君恥ずかしめられゝば、臣即ち死す
是こそが、我が武士道の権化である!と、言い残して、千歳の下今猶常に人をして奮起せしむる赤穂義士の中に有って、
小給微禄にして、猶且つ若年でありながら、義当四十七士の一人に数えられるのが、今回の主人公、矢頭右衛門七教兼である。
父を矢頭長助と言う右衛門七は、鎌倉幕府に偉大な名を残した、梶原平蔵景時の末裔と言われて御座います。
其の子孫、梶原長左衛門と言う人が浅野采女正時代に赤穂藩に家臣として迎えられて、近習方から勘定方として、
二十四石取りの六人扶持と言う身分で召し抱えられ、内匠頭長矩が誕生すると、其の乳母の世話係りを補佐する近習として、長矩には非常に頼りにされる存在でした。
又、この時の乳母と言う人が非常に、風水や易学に凝るたちで、長矩の将来を屡々、山伏や陰陽師に占わせては、その助言に従いつつ、内匠頭を育て行き、
多くの易者が、武運には愛でたい長矩ではあるが、食難の相、食べ物の食当たりや毒殺の危険を口にするので、
此の乳母は、絶えず毒見役を置き、一度冷めた食事は必ず再度温め直して、酒は毒と呼び、内匠頭には食事の際に与える事が無かった。
この乳母の教えは、長らく赤穂藩の家風、仕来りとなり、食に対する注意が徹底されますし、内匠頭は他家の宴席でも、
冷めた料理や、生食の料理には箸を付ける事は無く、「下戸だ!」「不調法だ!」と言って一切、酒を呑まない人でした。
軈て、乳母と長矩の関係は、長矩の成長と共に無くなるのでは在るが、元服し家督を継ぎ、瑤泉院/阿久里殿と夫婦となった後も、
内匠頭長矩の膳部の周りの世話は、御膳奉行ではなく、梶原長左衛門、後の矢頭長助が仕切りまして、基本的には乳母の教えに従いながら、内匠頭が食す前に必ず長助が毒見をして御座いました。
そうなると、内匠頭長矩の食事はいよいよ、長助が毒見せずには済まなくなりまして、喩え、幕府の要人、本家安芸守からの接待でも、
一旦、食べた様なふりをして、半紙に食べ物を空けて、内匠頭は、一切飲み込む様な事を致しません。其れ位、長助を信頼して長助の毒見無しには物を食べないので御座いました。
もう、こうなると赤穂で國詰めだろうと、江戸表での参勤であろうと、一年三百六十日、長助は内匠頭の側に、朝昼夜付き従って、毒見役を勤める事になります。
さぁ〜、是を梶原長左衛門/矢頭長助を宜く見知る勘定方、小姓経験者、御膳奉行は、長助は偉い!と、その忠義ぶりを誉めるのですが、
全く知らない家臣は、「長左衛門め!此の金魚の糞メ、用心ならぬ奴!」と、長左衛門が、殿様に何か、ある事無い事、讒言するに違いないと陰口を申します。
是には、内匠頭も心を痛めて、梶原長左衛門と言う名前を、矢頭長助に改めては?と、助言すると同時に、
矢頭長助は元の勘定方へと配置を戻し、改めて御膳奉行の配下に御毒見役を置く事にしたので御座います。
こうして、父、矢頭長助が國詰めの勘定方となり、矢頭右衛門七が十六歳の年に、殿中による凶変が起こります。
そして、赤穂城開城か?籠城か?の会議に、矢頭長助は、一子・右衛門七を伴い参加し、親子して内蔵助等と意思を等しく、殉死の『清書』への血判する意思を示します。
併し当初、髷を若衆髷のままで参加している右衛門七は、我が子・松之丞と変わらぬ年恰好と見た内蔵助は、
内蔵助「矢頭氏、貴方達親子は『清書』に義盟の意思をお示しになり申した上は、我が同士なれど、御子息は、まだ余りに年齢が若い。
然れば仕官されての日にちも浅そう御座いますれば、連判に加わり殉死には及ぶまい。早々に御引きになり、家の禱りを存せられよ。」
と、言って半ば病で臥せり隠居寸前の長助のみが、形式的に義盟への参加を表明し、右衛門七は若い蕾を散らす必要はない!と、申し渡す。
併し、是を聴いた右衛門七自身が、大反論致します。顔を真っ赤に染めて、目には泪を溜めて、こう!云うので御座います。
右衛門七「御城代、是は聴き捨てならぬお言葉に御座います。拙者、この國難に父が殉死を覚悟したと言うのに、時分一人がおめおめと行き長らえる積もりは御座いません。
また、今、家に残して参った母上も、そんな息子を家に迎える様な人では御座いません。内匠頭候に仕えて僅か一年なれど、立派な臣下なれば、殉死の列に拙者も、是非お加え下さい。
若し、加えぬと言われますれば、その庭の松の垣根で切腹致す所存なれば、介錯をば賜りとう存じまする。」
刀を取り、庭へ飛び出そうとする右衛門七を引き止めて、内蔵助は「暫く!暫く!」と、逸る右衛門七の切腹を制するのでした。
是を見ていた、赤穂城の義盟同士からも、啜り泣く声が漏れて、当の矢頭右衛門七は、目を真っ赤にし、滝の如く泪を流して居ります。
是を見た大石内蔵助も、ハラハラと涙して、
内蔵助「嗚呼、天晴れな同士、矢頭右衛門七教兼、殊にまだ十六の少年の身を以って示す健気な姿勢。
其れを思えば、大野九郎兵衛、近藤源八、奧野将監などは、多くの禄を食みながら、亡君の御恩を忘れて、抜け返り致す畜生武士が!!
