小野寺十内秀和は、祖父の代から赤穂藩士であり、父又八の時に『京都留守居役』となり、十内自身も京都留守居役を務め、百五十石取りであった。


大変に温厚で冷静沈着、和歌を好み佐々木慶安を師事し、妻・丹も和歌を嗜む方で、その妻とは非常に仲がよく、夫婦で和歌を学び多くの作品を残した。

また和歌だけでなく古典や儒学にも通じ、儒学は儒学者・伊藤仁斎に師事していた。

先ずは、十内が詠んだ歌を、幾つか紹介しておこう。


【炭窯】

山風に 雪解(ゆきげ)の雲を 吹き閉じて

    煙短き 小野の炭窯


【時雨】

定め無き 空とも見えず 槇の屋に

     必ずすぐる 冬時雨哉


【老後述壊】

老いぬれば よそになされて 古を

      語る傍にも 聡人のなき


さて、京都留守居役を務める小野寺十内は、当然、内匠頭凶変の知らせを京で知る事になる。すると、十内、彼は行動が早かった。

妻子にも告げず、又、京都所司代への届出も一切せず、赤穂城へと十内は向かう。所持して出た物は、鎧一領、槍一筋、其れに替えの帷子を一枚である。

是を聴いた同じ留守居役の同僚が、「所司代への届出位は出して行かれた方が宜しいのでは?」と助言すると、

十内曰く、「拙者が仕える御方は御殿お一人。その殿が切腹なされた今、誰の許しが要るものか?

