元禄十五年極月十四日夕刻、南部坂から戻った大石内蔵助(三船敏郎)は、『小山屋』を引き払った倅・主税(長澄修)と吉田忠左衛門(中村伸郎)の三人で、矢ノ倉米沢町の堀部彌兵衛宅を訪問していた。

集合の子の下刻までの時間を、この屈強な老人と酒を酌み交わそうと言うのである。記録によると、此の矢ノ倉の堀部彌兵衛宅に集まった赤穂浪士は総勢十四人だったと言う。


この日の宴席を仕切るのは、堀部安兵衛の従兄弟、佐藤条右衛門。平成になって彼の目撃談「佐藤條右衛門一敞覚書」という従軍記が出てきて、

当夜の四十七士のことやその親類縁者のことがいろいろ書かれており、奇跡の大発見と言われてニュースにも成りました。

このドラマでは、佐藤条右衛門を田中春男さんが演じている。条右衛門は、中山安兵衛時代から、越後高田から江戸表に出て来た安兵衛の面倒を見た一人である。

平成の大発見の前に、この佐藤条右衛門が登場するこのドラマの脚本にアッパレ!と、言いたい気持ちになります。


また、田中春男さんと言えば、東宝/小堀明男の『次郎長三国志』法印大五郎を演じてたから本当に宜く覚えております。

この作品の様に田中さんが武士で登場するのは余り見た記憶がなく、職人や小悪党の無宿渡世の長脇差が似合う役者さんでした。

本当にバイプレイヤーとして、映画は三百以上出てられますし、テレビにも、幅広く活躍した役者さんでした。

このドラマでも、佐藤条右衛門で見られて嬉しくなりました。


さて、この堀部彌兵衛宅の宴会が始まる前に、婿養子の安兵衛(渡哲也)が、初めて女房・お幸(赤座美代子)の台所仕事を見ながら酒を呑み、

その後、安兵衛は大石内蔵助達との宴会には加わらず、堀内道場の道場主、堀内源太左衛門(平田昭彦)への最後の挨拶に、

磯貝十郎左衛門(長谷川明男)と出掛けて仕舞うので、この台所と道場への出発に、傘を忘れた安兵衛にお幸が傘を渡しに行く場面が、今生の別れと成るので御座いました。


此の別れのシーンは、当時では恐らく斬新なカメラ割りで、傘を安兵衛に届けるお幸を天上のアングルで捉えて、お幸と安兵衛が出逢えて傘が開く迄は、


このアングルを保って、傘が開き画面を傘が覆い尽くしたら、この写真の横からのアングルに切り替わります。

この別れ、安兵衛の渡哲也の最後の言葉が、『風邪、引くなよ!』なのですが、赤座美代子の演技とのギャップが凄くって、

何んだろう?、『八時だよ!全員集合』の加藤茶が、ババン、バ、バンバンバン!と、歌って『歯磨けよ!』『宿題やれよ!』で言う様な口調で、『風邪、引くなよ!』って言います。


あぁ、あと傘は引きから、この写真くらい迄寄ってから、横アングルはド・アップで、お幸と安兵衛の一本の傘を挟んだ握り合う手と手が映し出されます。

そこからの引きに変わって、『風邪、引くなよ!』が飛び出すのです。ウーンって成りますよ。


更に別れは、堀内道場へ暇乞いに行くもう一人、磯貝十郎左衛門(長谷川明男)にも訪れていて、十郎左衛門は、病の母・きち(音羽久米子)を預けている実の兄、内藤万右衛門(小瀬格)所へ暇乞いに行くのです。


いやぁ〜この別れは、大変に感動的です。『徳利の別れ』と『番場ノ忠太郎 岸壁の母』を足して良い所取りして、二で割った様な演出です。臭く泣かせに掛かりますが、此れが迫真の演技で、臭いのが心地宜い!

