愛山先生の赤穂義士銘々傳を聴く会が、墨亭さんにて、僅か15名程度の空間で開催されまして、その初日、行って参りました。


その演目は、この様な感じでした。



1.違袖の音吉

マクラでは、今年は有名人が沢山亡くなったと振りながら、咄家は落語協会に偏っていると言う愛山先生。

確かに、一時代を築いた大物が、亡くなりましたよね、柳家小三治、川柳川柳、三遊亭圓丈、そして、咄家ではありませんが、紫文さんも。

その前に、圓龍、多歌介、漫才ホームランの勘太郎先生。

落語芸術協会とのバランスが悪いから、柳家蝠丸師匠辺りは、ソロソロ。。。と、ブラックジョークを飛ばす愛山先生。

また、つい最近、播磨屋・吉右衛門丈が亡くなった事に触れて、吉右衛門丈がTom  Jerryに癒されると生前言われていたと言うコメントに触れて、

播磨屋も、自身と同じ『トムジェリ』贔屓だ!!と、言って大変ご満悦で。。。生前知っていたら、Tom  JerryTシャツを進呈したのにと、悔しがる愛山先生。

今日も、通販?のTom  JerryTシャツが四枚と届いたとご満悦でした。


そこから、愛山先生が入門された昭和四十九年当時、分裂間もない日本講談協会には、一門の客分馬場光陽先生が居たと言う噺をなさいましたが、

是は何度か聴いているお噺で、更に詳しい話が、愛山先生のブログに書かれていて、最後の軍談読み専門の講釈師だった噺をなさいました。

そんな中で、能く雑誌やマスコミから『講釈が一番隆盛を極めたのは何時頃ですか?』と、聞かれるが、愛山先生は『幕末』と答えるそうです。

あぁ、あと、愛山先生は昭和四十九年入門だから、『東京かわらばん』と、同級生だそうです。


◇愛山ブログの馬場光陽先生に関する記述

https://search.yahoo.co.jp/amp/s/aizan49222.exblog.jp/amp/17271222/%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D


そんな、実に愛山ワールド全開のマクラから、前座時代に、能く掛けた噺を!と、『違袖の音吉』をやられました。

違袖の音吉は、難波三侠客の一人で、三好屋四郎右衛門、木津の勘助、そしてこの違袖の音吉ですと始まるお馴染みの一席です。

二代目神田山陽一門は、殆どの講釈師が前座時代にやる噺で、恐らく私は六代伯山の松之丞時代に一番聴いた噺だと思います。

愛山先生の『違袖の音吉』は、六代伯山さんのより、ベタな笑いで、あまり愛山先生らしさが濃くありません。

伯山先生のは、無茶苦茶、伯山カラーの一席なのとは、大分印象が違います。


2.大高源五「両国橋 義士と俳人の出会い」

二代目山陽先生が、『大高源五』を最晩年、入院中のベッドでサラって居られた噺から、その『大高源五』と『二度目の清書』は、優れた銘々傳中の白眉であると、二代目山陽先生は仰ったそうです。

さて、毎度、愛山先生が仰る『義士傳とは人の別れの美学』である!この、必ず訪れる別れを告げず、伝えず別れ行く美学。

だから、義士傳は三百年続くと言って、『大高源五』へと入ります。


両国橋の上、半纏にステテコ履きの大高源五は、煤竹売りの帰りに、橋の上から下の水の流れを見ていて、

偶々通り掛かった茅場町の宗匠とも呼ばれる宝井其角と出会い、『子葉先生ではございませんか?!』と、声を掛けられる。

そして、其角の「年の瀬や水の流れと人の身は」と認めた、上の句に、大高源吾「明日待たるるその宝船」を詠みます。

ただ是は、愛山先生も指摘されましたが、実際のふたりの附け合いは、其角「草も木もこうなるものか冬枯れて」

大高源五「明日待たるる銀の盃」というものが本当だそうでございます。更に、愛山先生は、其角「花も実も こうなるものか 冬枯れて」と言うのも紹介されました。

出だしと、仕舞いは合っていると思いますが、「こうなるものか」は、怪しいかも知れません。ただ、私はこの上の句は、初耳です。


さてそして、この宝船=討入とは、この場では連想出来ず、其角は自らの羽織を、この橋の上で、大高源五に呉れてやります。

そして、やった羽織が平戸藩の元の城主、松浦肥前守からの贈答品だった事に気付き、慌てて、松浦邸の在る本所・二ツ目へと出向き、隠居の元肥前守に、『羽織は子葉に呉れてやりました。』と、話し、

上・下の子葉こと大高源五とのやり取りを、其角は、松浦の隠居に話ますと、「今日はいっか?!十三日だぞ?其角。二百六十余大名旗本八万騎の荒行寒からしむ」と謎めいた事を口走る。

其角は句の書かれた紙を松浦の隠居に渡し、酒を頂いて家へ帰る。

其角は隠居の言った「今日はいっか。二百六十余大名旗本八万騎の荒行寒からしむ」と言う言葉が頭から離れなくなります。


さて、この噺、『南部坂』の瑤泉院と戸田局程では有りませんが、其角の討入りに対する鈍感さを強く感じるのは、私だけでしょうか?


翌朝になり、家を訪ねて来た傍輩から、今日は納めの俳句の会が土屋様の屋敷であると聞かされる。

土屋様のお屋敷は吉良の屋敷の隣りだ。「それだ」と思う其角。「明日待たるるその宝船」の真意が分かった。其角は土屋の屋敷に向かう。


ここでは江戸の名高い俳人が揃うなか俳句の会が催される。雪が降っているということで其角は屋敷に泊まる。夜中、門を叩く音がする。

隣の吉良邸に討ち入ることを告げに来た大高源吾らであった。「子葉宗匠!」と其角は叫び、このような立派な志があったことを知らなかったと昨日の無礼を詫びる。

「我が雪と思へば軽し笠の上」と其角は詠んだ。

この同じ刻限、松浦の屋敷で壱岐守は、赤穂義士の鳴らす山鹿流の陣太鼓の音に耳を傾けながら、浪士が本懐を遂げることを祈るのであった。


さて、そんな大高源五の辞世の句を、泉岳寺への引き上げの道中詠んでおります。「梅で飲む茶屋もあるべし死出の山」


さて、愛山先生のこの日のお着物、赤穂藩、浅野内匠頭長矩の紋、『違い鷹の羽』で御座いました。