大石内蔵助は、討ち入りを決行する為の準備に取り掛かって居た。自らの旅の用意をして、主税を伴にして下るだけなら容易いが、そんな訳には行かない理由がある。
まず、既に江戸入りして住んでいる浪士、並びに、上方在住の浪士の其々に、討ち入りへの参加・不参加を確かめる必要が有った。
是は些か骨の折れる仕事で、現代の同窓会や結婚式の出欠を取るのとは訳が違う。互いに命を預け合える同士であるのか?否か?其の確認を兼ねて、しかも、隠密裏に行う必要があった。
内蔵助は、先ず、吉田忠左衛門と原惣右衛門の二人だけを、山科の屋敷に呼び寄せた。
内蔵助「忠左衛門、並びに惣右衛門、今日両人を呼んだのは他でもない、カクカクしかじか、同士に討ち入りの意思の確認を、お願いしたい。」
忠左「ハイ、其れはもう承知仕りますが、意思の確認は、どの様にすれば?」
惣右「口約束で良いのですか?御城代。」
内蔵助「其れは、こう行って呉れ。先ず、拙者、大石内蔵助義雄が、連日の廓通いの御乱行で討ち入りは中止に成ったと伝えて欲しい。
その上で、昨年血判した『清書』を、只今返すからと言って、本人に手渡して呉れ。その上で、「馬鹿を言うな!受け取れぬ。」
と、江戸表へ一人に成っても出向いて行って、堀部安兵衛等と合流すると、言い出す奴だけに、此の金子から十両を渡して呉れ。
先に、京、大坂の同志五十名からが訪ねて、東下りは二名ないしは三名で、其れより大勢になると目立つからと、重々注意をして於いて呉れ。
次に、江戸に居る『清書』へ血判した連中にも同じ様に確認を頼む。宜いか、素直に『清書』を受け取る奴には、未練な事を申すなぁ。
此処で、『清書』を返されて、素直に受け取る様な料簡では、討ち入りの役には所詮、立つ道理がない。宜いなぁ?」
両人「ハイ、承知仕りました!」
と、言って、吉田忠左衛門と原惣右衛門の二人は、一年前、『清書』に血判した赤穂浪士を一人一人訪ねて意識の確認をした。
当然、素直に『清書』を受け取り、討ち入りから脱落する者も居た。吉田忠左衛門も原惣右衛門も、其れはある程度仕方のない事と、想定はしていたが、
まさか!三人に一人が脱落し、結局、最終的に赤穂城に集まった五十七名が三十八名に減って仕舞ったのには、少なからずショックを受けるのであった。
此の『清書』による意思確認の最中、主税が内蔵助に対して、こう言う提案をして参るのでした。
主税「さて、父上、御用出府の事間もなくと存じますが、早ければ早い程、既に江戸入りしている一党の方々は、ご安堵なさると存じ上げます。
就ては、私年少なれども父上より一足先に出発いたして、同士の皆様に間もなく父上も、江戸へ下られると、お伝え申さんと存じまする。
さすれば、同志の士気も高まり、安堵なさると思います由え、どうか此の儀、お許し下さいませ!」
この願い出には、大石内蔵助、我が子ながらに嬉しかった。
内蔵助「さらば、望みのままに致せ!」
そう言って許し、主税を敢えて一人で、先発として送り出した。
そして、大石主税は父の許しを受けて、意気揚々と、中仙道を東へ下る。
【道中付】
さては、木曽路へ差し掛かり 思いを晴らすも 間近に有りと 思えばあしの運びも 自ずと早く
草津の夕がき 踏み越えて 守山指して安川を 渡る心は安からず
我身を照らす鏡山 むさき原屋を安らいで 越川越えて高宮を 誰が社か知らねども
鳥居本より伏し拝み 番場・醒井・柏ノ原 寝物語りの美濃・近江 不破の関屋は荒れ果てて
名こそ残れり関ヶ原 野上の里へ分け入れば 足も桝井に赤坂や 杭瀬の川の渡舟守(わたしがみ)
岐阜の古城は彼所(かしこ)ぞと 昔を思う人々の 姿も今は美江寺に 合度の川を渡りける
加納の宿に休みけん 明日は鵜沼か太田川 二人伏見の旅衣 仰げば高き御嶽ぞ 細久手過ぎて大久手の 末は大井になりぬらん
歌の心は知らねども 西京庵は東なり 中津川を差して行く 美濃と信濃の國境 落合過ぎて登る坂
十國峠を降り行かば 馬込の足に任せつゝ つま恋の為にあらねども 親を三留野の心急き 野尻、那須原跡にして 後の名前を上杉や
木曽の架橋たよたよと 命を溺らむ(からむ)蔦葛 風福島の関ノ戸に 往来人の行き通う
