さる程に、城明渡しの一件は無事落着し、その明渡しに従事して、最後まで城に残って居た大石内蔵助を始め、五十数名の義盟に『清書』血判した面々も、

城下の藩邸を離れて、京・大坂、播州、はたまた、江戸へと移りまして、御舎弟大學様の御家再興を第一に、万一の場合は、吉良邸討入りを視野に隠遁閑居していた。

更に時が経つと、大學様が蟄居閉門となり、安芸の浅野本家、松平安芸守預かりの左遷が決まると、義盟同士の目的は、吉良邸討入りと定まります。

こう成ったら、所謂『江戸急進派』が、一日も早く討入り決起すべしと、大将の大石内蔵助へ矢の催促です。

特に若い連中は、血の気が多くて気が短い。仕切りに急ぎ立てて、最初(ハナ)は書面での催促でしたが、遂には大石が閑居、京の山科へと出向い来て談判する様になります。

何んとか、その場は内蔵助が説き伏せて、江戸表へと帰しますが、この『江戸急進派』の若い連中が何時暴発しても不思議ではない!

と、内蔵助も憂慮しますから、此処は一番!吉田忠左衛門に出張って貰って、『江戸急進派』の連中を抑えて貰うしかない!と、

内蔵助「忠左衛門殿、御大にこの様なお頼み、実に申し上げ難いのであるが、誠に大義ながら、尊公、江戸表へ出向き若い連中を諫めて貰えませんか?!」

と、内蔵助よりの頼みを聴いて忠左衛門、

忠左「委細承知仕りました。併し、あの堀部安兵衛、奥田孫太夫の若い『江戸急進派』を説き伏せるなどと言う事は容易に叶う事では御座らん。

其処で、先ずは上方の同志の総意を示しては?と、存じます。総意として、今直ぐに討入るのは時期尚早。

其れには、吉良邸の絵図や、隊の役割、討入当日の作戦立てなどなど、用意周到に準備してからではないと、討入りは罷りならぬ!と、釘を刺すので御座います。

然も、上方の同志は強い結束が出来ていて、その準備を進めている!と、江戸の藩士達に示しては?と存ずる。」

内蔵助「成る程、其れでは、先ずは上方の『清書』に血判した同士に、尊公と原惣右衛門殿の二人して、血判の真意、今も変わらぬや?!確かめて欲しい。」

と、本傳では既に申し上げた、『清書』を一旦返しての反応を確かめて、討入りに参加させるべき、真の義盟同士を炙り出しました。

是を受けて、吉田忠左衛門は、東へ一足先に下り、此の後楯を以て『江戸急進派』に対し鎮撫せん!としたので御座います。


さて、是れより先、長矩候より二代前の長直候の時代に、近藤三郎左衛門と言う藩士が在った、兵法を彼の『小幡勘兵衛景憲』に学んで、

其の蘊奥を極めた武人である。

景憲は甲州流軍学の創始者として名高く、幾多の武士に教授したとされる。特に北条氏長・近藤正純・富永勝由・梶定良は小幡の高弟として名高く、

その教えは広く一般に『小幡門四哲同学』などと呼ばれている。剣術にも優れて小野忠明から皆伝を受けていた。

江戸時代中期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』は、春日虎綱の甥・春日惣次郎が書き残した口述を、

