一党四十七人の義士に有って、此の寺坂吉右衛門信行は、唯一足軽と云う軽い身分で有りながら、特別に義盟に加わる事を許されたので御座います。

彼は、内匠頭長矩が存命中、弓手組の一軽卒として召抱えられたので有るが、『資性温厚』、篤実にして情誼に厚く、

其れに加え弓道の腕前も確かであり、大石内蔵助は、松之丞の弓の鍛錬に態々、この吉右衛門を屋敷に招いて指南させる位の腕前であった。

其れ故に内蔵助は、足軽陪臣と言う低い身分ではあるが、何時かは吉右衛門を内匠頭に推挙し、直臣にしてやろうと考えていたが、

その機会が来る前に、内匠頭と上野介の事件が起きたので、それば幻に終わったので、御座います。

併し、此の凶変の事態で、藩を挙げて上を下への大騒ぎ、殆どの陪臣連中は、家財道具を纏め、吾先に赤穂から逃げて仕舞う中、

身分こそ軽けれ、吉右衛門信行は、大石達直臣同様に憤慨し、内匠頭の思いを汲み、切腹を受けて櫛の歯の様に抜けて行く情け無い連中を他所に、

喩え、叶わぬまでも、亡き君主の怨みを晴らさんと、密かに悲憤の泪を流し、臥薪嘗胆を胸に、立ち上がる機会を伺っていた。


そして、御城代、大石内蔵助と言う器用人が立ち上がり、最後に残った赤穂義士、五十六名を集めて会議を開くと聴いて、

寺坂吉右衛門は、もう居ても立っていられずに、その会議の席に飛び込み、主人たる吉田忠左衛門の静止を振り切り、内蔵助に忠盟への参加を嘆願致します。

吉右衛門「承りますれば此の度、尊公様をはじめ忠義の御方々、大義の思召しお立てになると伺い、年頃日頃御厚恩承る此の吉右衛門、

其の萬分の一でもお返し申したく、軽卒の身でありながらも、斯く推して推参仕った次第に御座います。

何卒!何卒、尊公様の御執り成しを持ちまして、此の同盟中に、お加え下さる様、不肖ながら此の身命に掛けて、お願い奉りまする。」

と、申し入れた吉右衛門を、忠左衛門も、日頃の忠僕ぶりを知って御座いますから、忠左衛門自らも、内蔵助に推挙すべきか?を悩み、

ただ、陪臣では有り、又、身分も軽き足軽、確かに弓の腕前は、義盟に加えれば戦力として申し分やいとは思えども、言い出すには至らなかった。併し、

内蔵助「藩中には、直臣で高禄にも有りながら、主君の恩を顧みず、既に城から逃げ出した者も少なからず居る中、

この寺坂吉右衛門の志、天晴れである。依って其方が望み叶うよう取り計らい遣わす。是よりは主人である忠左衛門に従うよう!宜いなぁ、吉右衛門。」

吉右衛門「ハハッ!有り難き幸せ。」

と、こうして唯一、足軽陪臣と言う立場に有りながら、この寺坂吉右衛門信行は、赤穂浪士四十七士に加わり、吉良邸討ち入りに参加致すので御座います。


しかし!!


寺坂吉右衛門、吉良上野介の首を取るまでは、浪士四十七士だったのですが、是又、大石内蔵助義雄の命により、唯一一人、殉死切腹を差し止められます。

詳しい遣り取りは、本傳中で詳しくやるので、此処には、敢えて、書きませんが、瑤泉院、大學様に、討ち入りの首尾を早打にて、知らせる役目が必要で、

大石内蔵助は、その早打・メッセンジャーの役割を、全てこの寺坂吉右衛門に託すので御座います。恐らく、大石内蔵助は、寺坂吉右衛門を義盟に加え、『清書』に血判させた時から、

吉右衛門には、討ち入りまでは参加させるが、本懐を遂げた後は、此の吉右衛門だけ生かしてやり、全ての後始末を託す積もりだったに違いありません。

大石内蔵助にとって、いや!赤穂浪士四十七士にとって、この寺坂吉右衛門が担った役は、どうしても必要でした。

身内である瑤泉院様、御舎弟大學様、そして本家・松平安芸守様には、伝聞でお知りになる前に、此の義盟に加わった者の手で伝えたいと言う意思が有ったはずです。

実際には、寺坂吉右衛門、この三箇所以外にも、豊岡のりくの所へも報告していますし、天野屋利兵衛を始めとする大坂の支援商人にも書面による礼を述べたりしております。

更に、寺坂吉右衛門を生かした事で、泉岳寺の墓守としての仕事が長きに渡り行われて、是が『赤穂事件』を風化させない役割を果たしています。

又、寺坂吉右衛門は結果的に、八十三歳まで生きる事に成りますから、実に四十五年間、語り部として赤穂四十七士の活躍を後世に語り続けます。

是は、四十七士にとって、実に大切な事で、この吉右衛門の働きが有ってこそ、後世に正しく『赤穂事件』は伝わり、そのお陰で、三百年の時を越えて、今日にまでも伝わり続けていると言えると思います。

