四十七士は、二度目の『清書』の段階で、既に四十七人だった訳では無い、何名かが、大石内蔵助の東下り前後の、
既に、二度目の『清書』に対して意思を示しながらも、欠けて行った同盟同士が有るのである。そんな中で、最も悲壮惨憺たる最期を迎えた人物が、この萱野三平其の人かもしれない。
萱野三平は芝居『仮名手本忠臣蔵』では、早野勘平として演じられ、五段目の山崎街道、六段目の勘平切腹の場で知られている。
この萱野三平の家系は、遠く源朝臣頼光からの出で、其の後裔左京太夫頼盛が、右大将頼朝の時、摂津國萱野を賜り、代々此の地に繁栄した事に由来し、其の姓を『萱野』と定めた。
三平の父は、正蔵では無く、七郎左衛門重利といって、幕府旗本の大島出羽守に仕えて、二百三十石取りの用人で在った。
三平は此の七郎左衛門の次男で、幼名は卯平次。若くして健脚俊敏、武芸を好み、赤穂藩家中の剣術指南役、長野彌兵衛に付いて、剣の道を極めんとしていた。
この赤穂藩江戸屋敷に勤める長野彌兵衛の道場に通う三平には、同門の朋友、中村十五郎と云う一番仲の良い門弟が有りました。
或る日、其の十五郎の下僕、丈助と言う者を使いに立てて、丸毛清兵衛殿の家に、ご相談したい儀、是有りと言うので、
十五郎の屋敷へ即刻お越し下さいと、呼びに向かわせた。そして十五郎自身は、丸毛殿の到着を待ちながら、屋敷内で刀の手入れをしていた。
十五郎は、刀の柄を外して目釘を改めながら、丈助の帰りは、まだか?!まだか?!と、その遅い帰りにイライラしていた。其の最中、丈助が戻り、主人の十五郎へ報告します。
丈助「清兵衛殿、食事中なれば、追っ付けやって来られまする。」
と、丈助が云うと、其れに喰い気味に十五郎が言います。
十五郎「左様か、其れならばご苦労であった。お前は部屋に下がって、休んで居れ。丈助!拙者が、呼ぶ迄は座敷には入って来るでないぞ、宜いなぁ?!」
と、何か思う所が有り、下僕丈助を部屋に下がらせて、呼ぶまでは座敷に来るな!と、釘を刺します。
そして、バラして手入れをしていた脇差を組立て、二度、三度と真正面に振りながら、清兵衛の到着を今か?今か?と、待って居た。
さて、丸毛清兵衛と言う男は、藩内の中小姓組頭を勤めていて、忠勤怠りなく、播州赤穂に其の人有りと言われた『居合の達人』でした。
其の清兵衛、朋友同僚の評判はすこぶる良く、その交際範囲は実に広く、別して十五郎とは入魂の仲で、双方まだ無妻のヤモメ、江戸詰めの時は、遊女買いや芝居見物にと二人連んで遊ぶ間柄てあった。
そんな関係ですから、清兵衛は、まさか十五郎が自分に斬り掛かろうと、刀の手入れに余念なく待ち構えて居るとは、夢にも思わなかった。
そんな清兵衛は、食事を済ませると、直ぐに刀を片手に取り、特に遺恨など無い積もりの十五郎の家へと、正に押っ取り刀でやって参ります。
玄関で声を掛ける清兵衛でしたが、取次の下男は出て来ないので、勝手知ったる他人の家、清兵衛は、十五郎の家なので、その座敷に向けて、ズカズカと入って行きます。
そして、薄暗い行燈の火を見た清兵衛が、障子戸を開けて中に入ると、いきなり、十五郎は、叫びながら、斬り掛かります。
十五郎「おのれ!来たかぁ〜、汝は清兵衛!思い知れッ!」
座敷に入って来た影に向かい、十五郎が肩から袈裟懸けに、いきなり斬り掛りますから、斬られた清兵衛は、其れでも居合の達人!!
