元禄十五年極月十四日、辰の下刻。まだ、卍巴に降り頻る雪の中を、二つ巴の長裃を付けた大石内蔵助義雄は、亡君・浅野内匠頭長矩の御公室、瑤泉院の許へ、
一生の袂別(おわかれ)にと伺候した。取次を願うと、出て参ったのは、同志・小野寺十内の妹御、戸田局。内蔵助を見ると、
戸田局「オヤ、之れは御城代様、能うこそ御出におざります、先ずご機嫌の體を拝しまして、戸田、大慶に存じ奉りまする。」
内蔵助「イヤ、いつも変わらぬご様子で戸田殿、慶こばしゅう存ずる。就いてはご存知の通り、泉岳寺の法事も済ませておざりますれば、
近々の内に、又、山科へ立戻る心底。依って本日は早朝より参上仕り、終日の御物語りを致す心得で、推参仕りまして御座います。」
そう言われた戸田局、穴が空く程内蔵助の顔を眺めおりまして、
戸田局「エッ、では御城代さまには、また山科へお戻りあそばしますかぁ?!」
内蔵助「御意に、左有れば、当江戸表に居っても、別段御用も在らざる身なれば。。。」
戸田局「御用が無しと仰せになりますか?御城代様。御台様には、指折り数えて、貴方様の御出府のほどを御待ち兼に相成られたるを、
ただ、此のまゝ御帰りになられては。。。兎に角、御台様にお取次を致しましょう、暫く!暫く、此方に御待ちを!」
と、大石内蔵助は玄関脇の客間へ通されて、戸田局は奥へ来て、内蔵助伺候の旨を瑤泉院にお伝えします。
この瑤泉院、芝居『仮名手本忠臣蔵』になると顔世御前、鶴ヶ岡で確か兜の目利きをし、高師直が是に懸想をするという事になっている。
さて、長い廊下を腰元が内蔵助を呼びに参りまして、其れに付き従いまして、奥の仏間の隣へと案内されて、中へ入る内蔵助。
内蔵助「ハハぁっ!」
と、手をついて平伏致します。
瑤泉院「おぉ〜、内蔵助かぁ!近こう、近こう、久しう逢いませんのう。」
大石内蔵助、膝を摺りながら二、三歩前に進み出でて、
内蔵助「ハゝッ、ご機嫌の體を拝し、内蔵助の身にとりまして、如何ばかりか大慶至極に存じ奉りまする。」
と、先ず一応のご挨拶が済んだ後、
内蔵助「さて今般の江戸表への下行は、亡き内匠頭様の泉岳寺法要の為に御座れば、十七日間の供養も無事完了致し、近日中に再び山科へ立ち帰りまする心得、
依って、内蔵助本日は終日、御暇乞いへと参上仕りまして御座いまする。」
と、内蔵助が言上致しますと、俄に笑みが消えて、顔色を曇らせた瑤泉院!
瑤泉院「之れ!内蔵助。汝(ソチ)は何んと申す。御殿の法事が済まば、再び山科へ戻ると言うかいのう。」
内蔵助「御意に。内蔵助、江戸表に居り申しても、別段用事は御座いません由え。。。」
瑤泉院「オぉ〜、左様であるか?左らば是非もなし、なれども大石殿、宜く聴かれよ。
今更言うは愚痴の至りなれど、のぉ〜、昨年三月の十四日、我が君のご短慮にて、殿中に於いての御刃傷、即日田村邸にて御切腹仰せ付けられましたる其の折りに、
妾(わらわ)も共に自害して、御殿のお供致さんと、懐剣を手に取り喉に突き立てん!と、致しましたが、
『イヤ、待て早まるでない。』と、思い直したるは、一重に、内蔵助!汝を思い出したるが為なるぞ。
赤穂の國表には、優秀な器量人、大石内蔵助が御座らっしゃる。公儀の片手落ちの裁定を、よもや捨て置く筈はあるまい!