そして、最後にもう一つ寺坂吉右衛門らしいエピソードとして紹介したいのは、寺坂吉右衛門は、唯一義士の生き残りですから、

召し抱えたいと言う、再就職先は数多引き合いが有りましたが、是には一切答えず、浪人を貫いております。

まぁ当たり前ッちゃ当たり前ですが、勿論、忠臣は二君に仕えずなんですが、その理由として寺坂が断る言い訳にしていたのが、吉田忠左衛門の未亡人のお世話と言うのが有ります。

この未亡人の死後は、付き合いの深かった三千石の旗本大臣、山内主膳豊清の世話になり、先に申した通り八十三歳まで生きるのである。

墓は麻布の曹渓寺にあり、戒名は『遂道退身信士』、後に泉岳寺にも、忠義の碑が建てられている。


では、毎度お馴染み、寺坂吉右衛門信行を演じたテレビドラマ忠臣蔵の配役を見てみましょう。


1964 大河ドラマ『忠臣蔵』

佐伯徹。全く記憶にない役者さんです。時代劇は、沢山出ていた役者のようですが、私は存じておりません。


1969 あゝ忠臣蔵

高橋昌也。名脇役で女優・加藤治子さんの旦那さんですよね。いやはや、こんなに寺坂吉右衛門がはまる役者さんがいきなり登場して嬉しいです。

現代劇も時代劇でも、普通の市民から、支配階級まで幅広く演じれる、素晴らしい役者さんでした。


1971 大忠臣蔵

小林昭二。大野九郎兵衛に続いての登場ですが、大野九郎兵衛よりは、寺坂吉右衛門の方が小林さんには似合いますね。


1975 大河ドラマ『元禄太平記』

綿引洪。昨年亡くなられた綿引さん、悪代官のイメージが強く忠僕ではないなぁ〜。時代劇と刑事ドラマには欠かせない役者でした。


1979 赤穂浪士

物部勝美。すいません、印象に有りません。


1979 女たちの忠臣蔵

岡本信人。登場しました!Mr.忠僕。ピッタリですね、芸名を寺坂吉右衛門にしてやりたい。アッ、寺坂信行でも宜い。まぁ、最近では雑草食いと幸楽の店員さんのイメージが濃いけど。


1982 大河ドラマ『峠の群像』

十貫寺梅軒。性格俳優のイメージで、唐十郎の『状況劇場』。時代劇だと瀧川鯉昇師匠が出た『鳥刺し』!豊川悦司主演の、アレに出ていましたね。まぁ、梅軒さんなら寺坂も出来るでしょう。


1989 大忠臣蔵

吉岡祐一。この吉岡さんは、『おしん』の兄貴役のイメージが強すぎて、確かに実直な寺坂のイメージはあるけど、ピンと来る配役ではない気がします。


1991 大石内蔵助

加藤純平。時代劇と刑事ドラマのイメージですね加藤純平さん。寺坂吉右衛門にすると、忠僕ではあるが、芯の強さが足らない気がします。


1991 忠臣蔵

水口邦夫/水口てつ。癖のある俳優さんです。私は二時間ドラマで見る印象です。余り強いイメージを捉えてないので。。。すいません。


1996 四十七人の刺客

小林一帥。画像が無くてすいません。時代劇映画ではお馴染みです。寺坂吉右衛門でも卒なく演じられる役者です。


1996 忠臣蔵

寺尾聰。まだ居ましたね、有名どころで、寺坂吉右衛門のイメージに合う人が。ただ、寺尾聰のギャラで寺坂吉右衛門だと、コスパ悪過ぎでしょう。


1999 赤穂浪士

田中隆三。田中裕子の実弟ですよね。地味だけど溶け込む感じで、周りを邪魔しない演技が私は好きです。この田中隆三さんの吉右衛門も宜いだろうなぁ〜。


1999 元禄繚乱

菅原加織。菅原文太さんの長男で三十そこそこで亡くなりました。小田急の人身事故ですが、はっきりした自殺・事故の原因が不明でした。

もう二十一年も前の事件。生きていたら、彼も五十歳を過ぎていたんですね。寺坂吉右衛門をやっていたとは知りませんでした。


2003 忠臣蔵

金田明夫。またまた、金田さんも大野九郎兵衛に続いての登場ですが、大野九郎兵衛よりは、寺坂吉右衛門の方が金田さんには似合いますね。


2004 忠臣蔵

梨本謙次郎。またしても、時代劇と刑事ドラマの二刀流です、梨本さん。若い時なんで、寺坂が似合いますよ。一番ピッタリ候補です。


2004 最後の忠臣蔵

上川隆也。寺坂よりやはり禄高の高い武士のイメージですね、この人は。役の幅が在るから務まるだろうけど、四十七士でも他の役が似合いそうです。

片岡源五右衛門、赤埴源蔵、大高源吾などの方が似合う気が致します。


2007 忠臣蔵

水野純一。水野久美さんの息子さんで、加藤剛の『大岡越前』の最晩年のシリーズに同心役で出ていた印象で、目が鋭い役者さんです。

寺坂吉右衛門にしては、目の鋭さもですが、背が高過ぎます。現在、役者は廃業されているみたいです。


いやはや、やはり大石主税に比べると知らない俳優さんが、演じております、寺坂吉右衛門信行。