斬って来た相手に、抜刀一閃!十五郎の股を目掛けて二寸辺りをザックり斬り付けます。斬られて驚いた十五郎、怯みながはも、再度、刀を強く握り締め、
刀を低い位置から突いて出て、清兵衛の喉を刺してトドメだ!と言わんばかりの一撃を喰らわせます。
流石の清兵衛も、袈裟懸けで瀕死の状態から、喉を突かれて、驚きの表情を残して、その場に事切れます。
すると、此の物音に『何事やらん?!』と、下僕の丈助が其の座敷に飛び込んで来たのですが、余りに凄惨な現場に驚いた様子で、
主人は狂ったのか?!何かの祟りなのか?!と、困惑しきりで。。。それを見た十五郎は、
十五郎「エッ!面倒なぁ?!」
と、吐き捨てて、血塗られた刀を振って、丈助の首を斬り落として仕舞います。
中村十五郎の家は、この下僕丈助との二人暮らしですから、この侭なら、誰にも知られずに、二人の死骸を始末すれば、
十五郎の強行は露見しないで済んだかもしれませんが、二人を討ち果たした十五郎が、そのまんま、座敷に佇み一刻半もの間、ボーッとして過ごして仕舞い。
主人、清兵衛が余りに帰りが遅いと言うので、其の下僕四郎兵衛と権十の二人が迎えに来てしまい、この惨劇を見知り、
勤番の徒士目付の田中権左衛門に訴えて出て、深夜の赤穂江戸屋敷は、上を下への大騒ぎに成ります。
田中権左衛門は、直ぐに中村十五郎の剣の師匠である長野彌兵衛と、番頭の近藤源四郎を呼びまして、この対応を協議致します。
中村十五郎は、長野道場でも『印可』を受けた強者だと、道場主の彌兵衛は田中権左衛門に説明しますし、
その日常を宜く知る近藤源四郎も、安易に屋敷に突っ込むと、犠牲者が多数出ると、中村十五郎を捕縛する隊の編成には慎重を要すと強く助言致します。
言われた田中権左衛門、此処は道場での中村十五郎の行動を一番熟知する師匠である長野彌兵衛に隊の編成を一任し、
速やかに、中村十五郎を捕縛した者に対しては、赤穂藩よりそれなりの褒賞を出す事にして、中村の屋敷へ突入する隊の士気を高めた。
さて、師匠の長野彌兵衛は、徒士目付役と赤穂藩に対して、都合の宜い返事を下して見せたが、道場門弟は、中村十五郎の強さを日頃から見知りますから、
喩え、褒美の飴を見せられても、命有っての物種ですから、この十五郎捕縛隊に、自ら進んで参加する者は無く、師匠彌兵衛は、情け無い!と、嘆く中、
萱野三平は、唯一、イの一番に手を挙げて、この中村十五郎捕縛隊に志願して名乗りを上げたので御座います。
結局、中村の家に向かうのは、この萱野三平と師匠である長野彌兵衛の二人だけで、中村の家を囲んでいた足軽を掻き分けて、二人だけでその玄関に立つったのである。
三平「十五郎!居るかぁ?俺だ、三平、萱野三平だ!入るぞぉ〜。」
と、二尺五寸の木刀を片手に、萱野三平は、中村十五郎の家の唐紙や障子戸を開け放ちながら、ドンドンと奥へ進んだ。
そして、一番奥野居間で絶命した丸毛清兵衛と下男の丈助の脇で、大人しく座って居る中村十五郎を見た萱野三平は、木刀で十五郎に小手を浴びせて、その刀を手から奪った。
三平「十五郎、先生も一緒だ。どうした?何が有って清兵衛を殺したり致した?理由(わけ)を話せ?!十五郎?!」
と、三平が十五郎に問い質したが、十五郎は何も喋る様子は無く、三平の問い掛けには、無言を貫いた。
是を見た、師匠である道場主の、長野彌兵衛は、乱心した中村十五郎をこのまま、縄目を討ち藩の番頭や目付役に渡せば、間違いなく斬首されると思い、こう十五郎に言い渡します。