あわれ殿の在世なれば、矢頭右衛門七!汝を殿は誉められ、御加増あったに相違ない!実に内蔵助、無念である。」
右衛門七「ハハッ!」
と、言って矢頭右衛門七は、義盟同士の列に加えられたのである。
此の矢頭右衛門七が、『清書』に加えられる経緯は、忠臣蔵を描く際に能く登場致します。私が読んでいる小林鶯里作の「本傳」では、
寺坂吉右衛門が、志願の四十七士として、陪臣でありながら、直臣の集まりである『清書』の義盟への参加が許された噺を紹介しましたが、
此の矢頭右衛門七が、若輩で有る事を理由に、義盟同士の列から外されそうになるが、加えて貰えないなら、父・母に顔向け出来ないので、此の場で腹を斬ると言い出す場面が、
映画やテレビドラマ、講釈や浪曲でも、取り上げられていて、私は、生の講釈でも、「本傳」で語られた物を聴いております。
ただ、寺坂吉右衛門と矢頭右衛門七の噺は、構造/ストラクチャーが非常に類似しているので、芝居も講釈・浪曲も同時にはやりません。
どちらかを選んでやる傾向に有り、個人的には、若き美少年の矢頭右衛門七の方が花が在り、物語自身は賑々しくなるので、宜い感じがしますが、今回は本に忠実に進めました。
又、芝居や講釈・浪曲でやる際に、矢頭右衛門七が登場すると、既に矢頭長助は病の床に伏して起きられず、右衛門七は母が手縫いの白装束(死装束)を着て遅れながはも、赤穂城開城の会議に参加するという演出が一般的です。
そして、大石内蔵助が「まだ、十六歳で召し抱えられて一年にも満たない!」と、義盟への参加を拒否すると、
「なぜ、同じ元服も済まない松之丞は赦されて、拙者は駄目なのですかぁ?!」と、右衛門七が内蔵助に食って掛かります。
結局、右衛門七は『清書』への血判が許されて、義盟に加わり、藩の組屋敷を追い出されると、少ないツテを頼りに、大坂は堂島の商人、野間屋久兵衛の世話になります。
しかし、父と自身の禄高を合わせても、三十石にも満たない矢頭親子は、分配金は少なく、借金は有っても蓄えなど有りません。
病の父親と、年老いた母親を抱えて、分配金の残りでの生活は、半年で底を突いて仕舞い、間もなく父親、長助がいよいよ死期を迎えます。
是が、元禄十五年七月で御座います。
そして、父親、長助は元々事務方の勘定方で、長らく内匠頭の養母付きの用人。毒見役だった訳ですから、この泰平の世に武具などを持たぬ一家で御座います。
当然、刀や鎧・兜なんぞと言う様な先祖伝来の形見は御座いません。仕方なく、長助が右衛門七に渡した形見の品は『腹巻』だったと申します。
軈て、十月を前に御舎弟大學様の跡目相続が成らないと決まり、義盟同士は『吉良邸討入り』を決め、二度目の『清書』を誓い合った同士は江戸表を目指して東下り致します。
当然、矢頭右衛門七とその母も、一日も早くに東下りしたいのは、山々ですが、父親、長助の葬式を出し、完全に破産状態の親子には、東下りの路銀が有りません。
結局、矢頭右衛門七は、父親の実弟、叔父が越後の松平大和守の家臣にあって、江戸藩邸で暮らしている。
この叔父に、江戸で仕官の口が有るからと騙して、行きの親子二人分の旅費として七両ばかり借り受けます。
又、堂島で面倒を見て居た野間屋久兵衛が、奉加帳を作ってくれて、先に二両と入れて廻して呉れたお陰で、先の七両と合わせて、十五両と言う金子が支度出来、直ぐに東へ下ります。
ところが!!