其処は都、大江戸の 丁度里数は半ばなり 其処を過ぎれば宮ノ越 薮原越えて鳥井坂 峠の風は奈良井にて 寒さを防ぐ熱川(ひはかゞわ)
積もる思いの白雪を 花と眺めん櫻澤 本山道の洗馬(せば)ければ 登る姿の塩尻や 諏訪の湖水を下に見て 和田峠の上り下り
是も長くば日も暮れぬ 芦田の宿り如何せん 今宵は晴れの望月の 影の月毛の名馬にて 八幡の神も勇むらん
千曲の川の中橋を 渡りて此処を塩灘と 誰が付けたか?岩村田 小田井、追分、沓掛て 急げる駒の軽井沢
碓氷の関を越えぬれば 迎えの人や坂本に 吾を松井田、安中の 板鼻宿に仮寝して さて高崎を過ぎ行けば
夜明けを告げる鳥川の 先は新町新庄と 岡部を照らす日の光 深谷、熊ヶ谷、鴻巣と 早や桶川に移り来て
上尾も高き大宮の 浦和、与野町、蕨宿 安く渡せる板橋に 続く江戸への繁盛は 解(げ)に驚く大江戸は 日本橋のど真ん中 それは石町三丁目! 小山屋彌兵衛のその宿に、若き十五の良金が やっと到着、安堵した。
さて、山科にまだ残って御座います、此方は父の大石内蔵助、本日は十月六日、京の名残りを如何にとかせん!と、唯独り、愛妾の『お軽』の館を訪れて居た。
いそいそとして、内蔵助を受け入れたお軽女。快然として盃を重ねる内蔵助、流石、互いに何んとなく打濡れる様でありまする。
ッと気を変えて内蔵助は、お軽に切り出します。
内蔵助「実は、之より江戸へ参る。新しい仕官の口が見付かった。恐らく暫くは京へは戻るまい。」
お軽女「本に、帰りはらへんのドスかぁえ?」
是に内蔵助が、ウンと頷くと、お軽女は、ホロリと一雫泪を落とした。そして、吟じるのだった。
燈暗数行虞氏涙、夜深四面楚歌聲。
燈暗うして数行虞氏が涙、夜深けぬれば四面楚歌の声。と、『四面楚歌』を吟じられた、内蔵助、
『九腸寸断』と感じ瞼の下に溜まった露を、そっと袖で拭いながら、空元気で誤魔化す様に高笑いをして、お軽女に語り掛けた。
内蔵助「ハッハハー、ハッハハー、数行の泪とは。軽女、武士の首途には不吉じゃ!不吉じゃ!何はともあれ、暫しの別れとなる。
依って、京の名残りに、一つ曲を聴かせて賜もれ。サッ!軽女、早よう。」
と、言われた軽女、心す心す儘ながら、掻き鳴らす琴の一手は、この様な曲でした。
七尺の屏風も 踊らばよも越えざらむ
綾羅の袂も 引かばなどか絶えざらむ
思いを懐く内蔵助の胸に刺さり、この歌は如何に響いた事か?!そして、内蔵助は、ニッコリ又笑顔を造り、
内蔵助「あな面白き一曲よなぁ。では、軽女!これにてさらば。」
と、言ってふらりッと門を出た内蔵助。明けて七日、朝七ツ立ちで、内蔵助の東下りには、潮田又之丞、近松勘六、
菅谷半之丞、速水藤左衛門、三村次郎左衛門、若黨室井左六、其れに仲間二人をしたがえての出発と成った。勿論、旅路は東海道!!
【道中付】
これやこの行くも限りの大坂の 堰き来る泪を袖に止め
暫しは宿す月影の 消えぬ氷と見えながら 漣寄せる湖は 蕭々として風寒く 荘士の心を傷ましめ
遠き昔の易水の 秋も斯くやと眺めつゝ 草津の露も踏み分けて 幾夜定ぬ草枕 衣からがね寒い夜に 旅夜の夢も結び得ず
篠の小笹に月宿す 秋も末野の夜半(よは)の露
虫の音いとゝ打ち湿り 匹馬、風に嘶いて 暁の星鈴の声 今日の旅路も急がれて 草分け衣萎れ(しおれ)つゝ
過ぎ越し方を見返れば 伊勢路を跡に アイの土山、雨となり 鈴鹿を越えて亀山宿
ひいふうみっつ四日市 いつか桑名に船漕いで
四方の八重霧立ち込めて 赤坂五井は昼の月
いつかは晴るゝ胸の月 中も吉田や白須の荒井 願いも掛川、金谷の宿
鬢のほつれも島田を越えて ここは名高き沼津の里
富士見、白酒、名物をひとつ召せ召せ駕籠に召せ
都の方へは白雲の 棚引く先と成りにけり 高く聳える箱根山
箱根越えれば 暫し馬をも駐(と)めにし 小田原の宿打ち過ぎて 酒匂、大磯、相模川 深き思いは身に染みて
縺れて解ける藤澤や 脆き泪の袖の色 唐紅に染め呉れる 唐土原砥並ヶ原 片瀬腰越袂をや
濡らす浮世の露けきは 草葉に受けて隠家を 鎌倉山に求めつゝ 忍命の置き所 心深めて吐きにける
斯くして、元禄十五年十月二十一日。大石内蔵助一行は、鎌倉は雪下に到着致します。此処で、同士の到着を待って、