彌兵衛「十五郎、拙者が介錯してやる由え、お前は此の場で、腹を切れ!サッ、早く腹を切れ!!」
と、言うと自らの小刀を、中村十五郎に渡すと、後ろへ周り、大刀を抜いて大上段に構えるので有った。
すると、完全に覚悟した様子の中村十五郎は、切腹し、直ぐに後ろから長野彌兵衛は大刀を振り下ろし、十五郎の首を斬り落としました。
その首を抱えて表に出た長野彌兵衛は、直ぐに田中権左衛門を見付けて、首を差し出して、事の次第を報告致します。
彌兵衛「拙者が、十五郎に意趣を相尋ねました所、乱心烈しく的を得る答えは得られません。然して、切腹を申し付けて、其の首、介錯致しまして御座います。
何卒、速やかに検死下さりまして、大目付への報告、宜しくお願い仕りまする。」
と、言ったので、田中権左衛門は、部下数名を引き連れて、渡された十五郎の首を下げて、屋敷内の検死へと趣きました。
この件は、後日、藩大目付から内匠頭長矩へと報告されて、改めて、長野彌兵衛の働きに対する褒美が出されて、
又、唯一、この彌兵衛に付き従い中村十五郎の捕縛に貢献した萱野三平は、内匠頭がいたく気に入り、父の主人であり彌兵衛の主人でもある大島出羽守の推挙も有り、
内匠頭長矩の小姓としてお取立てになり、晴れて江戸詰めの赤穂藩士に召し抱えられたのである。
尚、この中村十五郎事件抜きに、萱野三平には、三平が十三歳の時に大島出羽守からの推挙での仕官と云う別の説も御座います。
どちらにせよ、十三歳で内匠頭長矩の小姓となり、金十二両二分三人扶持から赤穂藩士と成った萱野三平は、
二十七歳で、元禄十四年三月十四日の内匠頭長矩の切腹を、内匠頭付きの用人の一人として、江戸城の大手下馬先に、片岡源五右衛門等と共に詰めて居た。
そして、『内匠頭長矩刃傷!』の一方が出た跡、内匠頭切腹と赤穂藩改易の情報は、この萱野三平と速水藤左衛門が、
四日半の駆け通しで、十八日の深夜には播州赤穂入りして、その伝令と書面が、大石内蔵助の屋敷へと、実に百五十里以上の道のりを駆け抜けて伝えられたのである。
此の時のエピソードとして有名なのが、山﨑街道、慈母の葬儀である。萱野三平の実家は、旧東海道の山崎街道に存在し、
伝令を勤める最中に、実家の前を三平は通っていて、その際に、葬儀の列が実家前に出来ているのを目撃します。
そして、聴いてみると、その葬儀は久しく離れ離れの慈母の葬儀であると、知るので御座います。
速水藤左衛門が「実母の事なれば、線香の一つも上げてから、参られよ、萱野氏。」と、今生の別れをしなさいと薦めるが、
萱野三平は、「親子は一世の事なれば、主従の三世には如かず。私事より國の一大事を、優先するが武士ならば当然で御座いまする。」と云って赤穂を目指したと言う。
この様に、萱野三平は赤穂義士の中に有っても、義に厚く忠に深い臣下として、知られていながら。。。萱野三平は、脱落してしまうのです。
萱野三平は、一度目の赤穂城の開城に際しては、『清書』への血判を押し義盟に参加して故君に準じる覚悟を示して居た。
そこで、播州赤穂より江戸表の父、七郎左衛門に書を飛ばし、君家の行方に命を捧げる所存であると伝えると、此れに対し、父親・七郎左衛門は、眉を曇らせた。
そして萱野三平が、赤穂藩江戸屋敷に早打の任務で帰った際に、江戸表にて親子は対面、元来律儀な七郎左衛門は、一にも二にも無く頭を振って、
七郎「イヤ!其れは成らぬ。其方(ソチ)が浅野家に奉公するに至ったのは、全體何誰のお陰で有ったか?忘れたか?
