鞘に刀を引いた藤岡藤十郎は、野州無宿の犬塚富蔵と名乗る夜鷹蕎麦やの口上を聞き終えて、ニッコリ笑うと、喋り始めた。
藤十郎「いやはや、大した腕前で御座いますなぁ。驚きました!こんな凄腕は、道場でも見た事が無い。
申し遅れました、拙者は藤岡藤十郎と申す、浪人者で御座る。貴殿のお察しの通り、新宿の木賃宿に由え有って、身を隠して御座ったが、
余りに退屈で、退屈で、深夜ならまぁ〜宜かろうとブラブラしての帰り道、牛込御門外辺りで、昔の朋輩、一寸ばかり訳有りの野郎を見掛けたもんで、
この野郎の跡を付けたら、その野郎も又、以前屋敷に居た時の拙者の情婦(わけありおんな)の跡を付けてやがる。
そして、此の河岸辺りにて、情婦(おんな)が元朋輩に斬られそうなんで、助けに入って其の野郎を斬り殺して、さぁ、情婦は何処だ?と、探したら、
助けてやった甲斐も無く、情婦はボカン・ドボンと誤って川へ落ちやがるもんで、がっかりして力を落とし、初めて人を斬り殺した興奮もあり、
何んか頭がボーっとしておると、この夜鷹蕎麦やが目に入り、腹も減って訪れると、貴殿に全部見透かされ言い当てられて、驚きの余り刀を抜いて仕舞いました。
貴殿に比べたら、場数も踏まない素人に毛の生えた様なケチな野郎で御座る。面目次第も御座らん。」
と、藤十郎が続けて、是までの身の上をカクカクしかじかと、語り尽くします。すると、富蔵、顔の表情を改めて、
富蔵「さて、何もかも打明けて、僕ッち(わっち)に噺て下さるとは、やっぱり流石武家だ。腹が座ってなさる。漢は当たって砕けろ!
そうでなくちゃいけねぇ〜、オイラ、気に入ったぜ、藤十郎さん!」
と、長い浮世を太く短く生きている者同士で御座います。『三尺高い木の空で、遠く安房・上総を見渡すまで』と、堅く結んだ義兄弟の契りは金鉄。
こうした出逢いが、藤十郎と富蔵は兄弟の盃を交わし、策士奸智の藤十郎に、腕と度胸の富蔵が合体し、此処に史上最強の姦雄コンビが誕生致します。
さて、この契りを交わした場所は、富蔵の寝ぐらの築土下なる白銀町、彌八の店で御座います。
其れから二人は、元々、呑める口ですから、毎夜毎夜、此の彌八店に両人集まっては、酒を酌み交わし、暮らす日々が早半年。
或日、夕刻よりの雨で富蔵の夜鷹蕎麦やの仕事が半チクになりまして、例の如く、両人して呑むかぁ!って事になりました。
富蔵「不思議な縁で、義兄弟の契りを結びはしたが、毎日毎日、安酒(どぶろく)を呑む以外は仕事なく半年が過ぎちまった。
さて、互いの身の上や意中、思想に付いては語り尽くした所で、愈々、一層度胸を定めドデカい仕事を一度して、
そして、生涯気楽に消光(くらし)たら嘸宜かろうと思う訳だが、兄弟!お前さんはどう思う?」
藤十郎「実に、お主の謂う通りで、一生掛かっても使い切れぬ金子(おたから)を、一度機に手に入れたなら、如何ばかり痛快なるや!?
と、常々思っており申した。さて、お主には、この『生涯気楽に消光出来る』、既に目星が御座いますか?」
と、藤十郎に問われた富蔵、誰も居るハズの無い後ろと左右を見渡して、低い声で、
富蔵「兄弟が愈々其の気なら、ドデカい目標は意中にある。つまり、個人の大名商人、喩え、加賀様、紀伊國屋、鴻池の金蔵を狙っても共高は知れている。
どうせ狙うが一度なら、六十余州に二つと無い金蔵を狙おうではないか?!日本一の御金蔵、千代田のお城の御金蔵を破って好きなだけ金子を頂戴するのよ!兄弟。」
藤十郎「其れは豪気な噺なれど、取り付く嶋は御座るのか?」
富蔵「在る。幸い今、千代田のお城の天守番をしている今井という人に以前奉公した事があるのだ。
御金蔵の中の様子と錠前の構造は熟知している由え、形さえ確かなら合鍵を造る自信は有る。
其れに下見は既に何度かやって在るから、兄弟が一肌脱ぐと言って、僕ッちに助て呉れゝば間違いなく、上手く成就させる自信は在るぜぇ!」
と、富蔵が云う性根を据えた其の言葉に、流石の藤十郎も驚きを隠せなかった。
生命(いのち)資本(もとで)の白浪稼業。一歩踏みだしゃぁ、後戻りは出来ない一八かの大勝負で御座います。
用心はしなくちゃいけないが、臆病では務まらない盗っ人稼業。用意周到、下調べ、準備はやってやり過ぎる事はなく、飽きる事なく務める両人。
藤十郎も、富蔵を師と仰ぎ、日々白浪の料簡を学び、少しずつ悟り昨日より今日、今日より明日と深めて参りますれば、
愈々、準備は整い、あとは最終段階の錠前の合鍵と当時の予行演習(シュミレーション)をして、時節を待つばかりとなるので御座います。
さて、両人の凶賊共は、思いの儘に手筈を定め、安政二年弥生四日。夜の更けるのを待って遂に両人忍び入り、錠前の拉致を空けに掛かります。
富蔵は西桔梗橋の石垣際に屈み込んで、上を通る張番の様子を見て、無人の隙に、矢来御門の竹柵矢来を難なく乗り越え、