その思いで迎えた赤穂城明渡し。当然、籠城致して公儀に合戦を挑み、亡君の無念の幾らかなりとも晴らす覚悟で、城を枕に討ち死にするかと思いの外、
何の抵抗も無く、赤穂の城は無血開城、上使と目付役の手に落ちたと人の口で知った妾(わらわ)の悲しみ、内蔵助!汝(ソチ)に分かるかぁ!
されど今一度思い直して、之れには深い謀計(はかりごと)の有ることかと、それは一旦、山科へ閑居した内蔵助が、
伏見島原橦木町で連日連夜の廓遊びでご乱行。又、飛鳥山を越えては、大坂新町でも遊興に耽り、
大石内蔵助は武士道を捨てた、犬武士(いぬさむらい)、畜生に成り下がったとの噂を耳にしても、
妾(わらわ)は信じておった内蔵助を。内蔵助は必ず、東に下り、御殿の無念を晴らす為に、吉良上野介殿の屋敷に討入り、其の身印を取って呉れると。
たがら、敵を欺く策の廓狂いだ!単なるフリだと。。。そして、内蔵助!汝(ソチ)が泉岳寺法要の為に東へ下ると知った妾(わらわ)はどんなに嬉しかった事かぁ?!。。。」
此処までの思いを語った瑤泉院は、感極まり泣き崩れそうに言葉を詰まらせる。すると、困った様子の大石内蔵助が、諭す様に噺掛けます。
内蔵助「御公室様にあらせられましては、些か、内蔵助を買い被り過ぎに御座いまする。
其れに刈谷城(赤穂城)の開城の際は、籠城など致し抵抗すれば、安芸の御本家並びに、瑤泉院様の御生家、三次浅野家にも害の及ぶ恐れ之ありまして、致し方無き処置だったかと存じまする。
また刈谷城開城の折り、殉死追い腹の清書への血判は致したものゝ、分配金が配られますと櫛の歯が欠けるが如く同志は減りまして、
御舎弟・大學様の公儀の裁定が下りました時には、もう、殉死して亡君の無念を天下に知らしめる人数には無く、残念ながら。。。
其れでも、尚討入り仇討ちをと主張する者達と、大坂、京の円山などにて、江戸表より上り参った同志も加えて、評議を重ねましたる結果、
万一、吉良上野の白髪首、討ち取り逃したる時は、天下に赤穂の恥を晒す事と成り、之は御殿の思いに大いに反く事なので断念致した次第に御座いまする。
かような言い訳じみた口上しか出来ぬ内蔵助の一重に実力不足、平に、平に、ご容赦願い奉りまする。」
瑤泉院「エーイ、あの御殿が切腹なさった折り、死に損ないし妾(わらわ)の思い、如何にとやせん!内蔵助。
其の方からの吉報を、今日か?明日か?と、只々首を長ごうして待つ身の辛さ!汝(ソチ)に分かるかぁ?!此の無念。
其れでも漸く、内蔵助が東へ下ったと聴き、サテは日頃の怨みも晴るゝことか!?別れには見えねども耳潔き注進が、
今か今かと早る中、漸く汝(ソチ)が対面に現れたと聴き、其れが何んじゃ、再び山科へ戻る暇乞いとは。。。
イヤ、そうか?!内蔵助。之も策で有ったか?そうなのか?済まない、内蔵助。
島原橦木町の廓狂いと同じ策ならば、此処では無用ぞ!此の場には、妾(わらわ)の極々身近な者達しか居らぬ由え。
言うて呉れ!内蔵助、御殿の御無念を晴らすは、何時なのじゃぁ、早よう!言うて賜もれ。」
と、瑤泉院は、再び泣き崩れて、祈るかの様に討入りの期日を知りたがります。
併し、大石内蔵助は、心を鬼にして其れをお伝えする事は致しません。壁に耳あり!は世の慣い、
石橋を叩いて渡らねば、今日迄の四十七人の苦労が水泡に帰すので御座います。