長野彌兵衛殿からの助言を聴いて、我殿出羽守様から御推挙が有ったから、其の事は其方も宜く記憶して御座ろう?!
其れを浅野家を朗々と成ったからとて、世は『忠臣二君に仕えず!』などと言うが、江戸表に又参れは、其方程の器量人ならば、仕官の道は無くはない。
今は、主君を失って間もなく、考えが厭世的になりがちであろう。江戸の萱野の家は、兄が家督を継ぎ、老いた両親は隠居の身だ。
暫くは、播州赤穂に有ってよーく考えて暮らすのも宜いが、安易に命を散らすのが、武士の本分に有らざると、肝に命じなされ!夢々命は無駄に致さぬ様に、親より先に死ぬ程の不孝は無いぞ!、三平、宜しいなぁ。」
と、愛おしい息子に、どの様な仔細があり御家が改易と成ったかを知らぬ父親、七郎左衛門は、死に急ぐ事を止めに掛かるのであった。
此の様な返事を投げられた三平は、大変窮した。『否』と強く撥ね付ける事も出来ないし、『承知』と父に従う訳にも参りません。其処で三平が思い付いた苦肉の策、窮余の一策!
三平「父上の仰せ、至極当たり前には御座いますが、決してご心配を掛けぬ様に、己(や)むに己まれぬ三平が志、憐れと思し召して、
御勘当の上、御慈悲を持って永遠(とわ)の暇を賜りたく存じ上げまする。何卒、三平の我儘をお聞き届け願います。」
併し、是を聴いた七郎左衛門、淋しくニッコリと笑みを浮かべて、
七郎「馬鹿を申せぇ!其方は既に成人、今年二十七に成るであろう、其の成人に暇も、勘当も在るものか?此の父が勘当せずとも、
其方は自身の志、意思を貫くと言えば、もう其れは父の思惑、範疇を越えた外に在る。だが、其方と儂は父子には変わらぬのだぞ!
勘当!暇!と申しても絆は切れぬ。世に父子は一世と申し、夫婦の二世にも如かずと申すが、儂は其方との絆は妻よりも深く離れ難い!三平、よーく考えて見やれ!」
言われた三平は、其れでも此の時は、父の思惑とは平行線と成る事を覚悟し、仕方ない気持ちで言い返すのでした。
三平「今の意思は変わらない三平に御座います。父上の申された事は、勿論、勘考させては頂きます。」
と、云ってハッキリした回答は先延ばしにする三平でした。
父親と分かれて、一人に成った三平は、父親と義盟の間の板挟みに悩む事になった。
父上の命に従えば、亡君の仇討ちは果たせず、逆に仇・吉良上野介を討つ義盟に加われば、親不孝と成るのである。
孝ならんと欲せば、不忠の臣とならむ!
