さて、高利貸と材木問屋を営む信濃屋治兵衛は、女房のお浪を貰い順風満帆な消光(生活)を送っていた。
夫婦睦まじく、程なく倅が産まれて、戸三郎と名付けて、治兵衛もお浪も、目に入れても痛くない程の寵愛ぶりである。
こうして藤岡藤十郎改め信濃屋治兵衛は、大変健やかに平和な時間の流れる中、始めたばかりの材木商いが大層繁盛致しまして、
そんな治兵衛の唯一今の気掛かりは、越中富山へ行くと中山道を旅立って一年半を過ぎても、全く便りの無い義兄弟・犬塚富蔵の事で御座います。
富蔵の奴さえ、旅の空で人知れず、野垂れ死んで居てくれたなら、どんなに我が生涯は後ろ安いことかぁ?!
あゝ、短慮であった、思慮が浅かった!富蔵の奴が「越中富山へ高飛する。」と、言い出したあの時に、野郎を始末する算段をしていれば…
そんな治兵衛は、富蔵の行方・安否の手掛かりを知りたくて、材木伐採人足などを通じて、密かに、越前越中の國境辺りの情報を探っていた。
そんな或日、治兵衛宅の勝手口に、一癖有りそうな毬栗頭の目は鋭く、色浅黒く背の高い、穢い容姿(ナリ)をした屑やが参りまして、
家ん中の様子を覗き見て、声を掛けて参ります。
屑や「御免下さい!」
取次「ハイ。何んの御用?紙屑やさん?」
屑や「屑やですが、御用は其れじゃ御座んせん。アッシは、最近此方へ舞い込んだばかりの新参者で御座いまして、
ちょいとばかり、此方の旦那さんに用が御座いまして、旦那はいらっしゃいますか?」
取次「お金の御融資の噺なら、コッチじゃなくて、上槙町の方へ行って、番頭の佐平次さんにご相談下さい。此方はご自宅ですから。」
屑や「いいえ、銭を借りに来た訳じゃぁ御座んせん。旦那様に是非お渡しゝたい物が御座いまして、それでお伺い致したと言う訳なんです。」
取次「判りました。少々お待ちを。」
っと、取次の下男が是を治兵衛に伝えます。さて?誰だろう、屑やに知り合いなど無いが?と、
治兵衛は其の野郎の風体を取次に尋ねますが、全く心当たりが御座いません。
不気味な感じもしますが、兎に角、会うだけ会ってみようと、勝手口へ参ります。
治兵衛「私が信濃屋治兵衛で御座います。貴方は何方からお越しでしょうか?」
そう尋ねると、治兵衛は此の男の様子を、用心して、じっと睨み付ける様に見詰めます。
屑や「深い事情が御座いまして、参じた訳では御座いますが、一寸、此の場では噺難う御座んす。何卒、人目の無い所でお願いします。」
と、野郎!申しますから、治兵衛はいよいよ油断ならぬ輩だと思います。
ともあれ、叩けば埃の出る身体の治兵衛ですから、此の屑やを邪険にし、公儀(御上)に何か都合の悪い事を密告(チンコロ)されては馬鹿馬鹿しい。
「では、上がって下さい。」と、自ら奥の居間へと、此の男を案内致します。
治兵衛「さぁ、此処ならば人目を気になさらず、お噺が出来るはずです。さて、用件を仰って下さい。」
屑や「お尋ねしたいのは、コイツの件です。」
と、男は懐中から手拭いに包んだ物を取り出し、其れを治兵衛の前に置きます。
屑や「さてまず、何よりアッシが一番にお伺いしたいのは、貴方は信濃屋治兵衛と名乗る以前は、藤岡藤十郎様という名前で、
牛込辺りのお屋敷で、武家奉公をされていたと、そう聴いて、是非お見せしたい物を持って此方へ参りました、其れは本当でしょうか?」
と、男が言い出すので、治兵衛は思わぬ角度からの質問に驚き、厭な過去を訊きやがる!とは思いますが、
嘘で誤魔化して拗れると、返って面倒な事になる気がして、意を決し此の男に向かって、
治兵衛「如何にも、元は新見八郎右衛門様の御屋敷にて、武家奉公していた藤岡藤十郎で御座います。
訳有って主人家より長のお暇を頂戴し、今は刀弓矢を算盤に持ち替えて、商人として金貸と材木屋を営んで御座います。」