そして、長谷川明男さん演じる磯貝十郎左衛門の兄、内藤万右衛門は、小瀬格さん。現代劇の時の眼鏡を取ると、やや険しい顔になる小瀬さん。

まぁ〜兎に角、悪代官で斬られてばかりの役者さんが、このドラマではワンシーンですが、非常に味があり、これぞ!神田愛山先生が言う『赤穂義士傳の別れの美学』です。

又、渡哲也の『ビバノンノン風、風邪、引くなよ!』の後だから、尚更、光る三人の演技です。



又、磯貝十郎左衛門の母・きち役は音羽久米子さんです。上品なお婆さん役を90年代、つまり、音羽さんが八十代までは現役で頑張ってらしゃいました。

このドラマん時に、既に五十五、六歳ですから、非常に達者な女優さんです。浦辺粂子さんや菅井きんさんは庶民派老婆でしたが、

この音羽久米子さんは、ややセレブ感の有るお婆さん役だったように思います。そして、この音羽さんは六代目菊五郎の演劇学校の二期生なんですね。

だから、このドラマにも出演しているのかも知れませんが、いやぁ〜、実に、この忠臣蔵の別れの中では、私は一番かもしれません。

母のきちが、倅十郎左衛門に、『お前が武士の一分を立てる迄は、母は決して死にません!』と言う科白が胸に沁みる名場面です。


そして、妻と別れを済ませた堀部安兵衛と、母との別れを済ませた磯貝十郎左衛門が訪れたのが、世話に成った堀内道場の道場主、堀内源太左衛門(平田昭彦)の所です。

暇乞いに来た二人に、堀内源太左衛門は、野太刀造りの珍しい刀を五本餞別と言って渡します。

是が、柄を外すと鞘が継ぎになり、短い槍、薙刀としても使える優れ物。野外戦、屋内戦の両方に役立つからと、『西国へ参るなら、役立つハズ!』と言って渡し、

更に、この野太刀造りの剣を、庭に出て、剣舞の型を見せながら、実地に二人に手解きするのでした。

さて、この堀内源太左衛門を演じたのは、平田昭彦さん。この平田さんの剣舞が見事過ぎて、本物の道場主かと思う迫力です。

この平田さんは、レインボーマンの『しねしね団』の主領のイメージが、私には強く、ガキ向けのあんな娯楽番組でも、

川内康範先生からの仕事だからと、一切、手抜き無しの演技で、森進一とはえらい違いだ!と、思いました。

そして、この堀内源太左衛門は、討入りの際には、大石無人、大石三平と共に、両国橋前で、援軍を吉良邸に入れない役目を果たします。


一方、大石内蔵助と主税、そして吉田忠左衛門が向かった堀部彌兵衛宅の宴席では、料理を終えたお幸が、集まった十四人の赤穂浪士に、膳部が運ばれていた。

膳部は、縁起を担いで『鴨と青菜の澄まし汁』カモを殺して名を取る、『勝ち栗』『昆布の佃煮』敵の首を取り喜ぶ、

と、全て古事記に則った吉兆の縁起膳が用意されていたのである。

そして、ここで大石内蔵助が、伏見は島原仕込みの喉で、ご祝儀を!と、謡曲を披露しますが、三船敏郎さんは口パクで、アテレコの玄人の謡が流れます。

この謡曲は恐らく『邯鄲(かんたん)』ではなかろうかと思います。勝栗のアップから、大石内蔵助がご祝儀を付けに掛かりましたから。


また、この宴には集いしも、大石主税(長澄修)と矢頭右衛門七(田村正和)の若人二人は、酒を呑み謡い、踊り舞う老人達を無邪気で宜いと言って、

縁側で雪景色の庭を眺めて、月を愛でて、やり残した事を、二人語り合うので御座いました。

そして、やり残した事、やれ無い事は多々有れど、忠義を貫き武士らしく死ねるのは、何よりの幸せだと、命を懸けて死ねる事の喜びを口にする二人で御座いました。

そして、田村正和の矢頭右衛門七は、父の戒名を書いた半紙を兜の中に忍ばせて、討入りの準備を始めます。


そんな宴の庭先に現れたのが、大石無人(辰巳柳太郎)と三平(竜崎勝)の親子で、討入りに加われなば、外の警戒をと、この親子が、堀内源太左衛門と連携して当たる事になります。


さて、此の夜、赤穂浪士四十七士が集まった場所には諸説ある。その内、堀部安兵衛が本所林町に借りた剣術道場と、その目と鼻の先、徳右衛門町一丁目の杉野十平次宅(宗方勝巳)、そして前原伊助(若林豪)が仇討ち姉弟と居る搗き米屋だと言うが、

この搗き米屋に、十数人集まるのは、茶会当日では流石に目立ち過ぎるので、堀部安兵衛道場と杉野十平次宅に分かれて集まり着替をし、最終的に、道場に四十七士が集まり討入ったものと推測します。