其れに、所司代に届出れば、認可までの刻(とき)が勿体ないでは御座らぬか?其れ由え、拙者は一刻も早く城へ参る!」

と、一笑の元に退け、赤穂をさして馳せ下った。


そして、小野寺十内は、真っ先に大石内蔵助の屋敷を訪ねて、

十内「拙者、小野寺十内は小禄小身には御座れども、御殿からは小野寺一族、百年の恩義を賜りまして御座いまする。

義盟の浪士が集いて立ち上がる場面が御座いますれば、是非この十内!も、お加え下され、生死を懸けてご指図に従いまする。」

と、内蔵助の補佐を申し出ます。


そして、その間も京に残した妻の丹とはこまめに手紙のやりとりをした。この赤穂城開城の前後に、十内が妻へ出した手紙を一つ紹介致しましょう。


前略

六日、七日の文が一度に届き申し候。

母様何事無ふ御座なされ候よし、嬉しく存じ候。

ずいぶん心をつけて、朝夕の食をうまそうにししくんじ可被申候。

そもじいよいよ無事、一段の事に候、このもとのこと、

気遣いのよし、尤もに候、さぞさぞと思いやり候。

九左衛門、治右衛門、一両日中に、上り可申つもりにて、

其れ次第その様子によりての事と見え申候、

我らは存じの通りに、ご当家の初めより、小身ながら今迄百年御恩にて、

各々を養い、身暖かに一生を暮らし申候。

今の内匠頭殿に格別の御情けに与からず候へども、

代々のご主人くるめて百年の報恩、また身不肖にても、

小野寺氏の嫡孫にて候、斯様な時にうろつきては家の傷、一門の面汚しも、

面目無く候由え、節に至らば、心よく死ぬべしと、確かに思い極め申候。

老母を忘れ、妻子を思わぬにては無けれども、

武士の義理に、命捨つるの道、是非、及ばぬ所と合点して、

深く嘆き給うべからず、母ご様幾く程の間も有るまじく候。

如何様にしても、御身平常を見届けて給わるべく候。

年月の心入れて、如才あるべしとも、つゆさら思わず、申すに不及候へども、

頼み申し、僅かの金銀家財、是をありぎりに養育して参らせ、御命尚長く、

宝尽きたらば、共に飢え死に可被申候、是も不及是非候。

おいよ事望みの御方も在りつれども、病よくなりての事よ、

又、國の親方衆に聴きての事よと思いて、一日一日と伸び伸びにして、

其の事なくて、今此の様な時節なり候まゝ、今更進じ可申しとも、

申すべきにあらず人の請取るべきにもなければ、そもじともどもに、如何様にもながらへ、

まだ、世の有様を見申さるべく候、さてさて思い掛けぬ世の有様、

昔語りに聴く上也人形の太平記の様なものにて見聞きし風情、

今此の身になりて誠に風前の灯火、はずへの露と争う命となり、

日頃、萬に付いて深かりし欲を忘れ、心の清き事水の如くにて、禍は返りて出離の縁かと覚え候。

九左衛門、治右衛門、帰りても、なかなか今の御代にて候まま、

其の程計り難く、仮初の事にて、中々家中合和成り難く、

我が意図通りに成り行き難しと候らへば、兎角、死にて候。

萬に一つも面目在る様に成り候らわば、生きて再び逢う可申候。

其方の住いの事も、女の身として難儀の程、思いやられ候。

志在る御方々へ、身を任せ可被申候、藤助に万事頼む事、言伝申し候。

この節、文にて申すに不及候、何事も御察し下さりたく候へと申入れ候。

松尾氏も他家の人、殊に隣國にて候まゝ、わざと控えて不申通に毎日毎日に人給はりしより、近頃忝く存じ候。

其方を頼み申す事、能く能く御申し有るべく候。

此の文の用も、皆なこそ不申候へとも、御出候幅良き程に噂揉めざるべく候。

其の内、其の方の心次第。。。総じて人に御申しあるまじく候。

世上に顕る日は、おのずから人々も伝聞ありて候。

其の伝聞ある前に、申すは如何にて候。まずまず、我慢されたり。

慶安殿に宜く宜く頼み入れ申候、書状遣わし候時節にてもなく候由え、真事不申、

万事頼みて指図受け不被申候。

御目付衆十六日に、御越と申し候。城受取り十八日との沙汰にて候、伸び縮み申し入れ不申候。

金十両遣わし候、お納戸長兵衛の娘子迎えに参り候に遣い頼み候、命繋ぎの為に候。

又々、遣わし可申候、此の方一文も入不申候、申すに不及候へども、僅かの金銀にても、

誰殿にも預け申さる間敷候、手を離さず持ちて、是限りの露命繋ぎにめさるべく候。

必ず!必ず、おせいも同じ事に頼み申し候、かしく。


四月十日                       十内


お丹殿


この様に、かなり細かい出来事を文に認めて、十内は隠す事なく、妻には知らせていた様子で、この手紙の中でも、和歌のやり取りをして御座います。


◇元禄十五年初冬 都を立って東へ下る

おきわかれ 今朝打ち渡る 加茂川の

      水のけむりは 胸にたちそう


◆逢坂を越えて

立ちかえり また逢坂と  頼まねば

      たぐやせまし 死出の山越


◇志賀ノ浦にて

故郷(ふるさと)に 斯くてや   人の住みぬらん

          ひとり寒けき 志賀ノ浦松


◆都の空、ようよう遠ざかりて

故郷の 心あてなる 大比叡の

    山も隠るゝ あとの白雲


◇冬時雨

別れ行く 思いの雲の   立ちそうや

     今日もしぐるゝ 東路の空


◆道中、所々にて詠みける歌

よりよりに 都に帰る   旅人の

      数にもれなん 身の行方哉

忘れ得ぬ 都の友の  面影に

     道行く人を 比へてぞ見る


◇友たちの元へ

思い出は 音羽の山の 秋ごとの

     色を別れし 袖ぞとも見よ


◆東路、日出づる富士山を見て

波間より 伊豆の海面 冴ゆる日に

     光をかわす 雪の富士の根


◇妻、丹へ

限りありて 帰らんと思う 旅にだに

      尚九重は   恋しきものを


元禄十五年極月十四日の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して吉田忠左衛門、間喜兵衛とともに裏門隊大将大石主税の後見にあたった。

邸内に侵入すると二人の敵が現れ、忠左衛門とともにこれにあたり、十内は槍で敵一人を討ち取っている。

邸の裏口を巡視すると隣家の土屋逵直邸で家士が騒いでいるので、十内は大声を上げて、自分たちが浅野家家臣であること土屋家には迷惑をかけないので静観して欲しいことを頼んだ。十内はその後、二人の敵を倒している。

討ち入り後は大石内蔵助らとともに熊本藩主・細川綱利の下屋敷へお預けとなる。細川家にお預け中は、妻丹と折に触れて和歌のやりとりをしている。

元禄十六年二月四日、幕府の命により細川家家臣・横井時武の介錯で切腹。享年六十一。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は『刃以串剣信士』

尚、妻の丹は、小野寺十内の死後、四十九日を済ませた後、断食絶食し、同年の六月十八日、京都本圀寺で絶食自害し、夫の後を追った。

さて、小野寺十内と言えば、この妻・丹との夫婦愛と、和歌の才能だと思います。外伝では、ドラマの夫婦の配役を紹介したいと思います。

四十七士の妻で、名前を知っているのは、大石内蔵助の妻の陸/りくと、この小野寺十内の妻、丹くらいですからね。