野郎「大方そうに違いないとは見当を付けて参りましたが、万一、人違いだと大変な間違いになるので、確認させて頂きました。
まぁ、アッシが言いたい核心部分のお噺は、後回しにさせて頂きますが、亀の甲より年の功、このオヤジの根問を、じっくり聴いておくんなぁせぇ〜
お目に掛けたアッシの土産の一品、貴方は(あんさんは)是を覚えいなさるかい?」
さて先程、此の男が差し出した手拭い包み、治兵衛が此の手拭いを開きますと、中からは見覚えの在る簪が出て参ります。
治兵衛「なぜ!之れが此処に?!」
と、言うと治兵衛は脇の下から冷や汗が滴る程に焦ります。
治兵衛「之れは、正しく私が屋敷奉公していた折りに、隣り屋敷の腰元だったお捨さんが、私宛に艶書を飛ばす為、
此の簪を重石(おもし)代わりにして、塀越しに投げては返す、そんな為の簪でせ。
最後は、確かに私の手元に有ったはずの物で御座います。
其れを何処で失くしたか?大層探しては居たのですが、其れがなかなか見付からず、遠の昔に諦めていた逸品。
この淡い私の恋が詰まった簪を、なぜ?!貴方がお持ちになっているのですか?」
と、治兵衛は隠す事なく、正直な所を此の男に問い掛けるのであった。
此の治兵衛の返事を聴いた男は、膝を進めて治兵衛に更に近付き、小さな声で申ます。
野郎「何を隠しましょう。アッシは、貴方もご存知、押田常陸守様の御屋敷で腰元奉公していた捨の父親、植木屋の清次に御座います。
或時、ひょんな事から人伝に『最近流行りの材木屋、信濃屋さんは元お武家さんで、新見の御屋敷に奉公されていた。』と聴いて、
まさかとは思いましたが、アッシなりに、色々と調べまして、漸く其れが藤岡様だと判りまして、
其れでねぇ〜、態々、此の簪を持ち主の貴方様へお戻しに上がり、
又、この簪の代わりに、是非、貰って帰りたい物が御座いまして、まぁそう言う訳で今日はお邪魔致しました。」
清次は、熱い視線で治兵衛の事をつくづく眺め入ります。
治兵衛「其れでは、貴方がお捨さんから聴いていま父親の清次ドン!
そうとは知らず他所々々しく致しまして、失礼致しました。
さて、私を『藤岡』と知り訪ねて呉れたのは嬉しい限りでは御座いますが、
此の簪を、態々、私に返しに参られたとは、どの様な真意がお有りなのか?
又、其の代わりに貰い受ける物が有ると仰いますが、私には心当たりが御座いません、その辺りも具体的に、是非お聴かせ願います。」
清次「治兵衛さん、アッシが此の銀張りの簪を、何処で拾ったと思いなさる?
ただアンジェリカ(道端)で拾っただけなら、百文の価値だろうが、アッシが此の簪を拾ったのは牛込御門外の榎町、その先に在る揚場河岸で拾ったんですぜぇ?
しかも、落ちて居たのは、源吾とか言うアンタの元朋輩の屍体の傍に落ちていた。
アッシもねぇ、娘が三千石の大臣旗本の屋敷勤めをするからと、小博打の悪党から足を洗い、真面目に植木屋家業を始めたのは五年前。
此の五年で、アッシは生まれ変わり真っ当な暮らしになり、娘の捨も喜んで呉れてねぇ〜、
アッシ等親子が今日幸せなのは、何時も捨を可愛いがって下さる雛姫様のお陰だと、
雛姫様に、足を向けては寝られない!そう感謝して止まない毎日だった。
それを貴様は、あの弁天様の様な雛姫様に何をした?」
治兵衛「何をと言われても、恋に落ちるに貴賎無しだ。仕方あるまい、男と女が好き合うは自然の摂理。
其れに、其れが由えに拙者は新見家から浪々となり、其れに雛姫と拙者の仲を裂いたのは、押田家の用人、山菅寛次と老臣・浅川五郎兵衛の二人だぞ!」
清次「白こいのぉ〜、俺は牛込の植木屋だぞ?!仕事仲間から聴いて根多は上がってんだ。
雛姫様がお前さんにと、捨に託した珊瑚の簪、鼈甲櫛、お前は質には入れずに、押田の屋敷を強請りに行っただろう?