小幡光盛の子孫と考えられる小幡下野守が入手し原本が成立したと考えられているが、景憲は小幡家伝来の原本を入手し成立に携わったという。

つまり、この近藤三郎左衛門は、この道を以て長直候に支えた、そして此の三郎左衛門の働きで、赤穂の城は築かれて行き、

また、三郎左衛門の調略で播州の郷士が浅野家の家来になる事も多かったのである。そのような近藤三郎左衛門の活躍があり、

内匠頭長矩の時代には五万三千石を数える大名となり徳川幕府の大名の一つとし、播州赤穂の城主として君臨していた。

そんな近藤家の子孫が近藤源八で、是が一応、五百石を取る軍学指南として、長矩侯に仕えていたが、後で山鹿素行が赤穂に客分として迎えられると、

兵法・軍学の第一は、『甲陽軍鑑』を基にした物から、山鹿流へと移り変わってしまう。其れでも義理堅い吉田忠左衛門は、源八を師事し続けたのだが、

元禄十四年三月十四日の事件が起こり、内匠頭は切腹、赤穂五万三千石の改易が決まると、この源八は、大野九郎兵衛一派に加わり、金儲けだけを一身に考える白痴者だった。

此の時、吉田忠左衛門は六十一歳。既に還暦を過ぎた頑固オヤジで在った。

此の年齢で、藩内は真っ二つに割れて、大多数の開城派の二百五十人と、少数派の籠城しての殉死派の六十人足らずに分かれて、

吉田忠左衛門は後者である以上、道理を思うと前者である源八からは、もう軍学を習うはずも無いと思うのだが、忠左衛門は源八からの講義を未だに受けて居た。

忠左衛門「自分には、成さねばならぬ大望がある。其れには、少しでも源八の軍学が必要であると信じる由え、

この際、源八がどの様な人間であるか?其の人間性は問題ではない。だから、拙者は之れ迄通り、彼の講義に耳を傾ける。」

と、後に、血判する『清書』の同盟同士に語っている。而して、又、吉田忠左衛門という漢な思慮卓越した人物で在ったと知れるので御座います。


又、吉田忠左衛門と言う方は、敬神家でもあり、京都滞在中に恰も菅公(菅原道真公)の八百年祭に際会した。

忠左衛門は、此の時七日間、北野天満宮へ日参して、道真公の御霊に詣り、祈社頭に手向けの歌を、何首か残している。


かき暮らし 雪降り積もる 山里も

      垣根の梅は 春を忘れず


去年今年を(さいげつ) 年々重ねて 咲く梅を

         湧きて匂いの 深き春かな


百年の(ももとせ) 数を重ねて 若みどり

         猶老松の 千代に経るらん


花咲かぬ 里は在れども あしびきの

     山には春の 松ぞ!色濃き


この京での道真公の八百年祭に限らず、吉田忠左衛門は、東下りの最中に、山川を愛でる旅に、各所で歌を詠む事が屡々在った様である。


◇逢坂にて

九重の 霞を分けて 出る日の

    曇らぬ御代に 逢坂の関


◆小夜の山中にて

夜をこめて 越え行く旅の 空なれや

      東雲近し 小夜の山中


◇続・小夜の山中にて

長へば 命とも無き 夢の世に

    越ゆるや名残り 小夜の山中


◆三保の松原にて

我だにも 三保の松原 富士の雪

     こゝろや空に かゝる白雲


◇清見関にて

天の原 霞も晴れて 清見関

    月をとゞめよ 波の関守


実に風流人と分かる歌である。是こそ、『英雄の胸中、閑日月あり』と言うべし!


さて、頃は元禄十五年三月五日。かの吉田忠左衛門は、江戸表に入り、『江戸急進派』の面々に、取り敢えずの挨拶を済ませると、

『江戸急進派』以外の面々、特に片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門の二人とは綿密な情報交換をした上で、三日後の三月八日に、

『江戸急進』の代表と言うべき、堀部彌兵衛、安兵衛親子、並びに奥田孫太夫、貞右衛門親子に面会する事に成ります。

『江戸急進派』の堀部、奥田、両親子はズルズル討入を日延すれば、吉良上野介は上杉領である米沢へと匿われてしたい、益々、討入は困難になると主張しますが、

四人を相手に忠左衛門は、大石内蔵助を信じて、上方から『清書』に対し、二度目の誓いを立てた三十八名の同志が、東へ下るのを待て!と、説得致します。

具体的な、同士の名前を知り、更には、兵法を根拠に、戦略を練って準備し、武器も不足無く上方より江戸に運び入れる算段が在る事などを説明した上で、

彼ら四人に反論の隙を与えず、理解させ納得させた上で、忠左衛門は、『江戸急進派』にも、二度目の『清書』を促した上、その進退の見極めを大石内蔵助に一任する事に承知させます。

また、吉田忠左衛門が江戸表へ入った噂は、公儀、及び諸大名の一部にも知れ、上杉家が色めき立ったダケで無く、松平豊前守や酒井伊豆守からは仕官の噺が舞い込んだりもした。

