映画、ドラマの忠臣蔵でも、必ず、討入り直後に短い口上が御座いますが、此の口上、何故我々が討入りするに至ったかの赤穂浪士の討入り動機で御座います。
ただ、口上と言っても然程長い物は、滅多に御目には掛かれない。講釈師の口上ですらそうですから仕方ない。
さて、この本に在る『浅野内匠頭家臣口上』は、この様な物で御座います。
◇ 浅野内匠頭家臣口上
昨年三月、内匠頭儀、傳奏使御馳走の義に付き、吉良上野介殿への意趣を含み罷在り候処、
殿中に於いて当座忍び難き儀御座候て、刃傷に及び候、時節場所を弁えざる働き、不調法至極につき、
切腹仰せつけられ、城地赤穂召し上げられ候儀、家来共まで畏れ入り存じ奉り候、
上使の御下知を受け、城地を差し上げ、家中早速離散仕り候。
右喧嘩の節、御同席御差し留候御方是在り、上野介殿討ち留め申さず候、内匠頭末期の心底、
家来共忍び難き仕合に御座候、高家の御歴々に対し、家来共闘憤を挟み候段、
憚りに存じ奉り候へども、君父の仇は供に天を戴くべからざる儀も出し難く、
今日吉良上野介殿の屋敷へ推参仕り候、一重に亡君の意趣を継ぐの志までに御座候、
私共死後、若し御検分の方御座候はゞ、御被見を願い奉り、斯くの如くに御座候、以上。
元禄十五年十二月 日
浅野内匠頭長矩家来
一方是より先、上杉弾正大弼綱憲の実父たる、吉良上野介義央は、元禄十五年夏の頃より、綱憲が大病にて床が上がらぬと聴いて、
昼夜泊まり掛けで、上杉家江戸上屋敷に罷り在る事も御座った。
また、平素は上野介、茶の湯を大層好み、同好の人々と、頻繁に互いに行き交い、兎角、在住定まらぬ状態が続いた。
そんな中、此処に一人の茶人がある。其の名を『山田宗徧』と言い、吉良上野介の茶の湯の師匠で有り、当代屈指の江戸風流人である。
この宗徧は、上野介が参加する茶会の殆どに参加し、行動を共にしている事を知った大石内蔵助は、浪士中一番茶の湯に精通する大高源五を、
此の山田宗徧の弟子入りさせて、必ず、吉良上野介が本所松坂町の屋敷に在宅日を探らせるのである。
さて、内蔵助から白羽の矢が立った大高源五は、親交のあった水間沾徳や宝井其角など錚々たる風流人と共に句会に集まる様な人物で、俳号を『子葉』と言った。
そして十月末に、京の円山での討入り本懐の決議を受けて、大石内蔵助よりやや遅れて、大高源五も大坂より江戸表へ下った。
江戸では自らを、町人『脇屋新兵衛』と名乗り、巧みに同じ風流人、水間沾徳や宝井其角を通じ、山田宗徧に近付き、
俳人・子葉としての縁から、宗徧の心を掴み、十二月二日の深川八幡前の『一旗亭』への集合直前、十一月末に入門が許される。
此の様にして、大高源五より吉良上野介が、本所松坂町の自宅に新設した、茶室の披露目の茶会を極月十四日に催す事を突き止めるのである。
併し、此れには紆余曲折があり、極月二日の時点では、茶室開きの茶会は『来る六日吉良様御茶会』と書かれた招待状が赤穂浪士の面々には知らされた。
ところが、其の前日・五日に、松平左京太夫頼純の屋敷にて、大樹家御成りの儀式と決まり、茶会の主賓級の参加者が重なるのである。
この松平左京太夫と言う人は、紀伊徳川家の分家で、後の八代将軍吉宗の叔父に当たる。西田敏行の『八代将軍吉宗』では、藤岡琢也が演じて居た。