『今夜、討入り決行で御座います。』とは、喩え、瑤泉院様にも、内蔵助は言えないので御座います。
内蔵助「御公室様、策などでは御座いません。内蔵助、この雪が治まりますれば、山科へ帰る所存に御座いまする。」
と、大石内蔵助、言葉を返して更に一段、畳に平伏致します。プツン!と、音が聴こえる位に怒り心頭の瑤泉院は、
瑤泉院「人の皮を被った畜生武士(ちくしょうざむらい)。あの世へ参ったとて、二度と妾(わらわ)の前に現れるでない!!」
と、畳を叩いて悔しがる瑤泉院!腹立ち泪を瀧の様に流します。
この科白が、『仮名手本忠臣蔵』になると、もっと分かり易くて、顔世御前が大星由良助を折檻しながら、
「殿に変わりて、妾(わらわ)が折檻!妾が折檻!」と、言い放ちます。この本は、講釈、浪曲、映画やテレビドラマに寄せてあります。
さて、内蔵助。瑤泉院から「死んだあの世ですら、二度と逢わぬ!」と言われて、是は主従は二世のはずが、其れをも否定されますから、
正に真っ赤な焼き鉄(かね)を胸に突き刺された如き心持ち、一言、誤解を解いてから今夜の討入りへと思うのが人情ですが、
其れでも尚、貝に成る大石内蔵助で御座います。
そして、いよいよ長居は、瑤泉院様の怒りを増長させるのみと悟り、此の場より大石内蔵助が、礼儀もそこそこに御前を退散致そうとした其の時、
是を見ていた戸田局が、驚き呆れて口を挟む事が出来ぬ中、最後の最後、軈てのことに、
戸田局「若し!御城代様。」
内蔵助「何んで御座ろうなかぁ?戸田殿。」
戸田局「只今のお言葉、真実本意に御座いますでしょうか?!事を憚るにも、相手を選びますれば宜しかろう?
お願いで御座います御城代様、真実の胸中をお聴かせ願いとう存じます。」
内蔵助「アッハッハハぁ〜、何を申されるかと思いきや、埒も無い。
真実の胸中は既に御公室様に、先程申し上げた通りに御座いまする。
人生五十年、残る年月は短き内蔵助なれば、かかる期待をなされては、返って迷惑に存じます。
然れば、面白可笑しく残る人生を謳歌しとうごさる。ハッハハぁ〜」
是には戸田局も返す言葉も無く、内蔵助は是を機(シオ)に立ち上がり屋敷を外に踏み出したが、
此の遣り取りが、大石内蔵助と瑤泉院の最後の別れとなる。
今夜の討入り仇討ちの為とは言え、瑤泉院様を欺き怒らせて仕舞った事を苦しくは思う、大石内蔵助で有ったが、
それも、仇討ち本懐の為、やむなしと、自分に言い聞かせる内蔵助だった。
そして、出て来た三次浅野家江戸下屋敷、瑤泉院の部屋の方に手を合わせて、『ご無礼の段、平に、平にご容赦を!』と祈る大石内蔵助は、麻布南部坂を後にした。
さて、テレビドラマ『義士傳』での阿久里/瑤泉院役についての付録です。
兎に角、この阿久里/瑤泉院と言う役は、演技の前に美しい事が求められる役です。
ですから、歴代この役を演じるのは、其の時代を代表する美人だと私は思います。
1961年 NHK文藝作品・忠臣蔵
藤代佳子。藤代さん、昭和二十年から三十年代はお姫様役の映画スターでしたが、私が認知した昭和四十年代以降は時々時代劇で見る女優さんでした。
兎に角、幼稚園の年長組時代に、爺さん婆さんに連れて行かれた『お岩さん』の映画の印象が強烈で、美しい前に毒を飲まされ後の特殊メイクがトラウマです。
1964年 大河ドラマ・赤穂浪士
岸田今日子。時代を代表する美人と言うイメージからは遠い阿久里/瑤泉院になります。このドラマの時は三十三歳のようです。