この矢頭右衛門七の東下りも、『忠臣蔵』を芝居や講釈・浪曲で演じる際は、能く登場するのが、東海道の遠州新居の渡しの関所か、箱根の関所で、
厳しい『女人止め』に合って、母を連れての旅が出来なくなり、一旦、母を赤穂の知り合いへ預けに戻る事を、右衛門七は決意するのですが、
右衛門七の母は、息子の足手纏いに成りたくないので、こっそり浜名湖へ飛び込み自殺するとか、箱根だと短剣で喉を突くんですが、
超貧乏の矢頭親子が、短剣なんて?持っていたのか?と、思うので、母親が自害するパターンなら、箱根より、新居宿にして欲しいです。
因みに、この本は、右衛門七が赤穂まで母親を連れ帰り、知人に世話を頼んで江戸表へと再度下る展開。
ですから、江戸入りは、もう九月で、名前を清水右衛門七と変えて、南八丁堀は湊町、平野屋十左衛門の家に、
片岡源五右衛門、大高源五、貝賀彌左衛門などの同志との共同生活を三月あまり行うのですが、十七歳の右衛門七は、同志最年少で御座いますから、大層コキ使われた様で御座います。
世が常ならば十七の、若き身を、流石は矢頭長助が一子、母を慰め励ましつ、雨降り風間を幾く日かして、
遥々赤穂へ送り着け、知る邊の人に母託し、さて余所ながらの暇乞い、老少不定の世の中に、
今宵限りの母子の語らう、明日は東の空指して、行けば帰らぬ梓弓、猛る心を振り起こし、
昨日のままの旅姿、尽きぬ名残りを惜しみつゝ、取って返した百と六十里。
吉良邸討入り時は表門隊に属し奮戦。右衛門七は、カギ槍を使い戦ったらしいです。
吉良邸討入り後、三河岡崎藩・水野忠之の芝中屋敷にお預けとなり、元禄十六年二月四日に水野家家臣・杉源助の介錯で切腹した。享年十八歳。
法名は『刃擲振劔信士』また、縁の地、大坂は堂島の浄祐寺には父と共に墓が存在し、教兼の顕彰碑も建てられています。
碑は元は別の場所に建てられていたが、破損したため幕末に再建され、さらに同寺に移されたそうです。
討入り時は形見の『腹巻』をして、父の戒名を懐に忍ばせていたと伝わる。また、美少年であったとされ、討ち入り後に世間に「義士の中に男装の女がいた」という噂話が流れたとも伝わる。
また、泉岳寺に止め置かれ大広間に居る右衛門七を、我先にエロ坊主が見に来たり、お茶を薦めていたらしく、
女人禁制だからか?ボーイズラブなエロ坊主に、右衛門七は狙われていたのかも知れません。
この討入りの後、右衛門七父子やその家族の苦難が世間に知られるようになり、母と妹三人は奥州白河藩(松平基知)の親族・矢頭庄左衛門に迎えられて保護されます。
後に長妹が多加谷致泰(奥州白河藩松平家家臣)、次妹が多加谷勝盛(多加谷致泰の男子)、三妹が柳沢家の家臣山村氏にそれぞれ嫁いでいる。
母も娘達の嫁ぎ先の多加谷家で暮らしたと言うのが真実で、自殺は芝居や講釈・浪曲の演出のようです。
なお、『忠臣蔵』を題材にした映画やテレビドラマでは、右衛門七の家族は母だけの場合が多く、妹なんてまず登場しません。
ただ、右衛門七が美男子だった裏付けとして、矢頭右衛門七の妹を、態々、白河候が面倒を見た辺りで分かるような気がします。
さて、最後に毎度お馴染みのテレビドラマ『忠臣蔵/赤穂浪士』作品に見る「矢頭右衛門七」を見て行きましょう。
1964年 大河ドラマ『忠臣蔵』
舟木一夫。前年に「高校三年生」が大ヒットして大河ドラマで矢頭右衛門七役と言うのは、絵に描いた様な、キャスティングですね。
1969年 あゝ忠臣蔵
小林芳宏。時代劇の二枚目役者さんではありますが、ちょっと美男子要素より武士らしくて、逞しい感じか致します。萱野三平の方に向いていると思います。
1971年 大忠臣蔵
田村正和。今は亡き田村正和さんも、右衛門七を演じています。この時既に二十七歳から八歳なんですが、若く感じます。
1975年 大河ドラマ『元禄太平記』