是を知った吉良上野介は直ぐに六日の茶会延期とし、極月十日から十五日で再度茶会の日程を調整し、漸く八日の午後、茶会は十四日に決まるのである。
この様なドタバタがあった由えに、赤穂浪士には『六日付けの幻の遺書』が残されているという。
さて、大高源五より、十四日と齎された茶会の情報。大石内蔵助は、前原伊助と杉野十平次らに命じて、この茶会の裏取りをさせた。
吉良邸の茶会を仕切る(プロデュース)山田宗徧の招待状の写しなのだから、間違いないとは思うが、六日の茶会も、突然の延期となったからには、念には念を入れようと言う訳である。
茅野伊助は、搗き米屋に来る吉良の仲間(ちゅうげん)から、十四日に茶会があり大切なお客様が大勢来るから、十三日の煤払い(大掃除)がより大変だ!と言う愚痴を聴き、
また、磯貝十郎左衛門も、恋仲の吉良の腰元から「煤払いが余計忙しく成る。」と、同じ様な愚痴を聴き出すのである。
また、杉野十平次は、吉良邸出入りの植木職人が、十三が煤払い、十四日には来賓が有るから、庭の手入れは十二日中に終わらせて呉れと、堅く釘を刺された事を聴き出します。
そして、最後に矢頭右衛門七が恋人のお千、吉良邸出入りの茶問屋、喜千屋嘉兵衛の娘から、宇治と駿府の抹茶を、各百五十匁づつ注文があり、十四日朝引いて是をお届けすると言い、
また、茅野和助も、馴染みの菓子屋で、吉良邸出入りの鶴屋吉信より羊羹、柚餅、焼き菓子などを十三日夕刻に届ける段取りである事を突き止める。
こうした地味な裏取りの結果、吉良上野介の茶室開きは、極月十四日に間違いないと確信した大石内蔵助は、
『各々方、然らば十四日の夜、本懐達せん!』
と、回状にて、同志四十八名に『極月十四日討入り』を伝達致します。
すると、既に討入りまでは、あと三日、四日と迫った場面の知らせですから、同志は各々の討入り準備に掛かります。
当然、山の様な掟、決式、アジェンダが有りますか、先ずは、集合時間と場所の確認です。
集合時間は、子の下刻。深夜1時には集まれと言う事で、討入り決行が寅の上刻午前四時です。
そして、集合の三箇所は、先ず堀部安兵衛が本所林町に借りた剣術道場と、次にその目と鼻の先、三ツ目横丁の杉野十平次宅、
そして最後の三箇所目は、相生町三丁目の前原伊助と神崎輿五郎が営む搗き米屋だと言われている。
こうして、其々の討入準備と今生の別れを済ませた面々は、三々五々、残雪をサクサク、サクサク踏み締めなが、各人の集合場所へ集まって行く。
さて、まだ集合の子の上刻には間がある大高源五忠雄、筑波颪の寒風ん中、灯に誘われて兎ある蕎麦屋に入る。
源五「オヤジ!熱燗だ、二合ばかり持って来い。肴?要らぬ、酒だけで宜い。」
大将「ヘーイ!」
暫く待つと、「冷えますねぇ〜」と、愛想笑いと共に、蕎麦屋のオヤジが二合徳利の熱燗を持って来ます。
身体の芯から温めて元気を付けないと!そう、思った源五は、猪口ではなく湯呑を貰い、ガフガフやる。
源五「あぁ〜温まった。オヤジ!代は置くぞ。」
大将「ヘーイ、有難う存じます。」
十六文の代金を置いて、大高源五が店を出ようとした時、傍の行燈の字が目に飛び込む。
『なんのその』
是を見た大高源五、にっこり笑って子葉に成る。
子葉「愉快!愉快!『なんのその』とは、面白い。
門出に題を貰はゞ、一句、詠まずばなるまい!