百両からの大金をせしめて。。。お陰で雛姫様は、番町の『櫻井』って屋敷に、独りお預けになり、自害なさるとこだったんだぞ!」
治兵衛「雛姫様が自害しようとしていた何て!なぜ、清次さん、お前さんに判るんだ?」
清次「知らざぁ〜、言って聴かせやしょう。お前が押田屋敷に、姫様の櫛と簪を捻じ込んだお陰で姫様は、番町の櫻井家に幽閉された。
其れを、捨が心配して俺に、大恩の有る雛姫様を助けて呉れと言うから、俺は此の簪を拾ったあの晩に、姫様を助けに櫻井屋敷に忍び込んだんだ。
そしたら、姫様は正に懐剣で喉を突く所で、寸での所で命をお助けし、姫様を捨の居る我家へお連れする途中だった。
そしたら、あの馬鹿野郎だ!『源吾』とか言う奴。あれが突然現れて、俺は不覚にも野郎に脾腹を突かれて、気絶して大川へ捨てられちまった。
併し幸いに、極々浅瀬に仰向けに落ちたから溺れずに、暫くして気が付いて這い上がろうとしたら、突然、大きな悲鳴が聴こえて、
俺が落ちたのとは反対側の揚場で、ドカン・ボコン!人が落ちる音がした。
そして、やっと丘に上がり辺りを見渡すと、源吾とか言うあの野郎が、喉をパックリ斬られて死んでやがる。
そして、其の死体の傍で此の捨の簪を拾ったとそう言う訳だ!治兵衛さん。」
治兵衛「判った!清次さん。其れで、お捨の簪は幾らなんだ?」
清次「人を馬鹿にしなさんなぁ、冗談、言っちゃいけねぇ、欲しいのは銭じゃぁねぇ。」
治兵衛「銭じゃなければ、何が欲しい?」
清次「其れは決まっているだろう、貴様の首だ!」
治兵衛「俺の首を今すぐにはやれね。女房子も有る身だ、其れに、俺は源吾に斬られそうだった雛姫を助けようとしたんだ。
奴を斬り殺した後、直ぐに駆け寄ったが、一歩の差で、雛姫は川へ落ちて仕舞ったんだ、
俺も俺なりに、これまでも雛姫の消息は探したが、もう二年以上行方不明だ!」
治兵衛「其れでも、治兵衛ドン、いや、藤岡藤十郎殿、アッシら親子が納得する様にして呉れ。
其れでないと、お前さんが押田家から百両強請り、源吾を殺した事を、此の簪を持って奉行所に訴え出る。」
治兵衛「いや!待って呉れ、急にそんな難題を言われても、さっきも言ったが俺には女房子も有るし。。。
なぁ少し待って呉れ、探しては見るけど。。。困ったなぁ。」
清次「取り敢えず、猶予はやるが、我ら親子が駄目だと判断したら首を貰う。奉行所へ駆け込むからなぁ!
そして、半月に一度、雛姫様捜索の進捗を確かめに来る。怠けて居ると、駆け込むからなぁ!いいな、治兵衛ドン。」
そう言って、例の簪を再び懐中へ仕舞うと、お捨の父、清次は勝手口から帰って行った。
清次を見送りながら、又一つ悩みが増えた治兵衛だった。まさか、源吾殺しの証拠に、あの紛失したお捨の簪が成っていたとは。。。
更に、清次に、百両の件まで知られて居たとは、ッと、驚きを隠せない信濃屋治兵衛こと藤岡藤十郎。
今更、雛姫探しなど出来るのか?一層、清次とお捨を殺(や)って仕舞うか?
富蔵の件だけでも悩ましい所に、お捨親子が疫病神の様に現れて、治兵衛を千々に悩ませるのであった。
つづく