小坂まさる。ジャニーズ枠か?と思ったのですが、75年は既にバーニングへ移籍していて、ジャニーズから引抜かれた新グループ『メッツ』が話題になった頃のようです。
もう、既に中学生だった私は、小坂まさるは、『メッツ』の前しか知りません。マチャルですよね。ジャニーズJr.の印象です。
1979年 赤穂浪士
中村信二郎。現在の二代中村錦之助丈で、四代目時蔵丈の次男です。すいません、殆ど、存じ上げません。
1979年 女たちの忠臣蔵
高野浩之。我々世代には、バロム・ワンの白鳥健太郎のイメージです。私より一つ歳上です。現在は『高野浩幸』で、現役の役者さんです。時々、今でもドラマで拝見します。面影ありますよ、白鳥健太郎の。
矢頭右衛門七のイメージは、残念ながら有りません。
1982年 大河ドラマ『峠の群像』
野村義男。まぁ、「たのきん」の人気が絶頂期で、マッチやトシちゃんに比べるとリーズナブルで、まだ、時代劇に使えると、脚本家が判断したのか?間違いなく、郷ひろみのバーターです。
ここまでの中では、一番、矢頭右衛門七から遠い気がします。
1985年 忠臣蔵
新田純一。比較的、アイドル歌手から役者になった中では、時代劇のイメージは有ります。
ただ、矢頭右衛門七では無い感じです。まだ、萱野三平の方が近いと思います。
1989年 大忠臣蔵
長尾豪二郎。吉右衛門の鬼平で、長谷川平蔵の息子役を長く務めていたので、そのイメージが強いのですが、
子役出身で、演技も確かで時代劇の流れにも添えると言う点では、有りですね、長尾さんの矢頭右衛門七。
1990年 忠臣蔵
的場浩司。流石!ビートたけしの『忠臣蔵』です。矢頭右衛門七にしては、外見といい内面といい全く根底から違う方向で。。。是位飛んでいると、また、面白いのかも知れません。
時代劇にも、出ていますが、東幹久との助さん角さんは、流石に『水戸黄門』も終わった!と、思ったし、案の定、二代三平を八兵衛にして本当に終わりました。
1991年 大石内蔵助
市川染五郎。現在の十代幸四郎丈が七代目染五郎の時に演じております。この役は似合う気がします。
兎に角、実直な二の線で務まる役ですからね。こういう役は、血筋なんで宜いと思います。
1991年 忠臣蔵
吉岡秀隆。二十一歳の吉岡さんなら矢頭右衛門七、いい感じだと思います。存在の示し方が、忠臣蔵の矢頭右衛門七は合う気がします。
まぁ、『北の国から』のジュンが濃すぎるからね、役者としては私は好きです。時代劇をもっとやって欲しい。
1994年 大忠臣蔵
内海光司。松方さんの『東山の金さん』で、同心役をやっていた頃に、矢頭右衛門七を演じたみたいです。
私は、金さんも見ていないし、現代劇も、内海くんを観た事が殆どありません。
1996年 忠臣蔵
山本耕史。久しぶりにいい感じの矢頭右衛門七の登場です。今までの中では、舟木一夫と迷う位に似合っている矢頭右衛門七です。
嫌味が無く色気の有る時代劇俳優って感じか好きです。
1999年 赤穂浪士
増島愛浩。戦隊ヒーローモノから役者デビューされたようですが、全く私は作品を見た記憶が御座いません。
矢頭右衛門七にしては、バタ臭くてマカロニウエスタン化する感じがあります。上手く行くと二代西郷輝彦は在りか?!
1999年 元禄繚乱
今井翼。内匠頭もやっている翼さん。矢頭右衛門七も、出来る気はします。意外と時代劇に出ていたりしますよね。
大河ドラマの義経で、那須与一を観たような記憶が。。。麒麟にも出てたよ!確か。
2003年 忠臣蔵
尾上寛之。時代劇でも見ますが、何んと言ってもNHKの連ドラに、沢山出て来る役者さんでした。右衛門七と言うより、三平かなぁ〜。
2004年 忠臣蔵
冨田翔。北大路欣也の『大岡越前』での同心役だけは観た事があります。矢頭右衛門七的な美男子の色気は無い感じがします。好青年ですけどね。涼風真世とのコンビは良いと思います。
完