許せ!オヤジ、この帳場にある硯箱を借りるぞ!」
そう言って、筆に墨を含ませると、一気にサラサラと、行燈の『なんのその』に、続けてこう書いた! 『巌も通す 桑の弓』。
なんのその 巌も通す 桑の弓
大将「落書きは、困ります!!御武家様」
源五「どうだ!オヤジ、愛でたくなった。ハッハハぁ〜」
大将「なんのその、もす、の???」
仮名しか読めぬ蕎麦屋の大将を置き去りにして、もう一度、高笑いを残して子葉は去ったと言う。
一方、三つの集合場所に集まった赤穂浪士の面々は、いよいよ死装束、討入ユニフォームに着替えを致します。
【修羅場(ひらば)読み】
一党の頭領、大石内蔵助義雄はと見てやれば、萌黄金蘭の裏を付けたる、鎖帷子を着し、
紅梅裏の黒羽二重の小袖、黒羅紗の羽織を着けて、浮紋の裁付を穿ち、頭には兜頭巾を戴く、
腰には父祖伝来の両刀、黄金造りの目も醒むるばかりなるを帯す。
其の腰の小刀にこそは、其の心を以って心となし、終始一貫よく其の志をなさしめたる一句。
萬山不重君恩重、一髪不軽我命軽
と、刻まれて御座る。
【修羅場(ひらば)読み】
之れと並び、次に控えしは、吉田忠左衛門兼亮。一党の副頭領たる彼の出立ちはと見てやれば、
麾下(きか)の士より贈り来せる鎖帷子を着け、茶裏の黒羽二重の小袖、羅紗の羽織を着し、内蔵助と同じく、軍配(さいはい)片手に『吉田忠左衛門兼亮』と自署せる金の短冊、袖印にと附して控え居った。
是を始めに大石主税良金以下、若衆達は多く緋紗綾の下帯、老輩は概ね白紗綾のそれを、
紐にて、各々頸より吊り、紅白好み好みの裏付けたる鎖帷子、黒小袖、羽織を着して、
縮緬の襷しごきを、しっかと十字に綾なして、八幡座より白革の筋を入れて、
思い思いに好みの錣を綴じたる兜頭巾に、或るいは緋縮緬、或るいは調革なんどに忍びの緒を付け、
是に名香を焚き込んだるを頭に戴いた。而して、銀の短冊を袖印とし、夜目にも著き白布を、
其の両襟と両袖の端に縫い着けて、味方同士の合符となし、其れには総て『浅野内匠頭家来 何の何某』と、一々各自の姓名を記し付けた。
そして、各自は合図に使う呼子の小笛に紐を付けて襟から下げ、兵糧、気付薬、止血剤などを携帯し、討入りに臨んだと言う。
更に、金子も一分を襟に縫い込み、又、百文の小銭も懐中に所持して、万一、鳥目が必要な場合に備えた。
こうして、一通り、召替えが終わると、いよいよ心身の討入り準備である。或者は精神統一、素振り準備運動する中、多くの赤穂浪士は、ここで辞世の歌や俳句を詠んだのである。
・吉田忠左衛門兼亮
君がため 思もつもる 白雪を
散らすは今朝の 嶺の松風
忠左衛門は、是を認めた短冊を、兜頭巾の錣の裏に付けて出陣致します。
・小野寺十内秀和
忘れめや 百に余れる 年を経て
仕えし世々の 君がなさけを
十内は、此の時世を矢立から筆を抜くと、自身の袖符の上に直に書いたそうです。
・間喜兵衛光延
都鳥 いざ声とはん 武士の
恥ある世とは 知るや知らずや
間喜兵衛は、春秋積もって六十八歳。
辞世を記した短冊は、闇に閃く短槍、其の穂先が下にヒラヒラと翻った。
・堀部彌兵衛金丸
雪はれて 思ひを遂る あしたかな
古い御人と言えば、御年七十六歳の堀部彌兵衛老人である。
討入りが十四日と決まってからは、連日、早朝と夕刻に、槍の百本突きを欠かさなかった。
「子葉殿、見て呉れ。」と、大高源五お墨付の天晴な辞世である。
また、この句は、昨晩見た夢、霊夢からの吉兆を詠んだと老人言い。同志もならば、本懐間違いなし!と、老人の噺を頼もしげに聴いた。
そして、今夕、最後の百本突きの最中、安兵衛の妻で、実の娘、お幸から「お父上、今宵の闘いは屋内のよし、御働きは短槍の方が便が立つやに存じまする。」と、助言され、
「流石、我が娘!よー気が付いた。」と、膝を叩き、老いては子に従うご老人でした。
皆が歌に俳句に辞世を詠む中、矢頭右衛門七は、道半ば、病に亡くなった父、長助の戒名を書いた半紙を懐中より取り出し、
其れを兜頭巾の中に戴き、手を合わせると、「父上、いよいよに御座いまする。」と、祈る様に告げると、言い知れぬ泪が出て仕舞う。
矢頭右衛門七教兼、この時、十七歳。周囲の浪士の泪をも誘いました。
最後に、唯一直参ではなく陪臣ながら討入りに参加した寺坂吉右衛門。堀部安兵衛道場の始末をして、一番最後、殿(しんがり)を勤めます。
昨夜から降っていた雪も晴れ、赤穂浪士の門出を祝うが如く、空には月が彼らを照し、サクサク、サクサクと、四十七士が雪を踏み締める音だけが聴こえて来るのでした。
さて、テレビドラマ『義士傳』での阿久里/瑤泉院役の付録の続きになります。
完全に現在活躍中の女優さんに成ります。2000年代ですから!!