蛤がんぎの石垣を伝いながら、何んとか御金蔵の戸口前までやって参ります。外の銅製の扉と内側の金網戸、更に大木戸の鉄網戸、三つの扉に、其々模様錠前が設置されている。
この鍵穴の形を取りまして、「準備完了!」っと打笑いながら、再び来た経路(みち)を通り石垣から西桔梗橋へと帰り来て、
この場で、見張をしていた藤十郎を連れて、白銀町の我家へ帰り、今日の下見の情報整理と反省などを語り合いつつ、
特に刻限別の張番の見廻り頻度から、押し入る理想の刻限を藤十郎は確認します。
一方、富蔵は早速、撮った形から荒出しの鍵とその逆算をして、木製の錠前も其々拵えます。そして、鍵穴と鍵の摩擦具合を確認して、
より、錠前の鍵穴に合致(ベストフィット)するように、富蔵は鍵の削り出しを行うのです。
こうして完成した合鍵は、二日後の六日、現物への初回の試技、T1品の合鍵を持って、富蔵が錠前が開く事を確認に出向きます。
是はあくまで試技(トライアル)なんですが、トントン拍子に錠前が開いて仕舞う事も想定して、
富蔵一人で如何に御金蔵から、真っ暗闇ん中運び出せるか?この方法を考えるのが、藤十郎に与えられた次なる問題で御座います。
併し是は、藤十郎にとっては、非常に簡単な問題で、そうです!押田の下屋敷で、お捨と逢引きした際、お捨の臥房へ辿り着く為の工夫と同じだからです。
細曳を用意して、行きに目印になるように残して行けは、帰りは其れを頼りに闇の中でも進めると、藤十郎が富蔵に詳細を説明します。
また、是は屋根から下に居る藤十郎に千両箱を受け渡す際にも有効で、今回の御金蔵破りの切札となる方法と言えます。
そして、この紐を使う目印の最大の要点は、紐を最後は回収し、痕跡を残さない事。藤十郎はこの為の工夫として、
途中の重要箇所で、紐を仮固定する治具を用意して、是で細曳を固定しながら、御金蔵まで登り、
降りる際は此の固定治具を外しながら下へと進む事で、細曳を残さずに降りて来られるのです。
本番当夜、細曳で合図を残しながら、西桔梗橋から矢来御門へと進み、竹柵を越えて石垣伝いに、富蔵は御金蔵へ辿り着きます。
そして、予め決めて在る松の木の下には、藤十郎が待受ていて、御金蔵前から松の木に沿って富蔵はもう一本の、やや太い紐を垂らしまして、此の先を藤十郎が持って二千両箱の投下を待ちます。
直ぐに錠前を開けた富蔵は、御金蔵へと侵入、二千両迄入る箱を二つ取り出し、是を松の木側の紐に縛り、二個同時に慎重に下へと下ろします。
そして、二千両箱を落とした富蔵は、錠前を閉め、登って来た路を残して来た細曳を頼りに無事帰り付き、痕跡となる細曳を最後に取り去って、
両人は田安の見附で落合い、提灯を頼りに人気の無い裏道を、一番鶏が鳴く前に白銀町の富蔵の家に辿り着きます。
さて、此処で二千両箱を開けて金子(おたから)を初めて目に致します二人、一人頭二千両からの働きと相成ります。
さて、富蔵と両人で徳川家(とくせんけ)の御金蔵を破り四千両強奪に成功した、藤岡藤十郎は、取り敢えず、木賃宿を出て、
牛込御門の土手下、井上太郎右衛門長屋に部屋を借ります。直ぐに分前の二千両を、この長屋へ運び込みまして、
そして、当分は手を付けない覚悟で、三河屋という瀬戸物屋から甕を購入、其の中に此の二千両を入れ床下に穴を掘って埋めて仕舞います。
一方、富蔵はと見てやれば、白銀町の我家で先々の事を色々と思案した結果、先ず、両人揃って徳川家のお膝下でウロウロしているのは塩梅が悪い。
御金蔵から金子が取られたと露見する前に高飛びをと考えて、越中富山に居る知人を訪ねる事にして、其れを藤十郎には告げ、直ぐに旅立つ支度を始めます。
他方、千代田城御金蔵の様子はと見てやれば、必ず日に一度は入金・出金前、その日の一番に前日の蔵内の前日残高と、始業残高が合致する事の確認から始まりますから、
弥生七日巳刻頃には、残高不足で城中は騒然となり、この御金蔵の責任者、今井右左橘の組下、
二番組組頭、倉地次郎八が配下の者から此の報告を受け、御金蔵周辺の捜索を開始、矢来御門近くに竹柵の損じている箇所を見付ける。
是により盗賊が侵入せし事が濃厚となり、途中、三つの錠前が全て解錠され侵入している事が確認されました。
そして盗まれたのは、慎徳院様の御手元金で二千両箱二個と判明する。又金子以外にも、大きな蝋燭、小菊の鼻紙十枚等が中には収められていた。
是ら被害の第一報は、二番組組頭の倉地次郎八より、当日お留守居部屋控えの佐野日向守と土岐丹波守の両人に対してなされた。
時移されず直ちに乗っ切りにて、当月番、南町奉行、池田播磨守頼方への報告が老中名で出され、
午の下刻には、役宅に与力同心への集合が掛かり、その下知により三廻り、定廻り・臨時廻り・隠密廻り異例の総動員での探索が開始された。
特に両替商に対して、この二千両箱に入って居た金子の全種類に対して、『慎徳院』専用の紙封、刻印の特徴が周知され、必ず、流通金子を確認させる目的が御座います。
つづく