写真は、岸田さんを挟んで右が加賀まりこ、左は吉村真里の妹の実子。岸田さんが二人よりも十歳若いから、当時としては若く見える女優さんです。
また、岸田今日子さんと言うと、時代劇だと渡辺謙の母親を演じた『御家人・斬九郎』ですね。『ムーミン』から『傷だらけの天使』まで、演技派の女優さんです。
1969年 あゝ忠臣蔵
高田美和。高田浩吉先生の娘さん。二十二歳の頃ですから、まだ、ギリギリ清純派スターと呼ばれていました。
『高校三年生』などの青春映画にも出演して、二十六歳で片岡秀太郎丈、仁左衛門丈のすぐ上の兄さんと結婚し、梨園の妻になると女優は止めて、
ワイドショーの司会やクイズ番組への出演などはしていたけど、長らく映画、ドラマからは離れていたのに、離婚を機に女優業を再開したのですが、
余程ギャラが良かったのでしょう、日活ロマンポルノの超大作『軽井沢夫人』でした。
この『軽井沢夫人』出演と片岡秀太郎との離婚を絡めて、連日、ワイドショーで騒がれていて、今考えると、巧妙な映画の宣伝だったように思います。
1971年 大忠臣蔵/1979年 女たちの忠臣蔵
佐久間良子。79年の女たちの方は見ていませんが、佐久間さんの瑤泉院は、喜怒哀楽が弱いと言うかぁ、余り差が有りません。
其れが武士の内儀らしくは見えるのですが、毎回だと、ややマンネリも感じ難しい所だと感じます。
1974年 編笠十兵衛
宮園純子。宮園さんと言えば、『水戸黄門』の霞のお新役のイメージが強く、劇中の風車の彌七とのおしどり夫婦ぶりが人気でした。
個人的には、近衛十四郎と品川隆二の『月影兵衛』と『花山大吉』に、ゲストで町娘役で能く見た記憶が御座います。
あくまでも、町娘か旅姿の芸者役で、お姫様の様な役は少ないので、この瑤泉院役をやっているのは意外です。
1975年 NHK大河ドラマ・元禄太平記/1979年 赤穂浪士/1989年 大忠臣蔵
松坂慶子。NHKの大河『元禄太平記』の時が二十二、三歳で、79年『赤穂浪士』の時は二十六、七歳となる松坂慶子さん。
写真は、最後の三十六、七歳の時のテレビ東京版の時のものです。
二十代の当時は、正しく時代を代表する美人女優です。佐久間さんより更に声も美声で、この時代を代表する美人として本当に相応しい。
あと、松坂さんの時代劇と言うと私は、西郷輝彦との『江戸を斬る』シリーズ。松坂さんは西郷さんの大岡越前の内儀で、且つ、紫頭巾で登場します。
また、松坂慶子のライバルと言うか、恋敵が山口いづみさん。このころの山口いづみが物凄く私は好きでした。
今は、山口いづみは山口賢人くんの母として有名ですが。。。松坂慶子も山口いづみも、老いてしまいました。
1982年 NHK大河ドラマ・峠の群像
岡本舞。『峠の群像』で初めてしっかり演技を見た感想は、舞台女優と言うかぁ、無名塾のお芝居の歯切れの良さと言うのか、喜怒哀楽を一瞬で出す、瞬発力を感じます。
ここ最近は、舞台の裏方仕事が中心のようですね。残念な感じもしております。
1985年 忠臣蔵
多岐川裕美。私は余り好みではない女優さんです。佐久間さんより更に喜怒哀楽が。。。薄いと言うより、ツボが私と違うイメージで、又、どんな役も同じに見える。
この『忠臣蔵』で言うと、瑤泉院だから務まりますが、年輪を重ねたからと言って、戸田局では使いたく有りません。
つづく