2001年 忠臣蔵
松たか子。高麗屋の血筋の娘さんです。現代劇は、何本かドラマを見ていますが、同じ様な役ばかりで。。。
時代劇は、山田洋次監督の映画『鬼の爪』は観ました。時代劇らしくないので、まぁ、あんなものかと思います。
梨園の血筋なのに、寺島しのぶさんの様には行かないのが残念です。
2003年 忠臣蔵
牧瀬里穂。吉右衛門の『忠臣蔵』の瑤泉院を演じたのが、牧瀬里穂さんだったんですね。全く時代劇のイメージがない。
意外と年を食っていて、彼女は私より十才下だから今年五十歳なんで、この『忠臣蔵』の時は三十二歳だから、瑤泉院も有りと言えば有りですね。
時代劇と言えるかは、?ですが、『幕末純情伝』は、観ましたが、彼女も十七歳で沖田総司訳。
全く時代劇には、なってませんでしたが。。。まぁ、牧瀬里穂!と、言えば、JR東海の東海道新幹線のCMですよね。
2004年 忠臣蔵
櫻井淳子。元グラビアアイドルで、十代のころは週刊誌の表紙はグラビアページで見ていて、気付いたら女優さんになっていて、
それで、彼女の時代劇は、全く観た記憶が無く、この忠臣蔵では、櫻井さんと野際陽子さんとで、瑤泉院、戸田局なんですね!
2007年 忠臣蔵
稲森いずみ。一応、この『忠臣蔵』は主演です。三十五歳ですが、何んとも幼く見えるのと、ここまでの四人の中では、一番ズラが似合わないかも知れません。
この稲森いずみさんも時代劇のイメージが有りません。多分、時代劇の女優としては致命的に背が高いからだと思います。
2010年 忠臣蔵
檀れい。この『忠臣蔵』は観てないのですが、檀れいさんの時代劇と言うと、又、山田洋次作品ですが、『武士の一分』を観ました。因みに、この『忠臣蔵』の時は三十九歳です。
是も時代劇と言うよりヒューマンドラマなのですが、主役の木村拓哉さんが、浪人しても、全くやつれた印象に成らないのが、もう、耐えられなくて、
その妻の檀れいさんは、みるみるやつれて、貧困が面体、特に目力に出て行くのですが、夫婦なのに夫だけは目がギラギラのまんまでね。
確かに本人は、復讐鬼の積もりなんだろうけど。。。木村拓哉さん相手に宜く時代劇を頑張ったと思います。
田中美里。この六人では一番時代劇向きな女優さんだと思います。矢鱈、二時間ドラマに出ているから、二時間ドラマ女優と思われがちですが、NHKの時代劇には、幅広く、お市方から遊女まで演じています。
私は、『利家とまつ』のお市方役で知りました。まつを演じた松嶋菜々子より、田中美里さんの方に惹かれたのを覚えています。
この『忠臣蔵』の時が美里さん、三十五歳で、『利家とまつ』の時は二十三歳。ちょうど一回り経って瑤泉院なんですね。
つづく