今は昔、亡き重盛の故事を思い出した三平は、大変悩み、目を泣き腫らし泪は枯れる程に、悩み抜く事に成ります。
軈て、義盟の浪士にとって吉良邸討入りが間違い既定路線となり、大石内蔵助をはじめとする上方の同士達の東下りの準備が噂され始めると、愈々、三平は一つの決断を下します。
時は、元禄十五年正月十三日。山科に閑居していた大石内蔵助宛に一通の書面を三平は送りやった後、
御城代、明日は亡君の月命日。もう直ぐ一周忌を迎える訳では御座いますが、萱野三平重実、明日を死期と定むべけれ
是を内蔵助が受け取るのは、当然、三平の死後で御座いまして、内蔵助は江戸と山科の隔たりを呪ったと伝えられます。
この手紙を山科へ出した萱野三平は、死ぬ支度を我家で致した跡、先ずは先年亡くなった母親の墓参りを致します。
其処で、間も無く自らが黄泉の國へ参りますと祈りを捧げ、その足で兄の家を訪ね、隠居の父と兄と深夜まで酒を呑むので御座います。
そして、父や兄が「泊まって行け!」と、仕切りに薦めるのを振り切り、九ツ過ぎの真冬の深夜、家に帰ります。
そして迎えた翌十四日、兼ねて用意した白装束を着る前に、井戸端で真水を浴びて身を潔めた萱野三平重実は、
愛刀の備中水田國重鍛えた尺九寸の技物を右手に、見事に腹を真一文字にカッ捌いて、果てて仕舞います。
尚、是を第一に発見したのが、因縁めいておりますが、父・七郎左衛門で、前日の三平の様子が不自然で、泊まらずに帰った事が気掛かりで、
二十四孝の『孟宗』に掛けた訳では有りませんが、旬の筍ご飯を下女に炊かせ、親孝行の謎掛けの手土産を持って三平の部屋へ行くのですが、
「三平!」「三平!」と何度呼んでも、現れない事を不審に感じた七郎左衛門、部屋の中へ飛び込むと、其処は畳一面血の海で、
國重の一刀を腹に刺して、三平は既に事切れて息絶えて御座いました。そして、其れに縋り付いて泣く七郎左衛門ですが、もう、我が子は生き返りません。
ちょっとした、父と子の思いの違いが、三平を死に追い詰めたと、父は気付き、犬死させた!と、深く後悔は致しますが、もう、どうする事も出来ません。萱野三平重実、享年二十八歳。
遅れて来た遺書を手に大石内蔵助は、「南無三、死なせてしまったかぁ?!惜しい武士(もののふ)を無駄に死なせた!」と呟いたと申します。
最後に、萱野三平は俳人としても大高源五と並び称される腕前だったそうである。三平が赤穂に仕官していた貞享から元禄時代は、松尾芭蕉などの多くの俳人が出て、俳諧が盛んな時代であった。
江戸俳壇の中心人物であった水間沾徳(みずませんとく)門下の大高忠雄(子葉)、神崎與五郎(竹平)、萱野三平(涓泉)の技量は当時の俳諧人にも広く認められ、
その作品は『文蓬菜(ふみよもぎ)』『三上吟(さんじょうぎん)』等の俳書に収められている。
また萱野一族の中には、重実のほかにも兄重通(紅山)を始め、母の弟藤井家房とその子光貞(蘭風)、北河原好昌、小畑治左衛門(和泥)、北河原保親(休計)等、
多くの優れた俳人が活躍し、蘭風編「椎柴集(しいしばしゅう)」「萱野草」、休計編「浪速置火燵(なにわおきごたつ)」等の俳書に多くの句を残している。
又、討ち入りのときに内蔵助は彼の名前の書いてあるやたて短冊を槍の先にくくってたりとか、だれかが遺書を懐にいれて討ち入りしたという話もある。
泉岳寺に「刃道喜劍信士」と彫られた供養塔があり長いこと誰のものかわからなくて、戒名から後付けで創作された「村上喜剣」を実在する人と思った人もいた。
現在は萱野三平のものと言われている。なるほど生前、大の仲良し(俳句仲間)の大高源五の隣にしつらえております。
さて、最後に毎度お馴染みのテレビドラマ『忠臣蔵/赤穂浪士』作品に見る「萱野三平」を見て行きましょう。
1964年 大河ドラマ『忠臣蔵』
清川新吾。まだ居ましたね、時代劇に宜く出ていた役者さんが。千曲里子さんの息子さんで、親子で役者さん。