一同顔を揃えてから、高輪泉岳寺に於いて、七日の間、大法要が開催されます。そして、此の本では、本傳は、次回いきなり極月十四日と成りまして、『南部坂 雪の別れ』と成りますから、暫く銘々傳をお届けしたいと思います。
さて、今回は道中付が二本在るけど短いので、講釈で代表的な二パターンの『大石の東下り』を紹介します。
先ずは、一龍斎貞水先生、神田松鯉先生、両人間国宝に代表される、ややコミカルな、『彌十ね死んだフリ』が問題になるお噺です。
是は、東下りの大石内蔵助一行。だいたい十名くらいで、日野家(近衛関白家・九条関白家の場合もある)用人垣見五郎兵衛左内と偽名を使い、
道中は、本陣宿に泊まりつつ、京の山科から東海道を東へ下り江戸表を目指します。
銘々傳では有名な『神崎輿五郎の詫び状』と同じ展開で、道中は喧嘩ご法度!と、内蔵助から強く強く注意されていましたが、
江戸間近で間違いが起こりまして、道中人足と喧嘩になり、浪士の武林唯七隆重が、人足頭の彌十を蹴り殺して仕舞います。
すると、宿場役人が、殺された彌十の賠償・金五十両を出して呉れと掛け合いに来て、大石内蔵助は、公儀に内々にして呉れるならと了承します。
併し、実は人足頭彌十、本当は死んではおらず、気を失っただけだったのですが、宿場役人と悪巧みして、大枚の賠償金を騙し取る算段をしていたのです。
所が是を大石内蔵助に悟られて、「判った!五十両渡そう!」と、詐欺に乗ったフリをしながら、買った死骸だから、刀の試し斬りを致す!
と、言い出し、今度は彌十の方が困り始めて、実にコミカルな噺に展開する物語りで御座います。
貞水先生のは大変コミカルですが、一方の国宝、松鯉先生のは、忠臣蔵!って感じに重厚で御座います。
◇神田松鯉『大石の東下り』
一方、もう一つの物語は、同じく大石内蔵助一行が偽名で、東下りすると言う展開は同じで、偽名も、日野家(近衛関白家・九条関白家の場合もある)用人垣見五郎兵衛左内。
その垣見五郎兵衛の本物が、道中現れて、内蔵助達一行は、是と鉢合わせになり、両者、『私が本当の垣見五郎兵衛だ!!』と争いとなります。
既に道中、『垣見五郎兵衛』で山科から旅をしている内蔵助達一行も、今更、違う偽名には変えられません。
そんな訳で、本陣宿の主人が板挟みになり大変な事態になる。そして最後は、両者が対面をして、白黒付ける段になるのですが、
ここで、堂々と大石内蔵助は、本物の垣見五郎兵衛と対峙して、五郎兵衛の「ならば、通用手形を見せろ!」と言われ、
漆煉の立派な書箱から、通用手形を出して見せるのですが、勿論、偽物ですから唯の白紙で御座います。
併し!この書箱の紋所が、丸に鷹羽の二枚違いと本物が気付き、此れは赤穂義士の東下りだ!と、垣見五郎兵衛は全てを悟ります。
そうか!天下の忠臣達が、俺の名前を語っていたのか?と、思い。垣見五郎兵衛逆に嬉しくすら成るのです。そして『儂が偽物であった!』と言い出して、
更には『之を道中お使い下され!』と、自身の通用手形を大石内蔵助に渡して仕舞います。
◆1985年 忠臣蔵/内蔵助・里見浩太朗、垣見五郎兵衛・西田敏行
此の『死んだふりの彌十』と『二人の垣見五郎兵衛』は、起きる宿場が異なりまして、前者は通用手形が関係ないので、
江戸目前の藤澤から川崎の間、本陣がある藤澤・神奈川・川崎辺りが舞台になり、又後者は、必ず、箱根の関所より西側の本陣宿、鳴海・沼津・三島が舞台です。
更に、『二人の垣見五郎兵衛』は、先に本物が本陣に居て、偽物が後から来るパターン、逆に此の1985年忠臣蔵の様に、偽物が本陣に居て、後から本物が怒鳴り込むパターンが有ります。
まぁ、同時に本陣入りってパターンも考えられは致しますが、本陣なんで立札が掲げられての御一行のお泊まりとなるので、同時は表現が難しい感じが致します。
さて、いよいよ、本傳は、元禄十五年極月十四日の朝を迎えます。ここからは、予告通り暫く、銘々傳で道草して、四十七士について、其々を紹介してから、
『南部坂 雪の別れ』から『吉良邸討ち入り』へと進みたいと思います。と、言う訳で、次回は銘々傳『大石主税良金』です。
つづく