また、此の時の赤穂浪士の討入の衣装はと見てやれば、紋服ではなく、黒い小袖である。それに白木綿の襟と袖印を付ける事、

そして、帯には必ず、鎖帷子を巻いて切れぬ様に細工をしたと伝えられております。

是は大変有名な噺で、堀部安兵衛が中山安兵衛時代、高田馬場の決闘で、敵に帯を斬られて、大変苦労をした教訓からの対策です。

又、侠客も、清水一家の出入りなどでは、鉢巻に小判を入れて頭を守りますが、赤穂浪士も、鉄の輪を入れ、

面体の攻撃に備えた浪士も在れば、内匠頭の刃傷が、同じ様な烏帽子の金具でトドメを逃していると、縁起を担いで兜にしたり、

素の鉢巻にする者も少なからず居て、四十七士共通の備えは、帯に入れた鎖だった様で御座います。



また、大坂の陣の『木村重成』さながら、赤穂浪士は、衣装や武具に香を焚いて匂いを付けて出陣している。

此れは、元禄武士の優雅さも有るが、明らかに、徳川家(とくせんけ)に反対する勢力で在る事の自己主張に他ならない。

更に持ち込まれた槍は、各人が使い易い長さに柄が長さ調整し、また、上野介発見時に吹く呼子の笛と、万一の場合の止血剤が配られたと言う。


最後にここで、辞世の句、歌を残した赤穂浪士の其れを紹介しよう。


・大石内蔵助義雄

あら楽や 思ひは晴るゝ 身は捨つる

     浮世の月に  かゝる雲なし


・大石主税良金

あふ時は かたりつくすと おもへども

     別れとなれば  のこる言の葉


・原惣右衛門元辰

君がため 思もつもる   白雪を

     散らすは今朝の 嶺の松風


・堀部彌兵衛金丸

雪はれて 思ひを遂る あしたかな


・堀部安兵衛武傭

梓弓 ためしにも引け 武士の

   道は迷はぬ   跡と思はば


・吉田忠左衛門兼亮

かねてより 君と母とに  しらせんと

      人よりいそぐ 死出の山道


・潮田又之丞高教

武士の 道とばかりを 一筋に 

    思ひ立ぬる  死出の旅路を


・富森助右衛門正因

先立し 人もありけり けふの日を

    つひの旅路の 思ひ出にして


・岡野金右衛門包秀

その匂ひ 雪のあさぢの 野梅かな


・小野寺十内秀和

今ははや 言の葉草も  なかりけり

     何のためとて 露結ぶらむ


・小野寺幸右衛門秀富

今朝もはや いふ言の葉も  なかりけり

      なにのためとて 露むすぶらん


・木村岡右衛門貞行

おもひきや 我が武士の  道ならで

      御法のゑんに あらふとは


・早水藤左衛門満尭

地水火風 空のうちより 出し身の

     たどりて帰る もとのすみかに


・間喜兵衛光延

草枕 むすぶ仮寐の 夢さめて

   常世にかへる 春の曙


・間十次郎光興

終にその 待つにぞ露の  玉の緒の

     けふ絶えて行く 死出の山道


・間新六郎光風

思草 茂れる野辺の 旅枕 

   仮寝の夢は  結ばざりしを


・中村勘助正

梅が香や 日足を伝ふ 大書院


・村松喜兵衛秀直

命にも かえぬ一を   うしなはば

    逃げかくれても こゝを逃れん


・村松三太夫高直

極楽を 断りなしに 通らばや

    弥陀諸共に 四十八人


・大高源五忠雄

梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山


・武林唯七隆重

三十年来一夢中

捨レ身取レ義夢尚同

双親臥レ病故郷在

取レ義捨レ恩夢共空


・前原伊助宗房

春来んと さしもしらじな 年月の

     ふりゆくものは 人の白髪


・神崎与五郎則休

余の星は よそ目づかひや 天の川


・横川勘平宗利

まてしばし 死出の遅速は  あらんとも

      まつさきかけて 道しるべせむ


・茅野和助常成

天の外は あらじな千種たに 本さく野辺に

     るると思へや 世や命 咲野にかかる 世や命



こうして、赤穂浪士四十七士は、本所松坂町の吉良邸前に整列、表門東隊には、大将・大石内蔵助、副将に原惣右衛門と間瀬久太夫。

この三人は全体の指揮系統司る表門参謀本部の役目を行い、屋敷内外に目を配り、時事刻々変わる情勢を判断して、適宜指令を送る役目を担う。

そして、三人一組を基本とし、屋敷内へ斬り込む隊員九人、出て来る敵を迎撃する組六人、門外へ逃亡する組四人、

そして、参謀本部との伝令役の小姓一人、合計二十三人が表門東隊である。

一方、裏門の西隊はと見てやれば、西隊大将は大石主税、其れを補佐する副将に吉田忠左衛門、小野寺十内以下四人が後ろ盾となり是を補佐します。

この五人が裏門参謀本部を形成し、表門同様に屋敷内外に目を配り、時事刻々変わる情勢を判断して、適宜指令を送る役目を担う。

そして、此方も三人一組を基本とし、屋敷内へ斬り込む隊員九人、出て来る敵を迎撃する組九人、伝令の小姓一人、以上合計二十四人である。

ここに、一つ史実の記録がある。それは、赤穂浪士四十七士が、表門は破壊せず、締め切って闘い、裏門は完全に討ち壊して攻め入っているには理由(ワケ)が有る。

其れは、万一、上杉勢が援軍に駆け付けたら、赤穂浪士は、吉良邸内での合戦を望んでいた。其れは、市街戦と成れば、公儀の怒りを多大に受けるのと、

市中の江戸領民に犠牲者を出さない為の配慮だったという。

而も、上杉が援軍を出すなら、両国橋を渡って来るハズだから、討ち壊しは両国橋に近い裏門を選んだのだと言う。


つづく