幸の薄い役が似合うから、萱野三平にはピッタリだと思います。刑事ドラマと時代劇に宜く出ていた昭和40年代、50年代が印象的です。
1969年 あゝ忠臣蔵
里見浩太郎。里見浩太朗さんは、もう何も申し上げる必要は有りませんね。若い時分なら三平役も有りでしょう。
1971年 大忠臣蔵
石坂浩二。石坂さんの三平は意外です。確かに、文武の文を強く徘徊に親しみ活躍したイメージなら分かるんだけど、
萱野三平の一本気で、短慮なイメージからは遠い気がします。この1970年代は既に石坂浩二さんには、堅いインテリなイメージが付いていましたよね。
1974年 編笠十兵衛
林与一。与一さん!是はギリギリ萱野三平でも宜いのかな?二十代後半なら。萱野三平と言うよりも、矢頭右衛門七タイプの美男子だと思います。
因みに、私は林与一さんのTwitterフォロワーで御座います。
1975年 大河ドラマ『元禄太平記』
粟津號。是は林与一さんとは、真逆の線からギリギリ萱野三平有りだと思います。粟津さんは、刑事ドラマ『大都会』『西部警察』の悪役と、日活ロマンポルノのイメージが強過ぎて、
三十から四十代の時は、萱野三平の『サ』の字も感じませんが、この75年ギリギリ20代の時なら有りだと思います。
1979年 赤穂浪士
石田信之。私たち世代には、ミラーマンでお馴染みの石田さん。二年前に亡くなり残念です。時代劇にも、能く出ていましたが、
萱野三平と言うより、やっぱり大店の若旦那が似合う役者さんで、武士ならば、奉行所の役人と言うイメージですね。
萱野三平だと、『仮名手本忠臣蔵』の早野勘平的な色恋のナヨっとしたイメージになると思います。
1982年 大河ドラマ『峠の群像』
中村梅雀。二代梅雀さんは四代目梅之助さんの倅で、最初は親の七光感が強い役者ですが、三十過ぎて、捕物帳で開花した気がします。
ただ、萱野三平は、意外過ぎます。若い二枚がやると思いますから、粟津さんと梅雀さんは意外でした。
1985年 忠臣蔵
篠塚勝。朝香真由美さんの元旦那さんです。地味な配役ですが、萱野三平を演じても不思議ではありませんが、長編ドラマならば有りだと思います。
連続ドラマで、五話以上登場するような配役じゃない気がしますが、この忠臣蔵は長編ドラマなので。。。ただ、存在感は薄いです。
1989年 大忠臣蔵
坂東八十助。五代目八十助時代に、十代目の三津五郎が演じています。あんまり役の幅が広く有りませんが、萱野三平なら大丈夫な気がします。
個人的には、大変苦手な役者さんです。舞台も観たけど、好きに成れません。御免なさい。
1991年 大石内蔵助
辻輝猛。『燃えよ剣』で沖田総司役を演じていたのが、微かな印象です。殆ど、ガッつり見た記憶がありません。御免なさい。
1991年 忠臣蔵
新実。殺陣師なんだそうです。殆ど存じ上げません。
1996年 忠臣蔵
芹川周市。『暴れん坊将軍』に出ているようですが、画像がヒットしません。私は残念ながら、名前だけでは、全く分かりません。
1999年 赤穂浪士
角田英介。子役時代は有名でしたが、青年期は学園ドラマなどにも出ていましたが、知らぬ間に消えた印象です。
萱野三平をやっていた事に、少し驚きを感じました。子役の時は、本当に能く時代劇に出ておりましたが、坂上忍のようには成れませんでした。
1999年 元禄繚乱
森宮隆。三田佳子の善玉な方の息子さんで、今は吹替などナレーション・声優としてが有名です。舎弟が散々だから、兄さんも大変だと思います。
2001年 忠臣蔵
出光秀一郎。同郷の役者さんで、濃いキャラを個性的に演じます。萱野三平も、彼なりに昇華しそうな気がします。
テレビの二時間ドラマで、金田一耕助シリーズ『獄門島』で、彼が演じた坊主の気味悪い不気味さが忘れられません。目力が半端ないと思います。舞台で活躍する役者らしい!!
2003年 忠臣蔵
中村吉志郎。この方も全く存じません。又、ネット検索では、画像も出て来ない。御免なさい。
完