松平、酒井の両家は、熱心に且つ五百、六百石の高録にて、仕官を薦めに来たのですが、勿論、吉田忠左衛門は『忠臣は二君に仕えず!』を理由に是を丁重に断ります。

ただ、江戸へ来たのは、既に還暦を過ぎて御家は改易、老々浪々と成ったが、自らが学んだ学問や武道を、残り少ない余命の間、広く若者に伝えたいと存じます。と、云って、

吉田忠左衛門では、色々とマズいので、当初は祖父の名前を借り、篠崎太郎兵衛と名乗り、暫くすると、田口一真と改名し、

作州浪人の軍兵学者として道場を、新麹町六丁目に、大野屋喜左衛門と言う商人の裏店を借りて開業致します。

すると、江戸在住の赤穂浪士は勿論、先に仕官を断った松平、酒井の両家からも沢山の藩士が門弟となり、道場は繁盛し、

赤穂浪士が、仕切りに道場へ出入りしても、目立たない格好の集会所として、この道場が使われる様になり、

吉良邸討入り前の準備を進める上で、非常に大切な役割を果たす、赤穂浪士の江戸前線基地となるので御座いました。


一方、吉良邸は初秋の旧暦八月に、麹町から本所松坂町へと移転が決まり、其れに合わせ、九月末には上野介が隠居し、家督を倅で養子の義周に譲る事が決まる。

すると、上杉家では、来年の雪解けを待って、上野介を米沢へ移して、隠居暮らしをさせる事が正式に決まったのである。

是を受け、本傳にて紹介した様に、上方に居る赤穂浪士は、大石内蔵助、主税親子を始め、『清書』に二度目を誓った面々が東へと下り始めるのである。


さて、吉田忠左衛門の銘々傳は、この後、本傳が討入、四十七士の切腹まで行った跡、「銘々傳 下」をお届けし、其れにて、銘々傳の完結と成ります。

そこで、先に、ドラマの配役に見る吉田忠左衛門の後編をお届けして、吉田忠左衛門の銘々傳 中を締めたいと思います。


1989 大忠臣蔵

溝田繁。長く役者をなさった方で、テレビドラマでは、時代劇に限らず大活躍の役者さん。悪役の方がやや多くで、城主や家老役から、町人まで幅広い役者さんです。


1991 大石内蔵助

岡田英次。映画、ドラマに大活躍の二枚目スターです。吉田忠左衛門より、貫禄のある役所でも務まる役者さんです。


1991 忠臣蔵

鈴木瑞穂。最近は、流石にテレビや映画には登場しなくなりましたが、現代劇、時代劇ともに大活躍の役者さんで、存命いの数少ないベテランです。

どちらかと言えば悪役ですが、吉田忠左衛門にもピッタリで、卒無い配役にに感じます。


1992 腕におぼえあり

下元勉。1985年の忠臣蔵に続き、二度目の吉田忠左衛門です。


1994 大忠臣蔵

高橋悦史。片岡源五右衛門に続き選ばれました。高橋さん、私はNHK『おしん』のイメージがなぜか?有ります。声の宜い役者さんの一人です。

時代劇だと、吉右衛門の『鬼平』での、与力役が印象的でした。


1996 忠臣蔵

神山繁。このイラストによると伯耆守も演じています。善玉・悪玉両刀使いで、貫禄のある怒鳴り口調の命令が似合う役者さんです。

北野武作品の『アウトレイジ』にも出ていたし、最近は企業や銀行の経営者役のイメージが付いています。私は、『ザ・ガードマン』の印象が強い役者さんです。


1999 赤穂浪士

中丸忠雄。時代劇にも登場していましたが、やっぱり、『キーハンター』と『Gメン75』の印象が強い役者さんです。東京藝大中退ですよね。変わり種の役者さんです。


1999 元禄繚乱

山本学。未だに現役ですが、流石に映画やドラマの出演は少なくなりました。吉田忠左衛門役には、なかなか、ピッタリだと思います。

和歌を詠む文武両道で、道場主と言うイメージが、学さんに合うと思います。


2001 忠臣蔵

山谷初男。寺山の天井桟敷からの役者さんで、ちょっとトボけた感じの役が似合う役者さんです。現代劇も、時代劇も達者な役者さん。

強い個性はありませんが、役に嵌るのが上手い役者さんです。つい、二年前に亡くなりましたね。残念です。


2003 忠臣蔵

船戸順。悪代官役、悪い城主役のイメージが強い役者さんです。二枚路線の悪役で身分の高い役を演じて居たイメージです。

だから、吉田忠左衛門と言うより、大野九郎兵衛の方が似合うイメージです。今年五月に亡くなっています。


2004 忠臣蔵

寺田農。花の文学座一期生、岸田森、悠木千帆(樹木希林)、小川真由美、北村総一朗は同期です。若い頃から映画やテレビで活躍の大スターです、地味目ですが。

吉田忠左衛門のイメージは、そんなに強くありません。なんとも、二時間ドラマの犯人の社長役のイメージが強過ぎます。


2004 最後の忠臣蔵

川辺久造。こちらも、時代劇の悪役武士のイメージが強い役者さんで、悪役同心、代官、家老の印象が有ります。

2000年位からは、顔が柔和になられて善玉役もやられていて、この2004年ならば、忠左衛門も有りだと思います。


2004 徳川綱吉

相島一之。刑事ドラマ『相棒』でお馴染みですね。ただ、吉田忠左衛門のイメージは無いなぁ〜。今回紹介した中だと、一番違和感があります。


2007 忠臣蔵

山田吾一。大野九郎兵衛に続き、志ん朝師のそっくりさん、山田吾一さんは、吉田忠左衛門もやっています。山田吾一さんなら、両方有りかな?!


2010 忠臣蔵

石田太郎。またしても、大野九郎兵衛に続き吉田忠左衛門も演じています、石田太郎さん。之れ又、両方有りの役者さんです。


2012 忠臣蔵

若林豪。この人は、若い時も時代劇に出ていたけど、六十過ぎて味になったと思います。仲代達矢もですが、若い時は、マカロニウエスタン調の時代劇でした。



つづく