や弟妹の事は、今の今まで忘れていたと言って、少しも暗い悲しい素振りを見せない事に、

併し、松平隠岐の島の家臣からは、返って涙を誘う場面になるのであった。


さて、毛利家ではと見てやれば、こちら毛利甲斐守屋敷には、岡島八十右衛門、吉田澤右衛門、竹林唯七、倉橋傳助、村松喜兵衛、杉野十郎次、

勝田新左衛門、前原伊助、間新六、そして小野寺幸右衛門の十名である。そして四家の中で、最も粗末に扱われたのが、この十名の様である。

かの毛利家では、赤穂義士は『元禄に生き残る真の武士(もののふ)』などではなく、公儀の法度を犯した罪人、囚人と看做された。

だから、まず伯耆守屋敷で渡された十人には青縄が掛けられて、駕籠は鍵が掛かる物が用意されて、真に、囚人の護送である。

そして、下屋敷の長屋に収容された義士十名の部屋には、窓は雨戸が閉められ外から釘を打ってハメ殺しにされたのである。


最後に、水野監物屋敷の九名は、間十次郎、奥田貞右衛門、矢頭右衛門七、村松三太夫、間瀬孫九郎、茅野和助、神崎輿五郎、横川勘平、そして三村次郎左衛門である。

此方は、毛利家、松平家程の囚人や貧乏な扱いはなかったが、一汁ニor三菜くらいの食事には在り付けて、酒も偶には飲めた様である。

此の赤穂義士四十六人が、四家に分かれて預けられた事は、講釈や映画、テレビドラマでも描かれるが、此の様な待遇差が有った事は殆ど語られない。

また、描かれる場面は、大石内蔵助が預けられた細川家で、越中守の過剰な接待が描かれる場合が殆どで、

四家の一つ、毛利家では全くの罪人扱いで、囚人同然とは、殆ど知られていない。

いやはや、四家の行き来を自由にしてやると、少しはバランスが取れたのにと、毛利家預かりで切腹した十人が可哀想だと思えてしまった。


一方、同じ頃、吉良家はどんな具合だったのか?

先ず、赤穂浪士四十七士が、三方に乗せて、内匠頭の墓前に奉った吉良上野介の首級(みしるし)、是はどうなったのか?

一旦は、泉岳寺本堂へと持ち込まれて、四十七士全員が目にして、酒の肴にしていた、あの首級では在るが、

赤穂浪士にとっては『仇』ですが、広く一般には元高家筆頭と言う由緒ある家の御隠居の首である。

ですから、赤穂浪士がいよいよ、泉岳寺から伯耆守屋敷へと立ち去る際に、泉岳寺の副司の承天則地和尚に対し、上野介の首級は取扱いを一任されます。

よって、則地和尚は赤穂浪士が完全に引き上げた後に、上野介の首級を駕籠に乗せて、本所松坂町の吉良邸へとお返しに参上します。

是が、極月十六日の明六ツ過ぎの早朝だったと申します。当然、吉良家では隠居の元頭首の首無し死体の処置に窮して居た。

葬儀を行うのに、首無しのままでは、執り行う訳には行かない。かと言って、正攻法に泉岳寺へ殴り込み、首を取り返す勇気も武力も無い。

だからと言って、「悪う御座いました、上野介の首を返して下さい!」と、頭を下げると、末代までの吉良家の大恥である。

結論の出ない小田原評定を、前日から翌朝まで続けている所へ、かの泉岳寺副司、則地和尚が首を届けて呉れたのはもっけの幸だった。

さて、この首の受け渡し、則地和尚の更に凄い所は、使者に出した両人の僧侶に、吉良家側からの、首の受取り書を書かせたのである。


          (覚)

一、首 … 一ツ

一、紙包一ツ


右之通確に受取申し候為念如是御座候、以上。


午十二月十六日

                        吉良左兵衛家臣

                        左右田孫兵衛

                        斎藤宮内


泉岳寺御使僧

                        石獅僧

                        一呑僧


この辺りの噺も、当然使僧の口から漏れて、吉良家の腰抜ぶり、器量の無さが益々、世間に広まりまして、悪評を買うので御座います。



つづく